春夏秋冬―ちょっとそこまでー
プロローグ
2015年3月27日午後11時
「どこかいくの、幸喜?」
晩御飯が終わり、あとは眠りにつくだけの時間、家を出て行こうとする俺に対し、母親が声をかけてきた。
「ちょっとそこまで」
「そう、気を付けてね」
これが俺と母親の最後の会話となった。
季節は春。夜が更け、周りの明かりは数少ない街灯のみ。その街灯も頼りなく今にも切れそうに点滅している。そんな寒空の下、俺は人通りがない一本道をトボトボ歩いている。目的地はコンビニ。就職活動に失敗し大学卒業後ニートになった俺に行けるところなんて多くない。やることといえば、家でゴロゴロしているか、近所にある全国チェーン店の古本屋に行って立ち読みすることくらいである。とはいっても時刻は午後11時。古本屋もすでに閉まっている。そのため俺は24時間営業のコンビニで立ち読みをする。母親はこのことを知っている。だから「ちょっとそこまで」で会話は成立してしまっている。そんな毎日に嫌気がさしながら、現実から目を背けるため、今日も他人の空想へ逃げ込む。
2015年3月28日午前1時
立ち読みを始めてから2時間、座るか寝転んでいるしかないニートにとって立ち続けることは苦痛でしかない。そんな苦痛も今の俺にとっては生きている証で、それを確認するための日課になっているのかもしれない。そんなことを考えながら、俺はコンビニを出て帰路につく。コンビニ店員は特に何も言わず俺を見送る。最初の頃は、コンビニ特有の「ありがとうございましたぁ」が聞こえていたが、俺が毎回立ち読みだけして帰る客だと判断したらしい。こちらとしても何も買わずに出ていくだけなので、そっちの方が気楽でいい。
特に寄り道するところがない為、俺は来た道をただ戻る。人通りは相変わらずない。そもそも明日は平日で、こんな田舎に深夜でも遊べる場所なんてない。それこそ自動車でも持っていない限り、遠出も出来ない。もちろんバイトすらしていない自宅警備員にとって自分の車なんて夢のまた夢。寒空の下、徒歩での移動のみである。
ふと気が付くと、毎日歩いている道であるが為に、目をつぶっていても歩いて行ける道筋に2つの光が差した。俺は、目がくらみ立ち尽くしたが、次第に目が慣れ、やがてその光の正体が軽自動車のヘットライトだと気が付いた。こんな時間に自動車?と思いはした。しかし珍しいことではあるがありえないことではない。再び歩き始めた俺は、数歩歩いて違和感を得た。
「あの車、動いていないな。」
こんな時間に、何もない一直線の田舎道に自動車が1台ヘッドライトをつけたまま停車している。少し恐怖を感じながらも家に帰る最短の道はこの道である。そもそも俺は女ではなく男だ。車内に連れ込まれようと相手にとってなにもメリットはない。ニートだし。
その考えが甘かった。
自動車は俺の姿を確認するや否や、アクセルを踏み、スピードを上げる。田舎の一本道、逃げ場のない中、軽自動車は俺目掛けて一直線に進み・・・
グシャッ
という音が聞こえた時にはすでに俺の体は宙に浮いていた。
「あぁ、轢かれた・・・」
こういう時、人間とは不思議なもので、割と冷静に周りが見えてしまう。そんな俺が見たのは自動車の全体像、周囲の様子、そして俺を轢いた中年男性の顔だ。
その男の顔には、殺気が満ち溢れていた。ただ、ほかの感情も見て取れたのは気のせいだったのだろうか。俺の意識が遠のく・・・
2015年3月30日
死んだはずでは。考える力が戻った俺が最初に思ったのがこの一言だ。確かに俺は軽自動車に轢かれた。生きているのがおかしいほどの損傷を負ったはずである。だとすると奇跡的に助かったのか。そう思って目を開けるとそこはどこかの寺だった。確か家の近くにあったような気がする程度の認識しかないその寺の駐車場には幾人かの人が集まっていた。その顔触れにはどこか自分に似たような雰囲気を持つ人物もいて少し気味が悪かった。が、よくよく考えてみると、その中には自分が幼かった頃にあったことがある従妹や、おじさん、おばさんの顔もあった。その人たちの顔色は一様に暗い。まるで誰かの葬式のような・・・
さらに奥に進んでいくと本殿があり、1つの棺があった。その奥には写真も…
ここまでくれば誰の葬式なのかニートでもわかる。俺の葬式だ。あの時俺は車に轢かれて死んだ。この事実は変わらない。
俺はさらに進み自分の遺影を見た。そして自分の写真写りの悪さに苦笑しながら次に
棺の中へ目線を移す。が、その中は見て取れなかった。俺の顔に覆いかぶさるようにして泣く、1人の中年女性の背中があったからだ。
「母さん・・・」
そう、俺の母親だ。父さんと結婚し、俺を出産し、その後父さんが死別した後も女手1つで俺を育ててくれたその人である。その人が今俺の眼前で俺の遺体を前にすすり泣いている。
「幸喜・・・」
俺をそう呼ぶ世界でただ1人の人。母さんを泣かしてしまっていることに罪悪感、そして後悔を覚えた。親より先に死ぬのは親不孝とはよく言ったものだ。そんな考えが頭をよぎる程度には落ち着いていたのか、現実逃避していたのかはよくわからない。ただ眼前で起こっていることは事実で、変えられようのない現実なのだ。
「さて、これからどうなるのか・・・」
瞬きをした一瞬、その一瞬で俺は名前を知らないがどこかで見たことがある寺から、名前も知らなければ、見たこともない場所に移動していた。いったいいつ、どうやって。俺はあの場所から1歩も動いていないのだ。それが今は、周りが真っ白、どこまでも続く、四方平坦な空間にいる。もしやここがあの世か。そう思った俺の考えは的外れではないらしい。しばらくするとどこからともなく声がした。声がした方を凝視すると、そこには1人の少女が立っていた。年齢は15、6歳程度、身長が155あるかどうか。白いワンピースを着ている。あまりの天使ぶりに俺は可笑しくなり、声をかけてしまった。
「君は天使?」
質問した後、自分の問いが少し恥ずかしくなった。オタク丸出しである。うつむいていると少女が微笑み、こくんとうなずいた。
「そう思ってもらって構いません。あなたは肉体を離れた霊体、つまり死んでいます。」
天使から告げられた答えに、驚きはしたものの、納得はした。そう、俺は死んだのだ。それは紛れもない事実。でも、俺の心には漠然としたモヤモヤがあり、素直に死を受け入れられなかった。そんな俺の心情を見透かしたように天使から言葉が紡がれる。
「ただ、あなたがここへ来たということは、現世に心残りがあるということ。このままではあなたは成仏できません。そのため、あなたには、今から心残りを取り除く旅に出ていただきます。」
そういうと天使はおもむろに右手を前方、俺にとって後方に手をかざし、何かをなぞるように平行移動させる。そこで後方を確認してみると、先ほどは何もなかった場所に四体のマネキンが現れた。
「これはあなたの心残りが具現化したものです。あなたがこの人型に触れることによって物語が始まります。」
俺は戸惑った。ここが死後の世界だということはわかった。だとすれば後は三途の川なり、お花畑なりへと行けると思っていた。それがどうだ。目の前にはマネキンが4体。そんな俺の動揺を見透かしたのか、天使は俺から向かって1番右のマネキンに近づき、バスガイドのようにそれをさした。
「さぁこちらへ。怖がることはありません。ただマネキンに触れ、あなたの心の問題を解決するだけです。」
どうやらこの「手順」を踏まなければ天国にも地獄にも行けないらしい。(もちろん地獄にいくつもりはない。)覚悟を決め、俺は天使の示したマネキンに近づき、右手で頭部を触れた。が、何も起こる気配はない。何事かと天使の方を見ると微笑んでいる天使と目が合い、気恥ずかしさから瞬きをした。すると次に目を開けた時には、目の前にはマネキンも天使の姿もなかった。そのかわり、俺の目に映ったのは・・・
―春―
自動車事故で死に、自分の葬式を目の当たりにした後、見たこともない真っ白の世界で天使と遭遇し、いわれるがままマネキンに手を触れ、瞬きをした瞬間、俺は見慣れた光景の場所に移動していた。最初に目に入ったのは天井。どうやら俺はあおむけに寝転んでいるらしい。のそのそと上体を起こし、周りを見渡してみる。周囲には本棚、テレビ、ゲーム機、アイドルポスター、その他もろもろ、どこからどう見ても慣れ親しんだ俺の部屋だった。もう戻ってこれないと思っていた場所にいることに感極まり、思わず目頭が熱くなる。俺はしばらく動けなかった。
しばらくし、落ち着いてきた俺は、スマホを探した。いつもの定位置はベッドの右上。そちらを見ず、右手だけを右後方にガサゴソと動かす。すぐに人差し指に固い感触が当たり、それをつかむ。紛れもない、少し旧型ではげかかっているが未だ現役で動いている俺のスマートホンだ。スマホの画面をつけ、液晶画面に映る日付を確認する。日付は20153月20日午前7時。俺が死んだ日のおよそ8日前の朝だ。天使によると俺が成仏するために現世での心残りを消化しなければならないらしい。だがしかし、困ったことに心残りに覚えがない。このままニートの生活をして、死ぬ時間を迎えても仕方がないので、何年かぶりの早起きをすることにした。
2,015年3月20日午前7時
俺は自室を出て、ダイニングに向かう。と言っても住まいは2DKの賃貸アパートで襖を開けたすぐ目の前がダイニングだ。もう1つの部屋は母親の部屋となっている。その母親は、パート夜勤明けなので、しばらくは起きてこないだろう。起こすのも何なのでそっとしておく。
俺が事故死した日は今月28日午前1時半頃、今からおよそ7日と18時間後である。猶予を確認して重大なことに気が付いた。心残りに心当たりがないのである。だが考えてもらちが明かないのでとりあえず外出してみることにする。
数少ない外着に着替えて何年かぶりの朝日を直接肌に感じる。季節は春、とは言えまだまだ朝の陽ざしは弱く肌寒い。まして今まで引きこもって温室に慣れてしまっている。常人が感じるよりも一層寒い。寒さに外出を躊躇しながらも俺は思い切ってドアを一歩出る。鍵を閉め、とりあえず町をフラフラしてみることにする。周囲には通勤するサラリーマン、ОL、班を作って集団登校する小学生、自転車通学の学生が行きかう。そんな中、私服で町をふらつく俺はいささか周囲から浮いているだろうなと思った。が、注目されることなく何事も起こらない。少しばかり自意識過剰だったか。自分の存在なんて所詮そんなもの。人ひとりいようがいまいが世間にはこれっぽっちも影響はない。自分のちっぽけさに苦笑しながら、行く先にあてがない散歩が始まる。
午前10時
「やることがない・・・ニートだもの」
春の日差しが感じられ始め、暖かくなってきた。しかし就職していない、バイトもしていない俺には、特にやることがない。働くことに未練はないので、天使の言う「心残り」ではない。やることがないことはこんなにも辛いのかと死んで初めて知った。そんなこんなでぶらぶらし始めて早三時間、俺は昔よく来ていた土手に来ていた。特に用があったわけではないし、心残りがあったのでもない。だが、学生の頃によく来ては寝転がっていたのを思いだし、足を運んでいたのだ。そんな俺の耳に一つの音が届いた。
