表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

86/145

第37話 声の主

 部屋に戻ると、私は閉めた扉にもたれて息をついた。なんだか疲れる。


 ここは決して嫌いじゃない。みんなのことも好きだけど。

 ただ、使用人とかとしてここにいられるなら気楽なのに。毎日掃除でもして過ごしていられたら……、いや、多分、それでも誰も咎めやしないだろう。それじゃ嫌だと言ったのは私自身だ。

 ……前の私も同じだったのかな。アラムさんを助けるために、当主の妻になったのなら……、初めから私とあの人は、それだけの。


 そこまで考えて、頭を振って思考を止める。


「そうだ。紙とペン……」


 レイラを待たせているんだった。のろのろと机に向かって歩きだしたとき――、ふと、背後に気配を感じる。


「そうだよ。この屋敷にとって花嫁とは、当主と幽霊たちのために身を削るためだけの生贄さ」


 ぎゅっと背後から抱きすくめられる。ぞわっと体中が粟立って、私は力づくでその体を突き飛ばした。意外と簡単に手は離れて、私と少し距離を取って、その人はニコッと笑った。

 美しい金色の瞳。髪は白いけれど歳は私の実年齢より少し上くらいの青年。その姿に見覚えはないけど、声には聞き覚えがあった。……とても、よく。


「貴方は……、あの、声の……」

「やっと会えたね、澪」


 嬉しそうに青年が私の名を呼ぶ。

 誰かを呼ぼうとして、異変に気がつく。まだ朝なのに、窓の外は暗い。いや、景色自体が存在しない。まるでここだけ別の次元かのように。


「今までは隙をついて声を届けるくらいがせいぜいだった。だから何度も呼んだのに、澪がちっとも来てくれないから」


 私の、束ね損ねて顔にかかる髪を掬い上げて、彼の手が頬に触れる。その手に温かさも冷たさもない。


「実体じゃないよ。オ……、私も、幽霊」


 私が振り払う前に彼は自ら手を放し、人差し指を口に当てて囁いた。まるで秘密の話でもするように。


「幽霊……、この屋敷の? でも地下にいるんでしょう? だったら悪霊じゃないの?」

「私は堕ちたりしていないのに、ここの当主に地下に放り込まれたんだ。酷い話だろう?」

「……ミハイルさんがそうしたのなら、それだけの理由があるはずです」

「理由? 理由はまぁ……私怨だろうね。とにかく、ようやく力が弱まって、こうして出てくることができた。澪のお蔭だよ」

「どういう意味ですか」


 問うと、青年は笑みを消して私のことをジッと見つめた。何か、人のことを値踏みでもするかのような、……嫌な視線。


「身に覚えのない業を負い、母には嫌われ、人に見捨てられ、偏屈になりはしても折れることはなかったんだけどね。その伯爵をいとも簡単にへし折るとなると……帝国も欲しがるだろうなぁ……」


 ひりつく空気。私を品定めするように見下してくる目。それを一転させて、また彼は微笑んだ。まるで合格だとでも言いたげに。


「何を言っているのかわかりません……」

「本当のことを教えてあげる。君の失くした記憶のこと。なぜ伯爵がそれを君に告げないのか、その理由も」


 要らないと。叫んだはずの言葉は、声になっていなかった。

 何度言おうとしても、言えない。

 その理由は自分でわかっている。知りたいからだ。知らなくていいと、強がることすらできないほどに。

 その間に、彼は目を細めると、私の顔に顔を近づけて囁いた。



「キミはかつて、ミハイル・プリヴィデーニに殺されたんだ。この屋敷を救うために」

 


 その言葉が、鋭利な刃のように突き刺さる。

 嘘だと私が叫ぶ前に、すかさず彼は二の句を継いでくる。


「逆魔法。それを使ってこの屋敷の呪いを解くには、甦った伯爵の息子の分、命が一つ必要だった。それを彼は、自分でも執事でもなく、キミで補った」


 それは、フェリニの地下で、ミハイルさんが言っていたことと見事なまでに一致していて。

 全身から力が抜ける。

 この屋敷が幽霊屋敷なのは、ミハイルさんのご先祖が、自分の息子を甦らせた報いなのだと。そのせいで屋敷に掛かった呪いを解くために、逆魔法という方法を使ったんだと――、あのときミハイルさんは、まるで私に聞かせたくないように、言葉を選ぶように喋っていた。


「伯爵がキミのために命を削るのは罪悪感さ。間違っても愛されてるなんて思わない方がいい」

「そんなこと……思ったことないです。私がここにいるのは」

「屋敷の人間だってそうだよ。キミに優しいのは当主の意志に従っているだけ。知っているだろ? ここの幽霊たちは当主の意志に逆らえない、だからみんな真実を知ってて隠してる。執事も同じ。キミを本当に欲しているのは、私だけだよ、澪。だから――」


 こつ、と額が触れる。唇が触れそうなほどに近づいて――、咄嗟に叫んでいた。


「――っ、ミハイルさんっ!」

「おっと、呼ばれるとは思わなかった……さすがに分が悪い」


 すうっと、目の前で彼の姿が白く溶ける。入れかわるように現れたその向こうの黒に駆け寄って、そして、叫ぶように問いかける。……それは、聞きたいことを聞けずにいられる性格だからじゃない。

