カンハレ〜君に出会えて良かった事〜
蝉が鳴く季節。
あまり広くはない正方形の病室の中、ベットの上で上半身だけ起こして読書を嗜む私の耳に、彼らの大合唱は今日もしっかりと届いてくる。
私は膝の上に置いた本の最後の頁を捲り終えた後、ゆっくりと本を閉じてから大きく息を吐き出し、窓の外に映る景色に目を向けた。
「カン晴れだね、今日も」
誰に言う訳でもなく、独りでにそう呟く。
誰かからの返事が勿論ある筈もなく、蝉の声だけが窓の向こう側から侵入してくるだけ。
カン晴れ——カンカン照りのカンと、晴れをくっつけて作った私と私の恋人だけの共通認識の大切な言葉、今日もカン晴れ、凄く暑い良い天気って意味。
残念ながら、この言葉を共通認識出来る相手は、もう居ない。私の恋人、木下翔馬はもう、この世には居ないんだ。
私は読み終えた本をベットの横に設置されている小さな物置台みたいな所に置いて、代わりに、そこに置いてあった携帯を手に取る。
スリープモードからボタン一つで起こされた現代科学の最先端をいく手の平サイズの機械の画面には、過去の私と翔馬が映し出されている。
皮肉にも画面の真ん中に現在の日付と時刻をまざまざと見せつけながら、そこには、背後の建物の陰からチラッとだけ顔を覗かせている花火と一緒に、浴衣姿で目を真っ赤に腫らしている私と甚平姿で金髪のハリネズミみたいな髪型をした翔馬の姿が、二人して凄く幸せそうな笑顔を浮かべて映っている。
長い黒髪を後ろでアップにまとめて、今の今まで泣いてましたみたいな顔して映ってるこの女なんて特に“私今世界で一番幸せ”みたいな顔をしている。
自分の事をそんな表現の仕方するなんて、他人行儀にも磨きがかかってるんじゃないかと思うけれど、そうでもしていないと、この病室という空間での孤独感っていうのは気が狂いそうになるものがある。
「翔馬……」
あれからもう四年。
私はこの病室に入院して過ごす時間が以前よりも嫌いになった。大嫌いになった。
四年前、翔馬がこの世から去ってしまうあの日までは、私はこの病室に居ながらでも、いつも希望を持っていた。
“今日、翔馬は来てくれるかな”
“翔馬が来てくれたら何の話をしようかな”
とか毎日考えてて、そこにはそれで苦悩もあったし、辛い事もあったけれど、今から振り返れば、あの日々がどれだけ幸せだったのか……今の私には良く分かる。
今でも、ほぼ毎日と言っていい程、家族の皆んなはお見舞いに来てくれるし、私の余命付きの病気の事を誰よりも理解し、優しくしてくれている。でも、それだけじゃ消えなくて——私自身の病気に対する不安や、病室で一人過ごす時間の孤独感、周りから取り残されていくかのような疎外感は、いつも心の奥の方で隅っこに残っていく。
どんどんと蓄積されていく。
蓄積された物の重さに、時々どうしても耐えられなくなって、押し潰されそうになる時がある。
無性に叫びたくなって、泣き出したくなって、心を誰かに捻られてるように苦しくなって、どうしようもない感情に襲われて、狂ってしまいそうになる時がある。
ねぇ翔馬……会いたい。
声が聞きたいよ……。
あなたが居なくなってからもう四年も経つのに、私にはやっぱり翔馬が必要だよ。
私は自分の首にぶら下げたネックレスのハートの片割れを強く握りしめた。
膝に置いた携帯の画面には水滴が落ちて、弾けた。
入院してから二週間以上経ったある日、相変わらずの蝉の大合唱がいい加減耳障りになって来ていた私は、ふらっと病室から抜け出して院内を散歩していた——“散歩”という表現が適切なのかどうかは分からないけれど。
元々、検査入院という名目で入院し、入院中に発作を起こしてしまったせいで入院生活が少し長引いてしまってるけれど、点滴も既に外れてるし、こうして自由に歩き回れるくらい元気になっている。いつもならとっくに退院が許されている筈なのに、何故か今回は中々その許可がおりてこない。もうほんと早く帰して欲しい——とかうんざりしていると、院内の廊下で背後から声をかけられた。
「美織ちゃん」
聞き慣れた男性の声、と言うか、それを通り越して最早聞き飽きたと言ってもいい担当医師の声だった。かれこれ十年以上の付き合いになってくるんだけど、私としては良い思い出の一つすら頭をよぎらない相手だ。
それもその筈。だって、訳の分からない病名をつきつけられた挙句、意味不明な病状の説明の後、トドメを刺すと言わんばかりに余命宣告をしてくれた彼に、良い思い出なんてある訳がない。彼が悪い訳じゃないけれど、当時の私からすれば、この人は死神からの遣いそのものだった。
私は彼の声を無視した。
無視して、何歩か歩く。
「美織ちゃん! 止まって」
少しボリュームの上がった彼の声に思わず反応してしまい、足が勝手に止まる。
あ……しまった。
止まった瞬間にそう思いながら、私はくるっと振り返って、完璧な作り笑顔を彼に向けた。
「わぁ、これはこれは誰かと思えば小山先生じゃないですか。こんな所で会うなんて奇遇ですね」
四十歳位の私の担当医師、小山先生は白衣をバタバタと音立てながら私に近づいてくる。
「何が奇遇ですね、だ。駄目だろ、診察の時間に病室抜け出しちゃ。皆んな心配するんだから!」
凄い勢いで怒られた。
ちぇ、ジョークの通じない奴……。
「ごめんなさい、ちょっと喉乾いたから売店にジュースでも買いに行こうかなぁって……」
「君は前にもそんな事言って病院を抜け出したろ」
「何の事やらさっぱり……」
「あのなぁ美織ちゃん、君の病気っていうのは君が思っている以上に深刻なものなんだ。そうやって勝手なことばかりして、無理してまた発作が起きて倒れてもそこまでは僕達も責任を取れないからね⁉︎ 酷な事を言うようかも知れないけれど、何をするにしてもまずは命があってからこそなんだから、休む時はしっかり休んで、ちゃんと僕達医師の言う事を聞いてくれないと困るんだ」
本当にうるさいなぁ……もう。
分かってるよそんな事は。
言われなくても分かってる。
ただ、二十三歳の女子大生ってご身分としてはね、私だってもうちょっと遊びたいんですよ。
なんなら、あの病室にずっといる方がかえって精神的に良くないと思うんですよ、先生。
——とか、そんな事を言った所で、話の通じる相手でもないし、下手をすればお説教がまた長くなるだけなので素直に謝ったけど。
その後、しっかりと監視されながら病室まで連れ戻された私は、病室に入るなり小山先生から唐突に「そう言えば、最近大学の方はどうだい? 楽しいかい?」と尋ねられた。
「普通ですよ、特に変わった事もないですし」
ベットに腰を下ろしながら素っ気ない態度でそう答えると、小山先生は腕を組んだまま佇んで唸っていた。
ん? 私、何か変な事言った?
