始まりのエピローグ
お待たせしました。
──シュテルク・グレーステの屋敷──
「シュテルク様は、もしかしたら死を覚悟していたのかもしれないね……」
ファナティークはメイが手に持った封筒を見ながら言う。これは新井善太達に向けた、シュテルクの遺書であった。
これ以外にも、屋敷の使用人に向けて、領地の管理者に向けて、それぞれに遺書が用意されていた。シュテルクが高富士祈里との戦闘で行方不明となったあと、彼の執務室の書類の山の中から見つかったのだ。
「まだ生きていらっしゃる可能性も……」
「それはまだあるだろうけど、亡くなったと考えたほうが建設的だよ。これからは私達も、この屋敷の人間も、マッカード帝国を始めとした各国まで、あの人が亡くなった前提で行動しなきゃいけない。死を嘆く以上に大きなことなんだ、これは」
部屋に沈黙が落ちる。
しばらくして、ファナティークは笑った。
「まあ、私達が考えてもしょうがない。特に君達はシュテルク様に生かされた訳だから、それは君達がすべきことをしろってことなんだろう」
「そう、ですね……」
新井 善太は拳を握り、目を閉じた。それを見てか、メイがファナティークに聞く。
「ファナティーク様。魔族の襲撃という話がありましたが、詳細を教えていただけませんか」
「いいよ。まあ私もシュテルク様からの又聞きだけど……世界各国で、ほぼ同時的に砦や街が魔族により襲撃されるという事件が起こったんだ。つい最近の話だよ」
「せ、世界中で?」
唖然とする善太に、ファナティークは首肯する。
「そう。始まりはマッカード帝国のボンド砦だった。そこから各国の場所を問わず、次々と襲撃されていったんだ」
「大事件、じゃないですか……」
「大事件だよ。旅をしていた君達は丁度噂を聞かなかったみたいだけど、もうどの街中でもこの話題で持ち切りらしいよ」
「そんな……」
「まあ、マッカード帝国の勇者を始めとした勇者軍が転移魔法で各地に飛んで静めたらしいから、被害は規模の割に軽微に済んだらしいけど」
「マッカード帝国の、勇者……」
善太はなにか言いたげな表情であったが、ぐっと歯を噛みしめるだけに済ませた。
「だから勇者様達は今忙しいのかなと思っていたんだけど、君達は旅をしていたって言ってたよね?」
「善太様は今まで加護が発現しませんでしたので、きっかけを探るために旅に出ていたのです」
「じゃあ、勇者軍が君達にこの情報を伝えなかったのは……」
「善太様はお優しい方です。加護が発現していなくても、そのような事態が起これば戦場に向かってしまうでしょう」
「なるほどね……」
「でも……僕は加護を、発現させた」
善太の呟きに、二人は彼を見る。
「戻ろう。メイ。今の僕なら出来ることがあるはずだ」
「……そうですね。近くの都市に向かいましょう。マッカード帝国に連絡できる都市に」
「うん」
「待って。私もついていっていいかい?」
ファナティークは出発しようとする二人を引き止め、そう言う。
「シュテルク様がいない以上、私はドイル連邦に行けなくなってしまったから……私の目的としては、勇者である君についていきたいんだ」
「善太様。彼女は我々の恩人ですし、なにより強力な仲間となるでしょう」
「……分かった、僕も、お願いする」
「うん、よろしく頼むよ」
善太は彼女の手を握った。
「じゃあ……行こう!」
神官騎士が 仲間に なった !
的な現場を目撃してしまったわけだが。
「まさかファナティークがコミュ障勇者と合流するとは……」
魔術師、剣士、勇者、暗殺者にシスター追加です。本当にハーレムパーティーになってきてる。まあそのシスター脳筋だしガチガチの前衛なんだけど。
「どうします? 今ならまだ仕留められるかと」
「いや殺して口止めできる段階じゃない。今の遺書で確信した。シュテルクは帝国にも何かしらの手段で情報を残したはずだ。それを探ることもできるかもしれないが……」
それにはリスクがありすぎる。何かしら罠を用意している可能性があるし、それを俺が看破できる保証がない。死んでもなお、シュテルクのことを警戒しなければならないとは……流石に人類最強といったところか。
「さっきも言ったように、これからは勇者達に俺の情報がバレてる前提で行動する」
「その方針は分かりますが、具体的にはどのようにするつもりですか?」
「魔族領に入る」
俺の発言に、アリーヤは息を呑んだ。
「まだ時期尚早という話だったのでは……?」
「予想外のレベルアップがあったからな。もう昼間も戦えると言っていい頃だ」
シュテルクとの戦闘は結局ギリギリの勝利となったが、苦い結果とは思わない。コミュ障勇者の援護ありきでアレだからな。昼間の俺は十分戦えるレベルになったと考えても楽観的とはいえないだろう。
成長を感じるね。
「アリーヤだってもう普通の魔族以上の強さだろうしな。シュテルクの自動鎧も問題なく全て処理したようだし、フェンリル達の援護があれば余程の強敵じゃない限り大丈夫だろう」
シュテルクレベルだとまあ負けるだろうが、あんな化物みたいなやつがそうゴロゴロいるわけない。……わけないよな? 道中もう二体?ほどヤバイのと遭遇したが……まあ運が悪かっただけということにしておこう。
「大体俺たちは吸血鬼だ。種族的には魔族なんだから、むしろ人間の街より溶け込みやすいだろう」
「まあ、そうですね」
「できる限り出発は早い方がいいな。というかもう今すぐ出発しようか。あまり人間の国に留まるのは得策じゃない」
「となるとここからは徒歩ですか……折角馬車を貰えそうだったのに」
まあリーン聖国に入ったときみたくアリーヤに全部おまかせって形にはならないから安心したまえ。
……と、そういえば気になることがあった。
「アリーヤ、何か忘れてないか?」
「はい?」
「いや、一人行方がわからない奴がいないか?」
「そうですか?」
アリーヤは指折りで数える。
「新井善太、メイ、リリー、フィオナ、ファナティーク、私と祈里……」
そして首を傾げた。
「全員いますよね、あれ?」
「…………」
「あ、シルフ!」
「それはここにいる」
「プギュエッ」
俺は手に持ってるグレイプニルを縮めた。その先は、リードで繋がれた犬のように、シルフの首に巻かれていた。魔力を流してグレイプニルを縮めると首が締まったのか、カエルが潰れたような音が出た。
何今のおもしろい。
「ちょ、ちょっと! 面白いからもう一回やろうって顔しないでくれる!?」
「OK分かった後にしよう」
「何も分かってない!」
「あ、あの……なぜシルフがグレイプニルで繋がれているのですか?」
「俺が寝てる間に逃げようとしたんだろう? だから一応繋いでおこうかなと」
「飼い猫感覚……」
「飼い猫だったら首締めたりしないわよ!」
