第61話 家族への憧憬
「エフィルは、何を教えてもあっという間に吸収してしまいます。わたくし今まで何人も子供を見てきましたが、あのように優秀な子は、百年に一人くらいの逸材でしょう」
空になった私のカップを下げながら、遠くを見るような目をしてリエーフさんが呟く。……いやもう、本当に、何歳なんだこの人は。
そういうリエーフさんの謎言動に突っ込まないところを見ると、ミハイルさんはわかっているんだろう。聞けば教えてくれるのだろうか。ぼんやりと見つめる先で、彼はリエーフさんにソーサーごと空のカップを差し出した。
「いずれここを出たときに一人でも生きていけるよう、できるだけのことはしてやれ」
「お任せを。このリエーフ、子供の世話、教育には慣れております。ですからいつ後継ぎがお生まれになりましてもバックアップは万全でございますよ。ねぇミオさま――」
らんらんと輝く目を向けられ、飲み込んだお茶を噴き出すかと思った。そんな私の目の前を、ヒュッと何かが通りすぎていく。それを目で追うと、リエーフさんが白羽取りのように両手でペーパーナイフを受け止めていた。彼を睨みつけて、ミハイルさんが低く凄みのある声を上げる。
「妙な脅迫をするんじゃない。ミオは対外的に当家の花嫁でいるだけの契約だろう。屋敷の事情や俺とは関係ない」
リエーフさんが笑顔を消して、ペーパーナイフを執務机の上に戻す。
「そもそも俺は子孫を残す気などない。屋敷の幽霊はもうあいつらだけだ。その他の死霊について当家が負う責任などないだろう」
「では、このプリヴィデーニ家はご主人様の代で終わりということでございますね」
抑揚のないリエーフさんの声。彼はミハイルさんの方を向いていて、私からはその背しか見えない。そして、ミハイルさんは俯いたまま目を伏せていた。
しばらく、静寂が流れる。
「……個人的に、このようなことを申し上げるのは非常に不本意ではあるのですが。ご主人様にその気がないのであれば、エフィルを養子とするのは如何でございましょうか。先ほども申し上げました通り、彼は利発で優秀であり、霊を恐れず、身よりもございません。貴方がいつも気にされる、当家と関わったことで不吉と後ろ指をさされる身内もおりません」
ミハイルさんが目を開けて、顔を上げる。そして、渋面になった。
「フン。この期に及んで屋敷を潰されては困るのか」
「ええ、それは……このお屋敷を守ることがわたくしの全てでございますから。ですが今はお屋敷よりも、坊ちゃんの身の方を案じております」
「白々しい」
一言で突っぱねられて、リエーフさんは執務机を離れると、扉近くのワゴンに手を掛けた。その顔はいつもどおり穏やかな笑顔を湛えていたが、少し寂しそうなのはきっと気のせいではないと思う。
少し逡巡してから、再びリエーフさんは唇を震わせた。
「わたくしの主人はずっと一人だけでした。ですが、今は二人おります。最初にお仕えした旦那様と、最後にお仕えする……貴方です。ミハイル様」
そう言って、リエーフさんは微笑んだ。いつも優しいリエーフさんの笑顔の中で、一番優しい笑顔だった。
ミハイルさんが、少し怯んだように目を瞬かせる。
「貴方は本当は孤独より、人と触れ合いたいと――、家族が欲しいと思っておられるはずです」
「知ったような口を」
「聞きますよ。誰よりもずっと長くお仕えして参りましたから。そして誰よりも貴方の幸せを願っております」
突き放すようなミハイルさんの声を気にする素振りもなく、ワゴンを押して退室しかけてから、思い直したように私の傍に来て耳打ちする。
「さっきの坊ちゃんのお言葉、どうか間に受けませんよう……素直でないだけなのです」
「確かに言い方はどうかと思いましたが。素直でないというより、私が気負わないよう、気を遣ってくれたんだと思いますけど」
遠慮なくグイグイ来る誰かと違って――という皮肉を込めて囁き返すと、リエーフさんは数回瞬きをしてから、何故かまた少し寂し気な顔をした。
「誰よりも坊ちゃんを理解してきたつもりでおりましたが……誰よりも、というのはそろそろ撤回すべきかもしれませんね」
そう言うとリエーフさんは一礼し、ワゴンを押して退室した。同時にミハイルさんが長い溜め息を吐く。
「帝国やイスカに睨まれてるこの状況で、屋敷のことまで考えられるか」
その様子は、いかにもリエーフさんへの嫌悪を表しているようだけど。でも、私にはそうは見えなかった。
「ミハイルさん、嬉しそうです」
「――は? 嬉しそうだと? 俺が?」
心底わけがわからないという風に見返すからには、自分では気づいてないのかな。
「ええ。リエーフさんが、主人は二人だと言ったときから嬉しそうでしたよ。ミハイルさんとリエーフさんって、なんだか親子みたいですよね」
