第62話 崩れる平穏
「しばらくぶりだな、プリヴィデーニ卿」
ドーン、という効果音が似合いそうな佇まいで、彼女は玄関の扉にもたれていた。
態度もそうだけど、それだけではなく。
ネメスで会ったときにはスーツ姿だった彼女が、今日はそこそこ胸元の大きく開いたドレスを着ている。そのためか……、相当ドーンという感じである。
「何しに来た」
ミハイルさんの率直な問いに、フェオドラさんも率直に答える。
「迎えに来た。皇帝陛下が貴公に会いたいと仰せだ」
シン、と場が静まる。
たったそれだけの言葉で、平穏な日々が脆くも打ち砕かれていく。耳の奥で鳴り響くその聞こえない音を、リエーフさんの穏やかな声が割いた。
「それで、そのお姿は?」
「郷に入っては郷に従えと言うだろう。こちらの淑女が着用するような衣装を仕立ててもらった」
「はぁ……、わたくしはてっきり色仕掛けでもなさるおつもりかと」
さすがというか、なんというか。この状況にして緊張感のないリエーフさんの言動に、ミハイルさんがやや肩をこけさせる。
「ん? まぁ、通用するならそれもありかもしれんが……夫人に勝てる気はせんからな」
私を見て、フェオドラさんが裏表のないからっとした笑みを見せる。
いや、もう、色んな意味で私が勝てる気しないけど。
「冗談はいい。断る」
「せっかく来たのにそう無碍にするな。ドレス代を無駄にする気か」
「知らん」
「茶の一杯くらい出してもバチは当たらんぞ。……おや」
ふと、フェオドラさんが屋敷の奥へと視線を伸ばす。それを追うと、エフィルがぴゅっと顔を引っ込めるのが見えた。ミハイルさんが小さく舌打ちする。
「驚いたな。もうあんな大きい子供がいるのか」
「違います! あの子は――」
ペースに飲まれてはいけないと思いつつも、つい突っ込んでしまった私の口を、ミハイルさんが片手で塞ぐ。余計なことは言わなくていい――と、見下ろす視線が語っている気がする。
そうだった。フェオドラさんのカラっとした気性や、マイペースを崩さないリエーフさんのせいで気が緩んでしまっていたけど。彼女は決して味方じゃないんだ……。
「ふぅん……、まぁいい。そこの少年、茶を淹れてくれ」
「おい、勝手に」
「邪魔するぞ。応接室はどこだ」
牽制するミハイルさんなど歯牙にもかけず、フェオドラさんは勝手に屋敷に入ってくる。苦笑を噛み殺した顔で、リエーフさんが「こちらです」と先導する。
「あぁ、私はオカルトは苦手だ。死霊とかは遠ざけておいてくれ」
冗談めかして笑うフェオドラさんの頭上で、レイラが半眼で彼女を見下ろしており。
横で、ミハイルさんの溜め息が聞こえた。
* * *
「飲んだら帰れ」
一応、帝国からの客に無礼があってはいけないと判断したのか、お茶はリエーフさんが出していた。それを美味しそうに飲むフェオドラさんに、ミハイルさんが辛辣な一言を容赦なく投げつける。
しかしやはり、フェオドラさんはどこ吹く風で。
「貴公の噂、ネメスまで届いているぞ」
左手に持ったソーサーにカップを置いて、フェオドラさんが口を開く。
「噂? 幽霊屋敷のことなら、薄々国中が知っているだろう。今更――」
「その幽霊伯爵が、大層な愛妻家だと」
カップに口をつけていたミハイルさんが、それを吹き出しそうになるのを辛うじて堪えたのが見えた。堪えたものの咳き込んでいる彼を見て、リエーフさんが楽しそうに同調する。
「あぁ、プリヴィデーニが今その話でもちきりですからね。本当に他人の色恋沙汰というのは、いつの時代でも人々の良い娯楽です。今まで脅えていた相手であっても……いや、だからこそ余計にでしょうか」