「カーン」
何やら金属をぶつけたような音が聞こえた。続いて2回、3回とリズムよく音が響く。俺はその音がなる方へ足を運んだ。しばらく歩くとその音の正体が見えてきた。金属バッドだ。どうやら軟式ボールを金属バッドで打った音らしい。音の発信元では現在、野球の試合が行われている。選手はどちらも中学生ぐらいの年齢に見える。どうやらシニアクラブ同士の試合らしい。両軍赤と青のユニフォームに分かれ、現在は赤色のクラブが攻撃である。その赤のネクストバッターは4番。どう見ても中学生には見えないゴリゴリの体格のバッターだ。身長は180センチ、体重は80キロといったところか。対し、青のピッチャーは身長160センチ、体重は50キロあるかないかといったところである。どう見ても結果は見えている組み合わせだが、俺はあることに気付く。
「赤のチーム、一点も取れていないな」
現在、7回表、ツーアウトランナーなし、1対0と青のチームが1点リードしている。どうやらよほどあのピッチャーの腕がいいらしい。俺は少しこの試合が気になり始め行く末を見守ることにした。
午後4時
結局あの試合はあのピッチャーの力投が続き、ノーヒットノーランに終わった。あいつは将来大物になるかもしれないと思いながら、その未来を見られないことに少し寂しさを覚えた。そんなことを考えながら町ブラを再開し始めて早5時間、俺はのどが渇き、周りを見渡した。この近くにはいつも深夜に雑誌の立ち読みに行くコンビニがあったはずだ。俺は死んだあと初めて目的地を決めて行動を開始する。
午後4時40分
「いらっしゃいませぇ」
そういって俺を迎えたのはいつも深夜に立ち読みしにくる際に働いているはずのバイトだった。今日はこの時間に入っているらしい。向こうも俺を認識したのか営業スマイルを少し崩す。どうやら今日も何も買わず、立ち読みだけして帰るのだと思っているらしい。だが今日の俺は違う。入店後俺はいつも立ち止まる雑誌コーナーには目を向けず、その先の冷蔵ドリンクコーナーへと歩を進めた。そして間髪入れず冷蔵庫のドアを開け、500ミリリットルペットボトルの炭酸ドリンクを一本取りだした。そして180度ターンをし、レジへと持っていく。
「・・・」
店員が呆気にとられている。それはそうだ。立ち読みに来始めて早2年、毎日欠かさず来店し、その間買った商品はゼロ。おそらく店員の間でも「立ち読みしかしない男」として噂されていただろう。そんな男がペットボトルドリンク一本でも商品を買っていく。そんな場面に出くわしたら声を失う。
「お願いします」
しかしこっちはこっちでのどが渇いている。のどが渇いて死にそうである。(もう死んでいるけど)そう俺が声をかけるとバイトはスキャナーでバーコードをスキャンした。
「ありがとうございます。157円頂戴します」
「これで」
俺は財布から160円出し、レジに置く。ニートだってドリンク一本買うくらいのお金は持っているのである。
「160円お預かりします。・・・3円のお返しでございます。・・・ありがとうございました。またお越しくださいませ」
マニュアル通りの挨拶を受け、俺は店を後にする。あの後、店員間で「年中立ち読みだけ男」がお金を使ったという話題で盛り上がったかどうかは俺の知る由もない。
とりあえず今は飲み物だ。店を出てすぐ俺はペットボトルのふたを開け、一気に炭酸ドリンクを飲み乾した。
「げふっ」
やはり炭酸ドリンクの一気飲みは危険だ。俺は炭酸を戻しそうになるのをこらえるため、1分間微動だにしなかった。というか出来なかった。
1分後、炭酸地獄から回復した俺は家路につくことにした。少し寒くなったからである。
午後5時
「こ・・・・お・・・・・。お・の・・・」
家路についてから少し経った頃、いつも素通りする路地裏から声がしてきて俺は気になり覗きにいってしまう。するとそこには2人の中学生が言い争っていた。いいや、正確には片方がもう片方を一方的に罵っていた。
「お前はおれのサイン通り投げてりゃいいんだ。余計なことはするな。このくそがっ」
そういって中学生はもう一方の中学生の腹を殴る。殴られた方の中学生はうずくまるだけで何も言わない。
「お前ばっかり目立ちやがって。オレのリードがなけりゃ何も出来ないんだ。くそが」
そう言うと殴った方の中学生は路地裏を後にする。というかこっちに来る。俺は見つかるまいと足早に距離をとり、電柱に隠れる。第三者から見れば通報ものである。殴った中学生は俺が来た反対方向へと歩いて行った。
それから数分後、続いて殴られていた中学生が路地裏から出てきた。
「あいつは・・・」
先ほどノーヒットノーランを達成した、ピッチャーであった。顔には傷がないものの腹を押さえている。というか俺はどこかで彼を見たことがある。
「大丈夫か」
俺は思わず声を掛けていた。すると中学生ピッチャーは少し驚いた顔をしたが
「大丈夫です」
そう言って殴った方の中学生が消えていった道を進んでいった。というかこの道は右か左か路地裏の3つしかない。路地裏は行き止まりなので、二択になる。俺の家も中学生たちが進んでいった方にあるので必然的に同じ方に歩を進める。それを不審に思ったのか前方を歩いていた中学生ピッチャーの歩くペースが上がる。
「いやいや違うから」
そう思いながらも俺は合わせてペースを上げてしまう。それを察し中学生ピッチャーもペースを更に上げる。負けじと俺も上げる。その繰り返し。最後の方には小走りになっていった。走り始めて5分間、いくつか角を曲がり、進んでいった。さすがは野球少年、この程度の運動、疲れを感じていない。対して万年引きこもり、ニートである俺は息も絶え絶え、もう限界である。そんなとき中学生ピッチャーはとある一軒家に姿を消した。どうやらここが彼の家であるらしい。・・・というかこの家は・・・
「ねーちゃんストーカーだストーカー」
そう言って家から出てきた中学生ピッチャーが誰か連れてきた。呼び名からして彼の姉。
「ストーカーって・・・危ないから家入ってて、警察呼ぶから・・・」
そう言って弟を追ってきた姉と目が合った。
「久我君?」
「姉崎・・・」
生まれた時から高校までの同級生であり、高校では入部していた野球部のマネージャーであり、そしてお隣さんで幼馴染の姉崎純であった。
午後5時10分
「久我君、久しぶり」
「あぁ、姉崎・・・久しぶり」
お隣同士ではあったが俺が就活に失敗し、引きこもりニートになり早2年、その間一回も顔を合わせることがなかった。そのため、俺は罰が悪く、純の方は何を話してよいかわからず沈黙が続く。そんな中、中学生ピッチャー改め姉崎の弟、姉崎翔が沈黙を破った。
「えっ・・・もしかしてコー兄?マジで、わからなかった」
そう言うと翔は俺に近づいてきて顔を覗き込んできた。
「こら、翔、失礼でしょう」
そう言うと純は翔の手を連れて家に帰ろうとする。
「痛いっ、そんな引っ張らなくていいよっ、じゃあねコー兄」
少し苦笑いを浮かべながら翔は純に手を引っ張られながら家に戻っていく。そんな光景を見送りながら、俺は先ほどの暴力現場を思い出していた。
「姉崎は知ってるのかな
ガチャッ
玄関の扉を開け、自宅に入る。俺の家は姉崎家の右隣りのアパートで、姉崎家とは家族ぐるみの付き合いだった。だったというのは言わずもがな俺の就職失敗、ニートで自宅警備員に成り果てたがゆえに気まずくなり次第に顔を合わさなくなった。俺自身も引きこもるようになってから容姿が大きく変わった。髪の毛は伸び放題のボサボサ、背中は曲がり、筋肉は落ちた。翔がストーカーと勘違いして逃げ出すのもわかる。
「髪でも切るか」
そう思いたち、俺は洗面所に向かう。そして洗面所の床に新聞紙を敷き、棚から髪の毛カット用のハサミを取り出す。決して貧乏だから自分で髪を切りだしたのではない。俺は昔から人に髪を触られるのが嫌いで中学に入ったころからは自分で切っていた。だが、ニートになってからは面倒くさく、伸ばしっぱなしとなっていた。俺は昔の髪形を思い出いながらハサミを動かしていく。
「全く別人だな」
前髪は眉毛の少し上、もみあげは耳たぶと同じぐらいの位置を先端に、襟足はワイシャツを着た時に襟につかない程度の長さにした。二年ぶりのセルフカットにしては意外とうまく切れた。
髪を切り、さっぱりした俺は、体についた髪の毛を落とすため、シャワーを浴びる。風呂の時間は普段から不定時なのでこの時間に入っていても何ら不思議ではない。まず頭を洗い、下まで洗い終えた俺は、体を拭き茶の間に行く。ガチャッ。その時玄関から扉を開ける音が聞こえてきた。この家には俺と母親しか住んでいない。よって帰ってきたのは母親だ。
「幸喜、髪切ったの?」
見ればわかる質問をしてくる母親。身長は150センチ、やせ形の50代前半女性だ。今までの俺はこう言った会話は面倒だったので、「うん」や「ああ」の一言で済ましていた。でも今は違う。
「うん。ちょっと気分転換にね」
「そう、似合ってるわよ」
「ありがとう」
そう言って俺は自室へと戻っていく。数か月振りのちゃんとした母親との会話で俺は少し緊張した。たった二言三言だが俺としては少しハードルが高かった。
午後七時
現在、俺は晩御飯を食べている。今までは、母親とは別にご飯をとっていた。働いていないことに負い目を感じ、一緒に食べられなかったのだ。だが今はそんなことを考えている余裕はない。俺の心残りを解消しなければならないのだ。しかもこの心残りに心当たりはない。なので俺は考えうる限りの行動を起こさなければならない。
晩御飯はカレーライスに味噌汁、サラダが並んでいる。ほんの一週間前に食べたはずのご飯だが覚えていようもない。また1つの問題も浮上してきた。それは。
(会話がない)
そう、もう何か月もちゃんとした会話をしていなかったのだ。いきなり日常会話をしろといわれても無理な話だ。さらに俺は母親ならず、人間との会話もしていなかった。そんなこんなで1日目の晩御飯は幕を閉じた。
午後11時
晩御飯が終わり、食器を片付け、寝るだけの時間となった。この時間、俺にはひとつの日課がある。コンビニでの立ち読みだ。そのことは母親も知っている。だが今日は行かない。今は立ち読みで時間を潰している余裕はない。俺が車に轢かれて死ぬのは1週間後の3月28日の午前1時だ。とにかく時間がない。そしておそらくコンビニには心残りがない。週刊連載の漫画の続きが読みたいというのが心残りならば話は別だが。
「幸喜、体調悪いの?」
いつもの時間に外出しない俺を不思議に思ったのか母親が俺の部屋の外から声を掛けてくる。
「いいや、悪くないよ」
「そう、じゃあ母さんもうすぐ仕事にいってくるから。お休み」
「うん、行ってらっしゃい」
その会話をもって1日目が終了した。
2015年3月21日午前10時
