第86話 皇帝
ついに皇帝に会うときが来た。
その覚悟さえ決めてしまえば、違うことが気になってくるもので。
「リエーフさん、お茶席って、どういう風に振る舞えばいいんですか?」
「そうですねぇ……帝国の礼作法につきましては、わたくしもとんと」
フェオドラさんに案内されながら、そんな不安が口をついて出ると、リエーフさんも口元に手を当て首を捻った。
「そもそも帝国に茶を嗜む文化はない。茶席というのはそちらに合わせてのことだろうし、ロセリア流で構わんと思うが」
私たちの話が聞きつけて、フェオドラさんが私を振り返る。
それはそれで不慣れだし不安なことに変わりはない。
「大丈夫でございますよ、ミオ様。できる限りのフォローはいたしますゆえ」
「では是非私のフォローも頼みたいものだな。私も同席するよう言われているのだが、正直荷が重い。ガラにもなく緊張しているよ」
フェオドラさんはそう言うものの。リエーフさんの委縮するとか、フェオドラさんの緊張するとか、態度が全然釣り合っていないんだよなぁ……。まあこの二人は、結局そつなくこなしちゃうんだろうからいいとして。
「ミハイルさんもいつもと全然変わりませんよね」
「ここまで来たら怯んでいてもどうしようもないだろう。さっさと会って帰るだけだ。願わくは金輪際、俺のことは放っておいてもらいたいものだな」
タイを直しながらミハイルさんが興味なさげに吐き捨てる。
うん……見事なほどいつも通りだ。
失礼なことしないかなぁとか敬語使えるのかなぁとかいう一抹の不安があったりもするけど、これで意外と所作は綺麗なんだよねこの人。本人の意図するところではなく、リエーフさんの英才教育の賜物っぽい気はするけど……恥をかかせないようにしないとな。せめて気後れしてるなんてこと、顔に出さないようにしなきゃ。そう気を引き締めていると、ぼそりと隣から声が降ってくる。
「……心配せずとも、お前も至っていつも通りだ」
「そうですか?」
「ああ。むしろ、不安なら少しはそういうそぶりを見せたらどうだ。相変わらず可愛げがないな」
「ミハイルさんも相変わらずほんっと失礼ですよね」
「ふっ」
真顔で即答すると、笑い声が降ってくる。それで気が付いた。
たぶん……緊張をほぐしてくれようとしたのかな。実際少し落ち着いた。何にしろ、取り繕えているのなら良かった。
内心ほっとしていると、ふと二対の視線を感じる。
「……なんですか」
「いや、別に」
「ええ。別に」
足を止め、こちらをにやにやと眺めるフェオドラさんとリエーフさんに視線だけで抗議する。けれど結局それも長続きせずに、小さく笑う。
……もう、大丈夫だ。
「さ、この部屋で皇帝陛下がお待ちだ。では……行くぞ」
ふっとフェオドラさんが口元を引き締め、目の前の扉をノックする。
「レノヴァです。プリヴィデーニ卿をお連れしました」
「通せ」
ドア越しにもよく通る声で短く返事がある。
フェオドラさんが扉脇のスイッチに手を触れさせると、シュッっと両開きに扉が開いた。中は綺麗に内装が整った部屋で、絨毯もテーブルも調度品もロセリアのそれに近い。壁面の一角はガラス張りになっていて、帝都が一望できる――淀んだ雲と排気にまみれた街並みは、絶景とは言い難いけど。
窓辺に立っていた小柄な男性が振り返る。……彼が皇帝だろうか。
強国の皇帝というから、もっといかつい人を想像していて、正直ちょっと拍子抜けした。歳は……よくわからないけど、五十から六十代といったところだろうか。
フェオドラさんがひざまずき、それに倣おうとした私たちを、気さくな声がやんわり止める。
「ああ、構わん。無理を言って呼んだのはこちらだ、楽にしてくれ――アルマン・ゼフエルドアだ」
ミハイルさんは少し挙動を迷っていたけど、フェオドラさんが立ち上がったので自身も折った膝を伸ばし、真っ直ぐに皇帝を見て声を上げた。
「この度は私のような辺境の田舎領主などをお招き下さり光栄にございます」
そして、息継ぎもなく一息で述べる。
……敬語を知っていたのは何よりだけど。抑揚のない口調は皮肉をたっぷりと含んでいて、いきなり場が凍った。なんか既に生きた心地がしない。他の二人も同じような心境だろうな。
しかし、皇帝はそんなミハイルさんに対して気分を害するでもなく、逆に楽しそうな笑い声を上げた。
「はは、噂通りだな。君のことは色々聞いているよ、ミハイル君。差し支えなければ連れの方々は君から紹介してもらえるかね」
「……妻のミオと従者のリエーフです。このような立派な席を設けて頂いて恐縮ですが、私は伯爵家とは名ばかりの死人を束ねる卑しき身の上。陛下と席を並べられるような者にはございません。どうかご容赦を」
「そう畏まらずとも良い。ロセリアに則って席を用意したまでのことで、作法には拘らん……というか私も知らんのだ。好きな席に座るがいい。レノヴァ少佐、君もだ」
「は……、では」
促されて、先にフェオドラさんが最初に席に座る。ミハイルさんが席を辞退するようなことを言ったのは……言葉通り取るなら、分不相応であるから。少し深読みすれば無作法があってはいけないから。でも実際のところは敵地での飲食を厭ったからだろう。何が盛られているかわかったものじゃない。
だけど皇帝はそんなミハイルさんの牽制などまるで通じてはいないように気軽に答える。それでいて、こちらの懸念を全て看破しているかにも思える。作法に拘らないと言い放ち、フェオドラさんを最初に席につかせている。