うるさいな。もう一回締めようかな。
とか考えてたらシルフがビクッと身を震わせて押し黙った。おやおや以心伝心じゃないか相性いいんじゃないか俺達。
「……じゃなくて、アリーヤ。シルフ以外に誰か忘れてないか?」
「シルフ以外ですか……? すみません。分からないです」
「セバスチャン」
「あっ」
……うん。気づかないわけがないんだよな本来。俺達はともかく、そもそも先に依頼を受けてここまで一緒に来たコミュ障勇者達が、あのジジイがいなくなったことに気づかないわけがない。
俺が最初奴の正体に気づけなかったのと同じだ。思考操作のようなものを受けているのだろう。まあそんなものとは次元が違うだろうが。
「何をなさっているのでしょうか……」
「さあ? 何かおっさん……イグノア以外に用件ができたんじゃないか? 気まぐれかもしれないが」
「……? なぜ先々代魔王が?」
あれ言ってなかったっけ。
「セバスチャンの正体って創造神だぞ」
「……?」
「ドイルに行く要件ってのはイグノアに会うことだったらしい」
「……!? な、え?」
瞬きを繰り返しながら、情報を処理しようとしているアリーヤ。処理しきれずに頭から湯気が漏れそうだ。
「まあ、そんなわけで気にしてもしゃーない。さっさと魔族領に行くとしますかね」
「グエッ」
「ま、待ってください!」
待ての声も聞かずに走り始める。
グレイプニルを引っ張ったせいでシルフからまた変な音が出た。
森の木々に隠れつつ、前を走る俺。引っ張られるシルフ。心配そうにシルフを見つめながら並走するアリーヤ。
二人の会話が後ろから聞こえてくる。
「シルフ、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないわよ! というかさっき私を縛ってくれたあんたに心配されたくないんだけど!」
「ごめんなさい……あの時は自分でも訳がわからなくて、あまり覚えてないんです」
「は──? あれを覚えてないとか! あんときのあなた凄かったわよ? 殺意満々に私をにらみつけて、この黒い糸ビュンビュン振り回して、もうムチみたいに私を叩きまくったあとぐるぐるにして巻き付けて首締めながら手足を引きちぎるみたいに引っ張ったあと首に刀突きつけて!」
「……盛ってません?」
盛ってる。
確かにグレイプニルで拘束はされていたが、ムチみたいに叩かれたあともないし首も締まってなかったし手足引きちぎるの意味分からんし。
大体グレイプニルそのものの機能は、魔力を流して縮んだり硬化したりするだけだ。「遠隔操作」は俺の《闇魔法・真》の能力であって、アリーヤが自在にグレイプニルを操れるわけではない。
「我を忘れていても絶対嘘ですよ、それ」
「嘘だな」
「うーそーじゃーなーいー!!」
そんな感じで騒がしくも、俺達は魔族領へと向かうのであった。
──マッカード帝国城内──
「……やっぱ、無理か?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
金城啓斗の前で、珠希はか細い声でそう繰り返す。珠希に私室として用意された部屋で、二人はしばし沈黙した。薄暗い室内に、カーテンの隙間から仄かに光が漏れている。啓斗は来客用の椅子に腰を掛けており、珠希はベッドに座り込んでいた。
一つうなずいて、啓斗は顔を上げた。
「まあええわ。強要はせん……あんなことがあったあとやしな」
「信じられないんです……まさか……龍斗……」
珠希はそこまで言って、口を抑える。
「ああ、まさか龍斗が裏切るなんてな……俺も信じられへんかった。けどこれは現実や」
「っ……!」
「……しばらく休んでてええで」
啓斗は椅子から立ち上がると、珠希の部屋から出た。
木製の扉を閉め、背中をもたれかけながら大きく息を吐く。
しばらく啓斗がそうしていると、横からそっと声をかけられた。
「……啓斗さん」
「ん? 空か」
啓斗の顔を、空は心配そうに覗き込んでいた。
「どないした?」
「大丈夫ですか?」
「……ああ、どうやら無理そうやわ。珠希と葵は、残念やけどここでリタイアや」
室内に聞こえないよう小声で言った後、啓斗は苦笑する。
龍斗が魔人になったという報告を受け、すぐに啓斗と空はマッカード帝国に戻ってきた。帝国軍の動揺は激しく、とりわけ珠希と葵の精神状態は酷いものであった。不幸中の幸いと言うべきか既に魔物の群れは撤退しており、数字上の被害は軽微であったが、勇者軍として彼の損失は計り知れない。啓斗は迅速な建て直しを求められていた。
珠希と葵はあの日以降しばらく人と話すことを拒絶しており、それぞれの自室にこもりきりであった。最近になってようやく啓斗も彼女達から話を聞けるようになったが、未だに食事が喉を通らないらしく、二人共人が変わったようにやつれていた。
はっきり言って、彼女達の戦線復帰は不可能に近かった。例え戦えるようになったとしても、あの精神状態ではいつ足を引っ張るか分かったものではない。幾ら彼女達の加護が強力だとしても、合理的にここで切り捨てるのが軍として正解となる。
「ま、切り替えてなんとかするしかないやろ」
「……二人のこともそうですが、私は啓斗さんが心配です」
「え? なにを……」
啓斗は軽くおどけようとしたが、空の真剣な眼差しに言葉を止めた。
ため息をつく。
「誤魔化せんか」
「私がどれだけ啓斗さんを見てきたと思っているのですか」
「……せやったな」
自嘲する。
啓斗は扉から背中を離すと、そのまま廊下を歩き始めた。
「確かにショックやった。戦力としての損失もある。ただ、どうやら俺にとっても、あいつの存在は結構大きかったみたいや。認めたないけど……いつの間にか、あいつを弟に重ねてたみたいやな」
「弟さん……ですか」
空は目を伏せる。啓斗の弟の件は、彼女もよく知っていた。
元の世界にいた頃の、また別の世界の魔族の襲撃。それにより弟は命を落とした。啓斗は弟の死を悔い、戦いに身を投じることとなったのだ。
「一つ決めたら視野が狭なるとことか、今思たらそっくりやったな……まあ、だからといってどうって話やない。私情より現実や。俺はあっちに皆をおいて逃げてきたようなもんやからな、その分こっちで頑張らなあかん」
「逃げてきたなんて……」
「結果的には同じようなもんやろ。これ以上逃げることは許されへん」
むしろ逃げてたまるか、と言うように啓斗は強く前を向く。過去の一切を振り切って、彼はやるべき事をやらなければならない。
だが空は、何かを声をかけようとして、口を噤む。二つの壁に挟まれた長い廊下を進む啓斗の背中が、彼女にはひどく痛ましく見えた。
(啓斗さんは……自分を追い込んでいるのではありませんか……?)