今日も何か予定があるわけではない。よって気になることをすることにした。現在最も気になるのは姉崎翔のことだ。疎遠になっていたからと言って知り合いの弟が殴られる現場を見て気分が良いわけがない。俺は昨日、翔がノーヒットノーランをやってのけた野球グラウンドへと向かう。
午前11時
「うちのチームじゃないよ」
俺は身支度を整えて昨日赤と青のチームが野球の試合をしていた土手沿いのグラウンドへと足を運んでいた。もちろんこの時間に練習しているだろう翔をみるためだったのだが。
「確かに赤いユニフォームだらけだ」
現在グラウンドで守備練習をしている野球少年は誰もが赤色のユニフォームを着ている。どうやらくる場所を間違えたらしい。
「おたく、ブルーファイターズに用があるの?だったらここじゃないよ。練習の邪魔だ。あっちいったいった」
どうやら監督は昨日の敗戦で機嫌が悪いらしい。この調子じゃ、翔が加入しているらしい「ブルーファイターズ」とやらが練習している場所を聞き出せそうにない。俺は怒りの矛先が自分へ向けられる前にその場を後にした。
午後0時
「まいったな」
現在はお昼時。朝ご飯を食べていない為、すっかり腹が減ってしまった俺は、近くにあったハンバーガーショップに入る。もちろんここ二年の間、外食などしていない。俺は少し緊張しながらレジカウンターへと向かう。
「いらっしゃいませ」
店員さんは昼時ということもあって忙しそうに作業場を動き回っている。協調性が無い俺が今この作業場に加わったら回らなくなりそうだな。バイトをするという心残りはなさそうだ。と再確認しながらダブルチーズバーガーセットを頼む。ドリンクはオレンジだ。
数分後、店員に渡されたブザーが鳴り、商品を受け取りに再びレジカウンターへと向かう。商品を受け取り、カウンタータイプの一人掛け椅子に腰かける。そして出来立てのダブルチーズバーガーを一口頬張る。
「おおぅ・・・」
うまい。久しぶりに食べたジャンクフードは、その味の濃さを俺の味覚を襲ってきた。一分もしないうちにダブルチーズバーガーを食べ終え、セットのポテトに取り掛かる。こちらも、塩加減が程よく手が止まらない。Lサイズのポテトがみるみる減っていき、あっという間になくなる。540円が物の数分で消えた。そんな消費することへの悲しみを覚えたときだった。
「久我君?」
これは何のデジャブか、どこかで聞いたことがある声が俺を呼ぶ。確認するため声がした方へ顔を向ける。
「姉崎⁉」
すぐ左横にいた。俺は満員の店内でただ一つ空いていたカウンター椅子に座ったので、姉崎の方が先に座っていたことになる。俺はこのことに気づかないほど久々の外食に緊張していたのか、それとも単純に腹が減っていたのか。
「それじゃ」
姉崎はそう言うと席を立とうとする。どうやら避けられているらしい。俺は心当たりが全くない。そう思ったが、違った。
「翔に付きまとわないで」
いや違うから、そう思いつつも言い放たれた言葉に呆然としながら、姉崎の後姿を見送る。否定しなければ。俺は残っていたオレンジジュースを飲みほし、ゴミを捨て、お盆を返却して、姉崎を追った。
午後12時半
「ついてこないで」
「マジで違うから」
そう言って早歩きをして俺を振りきろうとする姉崎を俺は同じく早歩きで追った。俺は早くも息が上がっている。
「違うって現在も私をつけているじゃない。昨日は翔の後をつけていたし。何が目的?」
「目的って・・・そうだ、翔がどこのグラウンドで練習しているか教えてくれないか」
「やっぱり翔が目的?変態!」
しくじった。どうやら疑惑を確信に変える一言を放ってしまったらしい。だが違う。俺は翔が心配で昨日後をつけていた。というか後をつけている形になってしまっていた。ただ話を聞こうとしただけなのだ。だが翔の足が思ったよりも速く、ついていくのに精いっぱいになってしまった。そこを姉崎に翔がストーカーだと告げ、息も絶え絶えの俺が目撃されてしまったわけだが。
「違う、少し話を聞きたかっただけだ」
「話って何?」
「それは・・・」
俺は悩んだ。果たして翔が殴られていたことを姉崎は知っているのか。俺は知らない。下手に話して姉崎を心配させたくない。
「ほら言えないじゃない」
そう言って姉崎は早歩きで去っていった。理由を言えない俺はその場で立ち尽くすしかなかった。
午後4時半
その後、することがない俺は自宅に帰り、自室にて翔の帰宅を待つことにした。昨日の翔の帰宅時間はおよそ5時頃だったはずだ。頃合いを見て姉崎家に行って翔と話す。そう考えていた矢先、玄関の呼び鈴が鳴る。現在は母親がいるので自分が出る必要はない。もっともいなかったら出ないで居留守を使うのだが。
「はーい」母親が返事をするのと玄関の扉を開く音が聞こえた。我が家は2DKだ。玄関での話し声は俺の部屋まで聞こえてくる。
「姉崎さん」
どうやら訪問者は純の母親らしい。
「こんばんは久我さん」
「お久しぶり、どうぞ中へ」
純の母親を家のなかへ招こうとする母親。しかし。
「いいえ結構です。」
拒否する純の母親。その声はどこか重苦しいものを感じる。それを感じ取ったのか俺の母親は玄関で要件を聞く。
「どうしたの?」
「今日は久我さんのお子さん、幸喜君のことでお話に来ました」
「幸喜が何か?」
「うちの純がさっき話してくれたんですけどね、幸喜君が今日、純のことをつけてきて、翔のことを聞き出そうとしていたとか。昨日は翔をつけまわしていたと聞きまして」
「・・・」
それを聞いて黙ってしまう俺の母親。それはそうだ。二年間も引きこもっていた息子がいきなり外に出てストーカーをしたと聞いたら誰だって言葉は出ない。たとえそれが濡れ衣だとしても。
「なのでお母さんの方から幸喜君にいってくれないかしら。これ以上純と翔に付きまとわないでって。次は警察に通報するつもりなので」
そう言うと純の母親は話すことは話したといわんばかりの勢いで自宅へと帰っていった。
玄関を閉め、ダイニングに戻ってくる母親。俺は何を話してよいか整理がつかないままではあるが、何も言わないわけにはいかず、自室を出る。
「母さん、あの・・・」
言葉が見つからない。姉崎がストーカーと思ってしまえばそれはストーカーなのかもしれない。いじめてる方にはその気はなくてもいじめられている方はいじめられていると感じているように。すべては受け手の気持ち次第なのだ。
「幸喜・・・」
名前を呼ばれてうつむいてしまう俺。これでは認めてしまっているように見える。そんな俺に母親がかけた言葉は俺にとって予想外のものだった。
「母さんは誰が何と言おうとも幸喜は悪いことする子じゃないって信じてる。あなたは昔から言葉足らずなところがあるからね。きっと姉崎さんもわかってくれるわ。だから幸喜、あなたはあなたの正しいと思ったことをやりなさい。大丈夫よ。お父さんとお母さんの子供だもの」
俺は母さんの言葉に目頭が熱くなった。どこの世界に就職失敗して引きこもり、急に外出するようになったかと思えば、幼馴染の女の子とその弟をつけまわしている息子を信じる母親がいるというのか。そんな母親が目の前にいる。
「ありがとう」
「さぁご飯にしましょう。今日はハンバーグよ」
午後8時
ハンバーグを食べ終え、食器を片付けた後、俺は自室に戻った。さてどうやって翔にコンタクトを取ろう。直接姉崎の家に行くと警察を呼ばれてしまう恐れがある。かと言って家から出てくるのを待伏せるのはそれこそストーカーだ。そう思い俺はスマホをいじくる。ネットサーフィンは日課である。
「・・・これじゃね」
俺は操作しているスマホを見て固まってしまう。どうして気づかなかったんだろう。熟年の刑事みたいに足で探さなくてもスマホを使えば一発で居場所がわかるというのに。
「確か、ブルーファイターズだったよな・・・」
そう呟き、俺はスマホ検索ワードとして住んでいる町名とブルーファイターズと打ち込んだ。すると検索結果の最上部にブルーファイターズのホームページがヒットした。そしてそのページに飛ぶと選手の集合写真が映し出される。俺は目的の情報を探し続け、見つけた。
「ここか、割と近いな」
2015年3月22日午後4時
夕暮れ時の土手。春といえども流石に冷える。そんな中俺はかれこれ1時間は同じ場所に立っている。翔に会って話すためだ。もちろんストーカーではない。俺の目線の先では青のユニフォームを着た中学生たちが練習を終え、帰宅の準備をしている。そして挨拶をしてそれぞれ家のある方へ帰っていく。いましかないと俺は翔に近づいていく。ストーカーと間違えられないように慎重に。
「翔」
「あぁコー兄、練習見てたの?」
翔は初日とは打って変わって騒がずにいてくれた。
「髪切ったんだね、一昨日は髪がボサボサで誰かわからなくて。ごめんね」
そう言って謝ってくる翔。どうやら本気でわからなかったらしい。
「いやこちらこそ、いきなり追いかけて悪かった。ちょっと気になることがあってな。ここじゃなんだから移動するか」
そう言って俺と翔は近所のハンバーガーショップに向かう。
午後4時半
「ねーちゃんとかーさんのこともゴメン。僕はあの後誤解だって言ったんだけど・・・」
ハンバーガーショップに到着し、俺は前回と同じダブルチーズバーガーセット、翔は照り焼きチキンバーガーを単品で頼んだ。言っておくがもちろん俺のおごりである。
「それで、気になることって何?」
そう言いながら、翔は照り焼きチキンバーガーの包みをはずし、食べ始める。
「あぁ、そうだな・・・野球やってたんだな」
俺はいきなり核心を聞くのを躊躇い、遠回しに話を始める。
「うん、小学4年の頃からね」
小4の時といえば、俺は東京の大学へと進学していたころだ。その間に翔は野球を始めたらしい。
「へー、初めて4年か。それであそこまで投げられるなんてすごいな。一昨日の試合見たぞ。ノーヒットノーランだろ。」
「あはは、僕はすごくないよ。すごいのはキャッチャーの子だよ。彼の言う通りにしておけば打ち取れるんだから」
俺が聞きたかったキーワードが出た。俺はこのチャンスを逃すまいと、話を続ける。
「そんなにすごいのか、その子」
「うん、影山君は捕るのがうまいし、肩も強いし、それに視野も広いから」
影山、それがあのキャッチャーの名前らしい。そして影山を褒めちぎる翔の顔にはとても殴られ、暴言を吐かれている人間とは思えない、尊敬の念が見て取れる。
「そうか、仲いいのか」
「うん」
「翔・・・俺な、一昨日翔がその影山って子に殴られているところを見ちゃったんだよ」
俺は話の核心へと踏み込んだ。翔は少し驚いた顔をした。
「一昨日ってコー兄が追いかけてきたとき。見てたんだね」
そう言い、ハンバーガーをテーブルに置く翔。
「あぁ、盗み見るつもりはなかったんだがな。通りがかったらたまたま・・・どうして殴られてたんだ」
「仕方ないよ。僕が影山君の言う通りに投げられなかったんだから」
「たったそれだけで?」
「ううん、それだけじゃないよ。僕は彼の居場所を奪っちゃったんだ。だから仕方ないよ」
「居場所?」
「うん、僕が野球を始めたのが小学四年って言ったでしょう。影山君は僕の1年前からやっていて、リトルのエースだったんだ」
