1.お兄ちゃん、うっかりする
どんなにうまそうに見えても
いい匂いがしても
腹ペコでも
それが毒だと知っていたら、誰も食べようなどと思わないだろう。
「ねえ、お兄ちゃん」
だから妹よ。
兄からの忠告だ。
「エリク様って、恋人、いるのかな」
そいつにだけは、手を出すな。
確かに見てくれはいいかもしれないが
そいつは、猛毒中の猛毒なんだ。
★ ★ ★
「あれ?ジェイド、もう帰るの?」
……くそ。
面倒な相手に見つかってしまった。
夜の王宮の廊下でぴたりと立ち止まった俺は、ゆっくりと振り返る。
「悪いかよ」
俺の人相はすこぶる悪い。
街を歩けばチンピラと誤解されるし、子供には泣かれるし、視線はそらされる。(職業上、役に立つことの方が多いので、それはそれとして良かったのだが)
だからこうして睨みをきかせれば、大抵の人間は蒼白になって逃げていくものだった。
しかしこの男――エリク・リ・ノーシュハイドだけは違った。
「別に悪くはないけど。まだ料理も酒もあんなにあるのに、珍しいなと思って。パーティーってなったら、いつもは飢えた野良犬みたいにがっつくじゃないか、君」
「誰が野良犬だ!」
「はは。いい突込み」
朗らかに笑ったエリクに、苛立ちが増していく。
「お前こそ戻らなくていいのかよ。女どもが待ってるんじゃないか」
(だから、さっさとどっか行け)
念じて睨めば、普段の軍服を脱ぎ捨て、ホワイトグレーの燕尾服に身を包んだエリクは、しかし「うーん」と煮え切らない態度を返してくる。
うーん、じゃねえんだよ。
俺はお前みたいに暇じゃないんだとがなりたくなるのを必死に抑える。
奴と喧嘩をする時間など、今夜はなかった。
「なんか疲れちゃって。ちょっと休憩」
「おうおうそうか。だったらあっちにベンチがあるぞ。行ってこい」
そして永久に休め。
言った俺に、エリクは少し不満そうに唇を尖らせる。女児か、お前は。
「なんでそう僕を邪険にするんだよ。まあ確かに?僕は貴族、君は平民。身分と育ちは違うといえ、今は同じ騎士仲間じゃないか。仲良くしよう」
「よし、喧嘩ならあとで買ってやる」
「今にしようよ」
王子様然とした見た目に反し、意外と好戦的なエリクは両目を細める。
伯爵家子息でありながら、王立騎士団のエリート枠――第一騎士団に所属しているだけあって、奴の腕は本物だった。(ちなみに俺も第一騎士団所属だ)
「移動する?」
エリクの薄い金色の髪が夜風になびき、整った顔が月光に照らされる。
街を歩くだけで敬遠される俺と正反対なエリクは、ただそこにいるだけで好意を集めた。
女たちとの噂が絶えることはなく、エリクもまたそれを楽しんでいるようでもあった。
その軽薄さが、俺の警戒を買っていることも知らず――。
と、その時だった。
「ジェイド様!」
料理番のひとり、小柄なみつあみ少女のメリーサが両手に胸いっぱいの荷物を抱えて走ってくる。
「よかったあ!こちらにいらしたんですね!はい、これ」
調理場から駆けてきたのだろう。
頬を上気させたメリーサは、抱えていた特大のバスケットを俺に突き出す。
「お、おう。悪かったな」
「いえいえ」
バッドタイミングだった。
エリクの視線が、メリーサから受け渡されたバスケット――今晩のパーティーに出た料理や林檎酒――に痛いほど注がれている。
あとで取りに行くって言ったのに。
気の利かせ方が最悪だ、メリーサ。
「あ、ケーキと、フルーツと、それから日持ちのする塩漬け肉とかもたくさん詰めときましたから!」
「お、おう。助かる、ぜ」
もうやめろ。やめてくれ、メリーサ。
エリクが物珍しそうに俺とバスケットの料理を交互に見てくる。
「なに、これ?」
