6.リリアナの言い訳
そもそも俺があの夜記章を落とさなければ
リリアナとエリクが出会うことはなく
リリアナが泣くこともなかったのに――。
そうだ。
全ての元凶は
間違いなく
俺にあった。
★
深夜。
団長の許しを得た俺は、早馬で実家に戻った。
出迎えてくれたのは案の定涙目のリリアナだった。
突然帰宅した俺を見て、大きな目を見開く。
「お兄ちゃん……!どうしたの急に」
「母さんは?」
「もう寝てるけど……本当に、どうしたの。お仕事は?」
「心配すんな。団長に許可はもらった」
言って少しだけ微笑めば、リリアナは困ったように眉を寄せる。
どうしたの、なんて言いながら俺が戻ってきた理由なんて当然検討はついていただろうから。
「……聞いたぞ、エリクから」
出来るだけ、優しく言った、つもりだった。
「どうして別れんだ」とか「だから無理だったろ」なんて言うつもりはなかった。
ただ、きっと独りで傷を抱えているだろうリリアナを放ってなんておけなかった。
心配性な母さんの前では堪えていたのだろう。
「ごめんな。遅くなって」
リリアナは、俺を見上げながら、じわりとその目に涙を溜めていく。
そうして喉の細いところから搾りだすような声をあげた。
「……っおに……いちゃん」
「うん」
「ごめん……っなさい……っお兄ちゃんの、言う通りだった」
リリアナの両目から、透明のしずくがつと落ちていく。
なにがあったのか、聞くべきなのだろうか。
「リリアナ」
俺にしがみつき、いよいよ盛大に泣き始めたリリアナを抱きしめ、頭をそっとなでる。
「ごめんな。兄ちゃん、もっと強く反対すれば良かったな」
言えば、俺の胸に額を押し付けたままのリリアナの頭が左右に振られた。
「お兄ちゃんは悪くない。エリク様も、悪くないの……」
あたしが臆病だった、とリリアナのくぐもった声が、聞こえた。
☆
――あいつだけはやめとけ
お父さんがいなかったこともあって、お兄ちゃんは小さな頃からあたしを大切にしてくれた。
顔は怖いけど、強くて優しい自慢のお兄ちゃん。
そんなお兄ちゃんの忠告を聞かなかった、罰なのかもしれない。
初めてできた恋人は、とてもではないけれど手の届かない人だった――
「やった、綺麗に焼けた!」
「あら、本当ね。すごく美味しそう」
「でしょでしょ?」
こんがりふんわり形よく焼けたレモンケーキを窯から取り出して、あたしはにっこりと笑った。
後ろからのぞき込んでいたお母さんが、ふふ、と口元を緩める。
「またエリク様とお出かけ?」
「……う、うん」
「エリク様によろしくね。失礼のないようにね」
「わかってる」
言ってあたしは、愛用しているエプロンを取り外した。キッチンの壁にかけて、自室に入る。
焼き立てのレモンケーキはラッピングする前に冷ましておかなくちゃいけない。
その間にあたしは、身支度を整える。
クロゼットからお気に入りの花柄のワンピースを選んで、袖を通す。
髪は丁寧に結びなおして、お兄ちゃんに買ってもらった赤いリボンで結び目を飾った。
お化粧はほんの少し。
おしろいをはたいて、口紅を薄く引く。
よし。完璧、かな。
最後に、姿見の前に立って、おかしなところがないか入念にチェックする。
これで終わりだ。
そうして冷めたレモンケーキを切り分けて、二つほどラッピングする。
「行ってきます」
お母さんから借りたハンドバックをもって、あたしはその日、家を出た。
エリク様は伯爵家のご出身ということもあって、ご自身の仕草も連れて行ってくれるお店もすべてが優雅で気品にあふれている。
だからあたしも、それに釣り合うように振る舞いたいと思った。
レストランでは、背筋をぴんと伸ばしてみたり
洋品店では、下町育ちだってばれないように喋るのを控えてみたり。
「楽にしていいのに」
とエリク様は仰ってくれるけど、エリク様を前にすると、どうしても平静ではいられなかった。
さりげなく腰に添えられる手とか。
時々耳元で囁かれる冗談とか。
かと思えば子供みたいに無邪気な一面があったりだとか。
エリク様の一挙一動に、あたしは胸をつかれてやまなかった。
きゅんきゅんが止まらない。
どうしよう。大好きだ。
エリク様に近づきたいと思えば思うほど、あたしはどうすればいいのか分からなくなった。
そもそも、好きだ!と衝動のままに告白してしまって、エリク様が「僕も」と仰ってくださって
奇跡みたいな偶然が重なって付き合えることになっただけで。
本当は、身分違いもはなはだしすぎることだった。
お兄ちゃんが、言っていた通りに――。
でも、好きになってしまったのだから、しょうがない。
あたしはエリク様にふさわしい女になるよう、努力あるのみだ!