「美織ちゃんは大学行き始めて何年経つんだっけ?」
「三年ですけど……」
「って事は移植手術を受けてからもう四年か……」
「はい——それが何か?」
「美織ちゃん、この際だからはっきり言っとくけど、大学で君が君の病気について隠し通し続ける事に関して僕は口を出さないつもりでいたし、それならそれでいいとも思ってた。ただ、それが結果として君の身体に無理をさせていると分かった場合、僕の立場からはそれを止めざるを得ないんだ。僕の言ってる事の意味が分かるよね?」
「無理なんてしてません。翔馬からの移植手術を受けてから、入院する回数も、発作が起こる回数も減りましたし、言って大学も後一年です、今更やめるつもりもなければ、誰かに病気の事を話すつもりもありません」
「入院する回数や発作回数が減ってるのは移植手術後の翔馬君からもらった臓器が今は正常に機能してくれているからで、無理をし過ぎれば当然ながらいつかガタは来る。それに君は君の病気に蝕まれている一部を手術で取り除いただけであって、病気が完治した訳じゃないんだよ?」
「何が言いたいんですか? “それ”と私が“自分の病気を大学で隠し通し続けている事”と何の関係があるんですか」
「周りに病気を隠すために無理をし過ぎだと言ってるんだ」
小山先生は少しだけ語調を強めて、真剣な表情で私に言った。
……あぁ、そういう事か。
私は悟った。この表情は前にも見た事がある。
私に余命宣告した時の、その表情と同じだ。
病室の酸素が急に薄くなったかのような、そんな錯覚が私を襲い、気分が一気に悪くなってきた。
小山先生はそんな私を見ながら、腕組みをしたまま、険しい表情を浮かべている。
この先生はこんな時、私に対して綺麗事も隠し事も言わない。
「正直に言うよ? 美織ちゃん」
「はい……」
「肺の機能が大分弱って来ている。そして、その肺の負担が移植した心臓にまで響き、君の身体全体に悪影響を及ぼし始めている。美織ちゃんの場合、心臓の機能が弱まれば他の弱っている臓器もあっと言う間に共倒れになる。大学に入ってから周りの目を騙し続ける為にアルコールを摂取したり、無理に過度な食事を取ったり、激しい運動を行ったりしていないかい?」
追及されながら、大学生になってからの自分の生活を鑑みる。
流石の私もアルコールは良くないと思ってたから、お酒に手を出したりはしてこなかったけど、食事と運動に関しては思い当たらない節がないわけではなかった。
小山先生が続ける。
「例えば、全力疾走とかでもそうだ。美織ちゃんは思い出したくもない事かもしれないけど、翔馬君が事故に遭ったと聞いた時——あの時もバイト先から病院まで全力疾走で駆けつけて、君は病院の正面玄関前で倒れただろう。今は手術の甲斐もあって少しくらい走っても気を失う程の事はないかも知れないが、時々運動した後とかに胸が苦しくなったり、息が大きく乱れて呼吸がままならなくなったりする事はないか? 君が無理をすればするだけ、身体にはちゃんと負荷がかかり、危険信号が現れている。病気を隠したい美織ちゃんの気持ちは十分よく分かる。でもね、これは医者として言うが、もう少し自分を大切にしなさい。“我慢して強がる事”は“強く生きる事”と同じじゃないんだ。君に臓器提供してくれた翔馬君や君の親、お姉さんは君のそんな姿を望んではいないんじゃないかい? 信頼出来る友人にだけでもいい。病気の事はちゃんと話して、理解をもっておいてもらう事を強く勧める」
厳しさと優しさの入り混じった小山先生からの注意に対し、私は返せる言葉を持ち合わせていなかった。
ただ頷いたように見えるよう、顔を伏せた。これが私の小さな抵抗だった。
この日から三日後、やっと退院の許可がおりた。
退院の日、小山先生に「またね、くれぐれも身体には気をつけて、無理はしないように」と再度に渡る注意を受けながら私は「はーい」と適当な返事を返した。
病院の正面玄関前で待たせていたタクシーの後部座席に誰よりも早く乗り込み、外でお母さんと小山先生が話してる内容も、蝉の大合唱もなるべく聞かないように努力してみた。
無駄な努力だったけど。
どれだけ聞きたくなくても、耳に届く言葉や音はあるもので、実はそれらって“自分は本当は知っている事”だったりするのだ。
走り出したタクシーの中で、私は車窓に映った長い黒髪の自分と睨めっこしたまま、お母さんに聞いた。
「お医者さん、何か言ってた?」
「大丈夫、激しい運動だけ控えるようにって、それだけ言ってたわ」
「そっか……」
私がそう答えてからタクシーの中に暫くの沈黙が続いた。
何となく気まずい、重い空気の沈黙だった。
移り変わる景色を眺めながら、私は切り出す言葉を探した。何か話題がないかと必死に頭の中を探す。
数年前じゃ気づけなかった事だけど、車窓に映っているのは痩せこけた私の姿だけじゃなく、その私の後ろでいつも顔を伏せているお母さんの姿も映っているのだ。
お母さんにこんな表情をさせているのは私だ。
私を不安にさせないようにと、時には苦手な嘘をつかせて、時には無理な笑顔を振る舞わせてるのは、他でもない私なんだ。
だけど、三週間近く個室で入院していた私に狭い車の中で花が咲かせられるような話題なんて思いつかず、話題を切り出すなんて事は出来なかった。ここ最近はこんな空気になってしまう事が本当に多くなっていて、入退院を今よりも頻繁に繰り返していた十代のあの頃は私は帰りのタクシーでどんな会話をしてたのかと疑問に感じる程だった。
「そう言えば美織——」
と、私の思考を遮るように、唐突に母が口を開いた。私の思考を汲み取り、気を遣ったかのようなタイミングに少し驚きつつ、やっぱり私は車窓から目を逸らさないまま「何?」と、言葉を返した。
「今日は美織の誕生日だね」
「え? あ……」
忘れてた。そうだった。
今日は私の二十三歳の誕生日だ。
本来なら、迎えられる筈のなかった誕生日を、奇跡的にももう三回も迎えた事になる。
「伊織も今日は東京から帰ってくるって言ってたわよ、良かったね、なんとか誕生日には退院出来て」
嬉しそうな声で、お母さんは私の長い黒髪を見ながら話す。
私がお母さんの方を振り向かないんだから仕方がない。私も子供だな、色んな意味で、進歩がない気がしてならない。
「お姉ちゃんが帰ってくるのは嬉しいけど仕事は大丈夫なの?」
「大丈夫よ、美織が気にする事はないわ」
「……そっか」私は短く答えた。
お母さんが自分の事の様に答える、と言うことは同じ質問をお姉ちゃんにしたんだろう。
お姉ちゃんの性格上、お母さんは怒られたかもしれない。
お姉ちゃんはそういう人だ。
昔から自分より他人という自己犠牲が全面に出たような人で、仕事より友達、恋人、家族との大事な日を絶対に優先する人だった。
そんなお姉ちゃんは私の憧れであり、私の自慢だった。
お姉ちゃんが久々に帰ってくる、それを聞いて少しだけ元気になれた気がした。
「それより美織、何か食べたいものある? 行きたい場所とかでもいいわよ」
お母さんは私の誕生日に絶対に“欲しい物”を訊かない。昔は、欲しい物を与えた所で私が死んでしまうから意味がないと思われてるって、そう思ってた。
でも、四年前からそれに対する見方も変わった。
私が死んでから、そこに取り残されてしまう思い出の断片を私のお母さんは見たくないのだと、そう思うようになった。形ある断片を目にした時に鮮明に浮かぶ記憶の中の映像は、この世で一番硬く、絶対に溶かせない氷の向こう側で再生されるだけだから——私はそれを、四年前に痛い位に経験してしまったから。
「ねぇお母さん」
「ん? どうしたの?」
「翔馬に会いたい」
困らせる気なんてない。
そんなつもりで言ったんじゃない。
ただ、我慢出来なくなって、十代の頃の様に口をついてでた。
「…………」
タクシーの中にまた重い沈黙が戻ってきた。
重い空気を手繰り寄せてしまった。
でも、お母さんは優しい声でその空気を緩和してくれた。
私が本当に言いたかった提案を口にしてくれた。
「翔馬君のお墓、寄ってく?」
「うん、寄ってく」
何年経っても、やっぱり親子だと思った。
二十三年間、私を育てて来てくれただけはある。うん、流石、親子。
「……今日はカン晴れだからね」
数年前と同じように、私は私にしか聞き取れない位の小さな声で、そう呟いたのだった。
お母さんをタクシーの中に待たせたまま、墓地へと足を踏み入れ、“木下家之墓”と刻まれた暮石の前に立った私は右手をちょこんとあげてお墓に話しかけてみた。
「やっほー、会いにきてあげたよ」
精一杯に戯けた口調で言ってみたけれど、まさか、お墓からそれに対する返事が返ってくるなんて事はなかった。そんな“まさか”あるはずもなかった。
ちょっとでも期待した私はまだ夢をみてるのかも知れない。もしくは、大分頭のイタい奴かもしれない。
まぁ、この際どっちでもいいや。
構わずに続ける。
「翔馬、私二十三歳になったよ。大学卒業は一浪して入ってる分、来年になるんだけど、このままいけば、ちゃんと卒業も出来ると思うんだ。翔馬のおかげだねー」
ちょっと長めに喋ってみても、やっぱり返事はない。当たり前の事を何回も言うけど、返事がない。
「はぁ……翔馬の馬鹿。十年早く死んでも、私より先に死んじゃったら意味ないじゃん。私と十年一緒に過ごせる時間を増やしたいって言ってくれてたくせに……バカ翔馬」
お墓の前で私は膝を折って、しゃがみこむ。
暮石の身長より小さくなった私は、じっとその墓に刻まれた文字を見つめた。
“木下家之墓”
此処でこんな事を言うと凄く罰当たりになるのかもしれないけど——ここまで育ててくれたお母さん達がどんな気持ちになるのか想像できないけど、私もこのお墓に入りたかった。
しゃがんだまま暮石に手を伸ばしたけど、届かなくて、すぐに引っ込めた。
生前も届かなかったなぁとか考えながら。
「四年前の今頃は遊園地に行ったよね。私は病気のおかげで年金いっぱい貯まってたから、それで遊んじゃおうって言ったのに、私の誕生日だけは俺が払うって言って、私にお金を使わせてくれなかった……そういうとこ、大好きだったぞ、バカ翔馬」
感傷的にフッと笑ってから、少し恥ずかしくなった。二十三歳にもなって何やってるんだろ、私。未練だらけだ。
そう思って立ち上がった時「橋本?」と、声が聞こえてビックリした。
心臓が飛び跳ねそうだった。いやまぁ、この表現も私からすれば冗談にならないんだけれど。
声が聞こえてきたのは私が歩いてきた方向からで、間違っても目の前のお墓からではない。第一、翔馬は私の事を苗字で呼んだりなんかはしない。
声が聞こえて来た方に振り向いて見ると、そこには見知った顔の男が佇み、花束を片手に持ったまま幽霊でも見たかのような視線を私に送って来ていた。
「ん? あれ? 山下君?」
取り敢えずしれっとした態度で、驚きと動揺を隠して見る。そんな事をする理由なんてこの場では当然としてないんだけれど。
山下大和君、同じ大学に通っていた友人で、確か今年卒業し、無事どこかに就職が決まったはず。学生時代に金髪だった髪が今や落ち着いた黒髪になっているのはその影響に違いない。
因みに、彼は学年的には一個上だったけど、歳的には同級生だったりする。
「おう、久しぶりだな——つか、誰の墓参りだ?」
「あ、うん、ちょっと知り合いの」
「もしかしてだが、木下か?」
山下君からその名前を聞いた時、私は「え?」と声に出したまま一瞬硬直してしまった。
山下君はそんな私の反応を気に留める事もなく、真っ直ぐと私の横、翔馬のお墓に近付き、膝を折ってお花を供えて合掌する。
ん? どういう事? なんで山下君が翔馬の事を……?