亡き弟への後悔。魔族への怨恨。あちらの世界に残してきた部下達の願い。こちらの世界の人類の未来。あらゆる壁を周りに置いて、前だけにしか進めないようにしている。逃げられないようにしている。そうにしか思えなかったのだ。
啓斗は望んで切り立った峰を歩いている。一歩一歩なにか高い山を登っている。だがずっと横で見ていた空からすれば、彼の呼吸はあまりにも苦しそうだった。
(でも、私は止められない。ここでやめれば啓斗さんは、さらに苦しむことになる……)
空は自らの力不足に、静かに拳を震わせた。
「──空?」
「あ、はい?」
「もう着いたで。なんやぼーっとしてたみたいやけど」
「す、すみません……」
二人は会議室の扉の前にいた。濃い茶色の木製扉の向こうからは、緊張感のある空気が漏れている。
「ここからが本番や。気を引き締めんと」
「……はい」
「ほな、いくで」
軋む音と共に、啓斗は扉を開けた。
室内の明るい光が二人の視界を染める。
会議室の中には円卓がある。そしてそれを取り囲むように人々が並んでいた。そのうちの一人が苛ついた様子で声を上げた。
「おい、遅えじゃねぇか。遅刻とかカッコわりぃぞ」
「あんただっていつも遅刻してるでしょ? 何偉そうにしてんのよ」
「俺はいい」
「はぁ!?」
「二人共落ち着いて……」
口喧嘩を始める伊達正義と 会田光。それを仲裁しようとする田中雄一。
「もう皆、集まっておるぞ」
「ああ、待たせてすまんな」
相変わらずの堅苦しい口調で言う松井に、啓斗は苦笑した。
この場にいる面子は、啓斗は先の魔族の襲撃で、一度顔を合わせていた。元ライジングサン王国の勇者三人とマッカード帝国の勇者、新井善太の4人を除く、全ての勇者が円卓を囲んでいる。
召喚された勇者総勢32人がこの場に集結していた。
金城啓斗は円卓に手を置く。
「それじゃ『第一回勇者軍作戦会議』始めよか」
カーテンの隙間から少しだけ光が漏れる、暗い部屋。燭台の灯が弱々しく揺れている。机の備品は無造作に散らかっており、ベッドの布も皺がついてしまっている。
扉が静かにノックされ、ベッドに伏せていた珠希は顔を上げた。
重い足取りで扉まで歩く。開けると葵がいた。
「珠希……」
「……どうしたのよ」
「お話、したくなって」
今にも泣きそうな声で言われれば、珠希も首を横に振れない。そのまま彼女を自室に招いた。
「金城さん……来た?」
「うん。ここから先、戦えるかって……でも」
「……ん」
肩を抱いて体を震わせる珠希。葵も小さく首肯する。自分達が戦えないところかまともな精神状態に無いことは、二人が一番よくわかっていた。
「ねぇ、葵。なんでなんだろ……」
珠希の脳裏に、龍斗が居なくなったあの日の光景がフラッシュバックする。泣きそうな顔をして叫ぶ龍斗。それにつばを吐きかけながら罵詈雑言を口にする自分。覆いかぶさり、彼に矢が刺さり、その表情が歪む。そんな記憶。
「なんで……」
珠希は震え声のまま続ける。
「なんであの日、私達はあんなこと言っちゃったんだろう……!」
堰が切れたように、珠希は叫ぶ。
「……私達、龍斗が裏切るわけないって、言ってたじゃん! 何か意図があるはずだって、二人で話し合った! 龍斗を倒そうって皆が言うから、それを止めようって決めてたじゃん! 話し合って、それでも駄目なら、三人でどこかに逃げようって! あいつはバカだから、また勝手に一人で走ってるだけだって! だから一緒に歩こうって……魔人になってたって……もし本当に裏切ってたって……三人でいれればいいって……」
徐々に声はかすれ、小さくなっていった。
「だから絶対最初に、『おかえり』って言おうって……」
そこで珠希は押し黙った。葵は只管に暗い顔で、下を向く。
「私も……龍斗に……酷いこと言っちゃった……うッ」
口に手を当てて咳き込む。そんな様子の葵を、珠希は思わず抱きしめる。
龍斗を出迎えようと考えていた。彼が無断で砦を飛び出してからというもの、ずっと彼女達は不安だったのだ。それでも龍斗が二人のために行動したのは分かりきっていたから、笑って出迎えようと決めていたのだ。
しかし実際に龍斗の魔人の姿を見ると、頭が真っ白になった。勝手に口が動き、勝手に酷いことを言って、勝手に矢を放った。まるで自分じゃない誰かが体を操っているかのように、勝手に動いたのだ。その時の龍斗が見せた表情は、あまりにも歪んでいて、罪悪感と謎の焦燥感で後に嘔吐するに十分だった。
終わってから、夢でも見ているのではないかと幾度も疑った。目が覚めたら横に龍斗が笑っている。そんな幻想を、二人は腐るほど抱いた。
「ダメだよ……私達は龍斗がいないとだめなのよ……」
「……」
抱き合いながら、それでも満たされない空虚感に二人は泣き続ける。どうしようもなく大切なものを失ってしまった。しかし過去を変えることはできない。現実で、この世界で起きてしまったのだから。
カーテンの向こうに見える景色は明るく、吐き気がするほど明瞭だった。
「あんたも狙ってるのかい?」
唐突に声をかけられ、フードをかぶった男は振り向いた。馴れ馴れしく話しかけてきた女はヘラヘラと笑いながら近づいてくる。
「『も』とは?」
「それ、見ていたんだろう? 『赤首』」
男はそれと指された張り紙をもう一度見る。生死不問で首を持ち帰った時の膨大な賞金額が、赤髪の魔人の写真の下に荒々しく書かれている。
「魔王代理の命令で秘密裏に行われた人間達への襲撃。その際に魔人にされたが、自分の主を殺害し逃亡した元勇者。その後どうやったか我々の領域にまで入り込み、魔族の殺害を繰り返している。名前は確か……リュート、だったっけ」
「詳しいんだな」
「この仕事、結構情報集めるのが重要だと思うんだけどねぇ。仲間には変な目で見られるけど」
「そうなのか。俺は普段こういう仕事はやらないから、詳しくない」
「あら、賞金稼ぎじゃないのかい」
「普段はただの傭兵だ。今ちょうど金欠でな。手っ取り早い稼ぎ口を探していた」
魔族の男はため息をついた。フードが揺れ、頭に生えた角がちらりと見える。
三つ眼の女は苦笑した。
「まあ慣れてないならやめたほうがいい」
「俺も結構腕に覚えがあるのだが、そんなにこいつは強いのか」
「ああ強いね。なにせ元勇者様だ。その上魔人化して強力になっている……でもそこが問題じゃないのさ」
「ならばなぜ」
彼の疑問に、魔族の女は張り紙のある記載部分を指で叩いた。
「この貼り出された日付見てみ」
「……10日前だな」
「そ。しかも元勇者で魔人。その上この賞金。『神の怒り』とやらで賞金首自体の人数も減ってるし、『神の怒り』の原因が勇者にあると考えたやつも多いのか、エラく人気があってね、既に数十人単位でこいつを追いかけ回している。日夜問わず休みなしに。もう半数が返り討ちになってるけど、連中頭に血が上ったのか引く気がなさそうだから」
三つの眼を閉じて、やれやれと首を振る女。
「今ごろ衰弱してるか、餓死寸前って所だろうね。今更向かったところで間に合わないよ。他の無難な仕事探すんだね」
「それは……」
髭をなでながら、フードの男は建物の外を見た。
「……可哀想にな」
「ん? あぁ、まあそうかもね? 元人間の魔人に同情とか、あんたおかしな人だね。確かにただならぬ空気を感じるけど」
「そうか? 俺なんかに話しかけてくるなんて、あんたも大概だと思うけどな」
フードの男は肩を微かに揺らし、静かに笑った。
二人の周りには、一切他の魔族が寄り付かなかった。
俺は走った。
とにかく走った。
走っていれば、悲しみも、怒りも、虚しさも、全てから目を逸らせる気がしたからだ。
珠希に怯えられ、葵に射られ、騎士達から追い出されて、マッカード帝国から逃げ出して、3日後。
俺は息を切らしながら、ある村へと辿り着いた。
三日三晩走り通して、何も飲んでいなかった。とにかく喉が乾いていた。
とりあえず水をもらおう。なにせ丸3日も水を口にしていない。
できれば何か食べ物を恵んでもらおう。ひどく腹が減っていた。
そう思って村に近づくと、その村で何か騒ぎが起きていることに気がついた。
慌てて近づいてみると、そこには魔族がいた。
近頃の魔族の襲撃の影響だろうか。
戦場から逃げた魔族か何かが、村を襲撃していたのである。
子供の悲鳴。
女子供を避難させる勇敢な青年。
農具を武器にして構える人々。
しかし震えながら戦っている村人達も、別に魔動具を装備しているわけではない。
歴然とした力の差があった。
既に何人かが殺されている。
血の跡があった。
惨劇が起こっていた。
頭が真っ白になった。
「こ、の……クソ魔族ガァァァァ!」
気づけば俺は加護を発動させて、その魔族に飛びかかっていた。
確かに目の前の光景に怒ってはいた。だがそれだけじゃなかった。