「でも今影山はキャッチャーだろ?」
「そう、リトルの時は影山君がチームのエースで僕は控えのピッチャーでしかなかった。でもね、シニアに上がった頃、ブルーファイターズにピッチャーはたくさんいて、枠は一つしかなかったんだ。それでその1枠を1年生で取り争うことになったんだ」
「それでお前が勝ち取った」
しばらくの間沈黙が続く。何と言ったらいいかわからない。翔には罪の意識がある。そして影山には翔に対する恨みがあるらしい。ただ一つ分かっていることはこのままではいけないことだけ。
「翔、野球好きか?」
「うん、まあね」
「それならいい」
ハンバーガーを食べ終え、俺たちは帰路につく。」
午後5時半
家に帰ると母親が晩御飯を作っていた。
「お帰り」
「うん」
返事をして俺はそのまま自室へと戻った。考えをまとめるためだ。翔は罪の意識がある。そしてそれは影山との和解なくしては解消されないだろう。問題は影山がそれを許すかどうかだが。
「これも本人と話す必要があるようだ」
明日、もう一度ブルーファイターズのグラウンドへ行ってみよう。今度は影山と話をしに。
2015年3月23日午後四時
「ありがとうございましたぁ」
「解散」
いつもの挨拶とともに、中学生シニア野球チーム「ブルーファイターズ」の練習が終わった。所属選手が各々の帰路に着く中、俺は幸い1人で帰宅中の中学生を見つけ、声を掛ける。
「影山君だよね?」
俺が突然声を掛けたせいか影山は不審そうにこちらを見上げてきた。
「誰ですか?」
「俺は久我っていうんだけど、まぁ、ブルーファイターズに知り合いがいるんだ」
「だったらソイツに声を掛ければいいんじゃ?」
それはごもっともだ。だが今日話があるのは・・・
「いや、今日は君と話をしに来たんだ、影山君」
「オレと?いったい何で」
「俺の知り合い、姉崎翔のことでね」
翔の名前を出したとき、影山の表情にわずかだが変化が生じた。どうやら話の内容に心当たりがついたようだ。顔に出てしまうのは、まだまだ中学生だと思わせる。
午後4時20分
ブルーファイターズの練習グラウンドから徒歩20分、駅周辺まで俺と影山は来ていた。町中に久々に来た俺は少しドキドキしている。俺たちの目的地は1つ。あれがある場所だ。
俺たちは一つの施設へと入っていく。大きさは大体25メートルプールが横に5個並んだくらいか。その施設からは金属音が立て続けに聞こえてくる。
「久々に来たな」
「あれ、お兄さんも野球やってたんですか。その割に痩せてますね」
皮肉な口調が続く影山。だが事実なのだから仕方がない。ここはバッティングセンター。客層は小さな親子連れから仕事帰りの中年サラリーマン、年金暮らしのご老人まで幅広い。そんな中バッティングセンターの1番奥に人だかりができている。どうやら練習帰りの中学生たちらしい。
「あーくそ。無理だよこんなの。打てっこない」
「だよなー。誰が打てるんだよ。打てたらプロになれるんじゃないの」
そう言いながら中学生球児たちが立ち去る。それと入れ違いに俺と影山がその場所へと向かう。
「さぁつきましたよ。これが打てたら話をしてあげてもいいですよ」
相変わらず上から目線の影山。俺は少しイライラしてきた。
「その約束、守ってもらうぞ」
午後5時
ルールは簡単。200円で10球投げるピッチングマシーンから1本でもホームランを打てば俺の勝ち。だが結果は惨敗だった。相手はピッチングマシーン。だが普通のマシーンとは違う。奴が投げるのは160キロ後半のストレート。最早プロ野球選手よりも速い球を投げるのである。曲がりなりにも俺は高校球児だったし、このマシーンに昔挑戦したこともある。だから打てると思った。考えが甘かった。
「残念でしたね。ではオレは帰りますよ」
帰り支度を始める影山。
「くっ、今日は打てなかったが明日は打ってやる。また迎えに行くからな」
「明日もやるつもりですか。まぁいいですよ。打てるようにしていてください」
そう言って変える影山。俺はその後ろ姿を見送るしかできなかった。
午後6時
俺は久々の運動でくたくただったので家に帰ってからすぐにベッドに倒れこんでしまった。その2時間後に目が覚め、晩御飯を食べたがすぐに眠気が襲ってきたのですぐに就寝となった。
2015年3月24日午後4時50分
「ゲームセット。今日も打てませんでしたね」
そう言いながら帰り支度を始める影山。
「明日こそ打ってやるからな」
2015年3月25日午後4時
「ありがとうございましたぁ」
「解散」
掛け声とともに球児たちが帰路に着く。その球児たちの中から一人俺の元にやってくる。
「さぁ行きましょうか」
影山が俺に声を掛けてくる。最早練習後に俺の無様な姿を見るのが習慣になっているらしい。
「あぁ行こうか。だがまずその前にいいか」
俺の神妙な顔に疑問を感じたのだろう。影山が身構える。
「何ですか」
「なに、大したことじゃない。ただちょっと寄り道しながら向かってもいいか」
午後4時半
「あった」
俺は今百円玉硬貨2枚を握りしめ、小さくガッツポーズをしていた。
「そこまでしてまで・・・」
俺のあまりの痴態に影山は言葉を失っているようだ。だが仕方がない。連日のバッティングセンター通いでお金がそこをついてしまったのだ。そうなったら最後の手段、自動販売機の下を探ってお金を得るしかない。そうして苦労して手に入れた二百円を手にバッティングセンターに向かう俺と影山だった。
午後5時
俺たちはいつもより遅い時間帯にバッティングセンターに着いた。
「時間的にも金銭的にも1回しかできませんね」
「そうだな」
「お兄さん。悪いですがこの遊びも今日で終わりにしていいですか」
突然の物言いに俺は驚かなかった。とうとうこの日が来たのかという気持ちだった。
「いいよ、金銭的にもこれで最後だろうしな」
そうして俺は最後の打席へと向かっていく。
ここに改めて通いだしてから3日、この160キロピッチングマシーンに挑戦しているが1球もかすりもしていない。それがこの十球で終わりとなるとプレッシャーがかかる。だが当てないわけにはいかない。これには翔の今後がかかっている。
かと言ってすぐに当てられるわけもなく4球目までは空振り。当たる気配がない。影山は早くも帰り支度を始めてしまう。
「結局口だけじゃないですか」
「まだ六球もあるじゃないか。まだワンナウトだよ」
そう強がって見せるが内心焦っている俺。過去には当てたことはあってもホームランなんて打ったことがない。まして今は引きこもって体力も動体視力も落ちている。
そして5球目6球目7球目と空振りが続く。
「あとワンナウトですよ」
影山から冷やかしが届く。だが俺の耳には届いていない。
かつての感覚を思いだす。3年間、ひたすら野球のことだけを考えていた毎日を。そして閃いた。
「何だ。簡単なことじゃないか」
そう言い俺は8球目を見逃す。それを見た影山が幻滅したように俺を見る。
9球目も見逃す。
「諦めちゃったんですか。みっともない。だったら初めから挑戦しないで下さいよ」
そして10球目が来る。別に俺は諦めたわけではない。タイミングと球の場所を見ていたのだ。相手は機械。人間のピッチャーのように緩急が有ったり変化球があるわけではない。ただ忠実に同じ場所に同じ速さで投げてくるだけである。そうと決まれば後は簡単だ。
「今だっ」
俺は2球を捨てて図ったタイミングと打点にバッドを振り落とす。カァンと気持ちいい音がばってイングセンターに響き渡り、ホームランと書かれたボードに当たる。文句なしのホームランである。
「嘘でしょ」
それを見た帰り支度を終え帰ろうとしていた影山が思わず声を漏らす。
「さぁ話を聞いてもらうぞ」
午後6時
俺たちは再びブルーファイターズのグラウンドに戻ってきてベンチに座る。
「なぁ影山君。なんで翔を殴ってた?」
あまりに唐突に核心をついてしまう。世間話は苦手なので仕方がない。もう少し人と触れ合っとけばよかったと少し後悔する。
「あぁ、見てたんですか。あれがオレたちバッテリーの形ですよ。」
これが影山の答え、どうやら悪気はないらしい。
「暴言も吐いてたじゃないか」
「オレは口が悪いんで」
「そうか、でもこのままじゃ暴力沙汰になって野球ができなくなるよ」
「脅しですか、まぁ構いませんけど」
「違う」
「違いませんよ。でもあなたがやっているのは脅し・・・」
「違うそっちじゃない」
俺は影山の目をまっすぐ見て言った。
「お前は野球好きだ。ここ数日見て確信した。じゃなきゃあんなすごいリードなんかできないし、バッティングだってうまかった」
そう言って俺は影山の手を取った。
「お前の手のひらにはこんなに豆が出来ている。嫌いだったらこんなにならない。きっとお前から野球をとったらお前は一生後悔する」
「はっ・・・使い古された言葉ですね。今時流行りませんよ」
「使い古されてたっていい。だってそれだけこの手のひらの豆が本当だって証拠じゃないか」
「・・・」
影山は黙ってしまった。おそらく図星だったのだろう。
「翔から聞いたよ。君は昔ピッチャーをやっていたって。で、シニアに上がってポジションを決めるとき、翔が君に負わせてしまった怪我のせいで本調子じゃなかった。そのせいで君はキャッチャーになった。翔は今も負い目を感じてしいる。そしてこれからもずっと・・・」
「・・・」
「だからきちんと2人で話し合ってほしいんだ。翔の、そして君自身のために」
俺は別に一方的に影山を悪者にしたいわけではない。確かに翔を殴り、暴言を吐いた影山は悪い。しかし、翔も影山に怪我を負わせ、ポジションを奪ってしまったという罪の意識から、影山に従ってしまっている。これではよくない。
「・・・謝られたってどうしようもないですよ。オレはもうキャッチャーです。今からピッチャーになりたいって言っても無理です。やらせてくれるはずがない。それにエースの翔とも大きさ差が開いた。ホントにどうしょうもないんです」
俺は影山の話を聞いて確信した。影山は翔が憎くて傷つけているのではない。野球が嫌いなのではない。過去のことを引きずっているわけでもない。ただただ自分に自信がないだけだって。
「影山君、君はキャッチャーとしてはとてもうまい。それでもピッチャーがやりたい?」
その問いに影山は再び黙り込む。その沈黙が答えとなる。
「もしかしたら最初の頃は翔が憎かったのかもしれない。でも今は翔のボールを捕るのが楽しくなっているんじゃないか」
言葉ではもしかしたらと添えた。しかしこれは俺の中では確信している。楽しくなかったらあんな顔をしてプレーはしない。
「昨日今日会った俺が言うのもなんだけどさ、自信をもっていいと思う。誰が何と言おうと俺は君がすごいと認めてる。それはきっと翔も同じだ。」
「・・・」
「キャッチャーやってきた君の時間だって本物なんだ」
「・・・はい」
最後は返事をしてくれた。そして影山は俺の元から離れ、帰っていった。
午後6時5分
影山が帰ってからおよそ5分、そろそろいいはずだ。オレはそう思い行動を起こした。」
「さて、もう1人の方は・・・いた」