明らかに戸惑いながらも合掌している山下君の横顔を見ていると、私をチラッと見た山下君と目が合い、彼は立ち上がった。
おっと、近くで並ぶと無駄に背が高い。
「にしても、何ヶ月ぶりだ? ちょっと前に花澤と一緒にお前の家に行ったが、旅行に行ってて留守とか言われてよ、いつ——」
「ねぇ、そんな事よりどうして? 山下君、翔馬と知り合いだったの?」
私は気になった事をすぐ様問いただした。
私のお母さんが咄嗟に作ったであろうそんな作り話はこの際後回しだ。
「知り合いって言うかなんつうか……中学が一緒だったからな」
「嘘!」
「嘘じゃねぇよ。高校入ってから分かれちまったけど、まぁそれ以降も連絡は取ってた」
「私知らないんだけど……」
「俺からすればお前がそれを知ってた場合の方が驚きなんだが、これは俺の例えばの話だが、お前もしかしてあいつが付き合ってるって言ってた病気の彼女か?」
「え、いや、それは……」
私は咄嗟に思考を巡らせた。
大学には私と山下君の共通の友達がまだ何人かいる。ここで私が病気の事を認めてしまえば、今まで隠して来た病気の事が大学の友達にバレてしまう恐れがある。
それだけは避けたい。
いずれ誰かに話すにしても、相手はちゃんと選んでから、私の口から言いたいし。
うん、やっぱりここは否定しなきゃ。
「違ったか?」
山下君が答えに詰まっている私の顔を覗き込んできた。
「え? あ、なんだっけ?」
取り敢えず、もう一回相手に同じ質問をさせようと試みた。意味はない、うん。
「だから、お前、木下が生前に話してた彼女なんじゃねーのかって」
「質問変わってない?」
「いや変わってねーけど……、え、違うのか?」
「いやいや、うん、まぁそうだけど」
認めてしまった。それも結構あっさりと。
って言うかその訊き方はズルいでしょーが。
彼女なんじゃないかって訊かれて、“違う”なんて言えない。
それも、翔馬の——翔馬のお墓の前で、私が世界で一番つきたくない嘘だから、違うなんて言いたくない。
「ほう、やっぱりそうだったのか」
山下君はそう言いながら私に背中を向け、歩き出す。自然な流れを感じ取った私はその後ろに続いて足を動かした。
「あんまり驚かないね、もしかして前から気付いてた?」
「あぁ、薄々はな」
山下君は振り向かずに答える。
長い階段を降りながら、私は山下君の横に並ぶ。
「いつから気付いてたの?」
「お前が木下の彼女って気が付いたのは早かったさ。お前がいつもしているそのハートの片割れのネックレス、それの対になるネックレスを俺はこの墓場で見てたし、お前程頭の良い奴が程度の低い高校に入り、中退したっていうのもおかしな経歴だと思っていた。これは俺の例えばの話だったが、高校中退、大学一浪には何か根本的なやむを得ない理由があったんだと仮定し、ネックレスの件と合わせて考えれば自ずと合点はいったよ。それに高校時代にお前の話は色々と聞いてたんだ。——確か、あれは高一の頃だったか……木下とは高校で離れ離れにはなってたがある日あいつから電話がかかってきてな。内容は彼女が余命宣告を受けたっつう話だったんだが」
「あ、うん、私が自分の病気の事を医師に聞かされたのもその頃で、付き合ってた翔馬にはすぐに話したから」
「それから度々あいつから彼女の、つまりお前の事について相談を受ける事が多くなった。あまり学校に来れていないお前の事を心配し、あいつは誰よりもお前の病気の事で頭を悩ませていた」
「…………」
「挙句の果てには自分の臓器をお前に移植出来ないかなんて話もしてたよ。俺は反対したが、その後にあいつがどういう決断をしたのかはお前しか知らないはずだ」
「それいつの話?」
「えっと……六年位前か、確か。移植の話をし始めたのは高二の頃だったからな」
私が翔馬から移植の話を聞いたのは四年前だった。翔馬の死後、臓器移植の話が驚くほどスムーズに進んだ事は未だに覚えてるけど、私に打ち明けるよりも前、二年前から悩み、全てが用意されていたというのなら説明がつく。
翔馬は本当に、ちゃんと考えた上で、私に移植の話を持ち出してくれていたんだと——そう思うと胸の奥がチクッと痛んだ気がした。
階段を降り切ると、待たせてあったタクシーが視界の隅に入った。
「まぁお前の病気の話は花澤達には伏せとくよ。お前がここまで隠してきた事だしな」
そう言ってタクシーが止めてある場所とは反対方向に歩き出す山下君の背中に私はもう一つだけ、気になった事を問いかけた。
「ねぇ! 何で今日だったの?」
「あ?」少し離れた所で振り返る山下君。
「だから、何で今日だったの? お墓参り。だって、翔馬の命日は来月じゃん」
「今日来りゃなんとなく好きな女に会えそうな気がしたんだよ」
そう言った後、山下君は前を向いて行ってしまった。
ん? は……? え、何、どういう事?
これは私、もしかして告白されちゃった感じなのだろうか?
うん、仮にそうだてして、この状況ですよ。
え? 私にどうしろと?
「そりゃああんた、彼はあんたに追いかけて来て欲しかったんだよ」
その日の夜、家に帰って来ていたお姉ちゃんにお昼前のその出来事を相談すると、酒瓶を片手に持って乱暴に振り回しながら、そんな返答が返ってきた。
ふむ、なるほど。
「え、それで?」
「いやだからね、山ぴーはさ、あんたに追いかけてきてもらって“ちょっと待って! 山ぴー、実は私も!”って言って欲しかったんだよ」
「お姉ちゃんさ、全然似てない私のモノマネとかしながら人の友達にベタすぎるニックネームつけないで。っていうか、私、山下君の事をそういう対象で見た事ないし……」
まず、山ぴーなんて呼んだ事もないし。
私は食卓の真ん中に置かれた鍋からお肉を摘まみ上げる。因みに中身はすき焼き。
今日の夜ご飯は私のリクエストにより、すき焼きに決定したのだ。
姉が東京からのお土産とか言って松阪牛のお肉をお母さんに手渡していた時は耳と目を疑った、あれって東京だったっけ? 確か違うと思うんだけど……松坂って書いてるし。
ともあれ、細かい事は気にせず、それらも含め、私の大好物のすき焼きにしてもらった。
「え、それで? どうすんの? あんた」
お姉ちゃんが白菜やら人参やらを取って、私の取り皿に放り込みにくる。
ちっ、いらん事を……。
「どうするって何が?」
お姉ちゃんに言葉を返しながら私はお肉を口に入れ、素早く隣のお母さんの取り皿と自分のものを入れ替える。
お母さんはクスクス笑いながら私を見てるけど、斜め向かい側にいるお父さんはちょっと呆れていた。
ごめん、でも人参だけは嫌いだから許して。うん、今日誕生日だし。
そんな両親の反応を傍らに、お姉ちゃんと私の会話が超早いキャッチボールみたいに坦々と続く。
「そりゃ返事に決まってんでしょ? 受けんの? 断んの?」
「断るに決まってんじゃん」
「えー、何でよ、お姉ちゃん美織の彼氏見たいけどなー」
「私には心に決めた人がいるもん」
「そろそろ新しい恋してみたら? 翔君も怒んないって」
「うるさい」
「新しい恋したら新しい発見もあるかも知んないじゃん」
「うるさいって! 別にそんなんじゃないから!そういう理由だけじゃないの!」
段々と私達のキャッチボールを観覧していた両親の表情が少しずつ緊張に包まれ始めていた。
でも、お姉ちゃんは懲りない。
急に声のトーンを落とし、今度は静かな口調で私に言ってきた。
「あんたは翔君が死んでからちょっと無理をし過ぎる傾向があんの。ね、もう少しさ、流れっていうのかな……そういうのに身を任せちゃってもいいんじゃない?」
「好きでもない人と付き合っても相手を傷つけるだけだと思うけど」
「あんたは昔っから頭が固すぎんのよ。山ぴーは翔君のお墓参りに来た所であんたに出会い、告白とも取れる言葉を仄めかした訳でしょ? あんたが翔君の事を好きな事なんて百も承知で言ってるわよ。それにさ、案外付き合って見てから好きになったり、気がついたら好きになってたりするもんだよ? 言い方は悪いかもしんないけどさ、自分を好きだって言ってくれてる男は取り敢えずキープしときなさいって」
「私、お姉ちゃんと本当に血が繋がってるのか不安になってきたわ」
「こら、姉に向かってなんたる事を!」
いきなり声をあげて机の上に酒瓶をどんっと置く姉。
うわぁ、もうなんか凄い酔っ払ってるんですけど。ホントに面倒くさい。ついでに酒臭い。
どうやら相談する相手を間違えたようだ。
今朝しがた、この姉に対し、憧れだなんだと言っていた自分の事をぶん殴ってやりたい。
この後の話は聞くだけ無駄と判断して全て聞き流した。
夕食を終え、自分の部屋に戻った私は携帯を取り出し、連絡先の名前をスクロールしてある人の名前の所で止めた。
“花澤 雪”
歳自体は私の一個下だけど、大学では同じ学年で一番仲の良い女友達。
山下君と私の共通の友達でもある。
私は思い切ってその子の名前をタップし、電話をかけた。
そんなに遅い時間という訳でもなかったので、ニ回ほどのコール音の後、彼女はすぐに電話に出てくれた。
『もしもし? みっちゃん?』
みっちゃんとは私の事。美織のみを取ってみっちゃんらしい。
因みに私も彼女の事をゆっちゃんと呼んでいた過去があるけど、今は呼んでいない。なんとなく。
「あ、雪? 久しぶりー」
『本当だよ! え、何、どこに旅行行ってたの?』
あ、そういう事になってたんだっけ。
「ん、えっと……ロンドン」
嘘を吐くときは大胆に、これは私がまだ高校生だった頃にあのさっきの酔っ払いに教えてもらった事だ。
バレた時でも冗談で誤魔化せるし、逆にどんな嘘でも貫き通してしまえばぶっちゃけバレないらしい。どこで学んだんだか。
『へー、ロンドンかぁ。あれだね、シュークリーム・ホームレスっていう名探偵の発祥の地だね!』
シュークリーム・ホームレス? そんな甘そうで小汚さそうな名探偵がロンドンで生まれたなんて話あったっけ?
