追憶
ユースフと親父と、今は亡き人。そして碧の少女。
* * * * * *
親父に叱られたあと、俺はおとなしく仕事に戻った。
客が来た時はお茶を出すのが見習いの仕事だ。
爺さんと親父が値段交渉を始めたので、チャイグラス二つに甘いミントティーを淹れて二人の下に運ぶ。
しかし。
「なっ…!60ディーナールだと!?ボロ机のくせに新品よりも高いじゃないか!!」
「確かに古い机だが、家具の価値は骨董的価値で測られる。古びた机ほど味が出てくるものさ。この机の色合いと艶をよーく見てみろ。新品の机でこんな美しい色のものはない。」
…そこは銃弾の代わりに怒鳴り声の飛び交う戦場と化していた。
今日は一段と、交渉に気合が入っている様子だ。
お茶を持って間に割り込むのは不可能だ。
頭に血の上った今の二人は、せっかく持ってきたお茶をお互いの頭にぶちまけかねない。
二人の戦いを高見の見物しつつ、用意したミントティーは自分で飲むことにした。
唾を飛ばして口汚く罵り合う大人たちをよそに濃厚な甘味とミントの香りを味わう時間は至福だ。
「はっ!悪いが細かな傷がいっぱい入っている事しか目に入らんね!骨董だあ?使い古しという言葉を言い換えただけだろう!」
「家具は使い古せば使い古すほど輝きを増すんだ。どこかのジジイとは違ってな。この透き通るような深みのある色が分からないか!透明感のある黒色にオレンジの輝きが混じっているだろう?しかも蛋白石<オバール>のように、見る角度によって違う色の輝きを放つ。天板側面のさりげない花の彫刻も実に凝っている。」
「…あいにく老眼でね。ボロ机にしか見えん!」
「本来ならば60ディーナールに加えて商品に無断で触れた分の罰金も払ってもらうべき所だ。」
「俺は商品に傷なんか付けてないぞ!しかも触った商品をこうして買おうとしているじゃないか!さっき殴った分でもまだ足りないかこのゴーツク!」
「うちの息子を誑かして店番をサボらせた分も請求したい所だな!」
「ちょっと位いいじゃないか!何て心の狭い!」
…その後約一時間にわたる壮絶な値段交渉<たたかい>の末、最終的に爺さんは机を50ディーナールという新品並みの値段で買わされた。
苦々しい顔をした爺さんと、してやったりという笑顔の親父の好対照が印象に残っている。
押しの強いアーディル爺さんがここまで言い負けるのは珍しく、この日はジュバイル古物商店の戦勝記念日として長らく記憶されることとなった。
ちなみにその日、爺さんに誑かされて店番をサボった俺は親父から小一時間の小言を喰らった上に夕飯抜きの刑に処されたので、全くもって目出度い日とは言い難かった。
長々しい親父の説教が終わった後、俺は頃合いを見計らって、爺さんが話してくれたアインジャールートの成り立ちについて親父に話してみた。
しかし…
「あのジジイがどれだけ歳食ってて性根が曲がってるかは知らないが、100歳は超えてない筈だ。
交易が始まったのは何百年も前。俺の爺さんの爺さんが生まれる前ずっと前から、うちは交易をやっていたさ。ジジイが生まれる遥か昔からな。
ジジイは交易が始まった時に生まれてもいなかった上、そんな大昔の交易の始まりについて記録なんか残ってないだろうから、ジジイが知っている筈はない。
いつものホラ話か、当てずっぽうだ。」
一蹴されてしまった。
なんだ、ホラ話か。
こっちはこうして説教と飯抜きを喰らうリスクを冒してまで爺さんの話を聞いたのに。
腹が立ったので、その後一週間は爺さんに声を掛けられても無視し続けた。
道端でばったり出くわしても他人の振りをし、店に来た時も一切声を掛けないように心掛けた。
向こうから声を掛けてきた時は顔を背けた。名前を呼ばれたら走って逃げた。
無視し続けて一週間後。
爺さんは店に来たとき手土産に胡桃菓子を持ってきた。
とうとう俺は根負けして爺さんを許してやった。
菓子の誘惑に負けたというのもあったし、実のところ爺さんの無視をいつやめたものか、タイミングに困っていたのだ。―爺さんもそれを察していたのだろう。
俺が渋々といった振りで好物の胡桃菓子に手を伸ばすのを、爺さんはにこにこと眺めていた。
◆ ◆ ◆
アーディル爺さんの所から戻ってきた黒檀の机を布巾で拭きながら、俺は爺さんがこの机を買っていった時のことを思い返していた。
もう6年も前になるか。懐かしい。
爺さんがこの店に来ることはもうない。
数日前、爺さんの遺族から形見の品を引き取って欲しいという連絡があった。
訃報を聞いた当初、殺しても死ななそうなほど元気だったあの爺さんが風邪をこじらせて死んだという話はちょっと信じられず、今にも爺さんがひょっこり店に現れるような気がしてならなかった。
しかしこうして爺さんが死んだという証拠―爺さんが持っているはずのものがここにあるということ―が目の前に並べられているのを見ると、嫌でも現実を受け入れざるを得ない。
遺品整理は故人の死を理解させるという意味も含んでいるという話は本当のようだ。
ぼんやりしていると、背後から足音が聞こえてきた。
袖で目元を急いで拭う。
「ユースフ。今いいか?」
しゃがれた声に振り返ると親父と目が合った。
…親父の方も、少し目が赤い。爺さんとは毎日のように派手に喧嘩していた仲だったのに。
「うん。どうした?親父。」
「ジジイの遺書を見つけた。…お前宛だ。」
親父は俺に小さな四つ折りのメモ紙を差し出した。
俺の宛名が書かれていることと、紙が麻紐で縛られ、蝋で封されていることから辛うじて手紙としての体裁が整っている。
「ありがとう。」
「そんじゃ。ちゃんと読んでやれよ。それから、遺品整理もいいがちょくちょく休め。」
言い残すと、親父は背を向けて歩き去った。
手元に残された小さな紙に目を落とす。宛名の下に、爺さんの死の前日の日付けが書かれていた。
爺さんは人生最期に、俺なぞに一体何を伝えようとしたのだろうか。
封を解いてメモ書きを開いてみる。
「…なんだこれ。」
メモ書きを開いて真っ先に目に飛び込んできたのは、黒いインクで大きく描かれた中々巧みな薔薇の花の絵だった。
「(これ爺さんが描いたのか?今まさに死のうとしている時に?)」
薔薇の下には文があった。
「…ユースフへ。
お前の親父さんに伝えろ。ジジイの勝利だとな。
品物が店に届いている筈だ。隅々にまで目を凝らせば、俺の言っている意味が分かるだろう。
さぞ、悔しがってのたうち回る事だろうな。
それからお前さん自身には、碧<みどり>の娘のことを託したい。
やんちゃだが、悪い娘ではない。
どうか一緒にいてやってくれ。
アーディルより。」
爺さんが勝利した?親父に?
それにこの薔薇の意味は何だ?
それに、この―
「碧の娘…。」
よく分からないが、俺はその娘の面倒を任された、のか?
「いや、どういう事だよ…」
途方に暮れて俺は独り言ちる。
周囲には誰もいない筈なのに、どこからかくすくすと若い娘が笑う声が聞こえてきた、ような気がした。
推理(※擬き)パートの始まりです。
推理の材料は一応本文中に書いてあります。