第316話
アースシーの夜空には、紅い月が浮かんでいる
月齢は30日周期で、元々の暦は月の周期に合わせていた
それが太陽の周期を扱った暦に変わったのは、帝国が魔導王国を滅ぼしてからだ
それからは太陽が主役となり、いつしか月は女性を現わす存在となっていった
だから紅い月は、女神の流した血の涙と表現される事もあった
普段は淡い朱の輝きを放っていたが、今夜の月は紅く輝いていた
王宮ではほとんどの者が眠っていて、月の異常には気が付いていなかった
ギルバートも最初は、そんな月の異変には気が付いていなかった
少し赤いなとは思っていたが、自分が酔っているからだと思っていたのだ
しかし異変に気付いた者は、その異様さに戦慄を覚えていた
「まさか…」
王都から遠く離れた、竜の背骨山脈にある邸宅で、その男は呟いた。
男は紅い外套を翻して、部屋の中へ戻って行った。
ここは竜の背骨山脈の中でも、公道から離れた山中に建つ建物だった。
男は長くここに住んでいて、今も一人でバルコニーから空を眺めていた。
「女神が目を覚ました?
しかし今さらなのか?」
男は呟くと、身の回りの物を集めた。
そして無言で部屋を後にした。
男が去った後には、静寂だけが残されていた。
王都では、昨晩の異変が嘘の様に賑わっていた。
通りの店ではワイルド・ボアの串焼きが売られていた。
ここ数日で魔物が増えた影響で、魔獣の発見の報告も増えていた。
ワイルド・ベアの討伐数は少ないので、熊肉の煮込みは少なかった。
しかしワイルド・ベアも少しずつ増えていた。
「そういえば、新しい斧はどうだい?」
「うーん
切れ味は良いんだが、今一振り回し難くてよう
結局剣の方が楽なんだよな」
「そうだよな
アレを使うには、大型の魔物しか無いだろうな」
今日からポールアックスが売り出されたが、冒険者達は購入を見送っていた。
試しに振ってみるが、なかなか思った様に振れないのだ。
そこらの魔物なら、結局はショートソードで手数を増やした方が確実だった。
それもあって、まだまだ売れ行きは伸び悩んでいた。
しかし、兵士達はそうでも無かった。
一部の警備兵達は、さっそく新しい斧の訓練を始めている。
アレが実戦に投入されれば、魔物に近付かれずに倒せる。
城門や公道を守るには、振り回せる武器は魅力的だった。
「冒険者達はああ言っているが、お前はどうなんだ?」
「そうですね
こいつがあれば、以前みたいに城門を破られても安心ですね」
「そ、そうか?」
「ええ
近寄る魔物には振り回せば良いんですから」
「おいおい
オレの周りでは振り回すなよ?」
「はははは
大丈夫だよ、一緒に真っ二つにするから」
「それを止めろと言っているんだ」
警備兵達の中にも、ポールアックスを担ぐ者が数人居た。
彼等は腕力自慢の兵士で、長柄の武器も軽々と振り回していた。
こういう力自慢からすれば、振り回せるかという心配は杞憂だった。
自慢の腕力で薙ぎ払えるからだ。
そんな街中の様子を眺めながら、ギルバートはゆっくりと大通りを進んでいた。
今日は久しぶりに公務も無く、街の中を視察していたのだ。
隣の騎士もいつもの親衛隊では無く、新人の騎士が代行していた。
見習い騎士に、要人の護衛の訓練をさせる為だ。
「そんなに緊張しなくて良いよ」
「は、はひ!」
ガチガチになりながら、騎士達は周囲をキョロキョロと見ていた。
しかし街中は平和そのもので、騎士が警戒する様な出来事は無かった。
ギルバートは苦笑いを浮かべながら、溜息を短く吐いた。
「やはり、昨夜のあれは気のせいだったのかな?」
月が紅く染まる事など珍しい事だった。
普段は色付いていても、精々が薄桃色程度だった。
しかし昨晩の月は、妙に心をざわつかせる紅い色をしていた。
不吉な予感を胸に、王都の巡回をしてみた。
しかしそれは、どうやら杞憂だった様だ。
「先日の様な魔物の群れの報告も無い
騎士団も無事に討伐を終えている」
「そうですね
先輩方が無事で良かったです」
「しかし、懸念材料はあるな」
「え?」
「最近魔物が増えている
騎士団の方でも、ワイルド・ベアが2匹も出たって言うじゃないか?」
「そういえば…
予定外のフォレスト・ウルフも居たみたいですね」
騎士団が討伐に向かったのは、コボルトの群れだった。
群れが平原に出た原因を探っていると、森の中でフォレスト・ウルフに遭遇した。
負傷者を出しながらも、何とかフォレスト・ウルフは撃退した。
しかしその帰途に、ワイルド・ベアが2匹も出たのだ。
「幸い負傷者が少なくて良かったよ
あれで負傷者が多かったら、ワイルド・ベアも倒せたか分からないだろう」
「そういですね
しかし…
殿下はあんな大きな熊の魔物を倒したんですか?」
騎士は目を輝かせて、ギルバートの武勇伝を聞きたがっていた。
「うーん
確かに単独でも討伐はしているよ
しかし身体強化が出来る様になれば、君達にも可能だよ?」
「いえ
無理無理!