「もしかしてだけど、シャーロック・ホームズの事?」
『あ、それそれ!』
どうやったら間違えるんだ……全然違うじゃん。怒られるよ? ホント。
あ、いやそうじゃない。
「ねぇ雪、ちょっと相談したい事があるんだけど」
『ん? 何?』
適応力が凄い。話題の切り替えに未練なくついてくる辺り、感服する。
「山下君にね、告白されちゃって……」
『告白?!』
「あ、いや、告白……みたいなものって言うか、遠回しに好きって言われた感じでさ。ねぇどうしたらいいと思う?」
『あぁ、なるほど……、え、みっちゃん的にはどうしたいの?』
「それが分からないから雪に訊いてるんじゃん」
『あ、そっか。うーん……』
雪が唸ってる間に私は部屋のタンスからパジャマを取り出し、ベットの上に置く。
『まだ遠回しに言われただけなんだよね?』
急に話し出す雪に私は聞き逃しそうになりながら反応した。
「あ、うん、そんな感じ」
『じゃあさ、直接的な告白をされるまで放置しとく、とかは?』
「え、いいのかな? それって」
『遠回しな言い方だったんならさ、別にそれでいいと思う。逆にそれでこっちが返事したら、そんなつもりじゃなかったんだけどな的な奴っているじゃん?』
「あー……、いるっけ? そんな奴」
『いるよ。だから此処は大和が次にどう動くか待ってみる、とかでいいんじゃない? その間にみっちゃん自身は大和の事をどう想ってるのかじっくり考えるって感じで』
「うーん……うん、そだね、分かったそうしてみる」
『今度大和にあったらこっそり探りいれてみよっか?』
「探り?」
『みっちゃんの事をどう思ってるのかって』
「あー、うん、それは任せる」
実際、その部分に関しては私自身も言うほど関心がなかった。だから適当な返事をして、二言三言会話した後、電話を切ってから溜息をついてしまった。
雪には申し訳ないけど、山下君の気持ちがどれほどのモノだったとしても、私は多分付き合わないと思うから。
私はベットの上に置いていたパジャマを手に取り、部屋を出て、お風呂場に向かう。
洗面台の鏡の前で驚くほど無表情な顔をした自分と対面した後、服を脱ぎ、全裸になってからまた鏡を見た。
数歩下がると身体の傷痕がはっきり見える——手術の痕だった。
翔馬の移植手術の時に出来た傷だけじゃない。それ以前にも、私の容態が悪化した際や、病気の事を調べる際にも何度かメスは入っている。
つまり、私は十代の頃からこの傷達とは長く付き合ってきた訳で、まじまじと見た所で今更悲観する事もなければ、途方に暮れるなんて事もない。覚悟の上で選んできた道だから。
どれだけ無様で、醜くて、不恰好でも、最後まで抗って生きようと、そう決めて選んで来た道だから。
冷たいタイルの上に熱いシャワーが当たり、私は無表情のままに温度を調節する。
長い黒髪をシャワーの下に晒しながら、私は一人で呟いていた。
「そう……決めて生きてきたんだけどな……」
その声はあっという間に掻き消され、シャワーの音に流されていく。
この傷のせいにする訳じゃないけど、って言うか、この傷のせいって訳じゃないけど、私が山下君の気持ちを受け入れる事はないって理由はきっとこれがあるからだ。
翔馬への未練とか、私の余命の事も勿論ある。この先、例えば私が誰かと恋をしたとしても、私の方が必ず先に死んでしまう。
その時、私の事を愛したまま取り残されてしまった側はどんな気持ちになるんだろうか……私は多分、その辛さを知っている。
それを理由にするなら幾分私も格好がつくのかも知れないけど、本当の所は違う——それは、きっと建前になってしまう。
他人の事をそこまで考える余裕が、私にはない。あるはずない。私はまた誰かを愛した時、この身体の傷痕を見られた時に自分が嫌われるのが怖いんだ。
病気の事をどれだけ理解してくれた相手だとしても、こんなに見た目が穢い女はあっという間に嫌われ、捨てられる。
見せなきゃいいだけなのかも知れない。
でも、そんな事は絶対に不可能だと思ってる。長く付き合えば付き合う程、隠しきれなくなってくるし、相手を愛してしまえば愛してしまう程、ぶっちゃけた話、やっぱりセックスだってしたくなってしまう。
お互いの肌と肌を強く重ねて、体温を確かめ合って、愛情を感じ合いたくなってしまう。
私は我慢の効かない女だから。
キスだけじゃきっと足りなくなる。
だからこそ、そこに至った時に、身体の傷を見て嫌われてしまうのが怖くて、辛くて、我慢ならない。うん、我儘だ。
私が恋を拒む一番の理由は、一言にすれば実にありふれたフレーズで、“私はただ、もう自分が傷つくのは嫌だ”——ただそれだけだ。
「私ってもしかして結構嫉妬深い女だったりするのかなぁ……」
後ろ髪をアップにして纏め、浴槽に浸かりながら何気なく呟いた。
嫉妬……と言うより、執着心? かも知れない。
「山下君……大和……」
下の名前を試しに呟いてみたけど、うん、駄目だ。本人を前にして自分が彼をそう呼んでる姿が今一想像出来ない。
お風呂場の中で響く自分の独り言に妙な虚しさが反響してくるようだった。
「やっぱり付き合えないよ、私は……」
自分に言い聞かせるように、呟いた。
一週間後、あっと言う間に九月に突入し、大学の集中講義に出席したりしていた私はその帰り道で久々に雪に会った。
「あ、みっちゃん! 久しぶり!」
「久しぶり、雪、この前はありがとね」
「この前?」
何もない道中でばったり会ったので、一体どこから現れたのか疑問だったけどそこは敢えてスルーした。
首を傾げながら“この前”の記憶を探っている雪の隣を歩きながら「電話」と短く答える私。
「あー! 全然気にしてないよ、むしろちょっと嬉しかったし」
「嬉しかった? 何で?」
「だってほら、私がみっちゃんに相談を聞いてもらう事はあっても、みっちゃんが私に相談してくれる事って今までなかったから」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
並木道に入り、道の真ん中を歩きながら雪の表情をチラッと覗く。
明るい笑顔が爛々としていた。
この子もこの子で三年前に色々と大変な失恋をしてるから、私としては相談をし過ぎるのもどうなのかなって遠慮してたんだけどこの分なら大丈夫そうだと安堵した。
「それで? あれから山下君には会ったの?」
探りを入れてみる的な事を言ってたから、気になってなかったと言えば嘘になる。
でも気になってたというのも微妙なとこなので、さり気ない雰囲気で訊いてみた。
すると雪は得意げに鼻を鳴らし、数歩前に出たかと思うと、私の前に立ち、私の進行を阻んだ。止むを得ず立ち止まる。
「みっちゃん、自信持っていいよ! 大和は確実にみっちゃんに惚れてるね」
「ん、えっと……山下君から聞いたの?」
私の問いに雪は「いやぁ……」と不確かな返事を返しながら「でも——」と切り出す。
「確かな筋からの情報だよ。大和の仲の良い友達にこっそりと訊いて回ったからね」
ほうほう、それは何だか申し訳ない。
別に私が頼んだって訳じゃないんだけど、これが山下君にバレた日には“女同士でコソコソと……”とか言われそうだなって思った。
うん、何か嫌だな、それは。
「肝心の山下君には?」
私の問いに雪が詰まる。
「いやぁ……それが最近いつ電話しても通話中でさ、友達の話じゃここ最近、よく県外を行ったり来たりしてるらしくて捕まらないんだよねぇ……」
「へぇ、県外……仕事かな?」
「あいつ今なんの仕事してるの?」
「ん? さぁ? 知らない」
言いながら再び歩き出す私と、遅れて横に並ぶ雪。
「この前会ったんでしょ? 訊かなかったの?」
「うん、だって興味ないし」
私がさらっと言った言葉に雪は「あちゃー」と額に手の平を当ててリアクションを取っている。
「これじゃあ大和の恋は脈無しっぽいね」
「そだねー」
雪の言葉に私は気のない返事を返した。
脈無しって言うか何というか……。
まぁ病気の事は雪には話してないからね、ここで具体的な返事も返せない。
「あ、そう言えばさ」
今度は私の方が歩を止めて切り出した。
数歩先に進んでから雪も立ち止まり、振り返る。
「ん?」
「雪、集中講義来てなかったけど、単位大丈夫なの?」
「え? あ、あぁ、アレね、あれはうん、大丈夫、全然大丈夫」
急に歯切れが悪くなる辺りを見ると全然大丈夫じゃなさそうな気もするんだけれど、まぁそれに関しては軽くスルーしておく事にした。多分、後期が大変な事になると思うけど、そこは友達として陰ながら応援する事にしようと思う。
「後で泣きついて来ても知らないからねー」
私は言いながら再び二人並んで歩き出した。