俺は人の気配がする方を凝視した。グラウンドにある物置の方だ。しばらくするとそこから一人出てきた。もちろん翔だ。
「コー兄、気づいていたの?」
「もちろんだ。大人をなめるな」
近づいてくる翔の顔はむくれている。なぜかご機嫌斜めのようだ。
「余計なことしないでよ。僕は僕のリードをしてくれる人がいればそれでいい。まして僕は影山君を怪我させたんだ。このままでいいんだ」
そんなことを言い出す翔に俺は少しムッとした。
「あのなぁお前、ずっと影山君がリードしてくれると思うなよ。昔からそうだよな、ずっと純の後をつけていて、言われたことをやるだけ・・・もしかして俺がストーカーだって誤解を純とお前の母親に説明しようとしたって嘘か。嘘だよな、お前の性格からして・・・」
そう言うと翔は困った顔になる。
「いい加減その性格直せよ。いつまでもねーちゃんは守ってくれないぞ」
まぁこいつのは甘やかされてきたのが原因だからほっといても時間が解決するだろう。まったく、思い詰めてた影山がかわいそうだよ。
「ほら、むくれてないで帰るぞ、翔」
「はーい」
2015年3月27日午後5時
翔と影山の問題に首を突っ込み始めてから早四日がたった。あれから俺は昨日、今日と練習を見に行っていたが大きな変化はなかった。しいてあげるならば影山が翔の意見を少しだけだが窺うようになったことだろうか。翔は相変わらず意見を言わない。まぁそれはそのうち治るだろう。そう結論づけ俺はこの話を終えることにした。そのとき。
ピンポーン
玄関の呼び鈴がなった。現在母親は留守だ。となったらやることは単純明快だ。いつものように居留守を使おうとする。しかし今日はそうはいかなかった。
「久我君、いるのはわかっているんだからね」
この声は純の声。しかも少し怒っているような口調だ。俺は居留守は使えないと思い立ち震える足に鞭をうち立つ。起こった純は昔から怖いのだ。
ガチャッ。勇気をもって玄関を開け放つ。そこには声の通り純が立っていた。他には誰もいない。1人だ。先日は俺を避けていたのに何の用だろう。もしや翔に接触していたのがばれたのだろうか。
「久我君、翔がお世話になったようね」
ばれていた。これは警察にお世話になるパターンだろうか、と現実逃避していると予想外の言葉が紡がれた。
「昨日、うちに影山君っていう翔が野球チームでバッテリーを組んでいる子が来たの。それで翔と私に今までやってきたことを謝ってきたの」
「へー、そうなんだ」
昨日というと翔と影山と話をした日の翌日だ。
「それでね、久我君にはお礼を言わなくちゃって」
「なんで?」
「影山君から聞いたの。久我君が自分の間違いを正してくれたって。私も気になってたの。翔が毎日ボロボロに帰ってくるのが」
「気づいてたのか。もしかしたら野球でできた傷かもしれないのに」
「もちろん、毎日一緒にお風呂に入っていたら気づくわよ。翔はあんな怪我するほどへたじゃないし。それに私野球部のマネージャーだったのよ。久我君が入部していた高校の野球部の。忘れたの?」
確かに思い出したらそうだった。純は野球部マネージャー。毎日野球でできる傷をずっと見てきた純にとって、野球でできる傷とそうでない傷を見分けることは容易い筈だ。でも今は些末な問題だ。それよりも・・・
「お前、その年で未だに弟と風呂入っているのか」
「そうよ、いけない?」
「すぐにやめろ。お前のそういう過保護さが問題の引き金になったんだからな」
「ちょっ、それどういう意味?」
「そのまんまの意味だよ。翔も中2だ。いつまでも子供じゃないんだ。そろそろ独り立ちさせてやれ」
言ってておかしくなった。だってニートの俺が独り立ちとか言っているのだから。普通だったら「まずはお前が自立しろ」とか言われる場面である。純も同じ考えなのか顔が渋る。が、その考えは口には出さなかった。
「わかったわよ。とにかく今回はありがとう。コー」
そう言うと純は自宅へと帰っていく。懐かしい呼び名に戻っていたと気づくのは俺が自室に戻ってからのことだった。
午後11時
晩御飯を終え、後は寝るだけの時間。俺は考えに耽っていた。結局俺の心残りとやらに見当がつかなかった。翔の件は今回初めて知ったことで死ぬ前の心残りではない。となると他には何もないのだ。
しかし運命の時間は迫ってくる。俺はこの後外出して車に轢かれなくてはいけない。これは決定事項だ。そう思い俺は自室と茶の間をつなぐ扉を開く。すると茶の間には家事を終え、一段落している母親がいた。
「どこかいくの、幸喜?」
いつか聞いたことのある母親のセリフ。そう、俺が死ぬ前最後に聞いた母親の言葉である。
「ちょっとそこまで」
俺はその流れに押されて同じ答えをしてしまう。
「そう、気を付けてね」
そう見送られ、俺は玄関の取っ手に手を掛ける。
「母さん・・・」
が玄関の扉を開ける寸前のところで声が出る。
「なぁに?」
母さんが不思議そうにこちらを見つめる。いつもとは違うプロセスが出てきたのだから当然だ。
「いや、その・・・」
もちろん俺も考えなしだ。言葉が見つからない。しばらく俺と母親は無言で顔を見つめ合うだけだった。でもこのままでは駄目だ。そう思い立ち、俺は体を玄関の扉から母親の方へと向ける。
「母さん、あの、何ていうか、今までありがとう。俺って今ニートでバイトすらしていないで、毎日ダラダラ過ごすだけで、家のことも手伝わないし、話もあんましなかったし、あんまり俺に干渉してこない母さんは、俺のことあんまり好きじゃないんじゃないかって思ったりもした。でもこないだの件で母さんはただ俺のことを信じてくれていたから、見守っててくれたんだってわかった。俺すごくうれしかった。今からでもやり直したいほどに」
この後も言葉が次から次へと溢れてくる。はっきり言って自分でも何を言っているのかわからない。でも今口から出てきている言葉は嘘偽りなく、俺の心の叫びである。思いのたけを、23年間の感謝の気持ちを吐露した。そんな俺の気持ちに対し母親は
「ありがとう幸喜。あなたが私たちの子供でよかったわ」
そう微笑んでいってくれた。俺は涙があふれ出しそうになるのを堪え
「じゃっ行ってくる」
「うん、いってらっしゃい」
これが俺の遺言となった。
2015年3月28日
季節は春。夜が更け、周りの明かりは数少ない街灯のみ。その街灯も頼りなく今にも切れそうに点滅している。そんな寒空の下、俺は人通りがない、そんな道を胸を張って歩いている。ただ、目には涙が浮かんでいる。止めようとしても止まらない、だがそれでもいいと思った。今自分は生きているのだ。心臓が止まっているとか、血が通っていないとかはどうでもいい。俺は今こうやって考えて行動している。それさえあれば俺は俺でいられる。そのおかげで胸につかえていた靄が取れた気がする。俺の心残りはこれだったのだ。ただ、自分を育ててくれた母親に思いを伝えたい。それがかなった今なら俺は成仏できる。
午前1時
俺はコンビニには立ち読みにはいかず、自分が轢かれた道へと赴いていた。これから自分が車に轢かれて死ぬというのにどこかすがすがしい気持ちがしていた。もう思い残すことはない。そう考えていた時、目の前の一本道に2つの光が見えた。
「来たか」
俺はその光へと自ら進んでいった。車はまっすぐにこちらに向かってくる。俺は真っ直ぐ車を見据えて運転手の顔を見た。その顔は最初に轢かれたときと同じ顔をしていた。あふれ出す殺気、それと初めて読み取れた感情、それは謝罪の表情だった・・・
その日俺は2度目の死を体験した。
再び意識が戻るとそこは、周囲が真っ白などこまでも平坦な部屋だった。そう俺が死んでやってきた部屋である。
「終わったのか・・・」
俺は少し期待していた。目が覚めたら最初に見慣れた天井が視界に入り、右上にスマホが置いてあり、テレビやゲーム、アイドルポスターが置いてある自分の部屋にいることを。だがそううまい話はないらしい。
「お帰りなさい」
俺が戻ったことを察知してなのか、どこからともなく天使が姿を現し、声を掛けてきた。見た目の年齢は15、6歳程度、身長が155センチあるかどうか。白いワンピースを着ている天使。その透き通る声が届く。
「あぁ、俺の心残りとやらを解決してきたよ」
もう戻れない。まさに失ってから気づく普通の幸せに死んでから気づく。もうどうにもならないとわかっていながら、八つ当たり気味にとげがある言い方になってしまう。
「これでここにいる意味はもうない。翔はもう殴られたり、罵倒されたりすることはないだろうし、母親には言いたいことを言ってきた。心残りはもうない。あとは成仏するだけだ」
これはもう諦めや悟りを開いたということなのかもしれない。どうやってもあらがえないものが目の前にある。ただし、変えられたこともある。それを確認するために俺は自分がやってきたことを口にしていた。それなのに天使の口からは残酷な宣告が下された。
「いいえ、あの世界はあくまであなたの心の整理をするだけの世界。本物の世界ではありません」
「えっ・・・それってどういう・・・」
俺は頭が真っ白になる。頭では意味は解る。しかし感情が受け付けず、拒否してしまう。
「そのままの意味です。あなたの本当の世界はあなたが死ぬ前の世界。死んでここに来てから言った世界はあくまであなたの心の中にしか存在しない世界。いうなれば夢の中といったところでしょうか」
全ては無意味だった。俺が必死に頭を働かせて、体を動かして、感情を吐露した七日間は長い夢の一言で終わってしまった。
その考えを見透かされたのか天使は俺の目をやさしく見つめて
「しかし心配いりません。あなたが行った事柄は、現世に残ったもので解決できるものはあなたの位置に違う人間が入って解決するでしょう」
「えっ・・・それってどういう・・・」
俺は同じ言葉を繰り返してしまった。天使はそれが可笑しそうに微笑み
「翔君と影山君の中はいいですよ」
そうかそれは良かった。でももう一方は・・・
「そちらも心配いりません。全ては夢枕という形に・・・」
夢枕、確か死んだ人間が寝ている人間の頭の上に現われていくというあれだ。
「そうか、少しは救われた気がするよ」
まったく気持ちを伝えられなかったわけではない。例え夢という形でもあの日、俺にとってはさっきの出来事だが、伝えたのは紛れもなく俺の気持ちだ。
「そうですか。それは何よりです。では・・・」
そういうと天使は俺の後方へと歩きだし、ある物の隣へと止まった。触れることで心残りがある時代へと行けるマネキンだ。そういえばマネキンは四体あった。そして今、天使は右から2番目のマネキンを差していた。
「さぁこちらへ。怖がることはありません」
俺は思わず口が緩んでしまった。別に怖くないし。どうやら俺の心残りとやらはまだまだあるようだ。
俺は立ち上がり天使のもとへ歩き、指さすマネキンを凝視する。次はどんなこころのこりだろうか。考えても仕方がない。こうなったら進むだけだ。
俺は右から2番目のマネキンの右手首を握った。そして2度目の旅へと出発した。
―夏―
