第72話 恋話
「あぁ~極楽ぅ……」
思わずそんな言葉が溢れるほど、心地よい。湯温も好み。まさか帝国で温泉に入れるとは思わなかった。
「ふふっ。気に入ってもらえたようで良かった」
座り石に腰掛けながら、フェオドラさんが笑う。
「……いつも張りつめた顔をしているからな。たまには気を緩めることも大事だ」
「私、ですか?」
問いかけに、フェオドラさんが頷く。
「ネメスではあんな状況だったし無理もないが。再会してみれば卿は吹っ切れたようだが、君は相変わらず浮かない顔をしている」
そう言われる心当たりは、ある。
「人に話してみるのも悪くないぞ。君たちにとって不利になるような話でないのなら」
わざわざ忠告してくれるあたり、人がいい。気を許させる計略かもしれないけど。
どちらにせよ――
「そんな大層な話じゃないです。フェオドラさんにとっては、きっと下らないことですよ」
「人の悩みを下らないと思うほど、下らない人間ではないつもりだが」
「……」
「ま、気を許す相手ではないな」
フェオドラさんが長い足を組み換える。それによってできた波紋が私まで辿り着く。
確かに悩みを聞いて貰うような相手じゃない。でも……
「フェオドラさんは……」
気が付いたら声が出ていた。その先を迷う私を急かすこともなく、焦れた様子もなく。ただ黙って待ってくれている彼女に、問いかける。
「恋をしたことありますか?」
言ってしまってから、我ながら何を言ってるんだという気分になった。……少しのぼせたかもしれない。
「あるよ」
笑うでもからかうでもなく、意外にも彼女はそう即答した。
「意外そうな顔をしているな」
「いえ、その。……意外でした」
「ふっ、正直だな。こちらとしても君からそんなことを問われるのは意外だったぞ」
「……ごめんなさい。変なことを聞きました」
「変なものか。女同士風呂で恋バナ、実に良いじゃないか。憧れていたぞ。何でも聞いてくれ」
両手を広げて、フェオドラさんが目を輝かせる。しかし、聞けと言われると何をどう聞いていいのかわからない。
「何だ、不倫でもしようというのか」
「ち、違います! どうしてそうなるんですか」
駄目だ、これ以上引っ張ると妙な方向に行ってしまいそうだ。
「その……さっきフェオドラさん、ミハイルさんは吹っ切れたようだと言いましたが。確かにネメスから帰ってから、少し変わりました。前より強くなったように思います」
「そうだな。ネメスでは死んだ魚のような目をしてたが、なかなか男前になった」
「死んだ魚……」
辛辣な言い様に苦笑すると、彼女は少し慌てたような顔をした。
「ああ、すまんな。褒めたつもりだ」
「いえ」
「で……なんだ。惚気か」
「い、いえ。その……ミハイルさんは強くなったのに、私は何だか弱くなった気がして……」
「というと」
「……支えようと思っていました。でも、もうその必要もない気がして。そしたら自分の存在意義がわからなくなりました」
「ふむ……」
フェオドラさんが腕を組み、少しの間考え込むような素振りを見せる。
「わかるぞ。私も認められようと修練を積んだが、いざ超えてしまうと逃げられた」
「それは……強くなっていませんか?」
「物理的にはそうかもしれん。だが、ただ認められたいだけで剣を振るうことは強さとは言えないと自分では思う。それはただの依存だ」
自嘲するように、フェオドラさんが伏し目がちに呟く。
「だったら私も依存していますよね」
「そうか?」
「だって、今までこんなことなかった。迷っても自分なりに答を探して進んで来られたのに、今の私は決心しても揺らいでばかりいて……自分のことだけで精一杯で、周りに迷惑かけるばかりで……」
「いいんじゃないか。迷惑をかけられる、信頼できる者ができたということだろう。弱さを自覚し、人にさらけ出すのもまた強さだと私は思っているが」
「……そんな風に考えたこと、なかったです」
弱さは、隠すものだと思っていた。だから、感情を波立てないようにして。愛想笑いで自分を作って。それができなくなった自分を情けないとばかり思っていたから、フェオドラさんの言葉には意表を突かれた。
「自分だけで解決するのは、自分の考えに固執することになる……と、これは私の考えに過ぎんがな。明日には変わっているかもしれんし、あまり気にしないでくれ」
「でも、フェオドラさんが色んな経験を経てたどり着いたことでしょう?」
すごく含蓄がある気がするのだけど。
「そりゃ君よりは年上だが、生憎私もまだ若いのでな。わからんことだらけだ」
フェオドラさんが手のひらにお湯を掬い、流す。それを見るともなしに見ながら、溜め息と共に言葉を流す。
「フェオドラさんでもそうなら、私なんていつまでも悩みっぱなしでしょうね」
「それが生きるということではないかな。こう見えて私も悩み多き乙女だぞ」
フェオドラさんの口調はおどけていたけど、私はふと思い出したことがあって、顔を上げた。
エドアルトは言っていた。生きていないから、自分は物事を深く考えることはないと。気楽そうに、だけどどこか……寂しそうな顔で。
「そんな年寄り臭い話より、恋バナに戻ろう」
あまりにも大真面目に言うので、思わず吹き出しかけた。そんなことを言われても。
「え、えっと。じゃあ、恋って何ですか?」
「哲学か?」
「いえ、そういう意味ではなく。その……、なんというか、あまり縁がなかったのでよくわからなくて。好きなだけでは駄目なのかな、とか……」
いかん、また何を言っているのかわからなくなってきた。
やはり哲学の話でも振られたかのように、難解な顔をしてフェオドラさんが腕を組む。うん……これはのぼせたな。体中が熱くて汗が止まらない。
そろそろ上がろうかと考えていると、ふとフェオドラさんが弾かれたように笑い出す。
「……はははは! そういうことか。ふ、ふふ……」
「笑わないで下さい……」
「いや、すまん。馬鹿にしたわけではないんだ……しかし、うむ、それは卿本人に言え」
「言ったんですけど……」
「い、言ったのか。それは奴も苦労するな……ふふ、執事の気持ちもよくわかる」
そう言ってまた笑い出すので、私はざばりとお湯の中から立ち上がった。
「出ます!!」
「怒るな怒るな」
「怒ってません! のぼせただけです」
「可愛いな。うむ、卿の気持ちもよくわかった」
フェオドラさんもお湯から上がり、ぽんぽんとが私の頭を軽く叩く。
「からかわないで下さい……ッ、もう、余計悩みが増えました」
「それは聞き捨てならんな。なんだ言ってみろ」
「私、あなたとは戦いたくない」
ふと、フェオドラさんから笑みが消える。それから彼女は一度目を伏せて開き、静かに答えた。
「……私もだ」
「だけどフェオドラさんは、その時が来たら戦うんですよね」
「君も。自らの守りたいもののために、それが必要なら」
手を離して、フェオドラさんが歩き出す。
「また来たいですね」
「ああ。またいつか」
きっと来ない「いつか」とわかっていながら、私たちは互いにそんな言葉を交わした。