まぁ多分今年は必要な単位を取るために大学の勉強に追われまくるんだろうなぁ、と勝手に慌てふためく雪の姿を想像した。
世話の焼ける妹ってこんな感じなのかなーと、もう東京に帰ってしまったお姉ちゃんと自分を何だか重ねていた。
毎日が平凡と退屈の繰り返しの割に、何か一つイベントが発生すると一日に集中して立て続けに起こったりする。もう少しバランスよく拡散してくれないかとは常々思う事だ。
雪に会ったこの日の夜、ついこの間退院したばっかりだったのに、私は実家で発作を起こして倒れた。
いきなりだった。
救急で病院に運び込まれ、酸素マスクを当てられたまま、色んな人の声が私の苦しみの上を飛び交っている。
息が苦しい。しんどい。辛い。
いつも思う。私、いよいよ死んじゃうのかな? と。
そんな不安に包まれながら、私の視界は暗闇に飲み込まれていく。
その度に、お母さんはいつも泣いている。
それだけは——知っている。
翌日、私は無事に目覚める事が出来た。
救急で運ばれたから、最悪、集中治療室行きかと思ってたけど、私の視界には見飽きた病室の天井が映っていた。
朧げな意識のまま、首をゆっくりと動かす。
周りを確認する。
頭の上から、私の鼓動に合わせて音を鳴らす機械の電子音が聞こえる。
酸素マスクに点滴……、はぁ、またしばらく入院生活か。
心の内側でうんざりした。
担当医師の小山先生が病室に入ってきたのはそれからすぐの事だった。
「お、目が覚めたかい?」
ベットの横に丸椅子を置き、そこに座りながら私に話しかけてくる。
「さっきまで君のお母さんも居たんだけど、君の着替えを取りに丁度今、一旦家に帰ったとこだ。どうだい? 身体の調子は」
私は天井に視線を戻しながら、ゆっくりとした口調で「もう、最悪ですね」とだけ答えた。
「そうか、じゃあ病状についてはまた今度にするかい?」
「いや……今で、大丈夫です」
「そうか——分かった、じゃあ話そう。やっぱり少し体力が落ちてきているみたいで、身体の中の臓器に色々と負荷がかかり過ぎている。辛いだろうけど、長めの入院で様子を見て体力の回復に努めた方がいい」
「何年……」
「ん?」
「私は、後何年生きられますか……?」
声が全然出ない。掠れまくっている。でも、これだけ、何故か急に聞きたくなった。訊きたくなった。
小山先生は少し唸っていた。
そっちを見るのが億劫だったので、私はただただ天井を見つめていたけれど、きっと難しい顔をしてたに違いないと思う。
「正直に言って後十年、あればいい方だと思う。勿論、どんな奇跡が起こるかは僕にも分からないからそれが絶対の期限だとは言わない。それよりも長く生きられるかも知れないし、もしくは圧倒的に短くなるかもしれない。それは誰にも分からない」
「そう……ですか」
「美織ちゃん、これは今の君に話すような事ではないのかも知れないが、聞いてくれるかい? つい先日、海外で君の患っている病気に対し、有効な手術案が発表された。移植を回避し、上手くいけば、寿命を二十年程延ばす事が可能な手術だ。ただし、現段階では問題点も多く、日本ではまだこの手術に対する認可はおりていない。海外では既に成功例も出ているが、失敗例もある。成功率の低い極めて難度な手術だ。君の両親には既に話したが、覚悟があるなら、海外に赴き、この手術を受けるという手もある。あくまで、可能性の話でそういう選択肢もあるというだけだ、僕個人的にはあまりお勧めの出来ない話でもある」
海外での手術かー。うーん、それはちょっと私も怖いかな。
流暢に喋れる状況じゃないので静聴してるけど、その選択肢は無しだと思う。私的にも。
「まぁゆっくり考えてみて。兎に角、今は今の体調を良くする事からだな」
言いながら先生は立ち上がると、白い歯を見せて笑ってくれた。
何でかなぁ……安心感ゼロ。
むしろ、安定感は百点満点だけど——
私のこの年の大学の夏休みは、どうやらほぼ全てが入院生活で終わってしまうという事は最早決定されてしまったようだった。
何だかなぁ……、結局こんな事の繰り返しだ、私の人生は。
入院から三日もすれば、酸素マスクは外れ、普通に一人で歩き回れる程度には回復した。
点滴はついたままだけど、回復は早い方で取り敢えず一安心。
そして入院から五日後。
招かねざる客が私の元に訪れた。
いや、まぁ来てくれる事自体は有り難い訳だから礼を言わなければいけないんだろうけど、正直今一番会いたくなかったかも知れない相手だった。うん、そう、なんとなく。
「よぉ、元気か?」
山下君だった。
最後に会った時にあんな別れ方をしてたからどんな対応で来るのかと思ってたけど、意外と普通だった。変に意識して、病室に入ってきた瞬間に身構えてしまった自分が少しだけ恥ずかしくなった。
「ぼちぼちかな」
私が答えると「そうか」と、短い答えが返ってきて、そのままベットの横に置いてあった丸椅子に腰を下ろす。
私は上半身を起こしてベットに座ってる状態で、それをぼーっと見ていた。
切り出す話題とか、話したい事とかは私側には特にないんだけどな……位は思ってた。
山下君が丸椅子に座ってから二分位の沈黙が続いた。うん、何しに来たこいつ……。
私がそう思い始めた辺りで、やっと口を開いてくれた。
「橋本さ、この前俺が言った事覚えてるか?」
「ん? 何の事?」
とか訊き返しながら実は分かってる。
今一番避けたい話題だ。
「俺がお前の事好きって話だ」
空気読めないな、こいつは。
私も人の事を言えた口じゃないけど。
「あ、うん……覚えてるよ」
此処でちょっと照れながら、ちょっと女子っぽくなってしまう自分にも腹が立つ。
私の短所も短所、ハッキリしない性格。
「あれさ、本気なんだ」
「えっと、ちょっと待って、私は——」
「俺と付き合ってくれ」
言われてしまった。
遂に、言わせてしまった。
この際だから言ってしまおう。
私も別に山下君が嫌いな訳じゃない。
それに此処まで直接、しかもストレートに言ってくれたら女の子としては普通に嬉しいし、その玉砕覚悟のような潔さもカッコいと思う。私が普通の女子大生なら、この告白を素直に受け取っていたに違いないと思う。
でも、私はダメだ。
いつ壊れるかも分からない、ヒビの入った欠陥品のような私じゃ、その告白を受け取る事は出来ない。
それに例え、山下君と付き合い、愛し合えたとしても、私はきっと翔馬の事を忘れる事だって出来ない。
「ごめん山下君、気持ちは嬉しいんだけど私は……」
「木下の……翔馬の奴の事なら忘れなくてもいい。これは俺の例えばの話だが、例えば俺達が将来一緒になっても、翔馬の墓参りは一緒に行けばいいと思う。それに、お前が俺を愛してくれて、それ以上に翔馬を愛していたとしても、俺は気にならない。俺はそんなの気にならない位、それ以上にお前を愛する自信がある」
「私は欠陥品だよ? 病気の事、翔馬に聞いてるんでしょ? いつあなたを置いて死ぬか分からないんだよ?」
「これも俺の例えばの話だが、例えば俺だって明日事故に遭って死ぬかも知れないし、例えば明後日、殺人事件に巻き込まれて死ぬかも知れない。橋本が死ぬ前に俺が違う病気で死ぬかも知れない。だから、どっちが先に死んでしまうとか、俺はそんなの関係ないと思うんだよ。五年、十年先の事を考えて生きるより、今此処に確かに存在する一分一秒を俺はお前と生きたいと思ってる」
ちょっとタイム。駄目だ、涙が出そうになって来た。今のはちょっと……っていうか、凄く嬉しかった。
ここ寸前で何とか涙を堪え、私はまだ反論した。
本当はもうしたくない、今すぐ頷きたい気持ちを必死に押し殺しながら、反論した。
「なんだかんだ言って全部綺麗事じゃん。私は穢い女だよ? 服で隠してるけど、この服の裏側は傷だらけで汚れてる。それ見たら山下君だってドン引きするよ? 絶対に」
「これは俺の例えばの話だが——」
「例えばで話すの禁止!」
山下君の反論を遮って、声を張った。
もうこれ以上、山下君のペースに付き合わされるのはごめんだったから。
そう思って、声まで張ったのに、次の瞬間、ガタッと丸椅子が動いた音がした。
その後は一瞬の出来事で、山下君の右手が私の顎をくっと軽く上に傾け、急に立ち上がった山下君の唇が私の唇に重なってきた。
キスされた事を自覚した瞬間、頬がカーッと熱くなるのを感じた。
山下君の唇がゆっくり離れ、物凄い至近距離で山下君がフッと笑う。
「ドン引きなんてしねぇよ……お前ほど心が綺麗な奴に俺は会った事がないんだ。だから、どんな傷でも受け入れる。お前の傷は俺の傷だ——もう一人で背負うな」
喋りながら山下君の頬を一粒の涙が伝った。
