第55話 エフィル
男の子は、エフィルと名乗った。
結局それ以上彼が詳細を話さないので……いや、話さない、というより、どう話せばいいのかわからないという感じだったので、家まで案内してもらうことになった。
エフィルはどこか鬱屈とした表情をしていたものの、震えはすっかり止まって、しっかりした足取りで先に立って歩いている。レイラがその手を握ってあげているのが微笑ましかった。お屋敷では最年少だけど、年下の子にはしっかりしたお姉ちゃんだ。
そういくらも歩かないうちに、エフィルは小さな家の前で足を止めた。
「あら、お帰りなさい」
玄関の扉を引くと、奥から声がして、女の人が顔を出す。焦げ茶色の髪に、同じような色の瞳。長い髪をゆるく縛り、着古した服に少し汚れたエプロンをしている。
「お客様?」
そして、私たちを見てきょとんとした。
エフィルは、お母さんは亡くなったと言っていた。ということは……お姉さんかな? それにしては歳が離れすぎているような。
ミハイルさんは彼女を見て、少し考えるような素振りを見せた。だが、それを私や彼女が怪訝に思う前には声を上げる。
「……いや、送ってきただけだ。通りで馬車に轢かれそうになっていたのでな」
「え……!?」
彼女はまともに様相を変えると、男の子の前にしゃがみこんで顔を見上げた。
「本当なの!? 大丈夫? 怪我は!?」
エフィルは何も答えなかった。俯いた彼の肩が、また震え出す。
「レイラ」
ミハイルさんが、小さく――だが鋭く、レイラを呼ぶ。呼ばれてレイラはミハイルさんを見上げた。そして軽く頷くと、エフィルの横に立ち、その手を握った。
「ね、明日も一緒に遊びましょ。せっかくお友達になれたんだもの」
「え……?」
「明日、迎えに来るから待っていて」
耳に顔を寄せて、レイラが囁く。彼は少しの間不安そうな顔をしていたが、やがてきゅっと眉を寄せると、うなずいた。
※
「あの女性、死霊だ」
家を出てすぐ、ミハイルさんが呟く。
「え、そうなんですか!?」
「ああ。しかも自分が死んでいることに気が付いていない」
私も全然気が付かなかった。だけど言われてみれば、違和感がないでもなかった。馬車に轢かれかけたと聞いても、怪我はないかとの質問に答えがなくても、彼女はエフィルに触れもしなかった。
……触れられなかったんだ。
「厄介ね。迂闊に伝えたらショックで狂わないとは言えないわ」
腕を組み、宙を睨んでレイラが唸る。
「だから一度出直すことにしたんですね」
女性に悟られず、対応を考える時間が必要だった。でも、ただその場を後にすれば、エフィルは見捨てられたと思うかもしれない。だから、レイラが自然な形で明日まで待つように伝えた。
一瞬目を合わせただけで、そんな意志疎通ができるなんて……さすがだな。
「それはそうと、そろそろ消すぞ……」
「もう? だらしないわね。また何かあったら呼んでもいいわよ」
ミハイルさんが片手を振ると、たちまちレイラの姿は掻き消えてしまう。疲れたように息を吐いてから、ミハイルさんは顔を上げた。
「さて……もう一度詰所へ行くか」
「あの女性の死因を調べるんですね?」
死因を調べていい対処法がわかるとも限らないけど、無手よりマシというものだろう。
「最悪、無理矢理囚えることもできるが……それをすればお前が無理をしかねんからな」
じろりと見られて目を逸らす。確かに確約はできない……。溜め息をついて、ミハイルさんが踵を返す。その後についていこうとしてよろけてしまい、慌てて体勢を立て直す。
……しまった。
恐る恐る顔を上げると、先に歩いていたはずのミハイルさんが、すごい形相をして戻ってくる。
「大丈夫です! ほんとに! 大丈夫!!」
今にも抱え上げようとする彼の手を、全力で押しとどめる。さすがにもう、恥ずかしさも限界だ。
「ほら、ちゃんと歩けますから」
痛そうにしたり、よろけたりすれば、問答無用で抱き上げられてしまう。細心の注意を払っていつもどおりに歩いていると、後ろから溜め息が聞こえてきた。
「……それを貸せ」
私が持っている鞄を指して、ミハイルさんが呟く。荷物を持ってくれるということだろうか。止血セットが入ってるくらいだから、大して重くはないんだけど……
言われるままに鞄を渡すと、彼はその中から止血セットを取り出した。
「座れ」
また彼が指を指す。その先を追うと、橋のたもとにベンチが見えた。
「あの……」
「いいから座れ」
腰を下ろした私の前に膝をつき、私の靴を脱がせる。
やっぱり靴擦れしていたようで、皮が剥けて血が滲んでいた。……靴、借り物なのに汚しちゃったな。落ちるかな……などと、私はもっぱら靴の心配をしていたのだけど。
「一滴も無駄にするなと言ったはずだ」
「普通に生きてたら無理ですよ、そんなの」
睨まれて、思わず半眼で言い返す。
正論だと思ってくれたのか、ミハイルさんはそれ以上は何も言わなかった。黙って自分の膝の上に私の足を置き、止血セットに手をかける。
咄嗟にどかしたが掴んでとめられた。
「じっ、自分でやります!」
「少しは俺の気持ちがわかったか」
「怪我の度合いが違います! ただの靴擦れくらいで……ッ、服が汚れますから、せめて地面で!」
せめてもの懇願は、すべて綺麗に無視された。
足に触れられているだけで、なんでこんなに……呼吸が苦しくなるくらい、鼓動が早くなってしまうんだ。
気を逸らすために辺りを見ようとしたが、通行人と片っ端から目が合ってしまって、再び視線を落とす。
喧騒。馬車の車輪の音。馬の蹄の音……決して小さくないそれらが、鼓動の音に負けてしまう。
「終わったぞ」
ようやく手が離れて、爆速で靴に足を突っ込む。
生きた心地がしなかった。
「ミハイルさんは……いつも自分のことは平気で傷つけるくせに、どうして私のこんな小さい傷をそんなに気にするんですか……」
包帯の分、少し厚みが増して靴が履きづらい。でも履けなければ結局問答無用で抱えられてしまいそうだ。無理矢理に押し込む時間稼ぎに、ずっと気になっていたことを聞いてみる。
「別に平気なわけじゃない。……力の使い方は幼い頃に父から教わったが、嫌で仕方なかった。未だに思い出す。父が死んだとき、俺は正直どこかでほっとしていた。これでもう力を使わなくていいと……二度と使うものかと」
風がミハイルさんの黒髪を揺らす。
てっきり、無視されるか、はぐらかされると思っていた。彼が自分のことを、しかもこんな弱音のようなことを話してくれるのは、初めてじゃないだろうか。
……いつも見下ろされているから。いつもその背を見るか、或いはその腕の中にいるかだったから。私にとって、とても大きな人に見えていたけど。
膝をついて項垂れる姿を見下ろしたとき、初めて彼が小さく見えた。
「なのに何故だろうな。お前が傷つく方がずっと痛くて、見ていられない」
風に浚われそうなくらい、その声も小さな小さなものだった。
それからすぐに立ち上がって、私に手を差し伸べる。
「行くぞ」
「はい」
やっぱり、私は薄情者だな。
そんなに嫌だった力を、私のせいで何度も使うことになっているのに。使わせてしまっているのに。
それでも……私はこの手を離せないのだから。