あんな大きな熊だなんて」
「いや
大きい分、攻撃を躱せたら隙だらけなんだよ」
確かにワイルド・ベアは恐ろしい魔物だ。
巨体なのに素早く走れるし、何よりも鋭い爪の一撃が恐ろしい。
ギルバートでも身体強化が無ければ、あの一撃は受け切れないだろう。
しかし身体が大きい分、攻撃の後には隙が出来る。
そこを突く事が出来れば、案外簡単に倒せるのだ。
むしろ攻撃力は落ちるが、ずっと動き回るフォレスト・ウルフの方が手強いぐらいだ。
「魔物のランクは個人で戦う際の参考だからね
むしろ私は、群れで来るフォレスト・ウルフの方が危険だと思うよ」
「群れですか?
それならワイルド・ベアも…」
「ん?
それは危険だな
しかし多くても3、4匹ぐらいだよ
それ以上集まっているのは見た事が無いな」
ギルバートが戦った時も、多くても4匹までだった。
それに、他にもフォレスト・ウルフが一緒に居たが、周りで騎士達も戦っていた。
その事が上手く作用して、ギルバートは1対多数で戦う事は無かった。
あれが数体のワイルド・ベアに囲まれていたのなら、ギルバートも切り刻まれていただろう。
「まあ、一度に複数体の魔物に囲まれる事は無い
仲間が一緒に戦ってくれるんだ、大丈夫だろう」
「私にも出来るんでしょうか?」
「まだ自信は持てないだろうね
しかし訓練を続ければ、いずれは討伐する事は出来る
頑張ってみなさい」
「はい」
若い騎士達は声を揃えて返答した。
その姿を微笑ましく思いながら、ギルバートは街中を回り続けた。
王宮の中では、国王が宰相と睨み合っていた。
ここ数日の討伐記録と、魔物の分布図を確認していたのだ。
今日は謁見は行われず、朝から昨日の報告書を確認していたのだ。
そこで魔物の発見数が増えているのに気が付き、もう一度確認し直していたのだ。
「やはり増えております」
「そうか…」
「このままでは、公道の封鎖も考えなければ…」
「冒険者も出すしか無いか」
「ええ
それでも手が足りませんが」
サルザートは難しい顔をして、書類を見ていた。
「昨日の祝日が効いておりますな
数日は討伐を急がせませんと、被害が出ますでしょう」
「ううむ
何とか間に合わんか?」
「バルトフェルド殿がこちらを討伐すると…
そしてこちらは、キルギス殿が向かわれます」
サルザートは地図に記しを付けるが、それでも何ヶ所か残っていた。
「直ちに問題にはなりませんが…
このままでは町や隊商に被害が出ますな」
「ううむ
しかし、騎士団にも休息は必要じゃ」
「そうですね
連日の討伐ではもちますまい」
空いた箇所に騎士団を向ければ、それだけ早く立て直せるだろう。
しかし騎士団も人間なのだ。
そんなに連日では、身体がもたないだろう。
それから数日は、ギルバートも書類の整理に追われていた。
魔物の報告書が届き、魔物が北から移動している事が推察された。
騎士団や冒険者を送り出して、少しずつだが討伐を繰り返す。
しかし魔物の群れは、徐々にだが王都に近付いていた。
「何なんだこれは?」
「魔物の数が異常ですね
一つの群れはそれ程でもありませんが、全体に南下しています」
国王は頭を抱えていた。
一度に討伐出来るのは、精々が2つぐらいだろう。
しかし討伐しても、翌日には新たな魔物の群れが移動していた。
既に北の村では、住民達の避難が始まっていた。
秋に向けて収穫を望まれていたが、これでは魔物に襲われてしまう。
「北の穀倉地帯は諦めるしか無いか」
「そうですね
その分魔獣の肉が入っています
今はそれで、食料の不足分を補うしか…」
サルザートも書類を見て、悲鳴を上げそうになっていた。
今年はまずまずの収穫と見ていたのに、北からの収穫が望めないのだ。
このままでは冬に向けて、食糧難が予測される。
何とか立て直す為に、急遽南に開拓団を向かわせる事になっていた。
「南の平原を今から使うとして
何とか冬までに間に合うでしょうか?」
「分からん
しかし何も手を打たないでいると、食料は不足するじゃろうな」
後は収穫が間に合う事を祈るしか無い。
新たに畑を作る場所には、常設の守備隊を置く事になる。
そこは魔物が少なかったが、全然居ないわけでは無いのだ。
「秋になる前で良かったが、それでもギリギリじゃのう」
「ええ
精霊様の力を借りますか?」
「イーセリアをか?