感情の行き場を求めていたから、その八つ当たりだろうか。
あるいは自分の現状を、何かのせいにしたかったのかもしれない。
「な……魔人だと!? こんな所に!」
村を襲っていた魔族は、驚きながらも俺に強い敵意を向けてきた。
どうやら魔族達は、見た目が似ていても魔族と魔人の区別がつくらしい。
そして彼らは魔人のことをひどく嫌悪しているようだった。
「穢らわしい! さっさと消えろ半端者め!」
「ガァァァァ!」
加護は最大限まで発動しているわけではなかったから、最初は苦戦した。
だが確実に、ボンド砦で相手をした魔族達よりは弱かった。
無我夢中で殴っていると、いつの間にか魔族は事切れていた。
息を荒げ、自分の手を見る。
魔族の血で赤く染まっていた。
嫌に青い空を見上げて、俺はしばらく荒く息をついていた。
コツン、と。
何かが頭にあたった。
ふと周りを見ると、村人達に囲まれていた。
彼らは武器をこちらに構えたままだった。
ある人は震えながら、ある人は怯えながら、ある人は強くにらみながら、ある人は歯を噛みしめながら。
とにかく、強い敵意を持って俺に武器の穂先を向けていた。
俺は慌てて弁解した。
「ま、待て! 俺は味方だ! 人間なんだ。君たちを傷つけたりは……」
「嘘をつけ!」「どうせそいつの仲間なんだろう!」「この化物め!」
村人達は聞く耳を持たなかった。
いくら訴えようと、俺の言葉は彼らに届かなかった。
なんだこれは。
まるで、昨日の繰り返しじゃないか。
縮図だ。
なんなんだこれは。
腹の中に溜まったものを、喚き散らして吐き出したい。そんな気持ちになった。
またコツンと何かが頭にあたった。
それは石だった。
誰かが俺に、石を投げてきたのだ。
「父ちゃんの仇!」
そう叫んだのは幼い少年だった。
小さい腕で拳大の石を掴んでいた。
大粒の涙を溜めながら、歯を食いしばり僕を睨んでいた。
「バケモノ!」
「やめなさい! 離れて!」
周りの大人が止める中、必死に石を投げようとする子供。
先程の襲撃で、父親が殺されてしまったのだろうか。
どちらにせよ、それは僕じゃない。
君の敵は僕じゃない。
僕は君達を助けたんだ。
そう言いたかった。でも言えなかった。
まるで肺から息を吐き出しきったみたいに、声が少しも出なかった。
その子は確かな憎悪をもって、僕を見ていた。
僕は初めて、子供から本気の殺意を向けられたのだ。
その事実がなぜか僕はとても恐ろしくなって、たまらず逃げ出した。
「くそ……逃がすな!」
「馬鹿やめろ!」
恨みから僕を殺そうと追う者。
僕に殺される事を危惧して、それを止める者。
ようやく危機から逃れ、お互いの無事を喜び抱き合う人々。
そんな光景を見るのが嫌で、僕はまた走った。
走って、何か木の根にでも躓いたのか、転けた。
「……うっ」
俺は嘔吐した。
四つん這いになったまま、えづく。
腹の中が空っぽだから、何も出てこない。
胃液だけがポタポタと地面に落ちた。
喉が焼けるように痛かった。
──私を殺しても、その先に待っているのは、敵しかいない孤独の世界です──
ネオンのそんな言葉が、頭の中で反響していた。
その後、しばらくその場でぼおっとしていた。
飢えも乾きも忘れ、ただ森の木を見ていた。
「バケモノ……か」
自分に向けられる敵意に満ちた眼。人間も魔族も関係なく、俺を恨み俺を殺そうとしてくる。
この世界に転移してから、人間とは思えないほどの強力な力を得た。しかしその時だって、自分という存在が変わったとは思っていない。
だが魔人になって、肉体から自分の存在が変質してしまったことを、この時初めて実感したのかもしれない。
人ではなくなることがここまで魂を揺するものだとは。
……いや、それも分かっていた。
それでも覚悟してやったつもりだった。
あの二人さえ一緒にいれば、何も怖くないと……。
今の俺には居場所はない。魔族にも人間にも殺意を向けられる俺には、住む場所など用意されていない。
「はは、山の中にでも住むか?」
地面に仰向けに倒れ込んだ。
木漏れ日に目を細めながら、そうひとりごちた。
「──見つけたぞ魔人!」
どれくらいそうやって寝転がっていただろうか。
声のした方を見ると、そこには魔族が武器を構えて集っていた。
「おい、あの魔人で間違いないんだよな」
「そ、そうです! あいつが私の兄を!」
そう言って指さしてきた魔族は、先程俺が殺した魔族とよく似ていた。妹らしい。
襲撃していた魔族は一人ではなかったのか。兄弟で襲撃していて、俺が兄の魔族を殺している隙に逃げ出していたようだった。
「よし、皆のもの、かかれ!」
この場には魔族が六人もいた。よくこんな短時間で集まったものである。
もしかしてここは、魔族の領域の近くなのだろうか。
三日三晩『限界突破』を使いつつ走り通して、気づけば人間領と魔族領の境界にまでたどり着いていたのだろうか。
魔族達は一斉に襲いかかってきた。
連携も何もない、考えなしの攻撃。
加護を発動させながら躱す。
「ぬ!? 速いな!」
やはりネオンのところにいた魔族よりも弱い。彼らは精鋭だったのか。
この程度の奴らならば、物の数ではナイ。
血溜まりに立っている。
魔族は全て返リ討ちにした。
周りの森の木々は奴らの血で汚れていた。
力任せの攻撃。狙いが明らかな魔法。
相手にならない。
それからしばらく待てば、また新シイ魔族がやってきた。
飛んで火にいるなんとやら、だ。
今度は三人だった。
俺に対しナニカ言っていたような気がしたが、とにかく俺ニ向けて攻撃してキタので殺シタ。
敵ハ殺ス。実ニ当たり前の論理だ。
魔族は殺シにくい。
胴体を真っ二つにしたくらいでは死なないこともある。
だからまず首を狙ウ。
首ヲ切断シタら、次に心臓ヲ潰ス。
ここまですれば、流石の魔族も立ち上がれないらしい。
肉を潰す感覚。
筋繊維を断ち切る振動。
血に含まれた鉄分が鼻腔にこびりつく。
殺すという感覚は、一言では言い表せない。
なにせ命を潰すってことだ。
これまで送ってきた人生を、ここで終わらせるということだ。
それと向き合うと、自分がやってはいけない、取り返しのつかない事をしている気分になる。
頭がいたい。
だが同時に、安心してイル自分がいた。
魔族ヲ殺スという行為で、精神の安らぎを得てイル俺が、確かにいた。
魔族ノ首をネジ切ル瞬間。
魔族ノ心臓を握ル瞬間。
俺は、俺が魔族ではナイと実感デキタ。
一つ殺ス度に、人間にナレルヨウナ気ガシタ。
俺は間違っていナイのだと、世界ニ示セル気がシタ。
頭がイタイ。
俺は気づけば、魔族達の出てきた方に向かって走っていた。
そちらにキット、魔族領がアルはずダト。
果たして、それは正しかった。
俺は森を抜け、一つの集落にたどり着いた。
街というか、村という規模だろうか。
しかしそこに住んでいるのは、人間ではナイ。
目が複数あったり、角が生えていたり、翼があったり、皮膚が青かったり。
アァ、見レバワカル。人間ジャナイ。
魔族ノ村ダ。
一体ここには何匹の魔族がイルのだろウ。
全テ殺セバ、いよいよ俺は英雄ダ。
アイツラもキット喜んでクレル。
俺は村の入り口らしき所へとアルき出しタ。
殺ス。
殺ス。
魔族ヲ殺ス。
頭ガイタイ。
割レルヨウダ。
全テ殺ス。
全部殺ス。
魔族のメスが立っテイタ。
ソの横にハ、子供の魔族ガ立ッテいた。
殺ス。
──魔族は敵だ──
ソウダ。
オ前達サエ居なくナレバ。
……頭が痛イ。
──敵は殺せ──
殺ス。
マズは大キイ方からダ。
俺は魔族の女の首を掴んだ。
「あっ……ガッ……」
圧迫された気道から、魔族の吐気が漏れた。
頭が痛い。
コイツは恐ラク、強くナイ。
このママ潰セバ。
──殺せ──
首ガ千切レ。
マもなく死ヌ。
頭が痛い。
──殺せ──
ソウダ。魔族は敵ダ。
俺達人間トハ違ウ。
敵ダ。
──殺せ──
頭が痛い。
横の小さナ魔族が泣いテイル。
メスの次ハコイツダ。
──殺せ──
魔族は全テ殺さナケレばナラナイ。
ソレが、人類に課セラレタ、使命……。
コツン、と。
何かがその時俺の頭に当たった。
それは石だった。拳大の、小さな石だった。
「母さんを……母さんを離せ!」
声の主は、魔族の子供だった。
その少女は手に石を握り、俺に向かって振りかぶって、投げた。
コツン。
「母さんから離れろ! バケモノ!」
魔族の少女は、俺を視線で射殺さんとばかりに睨みつける。
その姿に、魔族の女性の首を締め付けていた手が緩んだ。
「げホッ……カひゅッ……に、逃げなさい……リン!」
「母さん!」
少女はまた石を投げた。
その姿が何故か、人間の村での光景と重なった。
俺が助けた村でも、父さんの敵と言って俺に石を投げてきた少年がいた。
魔族の少女と人間の少年の姿が、同じに見えた。
(……俺は、一体何をやっているんだ?)