とうとう聞いたエリクに、メリーサが溌剌と答える。
まるで“溌剌”を体現しているかのような元気のよさと爽快さがあった。
「今晩の豪華なお食事メニューをお弁当にしたんです!あ、別に横流ししてるわけじゃないですよ?ちゃんとジェイド様からお代金は別にいただいてますから!」
「ジェイド、こんなに誰と食べるの?パーティーを途中抜けしてまで」
「やだあ、エリク様ったらあ。お母さまですよう。今日お誕生日だそうで、これからご実家に戻られるんですよ。ねー?」
「へえ。そうなんだ。お母さん思いなんだね。ジェイド」
「……まあな」
メリーサよ。
初対面の時、あんなにも俺を怖がっていたお前はどこへいった。
よくもまあぺらぺらと個人情報を喋りやがって。
「本当はもっと早く帰宅されたかったみたいなんですけどお、今日はほら、王女様のお誕生日会と重なってしまったでしょうー?それであえなく我慢してらっしゃたんです」
「ふうん?」
「ほらほら、ジェイド様!早く帰ってあげませんと、お母さまお待ちかねですよう!」
まったく俺の気持ちを察してくれないメリーサは、自分ではグッジョブくらいに思っているのだろう。俺の背中を押し始めた。
「ジェイド、実家に戻るんだ。王宮から近いの?」
「果てしなく遠」
「そんなに遠くないですよー?王都の西の方でしたかしら?」
なんだこの女。
料理の腕だけは確かだが、死ぬほど俺の気持ちを察してくれねえ。
エリク以上に相いれない。分かり合えない。
これ以上情報をばらされる前にと、俺は背をむける。
「じゃあ、そういうことだから」
と、エリクの声が耳に届いた。
「ジェイド、いつ戻るんだ?」
「……明後日」
「ごゆっくりしてきてらしてくださいねー!」
「ねー!!」
エリクが、メリーサの声色を真似て笑う。
くそ。
いつかこんな仕事辞めてやる。
給料だけが無駄にいい、逆を言えばそれしかメリットのない、騎士職なんか……!
★
俺が騎士職についたのは十四の年だった。
街で悪童と喧嘩をしていたところ、その腕を買われて、運よく騎士に登用された。
十九になった今では、実力順に七つ編成されている一番上――第一騎士団まで上り詰め、そこそこの地位にあった。
ただし、地位には責任がつきもので、俺は王宮に据えられた軍の宿舎での生活を余儀なくされていた。いつでも不測の事態に備えられるように、である。
だから、こうして実家に帰るなど外泊をする際は事前に申請がいった。
面倒だが、規則だから仕方がないし、相応の給料は貰っているのだから致し方がなかった。
煌びやかな王宮を出て、下町に降りるのは三か月ぶりだった。
懐かしい路地を通り、せせこましい道をたどる。
やがて見えてくるのは、住み慣れた古い住宅街だった――。
「ただいま」
ぎ、と塗装のはげかけた実家の玄関扉を開けると、中から明るい声が飛んできた。
「お帰りなさい!お兄ちゃん!」
「おう、リリアナ。いいこにしてたか?」
笑顔で走るようにやってきた妹に、俺はにっと笑いかける。
妹――リリアナは、もう、と頬を膨らませた。
「子ども扱いしないでってば。あのね、あたしもう十六なのよ?」
「ああ、悪い悪い」
(十分子供だっての)
さきほどエリクがしたのと似たような仕草だったが、その愛らしさには、天と地ほども差があった。
身内の欲目もあるのだろうが、単純にリリアナは可愛かった。
猫みたいなまるい黒目に、小さな顔、整った目鼻立ち――。
小さな頃から天使のようだったリリアナは、街を歩けば大人たちを和ませ、買い物に行けばオマケにと菓子や玩具を贈られていた。
最近は、色気づいてきた近所のガキ共がリリアナにちょっかいをかけているようで(情報提供は近隣の主婦だ)、兄としては見過ごせない、ゆゆしき事態でもあった。
