第12話 何も知らない
「おかえりなさいませ、ご主人様、ミオ様」
優しい声に出迎えられて、鼻の奥がツンとする。さすがに今回は怒られても仕方ないと思っていたのに。
リエーフさんがびしょ濡れの私にタオルを掛けてくれるが、私はそれを外すと当主の腕にあてた。白いタオルがみるみる赤く染まる。やっぱり。手当もせずにあんな雨の中帰ってきたから。
「リエーフさん……」
「そんな泣きそうな顔しなくとも大丈夫ですよ、ミオ様。ご主人様は頑丈ですから」
当主の体を支えながら、リエーフさんがいつものように穏やかに微笑む。
「ご主人様はわたくしが。お湯と着替えを用意をしておきました。体を温めてからお休み下さい」
「でも私のせいで……」
「ご主人様のせいでもありますよ。それに、わたくし共はミオ様に返しきれない恩のある身。どうぞお気になさらず」
そう言って、リエーフさんは一礼すると、当主に肩を貸して奥へと消えた。
ぽつんと一人残されて、私は冷たい体を両手で抱えた。……またあの声が聞こえてきそうだ。
恩……、恩か。私が覚えていない私がしたことは、私にとって他人がしたことと同じだ。
髪から雫がポタポタと垂れる。あの大勢の幽霊たちはどこに行ったのだろう。霊も眠ったりするのだろうか。静かすぎて耳が痛い。
……誰か。
「ミオ!」
張り詰めた声に呼ばれて、顔を上げる。吹き抜けの上の方からレイラが飛んできて、私の首にしがみつく。
「どうしてこんなこと!! あたしがどれだけミハイルに怒られたと思ってるのよ!!」
「レイラ……」
帰途で会った女性の霊と同じように、濡れた私の体に触れてもその雫がレイラを濡らすことはない。彼女の体を抱きしめても、体温も感じない。ただ触れることができるだけ。それでも、無性に温かいと思った。
ぱさりと、掛けられていたマントが足元に落ち、私はレイラから体を離すと、それを拾い上げた。
「ミオ、びしょびしょじゃない。風邪を引くわ」
「うん……お風呂借りてくる」
「場所わかる? 案内するわ」
レイラがきゅっと私の手を握る。
「レイラは……どうして私に優しくしてくれるの?」
「は? 何言ってるの。優しくした覚えなんかないし、これからもしないわ」
「……ふふ。そっか」
半眼で私を見上げるレイラの答えが、なんだか可笑しくて愛おしくて、ほっとした。
* * *
雨で冷え切った体に、温かいお風呂は泣けるほどありがたかった。
本当に馬鹿なことをした。
どうして、あんな声に従ってしまったんだろう……いや、答えは出ている。私の迷いにスッと寄り添うように、私の不安を撫でてくるからだ。
でも、もうあの声には引きずられないようにしよう。理由はどうあれ、良くしてくれている人たちに心配かけたり、傷つけたりしていいわけがない。
もう、私のせいで血を流してほしくない。
「今度こそ……ちゃんとお礼を言わないと……」
風呂桶のへりに腕を置き、頭を乗せて呟く。すると、青い瞳と目が合った。
…………え?
「あ……ほんとにミオだ」
風呂桶の外にしゃがんで、こちらを見上げながら、そんなことを口にしたのは――
レイラと同じ金髪碧眼をした、軍服をまとった青年だった。
* * *
「エドアルト……」
「お兄様……」
リエーフさんが額に手を当て、困ったような声を上げる。その横ではレイラがショックを受けたように崩れ落ちていた。
「ごめん。ミオが帰ってきたって聞いて、会いたいなと……それ以外何も考えてなかった」
頬を掻きながら、軍服の青年――エドアルト、とリエーフさんは呼んでいたか――彼もまた、困ったような顔をしていた。
「本当に申し訳ありません、ミオ様。何の申し開きにもなりませんが、彼に悪気はないのです……花にしか興味のないようなお人でして……」
「レイラは情けないです、お兄様」
目頭に手を当てて、レイラがしおらしい声を出す。
レイラのお兄さん、か。言われてみれば目元が似ているような。でも、きつい印象のレイラに比べて気弱そうな顔立ちなので、よく似ているとは言い難い。軍服も全く似合っていない。
「ご主人様がお休み中でなかったら地下送りですよ」
「うん……ご当主に謝ってくる」
「おやめ下さい、お兄様。余計にややこしくなります」
すごすごと出て行こうとするエドアルトさんを、リエーフさんとレイラが二人掛かりで引き留める。
「あの……、私、部屋に戻りますね」
場が混沌としてきたので、私はおずおずと声を上げた。リエーフさんが慌てたようにぱっと顔を上げる。
「はい、本当に申し訳ございませんでした、ミオ様。ゆっくりお休み下さい」
……幽霊がうろついてる屋敷じゃ、おちおちお風呂にも入ってられないな……。
なんだかどっと疲れた。いや、この疲れは、あのエドアルトという幽霊のせいではないけど。
どちらかといえば自業自得。
とぼとぼと自分の部屋に向かう足を――ふと思い直し、お風呂が空いたことを伝えようとその足を当主の部屋に向けた。しかしノックしても名乗っても返事はない。また無視だろうか。少し悩んでから、扉を開けてみる。鍵は掛かっていなかった。
書類の散乱する部屋に足を踏み入れる。同じように書類が積み重なった執務机に頭を預け、彼は眠っているようだった。黒髪がまだ濡れている。……いつにも増して顔色が悪い。腕まくりしたシャツから除く包帯には、血が滲んでいた。
口数も少ないし、態度も悪い。レイラの言う通り下手かもしれない。でも、なんとなく……大事にしようとしてくれてるのはわかる。
飼われているなどお笑い種だ。こんな飼い主を何度も噛むような私など、傍に置いても仕方ないだろうに。
それでも守ってくれるのは、この人も昔の私に恩があるからなのだろうか。
「……ごめんなさい。何も覚えてなくて」
もし、思い出せれば……こんな気持ちにならなくていいのかな。
その気持ちを唇に乗せると、闇色の瞳がうっすらと開き、私を映して微笑んだ。
「記憶があろうとなかろうと……お前はお前だ」
寝ぼけていただけなのか、その瞳はすぐに閉じられる。
見慣れない微笑は、少年のようにあどけなかった。笑うと全然印象が違う。そんなことすら初めて知るくらい、何も知らないこの人のことを。
……もっと、知りたい。