その瞬間、視界が一気に開けた気がした。
頭を薄っすらと包んでいた靄が晴れ、代わりに目が醒めるほど強烈な頭痛が、頭の芯を刺した。
「痛っ……!」
手を離すと、魔族の女性は地面に倒れ込んだ。魔族の少女は母親に駆け寄ると、俺から庇うように立ち塞がり、俺を睨みつける。
俺は割れるような頭痛に顔をしかめながら、絞るように声を出した。
「……っ……行け……」
「……え?」
「さっさと行け!」
魔族の少女はキョトンとした顔をしていたが、すぐにその母親が彼女を抱き上げ、俺から走り去っていった。
誰もいなくなってから、俺は頭痛に耐えつつも、自分に何が起こっていたかを考える。
俺はなぜ魔族の村にいるのか?
襲ってきた魔族の経路を遡ってきたからだ。
ではなぜ俺は、魔族を殲滅しようとしていたのか。
敵だからだ。少なくとも先程までは、そう考えていた。
敵は殺さなければならないという使命感。
魔族は敵であるという空虚な前提。
魔族を全て殺せば人類の益となり、そうすれば珠希と葵にも受け入れられる……そんな短絡的かつ飛躍的な思考回路。
以前の俺ならそんな考え方はしなかったはずだ。
魔族とは確かに敵対しているが、それはあくまで戦争をしているからのはずだ。ボンド砦では、俺は寧ろ奴らに同情していた部分すらあった。魔族を全て殺そうなどと考えたことはないし、非戦闘民であるただの村人を見境なく殺すなんてことはしない。
そもそも魔族を全て殺せば、人類に感謝される? 受け入れられる? そんな甘いこと、現実に起き得ないのだと俺はつい数日前に知ったはずではないのか。
どうかしていた。
明らかに俺の思考はおかしかった。
珠希と葵に捨てられたからとか、魔人になってしまったことからの混乱とか、そんな理由では断じてない。
似たような経験はある。
高富士 祈里。あいつの催眠により、自分の意思に反して体が動いたり動かなかったりするのは、嫌というほど経験してきた。
プロセスや効果は違う気がするが、しかし本質は似たようなものを感じていた。
(俺は気づかないうちに催眠を受けていたのか……? いや、しかし)
高富士 祈里の催眠は、未だに俺にかかっている。解けてはいない。
つまり、催眠は重複していないはずだ。
催眠とは異なる思考操作? 魔術的な思考誘導?
そんなものを気づかぬうちに、俺はかけられていたのか?
しかしいつ。どこで。
なんのために。
人間側の意図か? 魔人になった俺を最大限利用しようと、魔族を恨むように仕向けたとか。……しかし人間にこのような技術があるだろうか。祈里の催眠以上の魔法が存在しない人類に。そもそも催眠魔法、闇魔法の使い手がごく限られた人数しかいない人類に、そんな高度な事が可能なのか。
では魔族側の意図か? 祈里以上の魔法をネオンは使えなかったが、何か手を変えて仕掛けたのかもしれない。あるいはネオン以上の使い手がどこかにいたとか。ありえなくはない。だが魔族側に利益があまりにもなさすぎる。自分達を恨むように仕向けて、一体何の得があるというのか。
とすれば、人間でも魔族でもない、他の種族の仕業か? 人間と魔族を潰し合うのが目的なのか。だが俺は、人間と魔族以外の種族と接触したことはない。一体いつ仕掛けられたというのか。
他に可能性があるとすれば、より上位の存在。精霊や、あるいは──。
「──神?」
神と接触したことは……一応ある。恐らく異世界召喚時に、そのような操作を行うことはできるはずだ。いやあるいは神ほどの存在ならば、いつでも仕掛けることができるだろう。
神が、たった一人俺だけに思考操作を?
一体それでなんの利益があるのか。そもそも神の目的とはなんなのか。
いや、考え方を変えろ。
今までの違和感を思い出せ。
もしこの思考操作が、俺だけにかかったものじゃないとすれば?
