第68話 条件
リエーフさんが口にした名前を聞いて、思い出す。
マクシムさん。プリヴィデーニの自警団長だ。以前街で会ったことがあるのだけど、そのときはよれよれの恰好をしていたからすぐに気が付かなかった。今は小ざっぱりした格好をしていて、髪も髭も前より短くなっている。
「前に頂いたリストについて、新たにわかったことがありましたので」
「持って来て下さったんですか?」
差し出された書類の束を受け取って、リエーフさんが目を丸くする。
「当家も随分気安くなったものだ」
「ご主人様。わざわざご足労下さったのにそんな言い方をするものではありません」
マクシムさんは気分を害した風ではなかったが、リエーフさんが嗜める。しかしミハイルさんが取り合わないので、代わりに頭を下げておく。
「ありがとうございます、とても助かります」
「いえ、こちらこそ。ご夫人が詰所を片付けて下さってずいぶん仕事の効率が良くなりました。あの幽霊伯爵の奥方が掃除をした部屋ということで、ちょっとした名物にもなりましてな」
「あ、あはは……私で良かったら、いつでも掃除をしに行きますよ」
よくわからない盛り上り方だけど、掃除を褒めてもらえるのは嬉しい。
「あれからは皆綺麗に使うようにしています。それでもやっぱり散らかってきてしまいまして。是非とも掃除のコツを教わりたいものだと」
「……そんなことを聞いたら長くなる。悪いがまたにしてくれないか」
私の目がらんらんとしたのに気が付いたのだろうか。ミハイルさんが割って入ったので、開き掛けた口を仕方なく閉じる。
「ああ、話が逸れてしまいましたな。何かお困りのご様子でしたので」
考え込むような素振りを見せたミハイルさんに、リエーフさんもちょっと考えてから口を開く。
「ご主人様、マクシム殿はプリヴィデーニの治安を預かるお立場。仕事熱心ですし信用できるお方です。エフィルのことはともかく、事情はお話しておくべきかと」
「…………」
渡された書類を一瞥してから、ミハイルさんは小さく息を吐いて顔を上げた。
「俺はこれから帝国まで行かねばならん。帰りがいつになるか……、いや帰れるかどうかすらわからん。元々俺はいて居ないような身だし困ることもないだろうが、引き続き苦労を掛ける。俺が至らんばかりに済まなかったな」
「領主様」
踵を返したミハイルさんの背に、マクシムさんが声を掛ける。
「昔はどうあれ、三年前この地を帝国から守ったのが貴方であることは確かです。貴方が領民に対して無関心であられたことも、領民が幽霊屋敷と忌み嫌い、歩み寄ろうとしなかったことにも非はあるでしょう。……どうかご無事で。お帰りになられましたら、プリヴィデーニのこの先について是非とも貴方と話がしたい」
ミハイルさんが足を止める。そして振り返ると、マクシムさんの元まで歩み寄った。
「……マクシム。済まないがエフィのことを頼めないだろうか」
「ご主人様、では……」
リエーフさんがぱっと顔を輝かせる。
「構いませんよ。エフィルのことは私もずっと気に掛けておりましたし」
「いえ」
マクシムさんは快諾したが、ここに来て、今まで黙って聞いていたエフィルが声を上げる。少し遠慮がちに、しかしはっきりとした調子で。
「ボクはお屋敷にいます。ママを置いて行けないし、それに、お屋敷が幽霊だけになってしまいます。ボクは幽霊が見えるし、お話相手にくらいはなれます。お願いです、少しでも旦那様や奥様、先生に恩を返したいんです」
「エフィル」
ミハイルさんやリエーフさんが彼を窘める前に、私は膝をついてエフィルの両肩に手を置いた。
二人に苦言を呈されれば、ますます意固地になるだろう。
「恩なんて、気を遣わないで。どうしてもと言うなら大人になってから、ね?」
「もちろん一生かけて返します。でもボクは今できることがしたいんです。子どもだから何もできないと思わないで下さい」
――子どもだから、何もできなかった悔しさ。
それにエフィルがいつも苛まれているのはなんとなく気が付いている。だからエフィルはいつもしっかりしている。決して弱音を吐かないし、涙も見せない。教えてもらったことは何でもすぐに身に着ける。それこそ、リエーフさんに百年に一度の逸材と言わしめるほど。
駄目だ……、私にも説得できそうにない。どうしたものかと私たちが考えあぐねていると、再びマクシムさんが口を挟んだ。
「定期的に様子を見に来るというのはどうでしょうか。私が多忙でも部下を行かせることができますし、その方が私も助かりますが」
そう言ってエフィルを見下ろす、マクシムさんの目が少し笑っている。きっとエフィルの気持ちを汲んでそんな言い方をしたのだろう。
期待に満ちた目でエフィルが再びミハイルさんを見上げる。
「……それでいいのか、エフィ」
「! はい!!」
赦免の空気を感じ取ったのか、エフィルが目を輝かせて返事をする。
「わかった……屋敷はお前に任せる」
「ありがとうございます、旦那様!」
跪いて一礼したあと、飛び上がるように立ち上がって、今度はマクシムさんに駆け寄って行く。
「ありがとうございます、マクシムさん。どうか宜しくお願いします」
「見違えたな、エフィル。お前なら大丈夫だろう」
そんな二人を見て、ミハイルさんが溜息を吐く。
「最悪皇帝を倒してでも早急に帰らねばならんな」
「滅多なことを口になさるものではありません」
口では窘めながらも、リエーフさんからは笑みが零れている。
しばらく和んだ雰囲気が場を包んでいたが、ふと思い出したかのように、マクシムさんが顎を撫でながら宙を睨んだ。
「ああ、一つ領主様にご報告が。今プリヴィデーニの街に帝国の者が滞在しておりまして」
「……『応じる』と伝えてくれ。それで帰る筈だ」
「ご存知でしたか。承知致しました。それでは職務中ですので、これにて」
送ろうとしたリエーフさんを片手で止めて、マクシムさんが姿を消す。
「リエーフ」
その気配が完全に消え去ってから。
おもむろに名を呼ばれて、リエーフさんが応える。
「はい」
「万に一つも死ねなくなった。言ったことに嘘がないなら……その無限でない命を懸けても俺を守れるか」
「もちろんでございます。この命、ご主人様の為に使えるのなら喜んで」
「……そうか。だが連れて行くには一つ条件がある」
即答したリエーフさんを真っ向から見て、ミハイルさんがそう投げ掛ける。先を待つリエーフさんに、一言、ミハイルさんが告げる。
「死ぬなよ」
「……仰せの通りに。ご主人様」
少し呆れたように笑って、リエーフさんは頭を下げた。