瞬きをした一瞬で俺はまた一面真っ白な空間から飛ばされていた。最初に俺は強い日差しを感じ、目がくらんだ。どうやら季節は夏らしい。カラッとした暑さが体力を奪う。俺の恰好は肌の感覚から半袖長ズボン、帽子をかぶっていて左手には手袋のようなものをつけている。なぜ左手にだけ、こんな暑いのに。混乱している俺の耳には何やら音楽が聞こえてくる。吹奏楽器で聞いたことがある曲で、まくし立てるようなアップテンポで演奏されている。
カキーン
そんな演奏の中、1つの金属音が耳に届く。やっと目が慣れてきた。そんな俺の目に映ったのは、バッターボックスでバットをたたきつけている人間だった。続いて分厚いマスクとプロテクターをつけている人間。
「サードッ」
最後にこっちを向いて叫んでいる人間。あれはキャッチャーだ。そしてサードというのは
「俺だ・・・」
俺は上を見上げる。そこには、弧を描きながら一直線に俺の方へ飛んでくる白球。そう、これは野球の試合だ。高校野球、県大会決勝。あと1勝、アウト1つで勝利。そこで俺はミスをした。
背番号1ピッチャー西俊哉。3年。温和な性格で争い事が苦手。だが誰にでも優しくできるいいやつ。
背番号2キャッチャー藤屋隆。3年。熱い性格でチームのキャプテン。言葉はきついが、それはチームを思ってのこと。理解するのに3年かかった。
背番号3ファースト山中英輔。3年。通称ゴリ。ゴリラみたいな見た目の通りパワーがある。だが、そのパワーの矛先が向かうのは白球に対してのみ。虫も殺せない優しいやつ。
背番号4セカンド品川信二。3年。発言はチャラチャラしているが人が見ていないところで努力している。本人は気づかれていないと思っているがチーム全員が知っている。
背番号5サード久我幸喜。3年。俺。
背番号6ショート高橋正一。2年。レギュラー唯一の2年だが物怖じしない性格で思ったことを言ってしまう。次期キャプテン。
背番7レフト田中敦。3年。彼がこの後女装に目覚めることを僕たちはまだ知らない。
背番号8センター前田健。3年。チームのムードメーカーで場を和ませるゆるキャラみたいなやつ。
背番号9ライトアレキサンドロス・ゴンザレス。3年。日本人。入部当時は長打力を期待されていたが実は打撃は苦手。守備職人。
野球部監督。本名は忘れた。鬼のような練習内容から部員から鬼と呼ばれていた。年齢は29と若く、本人は部員から親しみを込めて「お兄」《おにい》呼ばれていると勘違いしている。
マネージャー姉崎純。野球部のマネージャーでしっかり者。その包容力はかなりのもので部員からは姉ちゃんと呼ばれている。俺の幼馴染。
その他、ベンチやスタンドから声援を送ってくれるチームメイトや学校のみんな。保護者。そのたくさんの人達を俺は裏切ってしまった。3年間の努力を無駄にしてしまった。
端的にいうと、俺はこのサードフライを捕れない。そして現在9回裏4対3。ツーアウトランナー二、三塁。俺のエラーで逆転負け。甲子園へは行けなくなる。
そんな俺のエラーを誰も責めなかった。泣きながら俺の頑張りでここまで来れたとまで言ってくれた。みんなの優しさが痛かった。出来るならあの日に戻ってやり直したいと思うほどに。
そんな俺が今、あの日に戻ってきている。そして眼前にはフライが上がっている。こんなチャンス二度とない。そう思って俺は落下地点でグローブを構えようとする。が、体がこわばって体が思うように動かない。否が応でもエラーをした光景がフラッシュバックする。グローブに収まらず落下する白球、ホームインする相手ランナーの背中。そのランナーに駆け寄る相手選手たち。それを見て呆然とする、仲間たち。涙をこぼす純。
周囲の仲間は勝利を確信している。ガッツポーズをする者。安堵した表情をする者。それでも体が動かない。また捕れないのか。俺はまた同じことを繰り返すのか。そんなことを考え始めてしまった。
「コー!」
そんな時、俺の耳に俺を呼ぶ声が聞こえた。声の主は野球部マネージャーの純である。その声に歓喜の色はない。むしろ不安の色がある。純だけがわかっていたのだ。俺の異常を。恐らく1回目の時も同じように体がこわばっていた俺に純は叫んでいた。だが聞こえなかった。だが2回目の今は聞こえた。俺の緊張がほぐれ、グローブをはめた左手が動く。そしてボールに焦点を合わせる。ボールが収まるのを待つ。あと3秒、2秒、1秒・・・
「パスン」
捕れたと思った瞬間に、俺はボールをグローブで後ろにはじいてしまった。すぐさまボールの場所を確認するため後ろを振り返る。現在ボールは俺の左後方70センチ。その間もボールは重力に逆らうことなく落下していく。
「くそっ届けっ」
俺は思いっきりボール目掛けて飛び込み、グローブを差し込む。落球まであと50センチ。まだグローブは届かない。落球まであと40センチ。まだ届かない。
このままでは届かない。俺はとっさにあいている右手で地面を捉え、搔き出す。ほんの少しの勢いが俺の体を後押しする。落球まであと30センチ。そして・・・
「ポスッ」
俺のグローブに情けない音を鳴らしながらボールが収まる。そして歓声が周囲から聞こえる。その瞬間俺は確信した。ボールを捕れた。勝ったんだ。俺が望んでいたみんなの笑顔があるはず。そう思い仲間の顔を確認しようと起き上がる。
「ばっか野郎」
その罵声と共に俺は思いっきり後頭部をどつかれた。
どうして?俺はしばし混乱する。
罵声と暴力の主はキャッチャーでキャプテンの藤屋。その顔は歓喜どころか笑顔すらない。本気で怒っているようだ。
「危ないプレーしやがって。あんなフライ、目をつぶっていても取れるだろう。それくらい練習してきたんだ。なのにこぼしやがって」
あれ、俺のおかげでここまでこれたんじゃなかったの。そう思い始めた俺の元に続々とチームメイトが近づいてきて蹴りやらパンチやらを入れていく。中には争い事が嫌いな筈な西の姿まである。
「痛いっ痛いってやめろよ、捕ったんだからいいじゃん」
「あんな危ない取り方あるかよ、もう少しで負けるところだったよ」
平和主義者の西が尻に蹴りを入れながら言う。
「そうですよ先輩、そんなんじゃいつまた同じことを繰り返すかわかったもんじゃない」
後輩の品川にまで言われる始末。
「モットレンシュウシテクダサーイ」
片言で言い放つゴンザレス。言っていることはもっともだがこいつは生まれも育ちも日本だったはず。
そう思いながらしばし部員から手荒い祝福を受ける俺。中には鬼監督まで加わっている。それでいいのか教師。
しばらくすると暴力がやんだ。俺は体中に痛みを感じながら顔を上げる。俺が見たかった笑顔がそこにはある。そう思いながら周囲を見渡す。
「うっ・・・ひっく」
周囲には泣き顔しかなかった。俺が見たかったものではない。そう思いながらも俺の顔も次第に歪んでいく。そして涙がこぼれた。今までの練習やチームメイトとの衝突、楽しかったことや辛かったことが次々と浮かんでくる。俺にとっては遠い昔のことだけれど、昨日のことのように思い出される。苦労が報われた。そんなひと時を過ごした。
「さぁお前ら、帰ったら練習だ。次は甲子園だぞ」
藤屋がキャプテンらしくチームメイトの気を引き締める。
「ソウデスネ。レンシュウレンシュウ」
いまだ片言のゴンザレス。俺は断じて記憶違いなどしていない。こいつは日本語ペラペラだった。
俺たちは表彰式を終えて帰り支度をしていた。これから帰って早速練習の予定だ。だが俺はここで終わりだ。俺はこの時間の人間ではない。一緒にはいれない。それにサードフライを捕ったことでもう心残りはない。そう思い、俺は選手控室を出て行く。
どこで戻れるのかはわからない。そう思いながら俺はふらつく。少し歩いたところで純と出くわした。どうやら忘れ物を取りにベンチに行っていたらしい。
「コー、どうしたの、こんなところで」
そう言いながら俺の顔を見る。その手にはタオルが。
「あっそれ・・・」
「コーのだよ。いっつも忘れるんだから」
純が俺のタオルを俺に手渡す。
「ありがとう」
「どういたしまして。こう見えてもマネージャーだからね」
「そうだったな」
「・・・」「・・・」
二人の間にしばしの沈黙が訪れる。
「甲子園おめでとう」
「ありがとう。純のおかげだよ」
そう言った俺の意図が分からずに首をかしげる純。
「最後のサードフライの時、俺のこと呼んだだろ。実はあの時俺、体が動かなくってさ、純が名前読んでくれなかったらきっとエラーしてたよ」
再び訪れる沈黙。
なぜこんなにも純は気まずそうにしているのだろう。
「あのねコー・・・」
口を重たく開く純。
「うん」
俺は少し期待をしてしまう。幼馴染で野球部員とマネージャー。甲子園出場といえば、残っているイベントはあれしかない。と思ったのだが。
「ごめんねコー。甲子園出場決めたらっていう約束だったけれど、他に約束していた人がいて。私・・・」
そう言われて俺はしばしの沈黙に入った。いったい何のことだろうか。記憶の探索に入る。そして答えにたどり着いた。
(甲子園出場を決めたら俺と付き合ってください)
告白したのが確か県大会決勝の前日。俺からしたらもう何年も昔の話だ。しかも振られた話なのだから必死に忘れようとして、やっとの思いで忘れた話だ。それが今、現在進行形で進んでいる。心残りもクソもない。というかこのままでは新しい心残りが生まれるんじゃないか。
「姉崎さん」
その時俺の後ろから純を呼ぶ声が聞こえた。
「西君」
正体はうちのエースの西だった。
「姉崎さん、話があるんだけど、ちょっといい?」
「いいよ。それじゃね、コー」
そう言って俺の横を通り過ぎていく純。その顔は少し赤らんでいて嬉しそうに見えた。
二人が消えゆくのを見送る俺。そういえば今日の西は少し変だったな。エラーしそうだった俺に蹴りを入れてきたり。なるほどそういうことだったのか。西も俺と同じ純としていたらしい。そうとも知らず過去の俺は告白していたと。ちなみにあの二人、甲子園に行こうと行くまいとこの二か月後には付き合い始めます。
「ふぅ、新たな歴史が生まれる場面を見てしまったな」
まぁ例え俺の告白が成功していても今の俺には純を幸せにはできない。これでいいのだ。俺の心残りはエラーをして、皆に気を遣わせてしまったこと。だからこの日に戻って今度はフライをキャッチして、皆の笑顔が見たかった。結果的には泣き顔を見ることになったけれど、良しとしよう。
心に決着がついたのか。瞬きをした瞬間に俺は真っ白で平坦な空間に戻ってきていた。
「お帰りなさい、残念でしたね」
突如俺の後ろから声が聞こえてきた。もちろんこの空間の主、天使の声だ。
「残念でしたねって、見てたのかよ」
例え、「IF」の世界での出来事でも、自分の行動を見られていたことが少し恥ずかしい。それも今回は過去の自分が「甲子園に行ったら」なんてありがちな文言を使って告白していたのだ。それを他人(他神?)から映画でも見るように見られていたのなら尚更だ。
「はい、それが私の役目ですので」
「そうかよ・・・あのさ試合の結果って・・・さ」
言葉を濁す俺の心情を悟ったのか、それとも心の声さえも読めるのか天使が俺の欲しかった答えを言った。