召喚された勇者には全て、このような思考操作を仕掛けられていた……あるいは勇者だけではなく、人類全てが、魔族を敵視、蔑視するように仕向けられていた、と仮定すれば。
思えば最初から変だったんだ。
なぜ日本から召喚された勇者三十六人、全員が全員魔王討伐に最初から好意的だったのか。一人くらい反対する奴がいてもおかしくないじゃないか。元々平和な日本で日常を過ごしていた若者が全員、そうあっさりと戦争を受け入れられるものなのか。
帝国の人々は……いや、恐らくこの世界の人間ほぼ全員が、魔族は知能が低いものだと思いこんでいた。戦争における作戦立案でさえ、冷静な軍略家達がその低い知能を前提として行動していた。それは召喚された勇者達でも同じだ。最初は僕がおかしいのかと思っていた。高富士 祈里を知っているから、そう思えないのだと考えていた。だが現実は違った。ネオンは確かな戦略を以って、搦手を以って僕達を攻略しようとしていたのだ。
人間の村の人々も、帝国の騎士達も、僕が彼らを助けたとしても一切話を聞こうとしなかった。僕がどれだけ叫ぼうが、その言葉は一片たりとも彼らの耳に入らなかった。それは自分が魔人だからだと思っていた。だが本当にそうだろうか。全員が全員、軍人から一般人に至るまで、魔人=人間の敵と決めつけるのは不自然ではなかろうか。帝国の騎士達はスケルトンの大軍が消えたことを知っていた、つまり召喚術者の死亡を知っていたはずだ。村人達は僕が魔族を殺したのを目の前で見たはずだ。それなのになぜ、僕の事を一切信じようとはしなかったのか。
大体、僕が魔人になったというだけで、珠希や葵が僕を拒絶するはずがないんだ。
そう確信できるだけの時間を、僕達は、僕達は、共有してきたんじゃないのか。
絆とか、家族とか、そんな簡単に言い表せるような関係じゃないんだよ。僕達は。
彼女達に拒絶されるなんて初めての体験だったから、気が動転していた。冷静になれば分かることじゃないか。
憶測に憶測を重ねた、もはや妄想とも言える仮説だ。一切証拠はない。
だが今この瞬間、いくつもあった違和感の点が、線で繋がったような気がした。
仮に極低い可能性だったとしても、一縷でも望みが残っているならば、そのために行動するべきだろう。
「……行かなきゃ。戻らなきゃ」
頭痛は既に引いていた。少し清々しい気分だ。
僕が今しなければならないのは、ここでぼーっと突っ立っていることじゃない。
ましてや魔族の殲滅でもない。
今すぐに、マッカードに戻ることだ。
例えこの話をマッカード帝国の人達に伝えようとしても、僕の話なんか聞きやしないだろう。すぐに敵とみなして襲ってくるはずだ。
啓斗なら話を聞いてくれるだろうか。仮に聞いてくれたとしても、あまりにも確証がない話だ。鼻で笑われるかもしれない。
あるいは珠希や葵と出会っても、また拒絶されるだけで終わるかもしれない。今度は珠希が魔法を打ってくるかもしれない。
だがそんな事はどうでもいい。
珠希と葵がこのまま勇者軍として魔王達と戦えば、大変なことになる可能性が高いのだ。人間達が思っている以上に、魔族は知能が高く狡猾だ。
もしかしたら珠希と葵は、今の僕みたいに正気に戻って、あの時のことを後悔しているかもしれない。
どちらでもいい。
拒絶されても、あるいは彼女達が本当は思考操作なんて受けてなくて、本心で拒絶されていたとしても、どうでもいい。
僕は彼女達を守る。
俺は小さな幸せを、死にものぐるいで掴み取ってやる。
そのためだったら何でもしてやる。
だからまずは戻らなくては。
側に居なければ守ることもできない。彼女達の思考操作を解決する手段の模索もできない。本心を確かめることだってできやしない。
戻ろう。マッカード帝国へ。
俺は振り返り、一歩踏み出した。
「ァガッ……」
突然、肩に激痛が走った。
見れば、矢が深々と刺さっていた。
「ぐっ……『限界突破』」
矢を抜いてから、加護を発動する。強化された再生力により、空いた傷が徐々に塞がっていった。
「流石は魔人。元人間といえど、再生力は持ち合わせているようだな」
その声の方を振り向けば、弓を持った男の魔族がいた。
雰囲気が只者じゃない。少なくとも、ここに来るまでに襲ってきた弱い魔族達とはレベルが違う。
ただ、ネオンの元にいた精鋭達よりは弱いといったところか。加護を重ねる猶予があれば、余裕を持って勝てる相手だろう。
(一人か……? いや)
森の茂みに隠れていたのか、三人の魔族が姿を表した。弓を持った男よりは弱そうだが、その警戒した姿勢は「慣れ」を感じる。戦闘を生業にしている者達だろう。
三人は俺の逃げ道を塞ぐように立っていた。
さらに周囲の気配を探れば、少なくとも十人以上の魔族に囲まれているようだった。俺が考え込んでいた間に、配置についたのだろう。
流石に無防備が過ぎたか。
(この数だと相手は難しい……だが強引に突破はできるだろう)
「俺達は先程逃げてきた母娘から報告を受けてね。曰く、村の入り口に魔人がいると」
弓の男が話しかけてくる。ニヤニヤとした笑いだ。
「魔人なんて、そういない。珍しい存在だ。しかも強いと来た。俺には少し心当たりがあってね」
だが油断はしていない。今飛びかかって攻撃しても、対処できるような姿勢をとっている。
まあ時間稼ぎはこちらもありがたい。小さな声で加護を最大まで重ねがけしておこう。
「俺は魔王軍と少しコネがある。小耳に挟んだことなんだが、どうやらネオン様が勇者の一人を魔人にしたと、意気揚々に報告していたそうだ。しかしネオン様は死んでしまったそうじゃないか。じゃあその魔人はどこへ行ったのかって話になる。……お前、元勇者の魔人なんだろう?」
その話を信じるならば、既に魔王軍に存在を知られているということだ。それは、少し厄介かもしれない。
「俺はそれをすぐに報告した。いずれお前には懸賞金がかかり、休みなしに俺たち魔族が討伐しに行くだろう。勇者に恨みを持ってる奴は多いからな。いい餌だ」
加護を最大まで重ねることに成功した。これでいつでも逃げられる。
待っててくれ。珠希、葵。
「いくら元勇者といえど、そんな襲撃に耐えられるか? これからお前の日々は地獄へと変わる。その前に、ここで死んでおこうとは思わないか?」
「思わない。まだやるべき事がある。どけ」
「残念だ。……そろそろ時間だな」
「時間? 何……を……」
視界が歪む。
平衡感覚が狂う。
地面が傾く。
視界が霞む。
皮膚から冷や汗が吹き出す。
肩の傷口と頭の芯が、酷く痛い。
手先が震え、膝が笑う。
加護によって高まった力が、抜けていくようだ。
「遅効性の劇薬だ。さっきの矢に塗っていたのさ。効くだろう? 毒が全身に回ってから効き始める変な毒だ。気づいたときには詰みさ」
男の言葉が耳鳴りとともに脳内で反響する。
「しかし凄いな。まだ死なないとは、恐るべき回復力だ」
『限界突破』の加護がフル活動しているのがわかる。恐らくその回復力のお陰で、この程度の症状で済んでいるのだろう。
だが逆に言えば、最大に積んだ加護の回復力でも、解毒には至れないということだ。
苦しみもがく俺の周りで、姿を隠していた魔族達が出てきた。やはり十数人。明確な殺意をもって、俺を囲んでいる。
「さて、なにか言い残すことはあるか? 元勇者」
「そこを、どけ。今の俺には、お前達の命を気遣ってやれる余裕はない」
「さっき女の首を絞めていた奴の台詞とは思えんな。やれ」
魔族達が一斉に飛びかかってくる。
「ガァァァァッ!!」
俺は叫びながら、走り出した。
精神力とは凄いものだ。
俺は毒でコンディションが最悪に近く、その上魔族十人以上に囲まれるという条件下で、やや俺の方が優勢だったのだ。
俺は徐々にではあるが、魔族を倒すことに成功していた。
だが魔族の数は一向に減らない。俺に懸賞金がかかったおかげで、削った人数と同じくらいの追加戦力が毎日のように表れ、包囲に加勢するのだ。
俺は森の中、戦闘を続けた。包囲を突破できるだけの力は、もう残されていなかった。
何度死線を超えたかはわからない。数えていたのは、日が沈み日が昇る回数だけだ。
一日、二日と、その戦いは休むことなく続いた。
包囲の連携はさして高いものではなかった事が幸いし、俺が戦術で押し切られるということはなかった。だが、魔族達はローテーションで攻撃しており、休息を取っていたことは大きかった。
日を跨ぐごとに疲弊していく俺と、削られてく魔族の戦力。どちらが先に尽きるか、という戦いになった。
そしてついに、日が昇った回数が十に達した。
戦闘開始から、十日目。
なぜかその日は追加戦力がなく、包囲している魔族が少なくなっていた。
おそらく残りは五人。
(今日で勝負は決まる)
それは俺と魔族、両方の共通認識だった。
俺がここで魔族を全滅させるか、あるいは戦闘が継続するかだ。仮にこのまま戦闘が長引けば、俺が勝つ見込みは無くなるだろう。
または俺がそう考えることを読んで、この瞬間に決めに来るか。
こちらが仕掛けるのが先か。相手が仕掛けてくるのが先か。
(……! 先に仕掛けてきた!)