ほぼ同時に私が堪えていた涙も栓をきって流れ始める。
山下君の右手が私の左頬に触れる。
「一人で背負うこたぁねぇんだよ……! 翔馬が死んで辛かったよな? 俺達の前で気丈に振る舞うのは苦しかったろ。ごめんな、もっと早く気付けてやれなくて……ごめんな」
山下君が鼻をすすり、泣きながら言葉を紡ぐ中、私の涙は山下君の倍以上流れていた。
必死に下唇を噛んで止めようとするけど、止まらない。全然、止まらない。
「でも、お前が生きてる間に気付けて良かった。お前がそれらの辛さや苦しみを乗り越えて、今を生きててくれて、本当に良かった。もう我慢すんな、吐き出せよ、抱えたものに潰されそうになってんなら誰かの手を握ればいいんだよ。お前はもっと幸せになるべきなんだ。だってそれは、翔馬が、あいつが一番望んでる事だと思うから」
「山下君……」
「橋本……俺と結婚してくれないか。お前の事は、俺が絶対に幸せにしてやるから」
「それも……例えばの話?」
ここは精一杯に戯けて見せた。
泣きながら笑って見せた。
「馬鹿な事言ってんなよ、人の一世一代のプロポーズに」
頭を拳でちょこんと押された。
わぁ何これ、恋愛映画の主役みたいだ。
死亡フラグなんじゃないの、本気でそう思った。
幸せ過ぎて死にそうだ。
嬉しい筈なのに、涙が止まらなかった。
そして、私達はもう一回キスをした。
離れる山下君の唇を追いかけて、少し長めのキスをした。
その後の入院生活には少しだけ光が差した。
退院出来る日が待ち遠しくなって、山下君がお見舞いに来てくれた日は退院後に一緒に何をするかって話をずっとしていた。
一分一秒でも早く退院出来るように、小山先生の言う事もちゃんと聞いて、自分の病気とも真摯に向き合い直した。
九月末頃、ようやく退院の許可がおりた。
待ち遠しかった退院の日を迎え、山下君の家に驚かしに行ってやろうと思ってたんだけれど、その前に少しだけ、寄り道してから行く事にした。向かった先は翔馬のお墓だった。
命日を少し過ぎてからのお墓参りになってしまったけど、ごめんね。
私は暮石の前にしゃがみ込み、また話しかけていた。
「翔馬、私、山下君と付き合う事にしたよ。結婚してくれって言われたけど、まだそこまでは踏ん切りがつかなくて、取り敢えず結婚を前提にしたお付き合いって事になったんだ」
勿論、翔馬のお墓から返事が返ってくる事はない。でも、私にはお墓の後ろに「そっか」と笑ってくれてる翔馬の姿が見えた気がした。
「あ、それとね、ネックレスなんだけど……ごめんね、あれ友達にあげちゃった。その友達も前に酷い失恋をした子でね、恋愛成就のお守りって事で——ごめんね」
本当は捨てちゃおうと思ったんだ。
翔馬に対する未練を断ち切る為に、前に進む為に。でも山下君に止められた。
捨てる必要はないって。
でもどうしても自分で持ってるのが辛いって言うなら、そのネックレスを見て前に欲しいって言ってた奴を一人だけ知ってる、ってそう言って山下君が連れて来たのが誰かと思えば雪だった。
雪ならきっと大事にしてくれる、だから私はあのネックレスを手放す事を決意し、雪に託した。
恋愛成就のお守りとか、そんなのは表面上の建て前だ。
雪はあのネックレスが私がかつて別れた恋人とのペアネックレスという事だけは知っている。
山下君と付き合い始めた事はまだ内緒にしてるけど、だからあのネックレスを渡した時、雪は私に「やっと前に進める時が来たんだね」と言ってくれた。
何も分からないまま、私の前進を祝福してくれた。
いつか雪にも、本当の事を全て話さなきゃいけない。そう強く思った。
「じゃあ、そろそろ行くね」
私は立ち上がる。
行こうと思って立ち上がったのに、足が動かなかった。このまま去ってしまうと自分が本当に冷たい女のような気がして、罪悪感が足に絡みつき、私をそこに縛りつけてしまった。
暮石の前で、私は静かに、また涙を流してしまった。泣いて許されるだなんて思ってない、泣きたくなんかないのに、自分が酷く哀れで醜い女のように思えて、無性に辛くなった。
「翔馬の事を忘れる訳じゃないから……言い訳に聞こえちゃうかもしれないけど、新しい恋人を作って、ネックレスも手放しちゃったけど——翔馬の事を、忘れる訳じゃないから。私はとんだ浮気者かも知れないし、本当に身も心も穢い女かも知れない。あれだけ翔馬の事が大好きって言いながら、結局一人で居るのが辛くて、山下君の手を握っちゃった。これから先、山下君の事も傷つけるかも知れない、そう思うと凄く怖い……こんな事今更言う資格はないかも知れないけど、でも私は、私は今でも翔馬の事も大好きだから……ごめんね、こんな穢い女で、ごめん……」
“もう泣くなよ。今度は大和と一緒に、笑って来てくれよな”
私の希望的観測が聴かせた都合の良い幻聴かも知れない。
そんな非現実的な事が起こる訳ない。
そう思ったけど、この時の私はどうかしてたんだと思う。幻でも、過去の記憶でも良い。
私は、私の中で生き続ける優しい翔馬に甘えたかった。
科学で証明出来ない奇跡だって、あるよね?
期待しても——信じてもいいよね?
どうかお願いです、今だけは、また君に出会えた事を、私に信じさせてください。
私の耳に届いたのは、確かに翔馬の声だった。——と、言わせてください。
——そして、あれから早四年の月日が経った。
「本当にいいんだね?」
診察室で向かい合う私の担当医師、小山先生が、念を押すようにそう尋ねてきた。
私は耳につけたハート型のピアスを揺らしながら、深く頷く。
「はい、大丈夫です」
言いながら小山先生に渡した紙は、私のサインが入った手術の同意書だった。
四年前、小山先生が私に話してくれたまだ成功例の少ない海外での難しい手術、私は今年になってようやく、それを受ける決意をしたのだ。
小山先生は同意書を受け取りながら、少しだけ唸った。
「彼は……旦那さんは、何て言ってるんだい?」
“旦那さん”なんて慣れないワードを投げかけられ、私はついクスッと笑ってしまった。
「彼ですか? 彼は、私の決めた事なら応援するって言ってくれてます」
さり気なく自分で言い直しておいた。
まぁ婚姻届は出してるし、旦那さんでも間違いはないんだけど、まだ近しい友人達には私達の事は全部隠したままだから、ちょっと小恥ずかしい。
「そうか……、いいかい? 美織ちゃん。この手術は簡単に言うと、君の身体の中に機械の——」
「もう何回も聞きましたよ、それは」
小山先生の手術についての長い説明が始まる前に、私はそれを遮った。
何回も聞いたし、何回聞いても今一よく分からないから、今更聞いても私の答えが変わる事はない。
「じゃあこれだけは言わせてくれ、非常に難しい手術になる……それでも君はこの手術を受けると言うんだね?」
「もう同意書にサインしましたよね? 私」
「手術が失敗すれば命を落とす可能性もあるんだよ?」
「分かってます、覚悟の上です」
「もしそうなったら、彼や美生ちゃんの事はどうするんだい?」
「小山先生……私を心配してくれる気持ちは有り難いと思ってます。でも、それは先生の私情ですよね? 私は手術を受けるって決めたんです。頑張ってこいとかそういう言葉をかけて欲しいんですけど——患者の不安を煽ってどうするんですか」
「あ……ご、ごめん」
「それに、彼や美生の為でもあるんです。私の余命が少しでも延ばせるなら、それに賭けたいんです。出来る限り長く、彼らの側に居てあげたいんです」
「そうか……うん、分かったよ。同意書と一緒に、向こうの病院に紹介状を送ろう。しばらくは海外の病院に入院する事になるかも知れないけど、一人で平気かい?」
「大丈夫ですよ、もう四年前とは違いますから」
「そうか」小山先生が笑った。
手術の件に関して、患者の私が医師の小山先生を説得してるなんておかしな光景だななんて思いながら、私も口元に左手を当てながら笑った。
ふと、左手の薬指に嵌った指輪を見て思い出した。
「あ、そうだ、先生」
「ん?」
「手術が成功して無事帰ってこれたら、私達結婚式を挙げようと思ってるんです」
「おう、いいじゃないか」
目を丸くして、明るい表情で答えてくれる小山先生。
私もつい嬉しくなる。
「ここ二年、忙しくて全然考える事も出来なかったんですけど、これを機にそう決めました。そこでやっと、友人達にも私達の関係を報告するつもりです。先生も来てくれますよね?」
「勿論、参加させてもらうよ」
小山先生の柔らかい笑顔に、私も笑顔で返した。
翌月、十一月。
私は海外での難しい手術とやらを受ける為、単身日本を旅立つ事になった。
出立の日、仕事を抜け出して、スーツ姿のままの彼が私を空港まで見届けに来てくれた。