「えぇ、試合は勝ちましたが、あくまでも夢の世界での話です。あなたが生きた時間とは別物です。
そりゃそうだ。もしそんなことが出来れば俺は車に轢かれないように努力する。
ちなみに甲子園決勝に敗れた俺たちは、そのまま三年は引退、次期キャプテンは2年で唯一レギュラーだった高橋がなり、エースの西は2か月後,、純に告白。付き合うことになる。さらに西は甲子園未出場校ながらプロ野球球団からドラフトがかかり、プロ野球選手となる。そして現在(俺が生きていたころ)一軍定着を目指している。俺はまぁ見ての通りだ。
「それで、俺の心残りはそのマネキンの数からすると後2つあるわけだ」
俺はマネキンの方を見ながら天使に問いかける。
「えぇ、残りは2つ、です」
天使は問いに答える。
「そうか、2つか」
俺は少しばかり顔を暗くする。
「不満ですか」
俺の態度に天使の顔が曇る。
「いいや、そういうわけじゃない。なんだけれども・・・」
俺は言葉に詰まる。何と言っていいのか、俺は今、自分の状況を楽しんでいる。誰だって過去をやり直したいことの1つや2つあるはずだ。そして人間とは欲深い生き物だ。その1つを直したら他のもう1つもやり直したくなる。それではきりがないのではないだろうか。
「心配はいりません」
またもや俺の心を読んだのか天使は答える。
「あなたはあなたの赴くまま心残りを解決すればよいのです」
「もしもその心残りを解決しなかったら?」
「そうはなりません」
天使は断言した。そして前の2回と同じようにマネキンへと歩みだす。今度は右から3番目。そのマネキンの右隣に立ち指し示す。
「さぁ、続いての心残りを解決しに行きましょう」
「休ませてくれないのか」
俺は不満そうに言う。いくらなんでも急ぎすぎではないのか。文句を言いながら俺は天使が指し示すマネキンを目指して歩き出す。そしてマネキンに触れようとする。その瞬間
「えぇ早くしなければ、私があなたを始末しなければならなくなりますもの」
「・・・えっ、それってどういう・・・」
俺が質問を終える前に手がマネキンに触れてしまった。天使の答えは俺に微笑みを返すのみだった。
―秋―
「ここは・・・」
目を開けるとそこには見知った光景が広がっていた。俺が幼い頃に母親と、小学校に上がった頃には友達と遊びに来ていた公園だ。公園内にはオーソドックスな形をした青色の滑り台と鎖の取っ手でできたブランコが二台、シーソー1台、ベンチが1台置いてあり、小さな砂場がある。それよりも問題は
「今回はいつなんだ」
最初がほんの少し過去、2回目が10年ほど過去、3回目の時空の旅はどうなっているのか。そう思い俺は現在の時刻を知るために歩み始めた。
俺はとりあえず自分の家に向かうことにした。公園からの距離は歩いて十分と近い。その道中も特に変わっているところはないように見える。都会と違い、こんな田舎町には大きな変化などおこるはずもないのだが。それでも俺は周囲の状況を知るために視線を上下左右に配りながら歩いていた。生きていた頃には全く見ていなかったので何がどう変わっているのか気づいていないのかもしれないが。そんなこんなでもうそろそろ実家に着くころ。
「あれ、空き地だ」
そこは確かに俺の前の実家のあった場所だ。昔、俺がまだ赤ん坊のときに父親が1軒家を建て、その際、両親と一緒に家の前で撮った写真を見たことがある。そして俺が生きていた頃は空き家物件となっていた。それが空き地となっている。いったいどういうことだと考え始めた時、空き地の右の1軒家、すなわち姉崎家の扉が開いた。
「それじゃ行ってきます」
そう言って出てきたのは純だった。俺はとっさに隠れようとしたが隠れるところがない。しかも純は真っ直ぐこちらに歩いてくる。純のあの見た目だと俺が死んだ時からさほど時間は経っていない。このままでは幽霊騒ぎになってしまう。そう思っていたのだが
「こんにちは」
「えっ、こんにちは・・・」
純は俺にすれ違いざまそう挨拶していき、俺は呆然としてその後姿を見送った。
「どういうことだ」
純には俺の姿が見えていたので幽霊ではないが、久我幸喜としては認識されていないようだ。ということは俺の見た目が別人にいなっているのではないかと思い、鏡を探した。するとポケットにはスマホが入っていたので急いでフォトの自撮りモードにする。そこには見慣れた顔が写っていた。間違いなく俺の顔だ。ということはどういうことだ。そう思いながら、先ほどの場面を思い出していた。そして一つの事実にたどり着いた。
「純のお腹膨らんでいなかったか」
太った・・・というわけではないだろう。便秘、という現実逃避気味な考えも浮かんだ。だが現実を見なければいけない。俺は幼馴染のこういうのは聞きたくなかった。何ていうか自分だけ置いて行かれているみたいだからだ。自分だけ子供のまま、、周りは自分の親と同じように人の親となり、大人になっていく。だが現実を見つめなければならない。
「妊娠か」
そう、妊娠である。それに純が着ていたのは、妊婦さんがよく着るマタニティドレスだった。というと相手は西か。あの二人が結ばれるのがちょっと複雑な気持ちになりながらも、俺は心残りとやらを探しに再び歩きだそうとしたそのとき、
「いい天気ねぇ」
そう言いながら空き地から左のアパート/(俺が母親と2人暮らしをしていた)から1人の女性が出てきた。
俺は驚いた。知り合いだったから、というのは間違いではないが、正確でもない。その人は
「母さん?」
そう俺の母親、久我喜美その人だった。だが若い。俺の知っている母親は50のおばさんだった。だが俺の目の前にいるのはどう見たって20代の女性だ。まさかのアンチエイジングか。俺が死んだあと、整形に手を出したか、と混乱していると。
「そうだな、お腹の子もきっと感じているよ」
そう言いながら母親の後ろから男が出てきた。というかあれは
「俺?」
そう俺である。久我幸喜その人だった。年齢は現在23の俺より3年年上の感じで髪型は七三分けである。服装は長袖のトレーナー、ジーンズを着ている。なんだか古臭い。そう思い、1つの考えに至った。俺ではない、遠目でこそ俺そっくりだがよくよく見ると、俺の父親、久我幸弘その人だった。だが若い。俺の知っている父親は齢40のおじさんだった。俺が高校1年のとき、病気で他界したのである。
「お腹の子?」
俺は母親の言葉に疑問を持ち、よく母親の腹部を遠目に凝視する。だが母親も純(もしかすると純の母親)と同じようなマタニティドレスを着ている。そのせいでお腹が膨らんでいるのかどうかわからない。だがあの服を着ているということはおそらく妊娠しているのだろう。
そんな若き日の母親と父親がお腹に俺を授かってどこかに出かけようとしている。その光景を同じ時同じ時間、同じ場所で俺が見ているのだから不思議な光景である。俺がこの世に二人存在していることになるからだ。というよりも問題は
「俺が生まれていないってことは、そもそも心残りって存在しないんじゃ」
そう思いながらも今回も手掛かりを探すことにする。
若き日の両親は、ゆっくりとした足取りでどこかに向かっている。そんな2人を俺は同じような足取りで距離をとってつけている。もはやストーカーである。そう思いながら2人の会話に聞き耳を立てる。周囲は騒音のない住宅街なので静かであり、声が反響して響く。
「この子、男の子かしら、女の子かしら。どっちがいい」
「僕は男の子がいいな。一緒に遊べるし、女の子だとお嫁に行かれると悲しいからね」
「えーそうなの。私は女の子がいいな。私も一緒に女の子の遊びがしたいし。左隣の姉崎さんの家は女の子らしいわーよ」
その会話を聞きながら後ろを歩く男の子の俺。過去を思い返すと確かに父親とはキャッチボールをよくしていた。しかも母親ともおままごとや人形遊びをしていた記憶がある。
むしろこっちの方が多いくらいかもしれない。しかもその母親の願望は姉崎家の長女、純を巻き込み、その後、純に連れられてきた長男、翔も付き合う羽目になる。
「まだ先の話だけれど幼稚園とかどうしましょう。近くにあったかしら」
「それなら心配ないよ。家の近くに幼稚園があるんだ。それにアパートだし、引っ越してもいいよ」
幼稚園には女の子のようなアップリケが付いたお弁当入れを持たされたっけな。周りの男の子は戦隊ものとかゲームキャラクターとかのだったのに。幸い父さんがそれに気づい て事なきを得たけれど。子供は残酷だからあのままだったらどうなっていたかわからない。
「小学校は近くにあるからあそこにしましょう。集団登校中の小学生も元気がよくって可愛いわ」
「気が早いよ。でもそうだね。この子の運動会とか楽しみだな。お弁当をもってビデオを撮ってその他にもいろいろ」
小学生のときが人生の絶頂期だった。運動は出来て勉強もできる。正直言ってモテていた。しかし純には頭が上がらなかった。主従関係が出来ていたのである。そのせいで次第に女の子は近づいてこなくなった。
「僕はこの子には野球をやって欲しいな。それで甲子園に行ってプロになる」
「嫌よ、それじゃこの子に会えなくなるじゃない。それに男の子って決めつけて。女の子だったらピアノを教えるわ。それにうまくならなくてもいい。この子が幸せになってくれれば」
父さんは結構厳しめの人だった。よく「野球ばかりしてないで勉強もしなさい」と言われていた。それに俺は反抗していた。今更だが野球には反対していないことを理解する。母さんにはピアノを教えられた。結構厳しめの指導だった。
2人の会話に聞き耳を立てながら歩き始めて10分後、2人はある敷地に入っていった。俺が先ほどいた公園である。どうやら2人は近所の公園まで散歩に来たらしい。だが公園内には父親と母親の2人だけではなかった。ベンチにはもう1人いた。純そっくりの純の母親である。
「まずいな」
俺は先ほど純の母親とすれ違い、挨拶をしてしまっている。それは純の母親が俺のことを俺の父親、久我幸弘だと勘違いしたからである。その証拠に俺の両親と会話を始めた純の母親は「幸弘さん着替えたの?」と聞いている。もちろん幸弘には心当たりがないのでキョトンン顔である。この状態で俺が3人に見つかるのは良くない。そう思った俺はひとまず公園を後にする。
とはいっても俺に行く当てはない。おそらく現在の時代は1991年の秋、俺はまだ生まれていない。よってこの秋空の下、ホームレス生活開始である。まずはこの寒さを何とかしたい。そう思い、俺はとりあえずコンビニを探す。となれば行くコンビニは決まっている。2年間毎日休まずに立ち読みに出かけたあのコンビニである。この時代から営業していたか心配になりながら、少し記憶と違う建物が立ち並ぶ道を歩く。少し違うだけで全く違う道に見える。時刻は午後4時半、日が落ち始め、寒くなってきたので早く建物に入りたい。俺の脚も自然と早足になる。そしてゴールが見えてきた。あの丁字路を右に曲がればコンビニがある。神にも(天使にも?)祈る気持ちで俺は(丁字路を右に曲がる。そこには見知った建物はなかった。が、少し古めかしいコンビニがあった。どうやら俺が通っていたコンビニはリニューアル後の新しくなったコンビニだったらしい。とにかく暖をとれるのはありがたい。そう思い俺は足早に入店する。
