第74話 後悔
ミハイルさんが扉を開いて応対する。宿の人は中まで食事を運んでくれようとしていたが、彼はそれを断ると、戸口で食事を受け取った。それが二人分だったからだろう、テーブルに食事を置くと、彼は怪訝そうに私を見た。
「何だ、お前もまだ食べていないのか」
「起きたら一緒に食べようと思って」
「馬鹿なことを。食べられるときに食べておけ」
「すみません。お茶淹れますね」
棘のない悪態を適当に流し、ポットの置かれているサイドボードに足を向けると、ふと肩を掴まれる。
「俺がやるから座ってろ」
「使い方わかるんですか?」
ポットにはスイッチが幾つかついていて、本体からはコードが延びている。お屋敷にはそういう近代的な道具がなかったから、ミハイルさんにはきっとどう使えばいいのか想像もつかないだろう。案の定彼は返事に詰まった。
「さっきまで倒れていたんですから、ミハイルさんこそ座ってて下さい。あ、それとも気分がいいなら食事の前にお風呂にしますか?」
少し熱があったし、汗をかいたかもしれない……と軽い気持ちで言ったのだが。新婚夫婦みたいなことを言ってしまったのに気が付いて、私が変な汗をかいた。一人焦る私の背に、ミハイルさんの気のない返事がかかる。
「共同なんだろう。やめておく」
振り向くと彼が右肩を押さえていて、それで気が付く。そっか……お風呂じゃ呪印を隠せないか。
……あの呪印てそんなに過剰反応するようなものなのだろうか。ニーナさんはともかく、フェオドラさんですら直視に耐えかねるような反応をしていたのは、少し引っ掛かりを覚えないでもない。
人々がそういう目で見るのなら、抵抗あるだろうし仕方ないけど……、馬車旅中は野営も続いたし、体流せるにこしたことはないんだけどな。
いや待てよ。呪印じゃなくとも、共同風呂に入れない事情のある客は他にもいるはず。そしたら部屋に内湯くらいあってもいいはず、とまだ開けてなかった扉を開く。
「やっぱり。シャワー室ですよ、ここ」
「……?」
シャワーもわかんないか。といって、私もこんなタイプのシャワーを使ったことはない。にょきっと壁に沿って生えた管、いくつものバルブ。でも形状を見るに間違いなくシャワーだ。それについたハンドルを指して説明する。
「たぶんですけど、これを回せば上からお湯が出てくるはずです」
「……良くわかるな。賢者が欲しいお前の記憶というのはこれか」
「それなら帝国の人は皆知ってることでしょうし、大したことじゃないですね」
私が知ってるものは、こんなにレトロなものじゃないけど……いやそんなことよりだ。脱衣所がないぞ。
「あの、使うなら私、外出てます」
「逆ならともかく、お前が外まで出なくていいだろ。とにかく先に食事だ。食べていないんだろう」
「は、はい……」
「……食べたら、他に空き部屋がないか聞いてくる」
ぎこちなくお茶を淹れていると、ミハイルさんがふとそんなことを言う。ちょっと意外だった。
「敵地だから一人は駄目だと言われるかと」
「それは……そうだが。見張りにレイラでも喚んでおく」
「それじゃミハイルさんが休めないじゃないですか」
「このままじゃお前の気が休まらんだろう」
カチリと音がして、押し込んだスイッチが戻る。
……否定はできない。
「それに、また明日リエーフ達に何とからかわれるか」
「別の部屋にしたってどうせ同じです」
ティーバッグを入れたカップにお湯を注ぎながら、答える。
「私がこんなだから、からかわれるんです……、だから、いい加減慣れなきゃ駄目だと思うんです」
リエーフさんやお屋敷の皆に、フェオドラさんに、からかわれても仕方のないような自覚はある。エフィルに至ってはからかう意図などないのだろうし。
お茶をテーブルに置いてソファに座ると、ミハイルさんは少し複雑そうな顔をしていた。
「やつらに何か言われるからといって無理をすることはないと思うが」
「でも無理しないと一生このままだと思うんです」
「……無理をされるくらいなら、そのままでいい」
ミハイルさんがカップに口をつける。
そう言ってもらえるのはありがたい。だけど、そう言ってくれるからこそ。
「無理……したいんです……」
「――ッ!」
ガシャンと音を立てて、ミハイルさんがソーサーに叩きつけるようにカップを置く。
「もういいから、とりあえず食え! ……いや、何か盛られていないだろうな?」
ミハイルさんが、胡散臭そうに食事を見る。パンと、フライの盛り合わせに卵、それに具の少ないスープ。緑のない盛り合わせだ。この雪では、野菜を育てるのは難しいのかもしれない。
「何かするつもりなら、ミハイルさんが倒れてる間にしてたと思いますけど」
「……すまん」
「責めたわけじゃ。ただ、少なくとも帝都に着くまでは信用できると思います」
スープに口をつける。薄味だが、不味いというわけではない。フライは魚のような淡泊な味だ。
しばらく淡々と食事を続ける。
「あいつと何を話してた」
「え? べ、別に……大したことじゃありません」
まさか恋バナなどと言えようはずもなく。少し声が上ずってしまった。
「ならいいが……他愛ない話で気を許させようという腹かもしれん」
「わかっています。でもそれを言い出したら何も信じられないです。それに、裏切られても私はもう憎めないと思います……」
「……そうか。まぁ、お前からしたら俺も似たようなものだったな」
しばらくまた、会話が途切れて。
「……さすがに、裏切られると思いながら結婚できるほど、割り切ってません……」
「…………そう、か」
「でも仮に裏切られたとしても、信じたことを後悔はしないと思います。記憶はないですが、三年前私が貴方のために命を使ったというのも今ならわかります。きっとそのときも後悔してなかったはずです」
ふと、空になったお皿にフォークを置いて、ミハイルさんが立ち上がる。
「……俺は後悔した。三年間ずっと」
「ミハイルさん……」
その表情が……あまりにも悲痛で。話題に出すんじゃなかった。考えてみたら、置いていかれる方が私だって嫌だ。取り繕おうとする私に背を向けて、ミハイルさんが歩き出す。どこと言いかけて、その足がシャワー室に向かっているのに気が付いて、慌ててお皿へと目を戻す。
しかし食事を再開しても、背後でする服を脱ぐ音と、それから間もなく聞こえてきた水音で、全く味なんかわからなくなったのだった。