第9話 レイラ
などと考えていた昨日。それはあまりにも早計だった。
朝食は、どちらも一言も喋らず終了してしまった。給仕をするリエーフさんが一人でペラペラしゃべっていたのがまだ救い。
私も口数が多い方ではない。喋るより聞く方が楽なタイプだ。そんな私とあの人が親しくなるような展開が思いつかない。
……今朝も調子が悪そうだった。それを心配しても、きっと突っぱねるんだろう。
カタ、と音がして振り返る。壁に飾られた絵が傾いている。また、あの視線。
少し考えて、私は指輪を取り出した。小指になら入りそう。嵌めてさえいれば幽霊が見えるのかな。そうしたら、この視線の主に出会えるのだろうか。
当主と幽霊との仲立ちが本来の役目であるならば、そのくらいは果たさなくては、あまりに私がいる意味がなさすぎる。それにこの家の役に立つことができれば、あの人も少しは何か喋ってくれるかもしれない。
これは、あきらかに不釣り合いな契約内容の補填だ。
取り出した指輪を小指に嵌めて振り向くと、青い瞳と目があった。まだ十かそこらくらいの、幼いが、とても美しい少女。まるでお人形のような、豊かに波打つ金色の髪。蒼玉のような瞳はとても大きい。それを飾る長いまつげ。その美しさを存分に引き立てる、上品で可愛らしい青いドレス。
「あなたが、レイラ?」
死霊だとか幽霊だとか言うから、どんなにおぞましいものかと思っていたのに、普通の人間と何も変わらなくて拍子抜けする。彼女は答えることなく黙ったまま、宙を滑るようにして私に近づいてきた。
「べ、別に、会いたくなんてなかったわよ……!」
腰に抱き着いて、押し殺した声を上げる。
なに、この子……可愛いな。
「ごめんね。私、覚えていないの」
その言葉も仕草も私を知っていることを示唆しているけど、私は彼女を初めて見る。なんだか申し訳なくて謝ると、彼女は体を離して私を見上げた。
「知ってるわ。でもどうでもいいわよ、そんなの。あたしは覚えているもの……あの子を直してくれたこと」
あの子というのがぬいぐるみを指していることには、すぐに思い当たった。直した跡があったから。
縫い方の癖で、なんとなく気づいていた。
「あれを直したの……私だったんだね」
レイラがこくりと頷く。
まだ半信半疑ではあったけど、たぶん、嘘ではないんだろう。私がかつて、ここで暮らしていたということは。
「やっぱり変な気分。この屋敷で私を知らないの、私だけみたい」
「そうでもないわ。今この屋敷、入れ替わりが激しいから」
俯いて呟く私に、肩を竦めてレイラがそう教えてくれる。
「でも、あなたは知っているんでしょ?」
「ええ。でも何も教えられないわよ、私が知ってるアナタについては。そんな何か聞きたそうな顔されても」
すげない返事を返されて、私は少なからずがっかりした。
「どうして?」
「当主が望んでいないから」
「口止めされているの?」
「違うわ。命令されなくても、当主の意志には逆らえないの。あたしたちは」
吐き捨てるようにレイラが答える。まるで当主を憎んででもいるような言い方だ。それを詮索するより前に、今度はレイラが問いかけてくる。
「でも、どうして指輪をする気になったの? 出て行こうとしていたじゃない。こないだは」
彼女が言う後ろで、ピシッと窓が鳴る。
あのとき、あのポルターガイストを起こしたのは、この子の仕業だったんだ。
「……出て行っても、行く宛がないもの。現実的に考えただけ」
「でも、指輪をしなくても、掃除をしなくても、当主も執事もアナタを追い出したりしないと思うわ」
「それが嫌なの。一方的に与えられているだけなのは嫌。私がここにいる意味が欲しいの。教えてくれないのなら自分で探さないと」
「そう……」
何か眩しいものを見るように目を細めて、レイラが私を見上げる。
「生きてる人間ならではの発想ね」
幼さに似合わないうつろな瞳に、ドクンと心臓が鳴る。
この子は幽霊……つまり生きてはいないんだ。まだこんなに小さいのに。どうして幽霊になってしまったのだろう。
私、失くした記憶どころか、この屋敷のことについてさえまだ何にも知らない。そのくらい教えてくれてもよさそうなのに。
「……どうして何も教えてくれないのかな。あの人も、リエーフさんも」
「執事は当主に従っているだけ。ミハイルが教えないのは、アナタを巻き込みたくないだけ」
「ならどうして私を助けたの? どうして――」
――契約に応じたりしたの。
「大事な人を大事にするのが下手なのよ。あの坊やは」
その先を飲み込んだ私に、レイラがいやに大人びた声を上げる。思わずまじまじと彼女を眺めてしまった。声だけじゃなく、言ってることもこんな小さい子が言うセリフじゃない。
「……レイラって、いくつなの?」
「アナタよりはずっと年上よ」
「じゃあ……お姉さん。私がこの屋敷でできることを、何か知りませんか?」
そんな風に聞いてみると、レイラがはニッコリと満足そうに微笑んだ。いや、ニッコリというよりドヤ顔に近いか。とりあえず気を良くしたのは間違いない。
「ついてきて!」
すいっとレイラは宙を滑っていく。慌てて私は見失わないようにその後を追った。