「じゃあ行ってくるね」
私がそう言ってキャリーケースの取っ手を掴む。すると、彼が余りにも寂しそうな顔をするから、踏み留まって「何?」と訊いてあげた。あげた、なんて上から目線で言っちゃうあたり、私の悪い癖なんだけど。
離れたくないって気持ちはお互いに一緒だ。
そこんとこ、私達は素直じゃない。
「いや、ほら、行く前にこう名前つーかさ……」
煮え切らない態度が沸いている。
煮えきってないのに、沸いている。
「ん? 何? どういう事? 何が言いたいの?」
本当は何が言いたいか分かってるけど、言わせたい。なんて、ちょっと意地悪かな、私。
「いや、何でもねーよ、頑張れよ」
あ、諦めやがったこいつ。
じゃあ、もう知らない。
「うん、分かった」ちょっと不機嫌めに答えて、私はキャリーケースを引っ張り歩き出した。
私達の付き合いは周りに隠してるから、基本人前で名前で呼び合わないのが私達のルールになっていた。
今でも「橋本」「山下君」と呼び合っている。
勿論、同棲してる家に帰れば名前で呼び合ってるけど。
普段外で名前で呼び合えないのは彼は少し不満らしい。だから、人目を避けては何かと私に名前を呼ばせたがる。
さっきもそうだ。
まぁ、家にいる時ですら「ねぇねぇ」とかが多くて私が彼を名前で呼ばない事が多いから、余計そうなるんだろうけど。
ハッキリ言えばいいのに、男のくせに。
うん、やっぱりこのまま行くのはよくないな。
しばらく歩いた所で私は立ち止まり、クルッと回れ右して、早足で彼の元に戻った。
彼は戸惑っていたけど、私はそんな彼のネクタイを引っ張り自分の顔に彼の顔を無理矢理近づけてキスをした。
「……っ」
してから無性に恥ずかしくなった。
顔を離すと同時に目を逸らし、キャリーケースの方に視線が泳いだ。
「じゃ、じゃあ行って来るから……美生の事お願いね、大和」
なんだかんだ言いながら、私が一番素直じゃない。うん、素直じゃない。
「あぁ、行ってらっしゃい、美織」
彼の、大和の優しい声が私の名前を発した瞬間、余計に何だか恥ずかしくなった。
「ば、ばか大和……」
これに関しては大和に非は無い。
まぁそんな感じで、空港でうんとイチャついた後、私は日本を旅立った。
飛行機が空を飛んだ瞬間から急に寂しくなって、泣き出してしまった事は秘密だ。
そういう話をすると、男はすぐに調子に乗るから。
私の病気については雪にももう話してある。
年明けまで帰れないかも知れないと言って、空港に向かう前に別れは済ませて来ていた。
空港に大和が来る事は分かってたから、私がわざとそう取り計らったのだ。
海外での入院生活がどれほど長く感じたかは言うまでもない。
外国語が分からない訳じゃなかったから、言語に関しては何の心配もいらなかったけど、それでも大和が居ないだけで私の世界は酷く退屈に満ちてしまっていた。
早く帰って大和に会いたい、その想いだけが私の心の支えになっていた。
その想いが神様に通じた、なんて大袈裟な事を言うつもりはないけど、それが私の生きたいという意志に繋がっていた事は違いない。
手術は無事に、奇跡の成功として終わった。
これで向こう二十年、いや、私次第ではそれ以上の寿命が保証された瞬間で、術後で酸素マスクをつけたまま、まだ動けなかった私は心の奥底で歓喜した。
そしてもう一つ、これは今すぐにでも伝えたかったんだけど、無事に日本に帰れる。また、皆んなに会える。
その喜びも私の鼓動を高ぶらせてやまなかった。
十二月末頃。
術後の回復が予定よりも早く、早めの帰国を許される事になった。
という事で、十二月二十六日、大和を驚かせる為に私は黙って日本に帰国した。
すぐに携帯を取り出し、大和に電話する。
でも電話には出なかった。
正確には通話中だった。
少しがっかりしたけど、まぁいっかと思いながら空港を出て、私はタクシーに乗り込んだ。地元まで向かってもらい、スーパーに向かってもらう途中で、雪らしい子が街中を全力疾走しているのがタクシーの中から見えた。
らしい子、というか雪だったけど。
何してるんだろ? まぁいっか。
私はスーパーでタクシーから降りると、もう一回大和に電話をかけた。
今度はワンコールもせずに出た。
『み……橋本?』
おっと、これは外に居るな?
私の呼び方で瞬時にそれは理解する。
『お前、手術は……』
「あれ、言ってなかったっけ? 無事成功したよ」
惚けてはいるけど、驚かせたくて言ってなかったのだ。
『本当か?! 良かった! マジで良かった! 今日はマジでめでたい日だな』
いや、手術が成功したのは今日じゃないんだけどね。
面倒くさいから訂正しなかったけど。
「あ、そうそう、もう一つ報告が」
『ん? 何だよ』
「日本に帰って来ちゃった」
『はぁ?!』
「向こうの医者の許可はちゃんともらってるから」
『マジかよ』
「あ、でね、今スーパーに居るんだけど、今日何か食べたいのある?」
『え、作ってくれんのか?』
「帰国祝いにパーっとやっちゃおうよ」
『お、おう——あ、でもお前気をつけろよ』
「ん? 何が?」
『最近この街で旅行者を狙った連続殺人が立て続けに起こってんだよ、怪しい奴が居ても絶対に近くなよ』
「へー、旅行者を狙った連続殺人ねぇ……まぁ大丈夫じゃない? 私、旅行者じゃなくて帰国者だし、一人なんだから、言わなきゃ旅行者かどうかも誰も分かんないでしょ」
『そういう問題かよ……』
「それよりさ、大和、今日何時に帰って来れそう?」
『あー、えと……夜の八時までには帰る。あ、いや、お袋んとこに美生迎えに行かなきゃいけねーから、八時過ぎくらいか』
「ん、分かった。じゃあご飯作って待ってるね。何か食べたいのあったらメールして」
『お、おう……なぁ橋本、お前なんか今日機嫌よくね?』
「そりゃあ、大好きな大和に久々に会えるからじゃない? じゃあね」
言いながら急に恥ずかしくなって来て、一方的に電話を切った。
いやいや、自分でもそれは何となく分かってたけど、今日の私はデレデレし過ぎだ。
どこの漫画の何キャラだってツッコミたくなる位に——ま、今日くらいはいっか。
私は開き直って、耐えきれなくなり笑みを浮かべた。
スーパーのカゴを片手に、鼻唄混じりに食材を見て回る。
キャリーケースくらい一旦家に帰って置いてくれば良かったなと思いつつ、一緒に引っ張って回っていく。
そうしていると、大和からメールが届いた。
大和からのメールは顔文字も絵文字もない、いつも素っ気ないメールで、今日はそこにはハンバーグとだけ打たれていた。
何故だか、それを無性に可愛いと感じる自分がいる。愛おしいと感じる自分がいる。
「ハンバーグね、了解、と」
大和のメールに返信してからひき肉が置いてあったコーナーは既に通り過ぎていた事に気がつき、私は進行方向の向きを変えた。
その瞬間だった。
黒いキャップに白い梟の絵がついたものを目深に被り、全身黒いジャージに身を包んだ怪しい人物が私の目の前に立っていて、その姿を認識したと同時に、鋭利な刃物が私の腹部に深く突き刺さった。
全身の血が流れ出ていく感覚。
そして、発作が起きた。
視界が一瞬にして歪み、その場で膝をつく。
怪しい人物は私から刃物を抜き取るなり、それを持ったまま従業員専用の出入り口へと姿を消してしまった。
私は力無くその場に倒れた。
嘘だ。
嘘だよね、こんなの……。
折角、手術上手くいったのに……。
やっと結婚式だって挙げられるのに……。
何で私なの? 嫌だよ……助けて、大和——
私は悟った。
刺された時点で分かっていた。
もう、助からないって。
だから、言い残した。
「大和……美生……ごめんね……」
私の意識と記憶はそこで途切れた。
ここから先は私が死んだ後の話になる。
これは私の想像の話だ。
恐らく私が死んだ後、私と結婚している大和は警察から呼び出された筈だ。
そこで私の事を想い、泣いてくれたかもしれない。
身元確認の為に、私の死体を確認した時、大和はどんな反応を取っただろう。
想像するだけで、苦しくなる。
ごめんね……。
美生の事も心配だ。
私と大和の間に生まれて来てくれた一人娘。
妊娠が発覚した時、私の体力では生めないと言われたけど、無茶を承知で私はこの子を生んだ。
妊娠した時、私は純粋に嬉しかったんだ。
病気のせいで大和より必ず先に死んでしまう私が、大和に何か残せるものがあるなら、この子しかいないと思った。
私が死んだ後も寂しくないように、私の面影を少しでも残せるなら、私は絶対に生むと決めた。
もうちょっと、一緒にいられると思ってた。
大和、美生、ごめんね。