今日は柔らかな茶髪を、耳の下で二つにくくり、結び目を赤いリボンで飾っていた。よそ行きの花柄のワンピースは、前回俺が帰郷した際に買ってやったものだった。
母の誕生日だからと、珍しくめかしていたのだろう。
もっと早く帰ってやればよかったと、もどかしく思う。
「ほら、土産だ」
「わ!こんなに?ありがとう、お兄ちゃん!わ、お菓子もあるー!」
「母さんと食えよ?ひとりで食ったら太るぞ」
「わ、わかってるわよ」
ぱたぱたと部屋の奥へ走っていくリリアナを追いかけながら、俺も平服用の上着を脱いだ。堅苦しい軍服は、宿舎に置きっぱなしにしてある。あんなもの、仕事中だけで十分だった。
「おい、そんなに走ったら転ぶぞ」
「だから、子供扱いしないでってば」
そうして見知った居間に入れば、台所に立っていた母が、振り返る。
「お帰り、ジェイド」
「ただいま、母さん。変わりはなかったか?」
「なんにもないよ。それよりお前、無理して帰ってきたんじゃないかい?」
前掛けで手をふきながら、母は言った。
「わざわざ戻ることなかったのに」
「そんな言い方ないでしょ、お母さん。お兄ちゃんせっかく戻ってきてくれたのに」
と、リリアナが土産のバスケット食卓に乗せる。
「ほら見て。お兄ちゃんてば、こんなにお土産買ってきてくれたのよ?」
「あらまあ本当。ジェイド、やっぱり無理してるんじゃないの?」
バスケットから出てくる豪勢な料理の数々に、母はさらに心配そうに声をあげる。
「毎月の仕送りだけでも大変なのに」
「あんなの大したことねえって」
俺は言いながら、四人掛けの使い古されたテーブルにつく。
「お兄ちゃん、お腹空いたでしょ?すぐに用意するから」
「ああ」
「お兄ちゃんの好きなシチューもあるよ。お母さんと作ったの」
ワンピースが汚れないようにと、リリアナはエプロンをして台所に立つ。
立ち上がろうとする母に「お母さんは休んでて!」とびしりと言って、テキパキと食卓の準備をすすめた。
その後ろ姿に、俺はちょっぴりしんみりしてしまう。
ああ本当に、あの小さかったリリアナは成長してしまったんだなと。
嬉しくもあり、寂しくもあった。
俺たちの家族に、父親はいない。
彼は、俺が十歳、リリアナが七歳の時に、病に倒れ天国へ旅立ってしまった。
以来俺は、父の代わりに母と妹を守らねばという責任感に追われていた。
街の悪童と喧嘩をしていたところ、その腕を見込まれ、騎士団にスカウトされた時はしめたと思った。騎士団といえば、危険は伴うが、代わりに高給であることで知られていたからだ。
それからは、貴族のような、とは言えずとも、食う寝るに困ることはなくなったし、妹が欲しがればちょっと値が張るワンピースでも与えてやれるようになった。
節約の鬼であるリリアナは、収入が増えたからと言ってあまり贅沢をする気にはなれないようだけれど、なるべく、窮屈な思いをさせたくなかった。(仕事なんていつなくなるか分からないんだからね、がリリアナの口癖だ)
少し生意気だけれど、とても働き者で、明るいリリアナ。
リリアナが幸せになるためなら俺は、いけ好かない同僚がいる騎士団でも、歯を食いしばって耐えるつもりだ。
この大切な家族を守るためなら――。
「はーっくったくった」
「さすがはお姫様のお食事ね……すっごく美味しかった。お肉なんて、とろけそうだった」
「本当だね。なんだか母さん、シチューなんか作って恥ずかしいよ」
「でもお母さんのシチュー、お兄ちゃん全部食べちゃったよ」
空になった鍋を下げながら、リリアナが笑う。
「本当かい?」と母が苦笑した。
「気を遣うんじゃないよ?気持ち悪い」
「気なんか遣ってねえよ」