木々の上、上空から三人の魔族が飛び降りてきた。
俺は聖剣──堅固の剣を360度振り回し、三人を一気に横なぎにする。
三人は地面に転がる。気絶しているようだが、仕留めきれたとは言い難い。少なくとも心臓か頭を潰すまでは。
俺は三人のうち一人の首を、聖剣で切り落とした。
恐らく来るならここだ。
獲物を仕留めるその瞬間の捕食者が、最も無警戒となる。
恐らく指揮しているのは弓の男だ。彼の戦いには獲物を追い詰める狩人のような印象を受けた。
だからこその推測である。
「やっぱり」
木々の影から矢が高速で向かってきた。
俺は聖剣を蹴ることで急速移動し、これを回避する。
そして俺は射線の先、恐らく弓の男がいる方向へと跳んだ。
聖剣を使った立体起動。彼らの前で使うのは、十日目にして初めてだった。というか今まではまともに使えなかったのだ。毒が回った状態では、このような高度な芸当はできなかった。
だがもう毒が回って十日だ。解毒は未だにできていないが、この状態にももう慣れてしまった。
「何!?」
驚いた様子の弓の男。傍にはもう一人魔族がいる。
近接戦闘を補う護衛といったところか。どこかにもう一人隠れているのかと思っていたが、同じ場所にいるのは都合がいい。
まず先にどちらを狙うか。仕留めておきたいのは弓の男だ。こいつを仕留めておけば、仮にこの後追加戦力が来ても指揮がなく、今日中に逃げ切ることが可能だろう。だがその場合、弓の男を仕留めている間にもう一人の魔族に攻撃の機会を与えることになる。護衛している以上、もう一人の魔族の方が近接戦闘に秀でているのは確かなはずだ。
一瞬迷って、いっそのこと纏めてぶった斬る事にした。
右から横薙ぎに剣を振るう。
その刃は容易く魔族の体を両断し、更に突き進む。
弓の男の脇腹から聖剣が入り、背骨を断ち切ったところで止まった。
一人魔族を両断した後だから勢いが鈍っていたが、それでも確かな手応えだ。確実に心臓を潰した。
上下に別れた魔族の死体は木から落ち、弓の男の体もカクンと力を失ってうなだれる。
だが次の瞬間、弓の男の体が俺に覆いかぶさるように動いた。
「何!? ──ぐっ……」
脇腹に鋭い痛みが走る。見れば弓の男のナイフが、俺の体に深々と刺さっていた。
「くそっ」
これだから魔族はしぶとい。
弓の男の体を蹴って引き剥がす。それと同時にナイフも抜けて零れ落ちた。
彼の体はそのまま木から落ちていく。したたかに地面を全身で叩いた。それからピクリとも弓の男は動かない。
とどめを刺すために木から降りると、弓の男は何故か満足そうな表情で事切れていた。
十日間の戦闘は、俺の勝利に終わった。
「ハァ……ハァ……」
呼吸が荒い。脇腹がじくじくと痛む。
気が抜けたのか一気に視界がかすみ、平衡感覚が失われる。
立っていられなくなり、思わず膝をついて座り込んだ。
脇腹から腰にかけてが、血に濡れて生暖かい。
「……? 再生……しない……」
傷の回復が始まらなかった。
この十日間の戦闘で、傷を負った回数は数えきれない。しかしその度に加護によって強化された回復力は、傷を修復し即時戦闘を可能としていた。
だが、治るはずの傷が一向に治らない。
それどころか、新しく加護を掛け直せない。加護を発動できない。そのため多重にかけていた『限界突破』が徐々に消えてしまう。
「あのナイフにも……毒が塗ってあったのか……?」
それで、更に増えた毒を無効化するのに力を使い、傷を再生する余力が無いとか……。
いや、それなら毒より先に傷を直せばいいだけだ。
なによりそれでは、加護を発動できない理由にならない。
ならばなぜ……。
ふと自分の腕が目に入って、ようやく気づく。
「細い」
まるでミイラのように細かった。
鍛えた筋肉は失われており、皮膚に皺ができている。
肌は青白く、まるで血が巡っていないようだ。
そうか。
僕は既に、限界を超えていたんだ。
体幹に力を入れることもできず、僕は地面に倒れ込む。
もはや上半身すら起こすことができない。
体力的な問題だ。
あるいは物理的な問題だ。
僕は十日間、何も食べていなかったのだから。
『限界突破』の加護が発動すると空腹感が減る。だから勝手に、失われた栄養素も補われるものだと思っていた。
だが違ったんだ。
恐らく『限界突破』の加護で強化された代謝により、僕の肉体を分解して栄養素にしていた。
筋肉をエネルギーに変えて、無理やり動いていただけだったのだ。
水分だけは初歩の魔法で作って補うことができていた。
だが食事は無理だ。
四六時中魔族に襲われる中、そんな余裕はなかった。
あるいはこの十日間、睡眠をとっていなかった事も影響しているだろう。
恐らく、今まだ生きているだけで奇跡なのだ。
だがもう終わった。根本的にエネルギーがなければ、加護による強化などできるはずがない。
ゼロには何をかけてもゼロなのだから。
恐らく、僕はこのまま死ぬ。
そう遠くないうちに、死ぬだろう。
何も果たせないまま、死ぬ。
珠希や葵に会えないで死ぬ。
急に背筋に寒気がした。
麻痺していた現実が、いきなり目の前に降ってきた。
そうだ。
僕はこんなところで、死ぬんだ。
僕は必死になって腕を動かし、這いずろうとする。
だが腕に力を入れることすら叶わない。
ただプルプルと震えるだけだ。
視界が霞む。
呼吸すら怪しい。
血の味がする。
頭が歪む。
やらなければならない事があるのに。
守りたいものがあるのに。
まだ始まってもいないのに。
死ぬのだ。
ここで。
一人で。
山の中。
目を開けることも叶わない。
真っ暗な世界の中、どこかから声が聞こえた。
──お父さんはどこにいったの?──
──お父さんはね、遠くへ行ってしまったのよ──
懐かしい。僕が8歳のときに死んでしまった、実母の声だ。
──まだ八歳なのに、可哀想にねぇ──
──引き取り先もまだ見つかってないそうよ──
──□□の所で預かったらどう?──
──ウチは無理よ。子供いるし──
ああ、これが走馬灯ってやつか。
──龍斗くんはもうウチの子だから、気にしなくていいのよ──
──はい──
──あ、こら□□□! カレーこぼしてる!──
義母の声だ。結局上手く馴染めなかったが、優しい人だった。もっと親孝行すれば良かっただろうか。
──クラス委員、誰かやりませんか? 先生は誰かが手をあげてくれると嬉しいんだけど。このままだと帰りの会が終わりませんから……あれ、新崎くん? 転校生だけど大丈夫?──
──はい。先生──
──ありがとう。さあ皆、新崎君に拍手──
この立候補は失敗だった。結局クラスで変に浮いてしまった。それから自ら立候補することは少なくなってしまった。
──ん──
──……え?──
──昨日のプリント。風邪引いたあなたの分、私が預かってたの──
──あ、ありがとう──
ああ、そういえば珠希とはこんな出会いだったか。当時の中学で、隣の席だった。葵も。
──ねー龍斗。この動画知ってる?──
──ちょっ、駄目だって珠希! 校内では電源切らなきゃ──
──はー? あんた真面目すぎるわよ。ねぇ葵?──
──ん──
──だって見つかったら没収だよ? ……あ、これ昨日見た──
放課後は残ってよく駄弁ってた。
皆家に帰りたくなかったってのもあるだろうけど、なによりその空間が心地良かった。
──ようこそ! 勇者様方!──
王国に召喚された時だ。隣で祈里が何か叫んでたっけ。
──今日の訓練の締めとして、私と1対1で戦ってもらう──
イージアナ団長だ。どうせならこのときに手の内見せてくれれば良かったのに。あんなに手札を隠していたなんて。ずるいや。
──その上『ハーレムスキル』と『フラグ建築スキル』はあるんだよ……──
──……つまり?──
──そのスキルを使えば、王女様を勇者が篭絡することぐらい可能なわけで……──
──え? 何あんた、ロリコンなの?──
ああ、うん。今でもこの時の僕は最低だったと思う。
──……私に、お姉様と呼ばせなさい──
──…………ええ。喜んで──
──お姉様!──
この時ばかりは第一王女様が本当に嬉しそうで、年相応の子供に見えたな。
──やめろぉぉ! 団長ぉぉぉ!──
──殺せ──
……この光景は嫌でも覚えている。あの時の第一王女様の顔が、脳に焼き付いて忘れられない。
──結局お前は半端なんだ。だから零れ落ちる──
……団長さん。
俺が守りたかったのは一つだけなんです。でも守れなかった。そのたった一つの幸せも守れなければ、どうすればいいんですか?