もしお茶やお菓子に何か盛るなら、フェオドラさんと皇帝は事前に打ち合わせて席を決めていた可能性はあるけど……それでも、席を一つ埋めることにしかならない。それよりも、彼女が皇帝を差し置いて座ってしまうことで、身分作法には拘らないという言葉に説得力が出た方が大きい。私はリエーフさんがミハイルさんを差し置いて座っているようなところを見たことがない。帝国では、もしかしたら関係ないのかもしれないけど……
「すまんがリエーフ君。茶は君が淹れてくれんかね」
「……かしこまりました。では僭越ながら」
だけど、お茶をこちらの人間に淹れさせるところを見ると、やっぱりこれは故意だろう。ここまでされればミハイルさんもそれ以上断りきれず、仕方なく席につく。彼に目で促されて、私もその隣に座った。
用意されたティーセットを使い、手慣れた様子でリエーフさんが茶葉を蒸らしてカップを温める。
「警戒する必要はない。ただ興味があって呼んだだけだ」
「私のような者に、恐れ多いことでございます」
「まどろっこしい謙遜など要らん。君はたった一人で帝国軍を退けたそうじゃないか」
「私一人の力ではありません。地の利、時の運もあったでしょう」
「その程度のことで撃破されるほど、我が軍は無能ではない」
それまで穏やかだった皇帝の声からその空気が消えて、場がぴりつく。
それを和ませるように、リエーフさんが皇帝の前にカップを置いた。
「ああ、すまん。ありがとう」
一転、元の穏やかな声で皇帝が礼を述べる。
「まあいい。ひとまずそういうことにしておこうか。うむ……旨い」
リエーフさんが淹れたお茶を、なんの迷いもなく皇帝が口にする。その頃には全員の前にカップが置かれており、フェオドラさんもカップに口をつけた。私は少し迷ったが、ミハイルさんが動かないのでそれに倣う。
「ミオさんといったかな」
突然皇帝に名前を呼ばれた。
口から心臓が飛び出しそうなのを取り繕って、はいと答える。皇帝は口を開きかけて、だが一度閉じてミハイルさんの方へ視線を投げた。
「そんなに牽制しなくともよかろう。せっかく可愛らしい奥方もお見えなのだ。馴れ初めを聞こうと思っただけなのだがね」
「それは、私もぜひご拝聴に預かりたいです」
カップを置いて、フェオドラさんが初めて話に入ってくる。いや、何か意図してかもしれないけど、そこでそれ言う? 気がつけばリエーフさんにまで見られていて、困り果ててミハイルさんを見上げる。でも、彼が助け船を出せないことにもまた気が付く。
元々、初めて彼と会ったときのことを私は覚えていないのだ。それを言われてうまく合わせられなければ訝られるし、二度目の出会いを正直に言うなら、彼の血と力で転生したと言うことになる。それは色々とまずいにも程がある。
その辺、うまく辻褄を合わせて話すなんてきっと彼は苦手に違いない。できるならばあんなにこじらせずに済んだもの。
「お聞き頂くほどのことでは。私は元々ただの使用人で……このような場にいることも恐れ多くて」
……私だって得意じゃない。だけど伯爵家に釣り合うようなご令嬢の知識なんて私にないし、嘘をつけば何か取り繕うたびにボロが出て怪しまれる。
とりあえず、当たり障りないことを適当に答える。
「ほう。ロセリアは格式を重んじると聞いていたが、身分も顧みず使用人を娶るとは、君は噂に寄らずなかなかの激情家のようだな。是非にと言ったのは私の方だが、異を唱えるでもなくここまで連れてくるところを見ると、片時も離れたくないとも見える」
「恐れながら、妻はよく不審な者に襲われるので」
皇帝の揶揄に、ピクリとも表情を動かさず、ミハイルさんがすかさず答える。取りつく島もない彼の様子に、皇帝は嘆息を挟んでから表情を引き締めた。
「……その件については報告を受けている。結論から言えば私の意図したものではない。非常に申し訳ないことをした。イスカからの打診を一蹴しているのもそうだが、国の規模が大きくなると私の意志を現場へ伝えるまでに齟齬が起きる」
言葉の途中で、彼はこめかみを片手で押さえ、少し悩まし気に表情を崩した。しかしすぐにそれを収めて私に目を戻す。
「今この場で信用を得ようとは思っていない。だが夫人に同席してもらったのはその件を詫びたかったというのもある。すまなかったね」
「い、いえ。私は……」
「すぐに報告があればその場で対処した。そこでレノヴァ少佐に追及したのだ。……恐らく君たちは勘違いをしているな」
「勘違いとは?」
ミハイルさんが声を上げ、私はほっとして口を閉じた。
一言喋るたびに恐ろしく緊張した。ミハイルさんが言葉を挟んでくれたこの隙に、せめて一瞬緊張から逃れるために、カップに手を伸ばす。
「私の目当ては厳密には君ではないのだ、ミハイル君。はぐらかされてしまったが、君が我が軍を退けた力というのは……恐らく、こういうものだろう」
喉を通るお茶の味は、いつものリエーフさんが淹れてくれるお茶と同じものだった。
そう……あまりにも、同じすぎた。
一瞬だけの油断が、その違和感をかき消していた。
皇帝もまた、お茶をあおる。カップの中身を干し、それをソーサーに戻すと、彼は他愛ない話でもするように、一言ぽつりと呟いた。
『――捉えよ』
聞き覚えのある、そんな言葉を。