俺は少し恥ずかしくなって、目線をそらす。
料理を少し持って帰る、と帰郷前に出した手紙に書いたまでは良かったけれど、メリーサがここまではりきってくれるとは思わなかったのだ。
三人では食べきれないほどの料理にくわえ、保存食まで用意してくれるとは――。
しかし、本当にこれは事前に渡しておいた代金で足りたのだろうか。
城に戻ったらメリーサに確認しておこう。
そう決意した瞬間だった。
「?誰だろうね」
玄関の方から扉を叩く物音がして、母が顔をあげる。
俺はちらと壁掛け時計を見やった。
「押し売りにしても、まともな時間じゃねえな」
俺は訝しんで立ち上がる。
王都の治安はけして悪くはない。が、この家が普段は女二人暮らしだと知った何者かが、よからぬことを考えないとも限らなかった。
「誰?お客さん?」
「お前は母さんとここにいろ」
リリアナがついてこようとするのを制し、玄関に向かう。
と、狭い扉の前に起った途端、見計らったようにもう一度扉が叩かれた。
「ごめんくださーい」
「……!!」
届いた男の柔らかな声は、聞き覚えのありすぎるものだった。
「こちら、ジェイド・ハーティスさんのお宅で間違いないでしょうか?」
「……」
「家族団欒中に申し訳ございません。あけてくださいます?」
「……家、間違えてると思いますよ」
俺は精一杯声色を変えて、囁く。
無駄だったが。
「ああ、よかった、ジェイド。僕だよ。君の親友のエリクだ」
「誰が親友だ」
俺は扉に詰め寄ると、小声でかえす。
「なにしに来た」
「とりあえず開けてよ。話はそれからだ」
「用件を言え。そして帰れ」
「冷たいなあー。せっかく記章届けに来てあげたのに。王宮の廊下に落ちてたよ。盗まれたら大変なところだったよ?」
記章?
言われて俺は、左胸に手を当てる。ああ、軍服じゃなかったと思い出して、ズボンのポケットをさぐり、そうしてそれがないことを確認した。
身分を証明するそれを紛失したとあれば、罰則罰金始末書は免れない。
「ここ開けてくれないなら、これ、どっかに落としちゃおうかな」
「返せ」
「じゃあ開けてよ。で、お母さまのお誕生日会に僕も混ぜて」
「残念だな。もう終わった」
「ええ、早い……!」
「じゃあ帰ろうかな」と元気をなくしたエリクに、俺はほっと胸をなでおろす。
こっそりと玄関扉を開けた。
エリクは一人きりでやってきたようで、背後には誰の姿も見当たらない。
貴族の坊ちゃんよろしく、いつもは誰かしらの共を連れているこいつには珍しいことだった。
奴から記章を受け取りながら、俺は首を傾げる。
「悪かったな……でも、わざわざお前じゃなくても、下っ端に届けさせればよかったのに」
「まあ。部下を信用してないわけじゃないけどさ、大切な親友の大切な物だしね」
僕が届けたかったんだ、とエリクは微笑む。
(……まあ、根はいいやつなんだよな、こいつ)
ちょっと鬱陶しいけど。
俺はゆっくりと首の後ろをかいた。
このまま帰させるのは、さすがに良心が痛む。
まあ、茶のいっぱいくらいは――
「お兄ちゃん?お客さん帰ったの?誰だった?」
と、背後から軽やかな足音が届き、目の前ではエリクが両目を瞬せた。
「やだ。まだいらっしゃるんじゃない。こんばんは」
「こんばんは。夜分にすみません」
エリクが俺の横に並んだリリアナに、小さく微笑む。
「……っ」
と、リリアナが奴の笑顔に見惚れるのが、わかった。
これまでも何人もの令嬢やらメイドも、そうして奴に心を奪われた。
そして、最後は――。
くそ。
油断していた。
久しぶりの帰郷と、満腹感で。
「可愛いね。……ジェイドの妹さん?」
俺はしばらくの間、この夜を後悔しない日はなかった。