いや、今はまだマズい」
イーセリアを連れて行けば、精霊の加護は得られるだろう。
しかし収穫が増えたりすれば、自然とセリアに注目が集まる。
その力を悪用しようとする者も現れるだろう。
そうした事態を予測すれば、迂闊には精霊の力には頼れなかった。
「今はまだ、このまま様子を見るしか無い」
「分かりました
引き続き冒険者への協力を要請します」
「こちらの開拓団には、第6歩兵部隊を着けますね」
「うむ
それで何とかしてくれ」
ギルバートは国王と共に、夜遅くまで書類を整理していた。
その日の夕暮れ前の事だが、1組の隊商が王都に入った。
遠くボルの町から、食料や魔物の素材を売りに来たのだ。
その一段の中に、一際目立った格好の男が居た。
男は詩人の恰好をしていたが、その服装の色が奇抜だった。
「ご苦労様です」
「おう、兄ちゃん
ここまでで良かったよな?」
「ええ
私は王都に用事がありますので」
男は馬車から降りて、隊商の主に挨拶をしていた。
隊商はこれから、数日掛けて商品を売り買いする。
そうして新しい商品を載せると、今度は東に向かう予定だった。
「またボルに戻る時は声を掛けてくれ
あんたの歌声は素晴らしかったからな」
「ええ
また是非にでも、ご一緒させてください」
男は恭しく帽子を取って礼をすると、宿屋のある区画に向かって行った。
その目立つ真っ赤な出で立ちをしたままで。
男は夜になると、宿屋の酒場で詩を詠ってみせた。
宿代を稼ぐ為でもあるが、詩人が詠うのはその腕を見せる為だ。
そうして腕前を披露する事で、色々な人と交流を計れる。
それは詩の題材を得る事にも繋がるので、詩人はあちこちで詠ってみせていた。
彼も酒場に降りると、その腕前を衆人に披露していた。
「へえ…
新しい王太子が産まれたのかい?」
「その言葉には語弊があるな
王子が帰って来て、王太子に即位されたのさ」
「帰って来た?」
詩人は一頻り詠い終わると、酒場で話を聞き始めた。
それは詩の題材になる重要な事で、色々な噂話も聞いて回っていた。
その中の一つに、男は興味を持って聞いていた。
「ああ
王子はダーナに匿われていたらしい
そんで王都に戻って来なすったんだ」
「そうなんですか?」
「ああ
それで国王様も喜ばれてな」
「先日戴冠式が行われたんだ」
「戴冠式?」
「ああ
それは盛大に行われたんだよ」
「そうだ
月が紅く輝いた日だったな
ちょうど王子の産まれなすった日だ」
「そうなると…
9日前の事ですか?」
「そうだなあ
確かに9日前だな
あんたも月を見たのか?」
「ええ
ボルの町で見ました」
「あれは新しい王太子が生まれた事を示す、吉兆だろうな」
「そうだな
これから王国は良くなるぞ」
「そうだ
魔物は増えているが、きっと何とかなる」
「そうだそうだ」
「それは良い事を聞きました」
「そうだなあ」
酒場の客達は、紅く輝く月を吉兆と信じていた。
そして魔物は増えているが、これから良い事があると信じていた。
「それに、王太子と魔導士殿も婚約したらしい」
「ああ
目出度い事だ」
「え?
婚約?」
「ああ
何でもイーセリア様?
可愛らしいお嬢様らしい」
「アーネスト様もフィオーナ様と婚約されたとか
これからの王国の将来は、明るいな」
「ああ」
「はははは」
それを聞きながら、男の様子は変だった。
「な、何だと?
くそっ…」
「どうなさった?」
「良い話じゃろう」
「え?
ああ…はははは」
「詩人さんには良い詩の題材じゃあないかい」
「そうですね…」
詩人は何とか顔を綻ばせて、平静を装っていた。
そして酔っ払い達に感謝すると、そのまま2階の宿に戻った。
しかし部屋に戻ると、怒りを露わにしていた。
「くそっ
私が居ない間に勝手なことを…」
暫し怒りに我を失ていたが、何とか落ち着きを取り戻す。
そして何事か呟いていた。
「何とかせねば…
しかしどうやって…」
男は何かを思案しながら、部屋の中をうろうろしていた。
まだまだ続きます。
ご意見ご感想がございましたら、お聞かせください。