──あぁ、龍斗。酷い有様だな──
祈里の声だ。実は牢屋で初めて見たときから、なにか嫌な予感がしていたんだ。とても暗く沈んだ目の色をしていたから。
あれから俺はお前を恐れ続けた。いつかまた踏み潰されないよう、強くあろうとした。……でも僕は同時に、憧れていたのかもしれない。君は誰よりも強かった。
──俺は金城 啓斗、こっちの可愛い子が西条 空ちゃんや。よろしく──
ああ、初めてあったときはイラッとしたな。でも同時に、もし兄がいるならこんな感じなのかな、とも思っていた。
悪い、啓斗。俺、魔人になってしまった。怒るかな。怒るよな。
でもさあ、俺は俺なんだぜ。僕は僕だ。何も変わりはしないのにさ。
──ご、ごめんね? 龍斗。ちょっとはしゃぎすぎちゃったかも──
──……ん──
いや。確かに疲れたけど、デートは楽しかったからさ。
気にしないでくれ。
楽しいんだよ。三人でいるだけで。
──力が欲しくはありませんかぁ? 理不尽を打ち砕く事のできる、圧倒的な力が──
……欲しい。今だって欲しい。
でもネオン。きっとこういう事じゃないんだ。魔人になって得られるような力じゃないんだ。俺が本当に欲しかったのは、もっと別の。
──信じてたのに! 私は龍斗を信じてたのに! もう何も信じられない!──
違うんだ珠希。信じてたとか信じられないとか、きっとそういう事じゃないんだ。俺達はもっと強くなきゃいけなかった。信じる信じないとか関係なく、俺達は一緒にいなきゃいけなかった。
──珠希から離れてっ、この、魔人!──
そんな大きい声出せたんだなぁ、葵。でもきっとそうじゃない。人間とか魔人とか魔族とか、そんなの関係ないんだ。
俺達は一緒にいるべきだった。
どんなに信じられなくても、それを守ると決めたのだから。
──俺は、何を間違えたのだろうか──
何も間違えていないし、全てを間違えている。
だがきっと、それが生きるってことなんだ。
現実は残酷で、僕達のことなんか歯牙にもかけない。
そりゃそうだ。現実は、僕達の為にあるわけじゃない。
どこかの誰かが勝手に回しているだけだ。
他人の小さな幸せを、どこかの誰かが踏み潰す。
自分の幸せのために、他人の幸せを摘み取る。
小さな幸せを、皆必死になって守ろうとしているんだ。
僕達は、僕達の世界を守るために、現実と戦わなくちゃいけない。
常に地面を這いずり回っていなきゃいけない。
僕はもう終わってしまった。
現実にすり潰されてしまった。
もう僕が生きているのか死んでいるのかも分からない。
僕は主人公でも何でもなく、現実を這いずり回っていた唯の人間だ。
その唯の人間が、ひっそりと今日ここで終わりを迎えるだけだ。
何も特別なことじゃない。
ただの現実だ。
だが僕が人間だから、唯の愚かな人間だから、どうしても願わずにはいられない。
終わりたくない。
まだやらなきゃならないことがある。
だから、お願いです。
誰か、もう一回だけチャンスをください。
どこかの誰か。誰でもいい。
もう僕は終わってしまった。
でも誰か、この世界の中で、僕を見つけてはくれませんか。
枯れ葉を踏む音が聞こえた。
「お、こんな所にいやがったか」
聞いたことのない男の声だ。走馬灯じゃない。現実だ。
聴覚はまだ残っていたらしい。
そういえば、心臓が止まっても耳はしばらく聞こえるって聞いたことがある。
光も匂いも感じない。ただ音が世界に響いていた。
「……まだ生きているみたいだな。無駄足にならなくて良かったぜ」
魔族の追加戦力だろうか。もう来たのか。
ああ、僕は野垂れ死ぬのかと思っていたけど、この男に殺されるのか。
抵抗しようにも、もう腕や足がどこにあるのかすら分からない。感覚が消えている。
それでも足掻こうとしているうちに、僕の意識はどんどん遠のいていった。
耳も聞こえなくなっていく。
冷たい。
寂しい。
何もなくなって、空虚だけが残った。
突然、僕は暖かな光に包まれた。
最初はこれが死後の世界なのかと錯覚した。
楽園かと思い違うほどに、安らかで優しい光だったから。
だが違う。どんどんと体の感覚が戻っていく。溶けかけた意識が固まっていく。
これは、この光は──
──回復魔法だ。
「ああくそ、随分と無理したもんだ。どんだけ魔力食うんだよ」
男の声が聞こえる。
まさか、彼がこの魔法をやっているのか。
だが、なんだこれは。
意識が戻るとか、傷が治るとか、解毒とか、そんなものじゃない。
失われた筋肉が、血が、全てが修復されていく。
時間が逆行したみたいだ。
魔法なのかこれは。
これではまるで、神の奇跡じゃないか。
やがて僕は完治した。
この男が治してしまった。
先程まで地べたを這いずることもできなかったのに、もう体を起こすことができる。
視界も回復した。起き上がって、今まさに僕を治癒した男を見る。
「……あ、ありがとう、ございます」
「おう」
男はそう短く答えた。深く被ったフードのせいで、顔が影になってよく見えない。ただ声からして、かなり年はとっているようだった。フードからはみ出した長くて多い髭が目立つ。
「あの、あなたは一体……誰なんですか……?」
僕の質問に、男は少し固まったあと、小さく笑った。
「俺を恐れないんだな。魔族を殺しまくってると聞いたから、もう少し呑まれていると思ったが」
「は、はい?」
「いや、そうだな。自己紹介は必要だろう」
男はフードをとった。
僕は思わず息を呑む。
なんというか、彼の頭はうるさかった。
獣のような耳があった。
本来の人間の耳がある所にも、耳がある。
つまり耳が四つあるのだ。
しかもその耳が長かった。まるでエルフのように。
頭に二本の角があった。魔族のような巻き角だ。
瞳はよく見れば三日月のようだ。蜥蜴のようである。
首筋には鱗がチラリと見えた。
蓄えた髭はドワーフのようであった。
「俺はイグノア。先々代魔王イグノアだ」
魔王? イグノア?
多すぎる情報に混乱する俺の瞳を、男はまっすぐ覗き込んだ。
「新崎 龍斗。俺はお前を救いに来た。──共に、世界を壊さないか」
そんな暴力的な言葉とは裏腹に、彼はとても優しい声色でそう言ったのだ。
この瞬間をあえて定義するならば、これは僕の新しい物語の……
始まりのプロローグだ。
めっちゃ召喚された件の二巻が3月10日発売となります。
また本日、めっちゃ召喚された件のコミカライズが公式発表されました。
漫画になるそうです。すごい()
詳しくは活動報告で。