なんて、意気込んでいた。
けれど。
「あら?エリク様」
「……ジェシカ?久しぶりだね」
公園のベンチでふたりで休んでいる時だった。
日傘をさした白いドレスの女性が、あたしたちの前を通り過ぎようとして、ふと立ち止まった。
誰かしら、と見上げれば、女性と目が合う。
にこりと微笑まれた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
あたしは慌てて頭を下げる。
女性の後ろには、侍女らしい人がいて、彼女自身の身分の高さを物語っている。
きっとこの人もエリク様と同じ、貴族なんだろう。
ドレスと同柄のレースをあしらった白い手袋が、輝いて見えた。
(指、細いなぁ)
隣のエリク様が言った。
「ピクニックかい?」
「ええ。これから妹たちと合流しますの。エリク様もいかが?」
「無粋だな」
「あら、まあ。そうだと思いましたわ。可愛い恋人ね。お邪魔して御免なさい」
くすくすと笑う声まで、上品だった。
「でも、エリク様ったら、この頃夜会にお見えにならなくて、妹たちも残念がってますのよ」
「うん。まあまた、近いうちに行くよ」
「口ばっかり」
肩をすくめて、それから女性は後ろに控えていた侍女さんと、そのまた後ろにいる従僕さんらしい人たちに目配せした。
「お菓子、たくさん作ってまいりましたの。宜しかったらそちらのお嬢さんと分けてくださいな」
と、従僕さんたちがテキパキと持っていたバスケットを開いて、中からケーキやクッキーを取り出して、小さなバスケットに詰めなおしたものをエリク様に渡した。
「君のところは、菓子職人がいるんだったね。羨ましいよ」
「ふふ。わたくし、お菓子には目がありませんの」
女性は笑ってゆっくりと会釈する。
「では、ご機嫌よう。エリク様、かわいらしいお嬢様も」
「ああ、また」
女性を見送ったエリク様の膝上には、一流職人さんの作ったお菓子が山盛りになっていた。
カップケーキにクッキーにモンブラン。
どれも手が混んでいて、芸術品みたいに美しい。
「ラッキーだったね。リリアナ。一緒に食べよう」
「は、はい」
驚かせようと思って、レモンケーキを作ってきたことを言わなかったあたしが悪かった。
でも、こんなにきれいなケーキを前に、どうして飾り気もない茶一色のケーキなんて出せただろう。
いいもん。これは、帰ってお母さんと食べよう。
最近はお兄ちゃんもよく帰ってくるし。
日も、持つし。
誰にするでもない言い訳をあれこれと並べ立て、あたしはエリク様と貴族女性からもらった菓子をわけて食べあった。
とても美味しかったのに、心は晴れない。
追い打ちをかけたのは、そのあとだった。
「よかったら、プレゼントさせて」
洋品店に入ったあたしに、エリク様はあれもこれも似合うといって服をいくつも買おうとしてくれた。
「そのワンピースもよく似合ってるけど、色んなリリアナともデートしたい」
お兄ちゃんからプレゼントしてもらった花柄のワンピースは、あたしの一番のお気に入りで、持っている中で、一番きれいでもあった。
だから、しょっちゅう着ていたことがよくなかったのかもしれない。
経済的な面もあって、あたしはそう何着も服を欲しいとは思わなかったけれど。
エリク様は、何度も同じ服を着てくるあたしを恥ずかしいと思っていたのかも、しれない。
手袋のひとつもしたことがないあたしを、変に思っていたのかもしれなかった。
育った環境が違いすぎる。
お兄ちゃんの忠告の意味が、やっと、わかった。
お兄ちゃんは騎士団に入って、直にエリク様たちの生活を見ていたから知っていたんだ。
あたしたちとは、違いすぎるって。
あたしは分かったつもりでいて、実のところ、ちっともわかっていなかった。
そう思うと、エリク様と会うのが怖くなった。
エリク様に恥ずかしい思いをさせているかもしれないと思うと、怖くなった。
最初から、お兄ちゃんの言うことを聞いておけばよかったのに。
だからあたしは、別れを決意した。
まだ傷の浅いうちにと。
今なら、いい思い出として残せる気がして。
エリク様はなかなか承知してくれなくて、結局最後は喧嘩みたいになってしまったけど。
これで、終わり。
ごめんね、お兄ちゃん。
それと、ありがとう。
以上。
これが、あたしの初恋でした。