はじまりの地
ユースフの過去です。
これから数話に渡り、彼が旅に出た理由を書いていく予定です。
目を閉じれば、未だにその時の事を思い出す。
◆ ◆ ◆
俺が8つの年だった頃。
「なあユースフ。この町がどうやって出来たか知ってるか?」
聞き馴染んだ低くてよく通る声を聞いて、俺は背後を振り返り、声の主を仰ぎ見た。
浅黒い肌に白い髭の顔見知りの老人が、欠けた歯を見せてこちらに笑いかけている。
俺は首を振ってみせた。
「しらない」
「こっちにおいで。昔話を聞かせてやろう。」
老人のしわしわの手が、小さな古物商店の一角 ―彼が座る黒檀の六角卓の、向かいの席を指し示す。
…その机はうち〈古物商〉の商品なのに。
そう思いながらも俺は、爺さんの話への期待と微かな背徳感から、言われた通りその商品の椅子に腰掛けた。―俺は駆けっこよりも昔話を聞く方が好きな、珍しいタイプの子供だったのだ。
「じじい、話ってなに?…またいつものホラ話?」
「ホラ話なんかじゃないぞ。あとじじいじゃなくてじいじって呼ぶんだぞ。」
「でも父さん、いっつもあんたの事クソジジイって言ってるもん。」
「…あんのクソヤロウ…ダメだぞユースフ。あいつの言葉遣いなんか真似すると、下品になるぞ。」
爺さんーアーディル翁はここの古物商店の店主である俺の親父に毒づく。
しかし下品なのはこの爺さんも同じだ。
アーディル翁とうちの親父は店の常連と店主の関係で、値切り交渉を通じた長年に渡る敵同士。
すこぶる仲が悪いのだ。
「…で、ここの町がどうかしたの?」
ぶつぶつと親父の悪口を呟く爺さんにさっさと本題を話せと促す。
「おおそうだったな。いかんいかん、奴のせいで本題を忘れる所だったわ。」
いいか?耳の穴かっぽじってようく聞くんだぞ?
「…これは遠い、遠い昔の出来事だ。」
良く通る声が潜められ、昔話が始まった。
◇ ◇ ◇
「この町ーアインジャールートは、今では近隣国との交易が盛んな賑やかな町だ。
しかし交易が始まる以前、ここいらの地方には何もなかった。
「土地は農耕に適さず、土地に資源が埋もれている訳でもない。
あるのは大量の砂と石礫だけだった。」
爺さんの言葉で、町の時間が巻き戻っていく。
爺さんの白い髪と髭が一瞬で黒く変わり、深く刻まれていた顔のしわが消え、彫りの深い顔立ちの青年の姿に変わる。
同時に古物商店の店内に溢れかえっている陶磁器や金属器や装飾品、家具、がらくた、時計やら額縁が全て砂に変わり、さらさらと地面に崩れ落ちた。
店自体もすぐに、後を追うようにしてバラバラになる。
ー無事なのは俺と青年が座る小さな卓だけだ。
辺りを見渡してみる。古物商店だけではなくアインジャールートの町全体が跡形もなく砂に却ってしまったらしい。
見慣れた町の光景に代わって立ち現れたのは、360°見渡す限り、赤い砂と石ころだけの地面が延々と続く荒野だった。
荒野に一陣の熱風が吹き荒び、俺の被っていた帽子が飛んで行く。向かいに座る青年の黒髪と衣もばたばたとたなびいた。
青年は乱れる髪を軽く押さえて笑み、若返った張りのある声音で昔語りを続ける。
「しかし、誰が価値を見出すものかと思われるこの荒涼とした大地にも人間はやって来た。
その人間は元々住んでいた土地を焼かれたのかも知れないし、追放の憂き目に遭ったのかも知れない。
「ともあれ彼らは苦労してこの地に井戸を掘り、まばらに生えた草で家畜を育て、その肉と乳で細々と生活した。
…これは所謂、遊牧という生活様式だ。」
青年の背後に数人の人影が見える。
子供から大人まで一様に襤褸を纏い、痩せこけたヤギの群れを棒きれで追い立てている。
「厳しい環境の中休みなく働いても遊牧の民たちは貧しく、飢え死にしないためには時に周辺の集落を略奪する必要さえあった。
けれどあるとき転機が訪れる。
遊牧民の誰かが、北の町と南の町で略奪できる品が違うという事に注目したのだ。」