 否定してくれると信じていたから。


「貴方が、この屋敷の呪いを解くために私を殺したというのは、本当ですか?」


 まるで部屋の温度が下がったような錯覚を感じる。

 誰がそんなことをと。そんなわけがないと。

 返ってくるはずの言葉は聞こえてこないまま。沈黙はそんなに続かなかったと思うけれど、答えが返ってくるまで、やけに長い時間が流れたように感じた。


「……誰からそれを?」


 その言い方で、答えが知れてしまう。


「本当……なんですね……」


 彼は肯定もせず、否定もしなかった。いつもの通り、ただ黙ったままだった。

 ぐちゃぐちゃだった頭の中が、片付いていく。でもそれはきちんと片づけられたわけじゃなくて、ただ、捨てただけだ。全部。


「貴方が私を守ってくれるのは、ただの罪滅ぼしだったんですね」

「それは違う」


 きっとまた黙ってやり過ごされると思っていた。けれど返ってきたのは、はっきりとした否定だった。

 片付いたはずの心がまたざわつきそうになる。でも、それに気づかない振りをする。


「ミオ、俺は」

「ごめんなさい、聞きたくない。もう……」



 もう、散らかさないで。

 ――間違っても、愛されてるなんて思わない方がいい。

 そう囁いた彼の声が、頭の中で何度も何度も繰り返されてる。

 思ったことなんてない……そんなこと。


 顔を上げて、重い空気を取り払うように、私は声のトーンを切り替えた。


「私、勘違いしてました。この屋敷の皆が私に優しくしてくれるのも、ミハイルさんのおかげなんですよね」

「それも違う。逆だ。そもそも俺は当主として認められていなかった」

「嘘です」

「嘘じゃない。これだけは言える。俺は一つもお前に嘘は吐いていない」


 まっすぐにこちらを見る闇色の瞳に、一瞬の怯みもない。多分、それは本当なんだろう。

 だけど残酷なことに、それが証明してしまっている。かつてミハイルさんが私を犠牲にしたことを。否定しなかったその時点で。


 私が死んだのはミハイルさんのせいかもしれないとは、聞いていた。だけどそれは仮定の話でしかないと思っていた。だって、直接手を下したなんて思ってなかったから。そんな人じゃないって……信じていたから。


 信じていたのに。


「待ってくれ。ミオ」


 部屋を出ようとした私を、ミハイルさんが呼び止める。構わず扉に手をかけた私の背に、ミハイルさんも構わず声を上げる。


「俺にはずっと何もなかった。だから……、ずっと探していたんだ。俺の力も、命も、全てを懸けても構わないと思うものを……、この悍ましい力を使い続けて、例え人でなくなったとしても、構わないと思うものを」


 俯いて、ミハイルさんが手を伸ばす。動けなかった。だけどその手が触れることはなく。

 宙に迷う手を握りしめ、紡がれた言葉は、まだ終わっていないさっきの言葉の続きではなかった。


「……恨まれていても構わない。行かないでくれ」



 絞り出したような、酷く弱々しい声。

 そんな声も、握りしめた拳が震えていることも、あの白い髪の青年が告げたことよりもずっと、胸を刺す。


 同じような声を、前にも一度聞いたことがある。私がお屋敷を抜け出して、死霊に襲われたときに、私がいないなら残りの寿命も無駄だと言ったあのとき。


 ……わからないことが二つある。

 私のために命をかけるくらいなら、どうして私を犠牲にしたのか。

 恨まれても構わないなら、どうして今まで隠していたのか。


 彼のしていることは矛盾がすぎる。


 返事ができないまま、遠慮がちなノックの音が、気まずい沈黙を裂いた。


「失礼します、ミオ様。ご主人様はこちらにおられますか」

「……ああ」


 扉の外でするリエーフさんの声に、私に代わって直接ミハイルさんが返事をする。


「マスロフ侯爵がお見えです」

「追い返せ」

「さすがにそれは。恐らくは帝国の使いでしょうし」

「だが、今は……」


 ちら、とミハイルさんが私に視線を走らせる。


「行って下さい。お客様でしょう?」

「返事を聞いていない」

「……知ってるでしょう。ここを出て、私に行く宛がないこと」


 捻くれた私の返事に、ミハイルさんが目を伏せる。


「……すまない。色々と」

「色々ってなんですか」

「もうあんなことはしない。お前は契約でここにいるだけなのに、悪かった」


 それだけ言って、急ぎ足でミハイルさんが出て行く。

 扉が閉まって、足音が遠ざかる。

 へたりと足の力が抜けて、床に座り込む。


 ……全部、捨てたはずなのに。

 頭の中がまた散らかっていく。どんなに片づけようとしても、どんなに捨てても、あとからあとからどんどん溢れてくるし、新しいものもどんどん増えていくばかり。

 片付けができない人の気持ちがちょっとわかった。


「……掃除、しよう」


 ふらりと立ち上がる。

 頭の中が片づけられないならせめて、現実の何かを片づけたかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