「勘弁してくれ……」
「それから。エフィルとミハイルさんも、親子みたいだと思いました」
うんざりした様子だったミハイルさんが、ふとその表情を変える。
「エフィルを見るときのミハイルさんの目はとても優しいです。私も……貴方にはもっと、人との触れ合いが必要だと思う」
「……俺は、お前がいればいい」
「関係ないんじゃなかったんですか」
ここぞとばかりに突っ込むと、ばつが悪そうにミハイルさんが顔を背ける。
「すまん。お前にこれ以上負担を強いたくなかっただけだ」
「それはわかっていますけど。それから……私を必要としてくれるのは嬉しいですが、もう少し視野を広げてもいいと思いますよ。そういうのが依存と固執というのでは」
「ぐ……っ、しかしだな。敵が多い今、あまり弱味は作りたくないんだ。エフィのことが知られれば、あいつまで狙われかねんだろうが」
そう言ったミハイルさんは、気まずい顔をしたままだったけれど。視野が狭かったのはどうやら私の方だったみたいだ。
「……すみません。いつも守られてばかりなのに、偉そうなことを言って……。私こそ、もっとミハイルさんに負担を掛けないように配慮すべきでした」
しゅんとしていると、ふとソファが軋んだ音を立てた。隣に座ったミハイルさんが私を見下ろして、少し笑う。
「正直、俺はエフィを屋敷に置くのには反対だった。弱味が増えればそれだけ立ち回りに苦労する。そう思っていたんだが……不思議なことに、守るのものや考えることが増えるほど、体も頭もよく動く。何も持たなかった頃、何もする気になれなかったのとはまるで逆だ」
「ミハイルさん……、そうですよ。だから、ミハイルさんは孤独になろうとしない方が――」
良いと。言おうとした声が、チクリとした胸の痛みと共に止まった。
少し怪訝そうに私を見下ろした後で、ミハイルさんもやや複雑そうに私から目を逸らす。
「お前やエフィが少しでも幸せに暮らせるのならと……だがそう思う一方で、幸せを望むならやはり、俺の傍にはいない方が良いとも思う……。俺に関われば不幸になる」
それを聞いた途端、喉につかえたようになっていた声が滑り出た。
「勝手に決めないで下さい。私は不幸だなんて思っていません」
「だが、お前が思い描いていた幸せと今は違うんじゃないか?」
「どうして今更そんなこと言うんですか?」
「そうだな。すまない」
娘がいたら、なんて口にしたせいだろうか。それともリエーフさんの圧力のせいか。だけどミハイルさんがそれ以上はこの話題を引きずらなかったから、私もそれを追及するのはやめておく。
私が思い描いていた幸せ……か。今はただ、どこかと争うことなく、静かに暮らせたらそれで幸せだと思うけど。
こうなる前は……、ここに来る前の私は。
……ここに来る前……もう、あまり思い出せない。
「……ミオ?」
名を呼ばれて我に返る。
ぼうっとしてしまっていた。
「いえ……なんでもありません。とにかく私はここを離れる気はないですし、もう契約だけでここにいるわけでもありませんから」
「すまなかった。あんな言い方をして」
「わかってくれればいいんです」
私の不満を理解してくれたようで、ミハイルさんはそう詫びると少し苦笑した。そしてじっと私を見下ろす。
「俺はこんなだから、幸せにするとは言えないが――」
「誰かに幸せにしてもらいたいなんて思いませんから、気にしないで下さい」
「ふっ……、本当にお前は可愛げがない」
「それはすみません」
「貶してるわけじゃないぞ」
そう言って、ミハイルさんが私の頬に手を当てる。
「可愛げがないが、可愛くないとは言っていない」
「……ッ」
か、顔が。爆発する。
「ミオ、俺は――」
自分の心音がうるさすぎて――気が付くのに一瞬遅れた。その、けたたましい足音に。
「ご主人様!!」
「わあああああ!!」
扉が勢いよく開く音に、ついミハイルさんを思い切り突き飛ばしてしまった。直後、リエーフさんの悲痛な声が部屋に響き渡る。
「ああああ!!? またやってしまいました!! かくなる上はこのリエーフ、喉笛を切り裂いてお詫びを!!」
「やめろ、二度と見たくない」
私に突き飛ばされた体勢のまま、苦虫を噛み潰したような顔でミハイルさんが吐き捨てる。
……二度と??
「それより、どうした。何かあったのか」
「あ……そうでした。お客様です」
少し、空気がぴりっとする。無理もない。このところ、来客の度に散々な目にあっている。
「誰だ。またマスロフか?」
「いえ……」
リエーフさんは否定すると、珍しく緊迫した表情で答えた。
「ネメス領主、フェオドラ・レノヴァ様です」