青年が指で指し示した先には、駱駝に乗った武人の姿があった。
片手には剣、背には弓と矢筒。
戦闘で怪我をしたらしい。腕に血塗れの包帯を巻き、駱駝共々憔悴した様子だ。
手負いの武人は俺たちにゆっくりと歩み寄ってきた。
武人を近くで見ると、剣を持っていない方の腕には、そのみすぼらしい身なりに不釣り合いな輝く金の塊を大事そうに抱えているのに気が付いた。
虎穴に飛び込んで得た虎の子だろうか。
至近距離ですれ違い様に、武人が金の塊を見つめながら呟くのが聞こえた。
ー北は塩が豊富で金に乏しい。
南は金が豊富だが塩に乏しい。
「そこでその遊牧民は、南で略奪した金を試しに北へ持って行き売りさばいた。
…金に乏しい北の町で、南から持ち込んだ金は見たこともないような高値がついた。
「更に、その遊牧民は頭が切れた。北の町で金を大量の塩と交換したのだ。
そしてその塩を持って、塩の少ない南の町へ赴いた。…今度は略奪者としてではなく、取引相手として。
「結果その塩は、以前南の町で略奪した時の数倍の量の金と交換できた。ーしかも戦闘で傷つく事もなく。」
駱駝に乗った先ほどの武人が、南の町の城壁の門をくぐって此方に歩いてきた。
武人はぽかんとした表情をしている。
武人の駱駝を見ると、巨大な荷鞍一杯に金塊が山と積まれていた。
そのうち、武人はふるふると小刻みに震え始める。
震えは大きくなっていく。もう堪えきれない。
やがて砂漠に爆笑が谺した。―今まで飢え、渇き、時には手を血で汚してきた苦労は一体何だったんだー心の声が聞こえてくるような笑い、金鉱を掘り当てた冒険者そのものの笑いだった。
「…このように、南で安く仕入れた品を北で高値で売り、北で安値で仕入れた品を南で高く売る事で、貧しかった遊牧民たちは莫大な利益を手にする事になった。」
人から奪うのではなく、人と人を結びつける。
その発想こそが交易の始まりだ!
両手を掲げ、高らかにそう宣言する青年を、8歳の俺は尊敬を込めた眼差しで見上げた。
「すごい! ねえ、交易を始めたその人って何て名前なの?」
「それは知られていない。それに、一人で交易という商売を考えついたとも限らない。…過去には、こんな風に途轍もない業績を挙げたのに名が知れていない偉人たちが大勢いるんだ。」
「えー?かわいそう!」
「そうだなあ。今の時代の人間に分かる過去ってのは、膨大な過去の中のほんの僅かな部分しかないんだ。…救いあげられなかった残りの過去は、過去を知る人がいなくなれば、永遠に忘れ去られてしまう。」
「じゃあ僕が過去を調べて、記録して忘れないようにする!」
「おお!頼もしいな、ユースフは!」
青年はにっこりと笑う。
…と、その背後に黒い大きな影がぬっと姿を現した。
直後。
ばこっ!…という音とともに青年の顔が机に沈められる。
すると青年の姿はしゅわしゅわと崩れ、見慣れた老人の姿に戻った。周囲の砂漠も立ち消えて、見慣れた店の風景が蘇る。
拳骨で後頭部を殴られ、顔面を卓にぶつけたアーディル爺さんは涙目になって苦悶の呻き声を上げる。
その次の瞬間、俺自身の顔面も同じ音と共に机にめり込んだ。
視界に火花が散る。
「お前ら、うちの商品の机で何くつろいでんだ。」
黒い影――古物商店店主である我が親父が、仁王立ちして俺たちを睨みつけていた。
背景にゴゴゴ…という効果音が見える。
鈍く痛む後頭部と顔面を手で押さえながら、俺は死を覚悟した。
今回の話は冗長過ぎたかなと思います汗
8歳児ユースフは素直に爺さんの昔話を聞いてあげていますが、多分普通の8歳児なら途中で逃げ出すだろうな…などとと書きながら考えていました。
ユースフは物語や昔話が大好きな文系男子です。
もしも現代に転生したら、確実にヲタと呼ばれる人種に育つのだろうと思います。
ちなみに、爺さんが語っている最中に出てくるイリュージョンは魔法ではなく、ユスフの想像の産物です。
次話は、今回の話の6年後になります。14歳ユースフの話です。