口元に手を当てて、リエーフさんがクスクス笑う。
な、何それ……初耳なんだけど。いや、でも、街でのことを冷静に振り返ってみると、それも仕方ないという気はひしひしとする。自覚がないであろうミハイルさんには戸惑いしか見えないけど、私はもう顔も上げられない。そんな私にフェオドラさんが追い打ちをかける。
「ま、噂で聞かずとも私はよくよく知っているがな」
「ほうほう、詳しく」
「リエーフ!」
真顔で言うフェオドラさんに、目を輝かせてリエーフさんが食いつく。
……なんだろうな、この……なんか、緊張感に欠ける空気。今まで咳き込んでいたミハイルさんが諫めるも、二人は全く聞く耳もたない。
「あんまり見せつけるものだから、少し羨ましくなってな。実は婚活などしてみたりした」
「こ、婚活……?」
聞き間違いかと思った言葉が口から零れたけど、変な顔をされなかったところを見ると、聞き間違いではなかったようだ。お堅そうなイメージだったフェオドラさんから、そんな軽い言葉を聞くとは思わなかった。もうそのイメージもけっこう崩れてきてるけど。
「これが惨敗で」
「それはそれは、よくよく見る目のない者が集まったものです」
「さすが卿の従者は見る目がある」
言葉の出ない私たちに変わり、遺憾そうにリエーフさんが呟く。
「事実を申し上げたまでのことです」
「言うな。どうだ、今夜にでも一杯」
「主人のお許しが頂けるのならぜひとも。わたくしも貴女様とは是非ともゆっくり話をしたいのです。特に、ご主人様とミオ様がネメスでどのように過ごされていたのかを詳しく……」
そっちかーい。
そろそろ隣の殺気が洒落にならなくなってきたんだけど。それに気が付いたのか、リエーフさんが姿勢を正して咳払いをする。
「と、冗談はこのくらいにしておきまして……」
さも残念そうだった表情もすぐに消し、一呼吸おいて言葉を継ぐ。
「ネメスでのあらましは主から伺っております。各地で不穏な動きを見せる帝国に――つまりは敵地に主を行かせるなど、従者としては同意しかねますね」
「不穏と言われても、我らは故意に死霊を発生させていたわけではないからな。帝国はオカルトを信じていない」
「ならば、貴女が地下に隠していたという魔法陣は?」
「別に隠してなどいなかったろう。確かに帝国軍の一部は魔法研究の命を受けてはいるが、他国の技術を研究することの何がおかしい」
「……信用できんな」
沈黙していたミハイルさんが、ぽつりとそう漏らす。
「別の領主は、その研究について頑なに口を閉ざしていた。なのにお前はやけにペラペラ喋る」
「それは、どんな手を使っても貴公を連れてこいと言われているからな。私は命令に従っているだけさ」
それは、だいぶ解釈を間違えている気がするけれど……故意だろうな。
「そんなわけだ。私はしばらくプリヴィデーニに滞在させてもらうが、そこまで暇なわけでもない。近日中に色良い返事を待っている」
「おや、どんな手を使っても連れてこいと言われている割には悠長ですね」
「どんな手でもいいと言うから正攻法でやっている」
「面白いお人です」
リエーフさんが、呆れとも感心ともつかない声を上げる。
「ま、失敗しても私の首が飛ぶだけの話さ」
気楽な声で、……物騒なことを言う。
だから、思わず口を挟んでしまった。
「それは……軍にいられなくなると言う意味ですか? それとも……」
「私は軍以外で生きていく術を知らん。どちらにせよ文字通りの意味だ」
今までと、少し違う表情、少し違う声質。
……聞いたことを後悔した。
「では、失礼する」
まるで嵐が去ったように。
彼女とリエーフさんが退室すると、部屋には耳が痛いくらいの静寂が残った。