そしてその後、何日かした後に私が所持してた物が、遺留品として警察から家族に返される事になるんだと思う。
そしたら、そうだね、伊織お姉ちゃんなら気付いてくれるよね。
私の携帯のロックを簡単に解除して、私がもしもの時の為に用意していた動画をお姉ちゃんなら見つけてくれるって信じてるよ。
だから、これが私からの最後のメッージになる。
誰かが、私の携帯に保存してあった動画の再生ボタンを押した。
「やっほー、ちゃんと撮れてる?」
私は携帯の動画を回しながら、携帯のカメラに向かって話しかけた。
自分の顔を見ながら話すのは照れくさかったので携帯の動画は画面反転機能なんか使わず、画面側を壁に立てかけていた。
だから、ちゃんと私の顔が収まってるか正直分からない。
まあ、映ってなくていいけど。
因みにこれを撮ってる場所は海外の病院。
話し相手がいないからこんな事しかする事がないのだ。
「えー、もしもの時の為に、この動画を残しておきます」
動画を回し始めてから、何を喋ったものか——何から喋ったものか、正直迷ってしまった。
「えー、まぁ、じゃあ順番にいこっかな。まずは、お母さん、お父さんへ。
正直言って、これは面と向かっては言えなくて、言ったら怒られるんじゃないかとか、悲しませるんじゃないかとか考えて、ずっと心に留めたまま言えない事が一つだけありました。それはね、“丈夫な身体で生まれて来てあげられなくて、ごめんなさい”って事。
お母さん、私の事で色んな迷惑をかけて、色んな心配させてごめんね。どんな我儘でも優しく包み込んで私に寄り添ってくれるお母さんの存在は、私にとって、誰にも代え難い大事な存在でした。私がどれだけ不安で、孤独に苛まれている時も、最後まで隣に居てくれて、本当に感謝してる。
お父さん、毎日仕事お疲れ様。ただでもしんどい毎日なのに、お母さんが病院に来れない時はいつもお父さんが来てくれたよね。お父さんの運転で連れて行ってもらった景色の数々は何があっても私の記憶から消えない宝物だよ。蝉の大合唱に赤い葉が踊る森、真っ白い絨毯が敷き詰められた広場とかピンク色舞い散る並木道、いつか赤いカーペットの上を一緒に歩けたらいいなぁって今でもちょっと思ってる。
恥ずかしいからこんな時位にしか言えないけど、私はさ、二人の娘として生まれてこれて幸せだった。世界で一番幸せなんじゃないかって位……いつも幸せだったよ」
そこまで言って、危うく泣きそうになるのを必死に堪えた。
この動画は笑ってやり切るって決めたんだ。
「次にお姉ちゃんね。私の大好きなお姉ちゃん……伊織ちゃん……私さ、実はお姉ちゃんには強い憧れみたいなのを抱いてて、昔っから凄い尊敬してたんだよ? どんな時でも自分の事は二の次でいつも誰かの心配ばっかりしてる。相手を想い過ぎる故にたまに暴発してるけど……私にとって伊織ちゃんは自慢の姉です。だから、お酒の飲み過ぎには注意してください。ただただ、お姉ちゃんの身体が心配です。お姉ちゃんには長生きして欲しい……私が何一つ出来なかった親孝行をお姉ちゃんにはして欲しいんだ。自分勝手な妹の、最後の我儘です。伊織ちゃんがお姉ちゃんで本当に良かったと心から思ってるからね、大好き」
段々と周りの視線が痛くなってきた。
まぁ病室でやってるからねー、これ。
仕方ないか。じゃあ、そろそろ最後にしよっかな。
「じゃあこれで最後にします。大和と美生へ。
大和にはいっぱい謝らなきゃいけない事があるよね。いつも素直になれなくて、迷惑も人一倍かけて、八つ当たりもいっぱいしたと思う。本当にごめんね、そして……ありがとう。
こんな私と真っ直ぐ向き合って、最後まで私を愛してくれた事には感謝してもしきれない想いがあります。もし、手術がうまくいかなくて、私が大和の隣に帰れなくなるような事があったら、私の事はもう忘れて、次の恋に進んでください。どうか大和には幸せになって欲しい……それは私が誰よりも望んでいる事だから。私にもう一度生きる希望を与えてくれた大和に、私は最後まで何も贈ってあげられなかったけど、いつも直接は照れ臭くて言えなかったけど……大好きだったよ、大和。今ならちゃんと言えるよ? 愛してる。もし無事に帰る事が出来た日にはちゃんと伝えるね。
美生、二歳のあなたにこの動画を贈ってもお母さんが何を言ってるか分からないよね。
だから二十歳になった時、もう一度見せてもらってね。美生の名前は文字通り“美しく生きて欲しい”という願いを込めてつけました。捉え間違えないで欲しいのは、美しく生きるって事は穢れなく生きる事じゃないって事。生きていると人は何回も転ぶし、その度に泥だらけになる。人に邪魔されて穢れたり、荒んだりする事もあると思う。でも、そんな時ほど強く立ち向かって生きて欲しい。どんなに汚れても、真っ直ぐ前を見て生きようとする姿は必ず誰かの目には美しく映るから、出来れば美生にはお母さんには出来なかったそんな生き方をして欲しいと思う。
それと新しいお母さんが出来ても、お父さんの事を責めずに、支えてあげて欲しい。後は、そうだね……最高の恋愛を経験する事。
大人になった美生を見れない事がお母さんの唯一の心残りです、もし美生さえ良ければお母さんのお墓にたまには会いにきてください」
結局、涙が頬を伝ってしまった気がしたけど、気のせいって事で押し切った。
カメラの向こう側、この動画が再生される時、この動画を見てる人達はどんな反応をするんだろうか。
やっぱり、馬鹿とか言われてるんだろうか。
お姉ちゃんや大和辺りは私の名前を連呼してるかな?
お母さんは謝ってそう。
美生はまだ何も分からないから、泣いてるパパの横にくっついてもらい泣きしてるかな?
あ、そうだ。
動画を止めかけて、ふと言い残した事を思い出したので、また定位置に戻った。
「じゃーじゃん。問題です、かんかん照りのカンと、晴れをくっつけて作られた言葉、カン晴れとは凄い暑い良い天気という意味が込められていますが、これら全てをカタカナでカンハレと書いた場合、その意味とはなんでしょう」
最後の最後に精一杯に戯けてみた。
暗い雰囲気のまま幕を閉じるのはなんだか嫌だったし、やっぱり私と翔馬が二人で作ったこの言葉も形として残して起きたかった。
なんだかんだ言いながら、翔馬の事もここまで忘れる事が出来ずに来てしまったから。
「答えは……」
本当は頑張れって意味だ。
翔馬が私に最後に言ってくれた、たった一言の言葉だ。
でも私はここでその言葉の意味を変えた。
無事に手術が成功し、また皆んなに会えるようにと願いを込めて。
「答えは、また会おうって意味でしたー!
って事で、皆さん、ここら辺で」
言いながら携帯を手に取り、動画を止める瞬間に呟いた。
「カンハレ」
動画を止めた私は、この携帯のロックが解除された時、すぐにこの動画を見つけてもらえるように動画名をつけた。
動画名は“君に出会えて良かった事”だ。
皆さん、お久しぶりです、花鳥秋です。
もう1月も終わり頃ですが、今年最初の更新となりますのでご挨拶させてください。
皆さん、明けましておめでとうございます。
さてはて、いかがでしたでしょうか?
カンハレ〜君に出会えて良かった事〜
えー、取り敢えずという言い方が果たして正しいのかどうかはさて置いて、カンハレシリーズはこれにて一旦幕引きとなります。
この構成、このラストは一番最初にカンハレを書いた時から決まっており、来世で会おうに登場する大和も実はこちらで先に出来上がっていました。
木下翔馬、山下大和、二人の名字を似たようにしたのも狙っての事だったりしたわけです。
ただ僕としてはこのラストが決まっていたばかりに、カンハレを書いている時からずっと辛い気持ちでなりませんでした。
カンハレ〜君に出会えて良かった事〜に関しましては一カ月間塞ぎ込んでしまい、執筆にのめり込むあまり、五回書き直して、三回泣きました。
故に非常に思い入れのある作品になりました。
今作で美織はまさかの殺されるという結末を辿る事になりました。
実はこの終わり方は終わり方で僕が他に執筆してるシリーズの内容から逆算して設定された結末でした。
こんな事になるなら……と二シリーズも同時にプロットを組んでいた自分を今ではぶん殴ってやりたい気持ちでいっぱいです。
この物語でカンハレ、来世で会おう、両作の伏線が大量に回収されています。
各登場人物の台詞一つ一つに意味を持たせていたものを回収すると、膨大な量になりました。
彼らの成長、彼らの言葉の意味、美織が伝えたかった事、それらのほんの一欠片でもこの作品を読んでくださった方に届いていれば幸いです。
それでは皆さんに再び出会える事を祈りつつ……
See you.