「いらっしゃいませっ」
入店するや否やお決まりのセリフが聞こえてきた。レジを担当していた店員の声だ。俺はその顔を見て驚いた。若かりし日のコンビニ店長だった。見た目30代前半といったところか。髪を五輪狩りにしている。昔から変わっていないらしい。この人には立ち読みをしていると後ろから咳払いをよくされていた思い出がある。こんな昔からこの場所でずっと商売をやっていたのか。そう関心をしていると
「いらっしゃいませぇー」
一際大きな声が聞こえてきた。その声の主は俺が更に見知っている顔だった。
「えっ、店長?」
それこそ俺が知っているコンビニ店長だった。年齢は50代後半、髪形を五輪狩りにしている。だが店長は若かりし姿でレジ打ちをしている。となるとこの人は店長の父親。そういえば、時々ではあるが、レジの隅っこで椅子に腰かけ背中を丸くして新聞を読んでいる老人がいたような記憶がある。(レジなんて行かなかったから記憶は定かではない)どうやらこの人らしい。
そんなことで時空を超えたことを実感する俺はとりあえず雑誌コーナーへと向かう。今も未来も雑誌は置いてある。ラインナップも変わらない。俺はいつものように週刊連載のコミック雑誌を手に取る。そこには俺が古本屋で日焼けしている状態でしか見たことがない作品が真新しい顔で連載していた。まだ単行本化すらされていない最新作を読んでいるのだ。そう思うと考え深い。センターカラー、今週から新連載される作品は俺が知っているものだった。単行本全43巻出ている人気バトル漫画で、10年間の連載をしていた人気漫画である。だが、連載当初はバトル路線ではなく、ギャグ路線で進めていたのである。俺が今読んでいるのももちろんギャグ回である。その面白さは単行本で読んでも週刊雑誌で読んでも変わらない。微妙である。
後の超人気バトル漫画の記念するべき連載第一回目のギャグ回を読み、続けて推理物、スポーツ物、青春物など様々なジャンルの作品を読み進めていった。そして一冊を読み終える頃
「ゴホン」
俺の後ろから咳払いが聞こえた。もちろんコンビニ店長、ではなくその父親のものである。この人の咳払いは初めてなので少し冷や汗をかいた。だが俺は立ち読みを続ける。すると
「お客さん、立ち読みはそこまでだよ。買う気がないなら出て行きな」
まさに世代間ギャップであった。俺が生きた時代では考えられなかった接客がそこにはあった。もし俺の時代でこんなことを言ってしまったら最後、すぐさまネットに書き込み、拡散されてしまう。(もちろん俺はそんなことしないが)
「すいません」
とりあえず俺は謝り、お詫びと言っては何だが、申し訳程度にホットの缶コーヒーを1本手に取りレジへと向かう。
「いらっしゃいませっ。百十三円でございます。」
そこで俺はもんだに気付いた。
(そう言えば俺ってお金持っていない)
最初の時空の旅の時に自動販売機の下を探ってまでお金を探していたのだ。そのお金もバッティングセンターで無くなり、現在の所持金はゼロのはずである。そうと知りながらも俺は財布を開く。すると中には千円札1枚、五千円札1枚が入っていた。そう言えばたまに母親がお金がない俺に気を使い、お金を入れてくれることがあった。どうやらあのバッティングセンターでの死闘の後、母親が入れてくれていたのだ。俺は母親に感謝しつつ、両替の意味も込めて五千円を出す。
「これで」
しかし五千円を見て店長ジュニアは怪訝な顔をする。まさか缶コーヒー1本に対して五千円を出されたことに嫌悪しているのか。だとしたら小さい人間だ。そう思ったが事態は違った。
「お客さん、これなんですか」
「えっ、何って五千円ですけれど」
戸惑いながらも答える俺。どこからどう見ても五千円である。
「あのねぇ、お客さん、レジにおもちゃのお金を持って来ちゃ駄目だよ」
そう言いながら五千円を突き返す店長ジュニア。どういうことだ。
「いやいや本物ですけれど」
そう言いながら再び五千円を出す俺。だが反応は変わらなかった。
「五千円って。あんた本希で言ってるの」
「はい」
ちょっとムッとして返事をする俺。そんな俺をみて本気で言っているとわかったらしい店長ジュニアはあきれ顔でレジから1枚のお札を取り出した。
「あのねぇ、五千円はこれだよ。新渡戸稲造。あんたの持っているのは何。新渡戸稲造は女性か」
そう言われて初めて気づく。そうだった。樋口一葉が新しくお札になったことは俺の記憶にある。その前は新渡戸稲造を使っていた。ということは樋口一葉の五千円札はこの時代には存在していない。ただの紙切れである。ということは
「あの、千円札って・・・」
「夏目漱石だよ」
俺は絶望した。財布の中の紙幣が全滅した。合わせて六千円がただの紙切れに。そう思いながら缶コーヒーを買うため小銭を見てみる。が、ここで新たな問題が発生した。
(小銭はあるけれど製造年月日が)
そう硬貨には製造年月日が書いてある。現在は平成3年。つまりそれ以前の硬貨しか使えない。俺は必死に使える硬貨を探し、何とかかき集めた。
「はい・・・」
俺がジャラジャラと差し出した50円玉1枚と10円玉4枚、5円玉2枚と1円玉3枚を疑わしそうに見る店長ジュニア。失礼だなと思ったが文句は言えない。
「確かに百三円頂戴いたします。ありがとうございました」
俺は何とか買えた缶コーヒー1本を手にコンビニを後にしようとする。その時、入り口に置いてある新聞の一冊が目に留まった。
「平成3年10月26日」
「っ!」
俺は驚いて声が出なかった。なぜなら俺の誕生日は10月26日。現在の時刻は午後6時半。今日の日付がこの新聞通りならば5時間半以内には俺が生まれる。にもかかわらず俺の母親は家にいて出歩いていた。いやな予感がする。俺はコンビニを出て、全速力で家を目指す。
「はっはっ」
言っておくが俺は2年間引きこもっていた。故に運動なんかしていない。死んだ後だというのに律儀にその時のままの身体機能だ。息が切れ、足がもつれる。生き絶え絶えにそれでも俺はアパートにたどり着く。そして聞き耳を立てる。すると父親と母親が話しているのが聞こえた。俺は一安心した。とりあえずは大丈夫そうだ。もし陣痛が来ても父親が一緒で自宅にいるならば救急車を呼べる。まだ自宅にいるということは俺は早産だったのだろう。安心したらとても疲れた。俺は足を引きずりつつどこか休めるところを探した。
そして俺は今公園に来ている。俺が行けるのなんてこの公園かコンビニくらいである。そしてもうコンビニには行けない。寒空の下、俺はベンチに座り、冷えてぬるくなってしまった缶コーヒーを飲んでいる。
「さてこれからどうするのか」
俺が生まれるのは明日。その誕生の瞬間に立ち会えばいいのか。幸い自分が生まれた産婦人科は知っている。ここからはすぐ近くだ。少し休んだらそこまで歩いていくか。そう思いながらふと夜空を見上げる。そこには寒くなってきているからか満点の星空が広がっていた。こうやってゆっくりと夜空を眺めるなんて人生を俺は送ってこなかった。まさか死んでからそんな時が来るなんて思ってもみなかった。きっと生前ならば「こんな寒いのにわざわざ」なんて思っていたかもしれない。でも死んだあとでは感じ方が違う。久しぶりに運動をして気分が良いからかもしれないが、こんな寒くてもみる価値はあると考える。しみじみとしながら俺は残ったコーヒーを飲み乾す。もう行くか。そう考えていた時、右手が何かに触れた。マフラーである。赤くてとてもフワフワしている。おそらく誰かが忘れていったのだろう。思わず俺はそのマフラーを首に巻いていた。とても暖かい。この寒空の下では必需品だ。俺がほっとしていた時
「すみません、それ私のなんですけれど・・・」
突然声を掛けられて俺は驚いてしまった。いつの間に人が近づいてきていたのだろうか。それに気づかないほどに疲れていたのか、暖かさにほっとしていたのか、はたまた両方か。俺は慌ててマフラーを外し、立ち上がり、頭を下げ持ち主に差し出す。
「すっすいません。つい、暖かそうで思わず」
「いいえ、返してもらってありがとうございます」
声からして女性らしい。その声色に起こった様子はなく、優しさが伝わってくる。
俺はほっとして頭を上げる。するとそこには
「どうかしましたか」
俺はその女性を凝視してしまった。それに疑問に思ったのか女性が少し警戒する。だがしかし凝視せずにはいられない。なぜならその人は、妊娠をしていて、マタニティドレスを着ている俺の母その人だった。
「いえ、あの本当にすいませんでした。勝手に使ってしまって」
なんて言ってよいのかわからず俺は再び謝ってしまう。
「あの・・・」
そう言って今度は母親が俺の顔を凝視してくる。俺はまだ気が動転していて何と話してよいかわからず固まったままである。
「いいえ、勘違いでした。あなたを遠目から見た姿が私の知り合いにそっくりで。もしかしたら親戚かなって。でも近くで見るとそんなに似てもいないですね」
そう笑いながら話す母親。その知り合いとは恐らく父親の幸弘のことだろう。親子だから似ていてもおかしくないのだが遠目限定というのは何とも言えないところである。
「あぁ、あのもしかして久我君のことですか。彼とは昔から似ていると言われていて。親戚ではないんですが」
俺は思わずそう言っていた。なんとなくもう少しだけ話をしていたかったのだ。
「てことは、幸弘さんのお知り合いの方?」
「そうです。今日はたまたま仕事でこの付近に来ていまして、僕の顔を見てそっくりと言われたので、もしかしたら久我君のことかなって。彼がこの付近に住んでいるのは知っていましたから。あなたは・・・もしかして久我君の奥さんですか」
わかりきっていることを聞く俺。だが母親にとっては初対面の相手だ。知らないことまで知っているのはおかしい。それを隠しながら話すのは難しかった。
「はい、久我幸弘の妻、久我喜美です。あなたは」
自己紹介をして、俺の名前を聞く母親。
「俺はくっ・・・」
思わず本名を言いそうになりギリギリのところで止める。本名を出したら苗字は同じだ。別に同じでも、偶然の一致で済みそうだがやはり変えることにする。
「工藤幸喜です」
俺はとっさに答えた。さすがに名前まで変える余裕はなく、本名を使ってしまう。
「漢字ではどうやって書くの?」
母親に聞かれて俺は名前を他の漢字に変換でできず、本名を地面に書いてしまう。
「工藤・・・幸喜さんですか。なんだか私と幸弘さんから一文字ずつ取ったような名前ですね」
そう言われて俺は言葉に詰まる。気づいていなかったわけではない。昔、小学校の課題で自分の名前の由来を知りましょうということで両親に聞いたことがある。その由来とは正に「幸弘の幸と喜美の善を1文字とってくっつけたもの」だった。俺は平静を取り繕いつつも会話を続ける。
「えぇ、本当に。偶然ってあるものですね。でも幸喜ってそんなに珍しい名前でもないですし。よくあることですよ」
その直後、喜美は微笑みながら俺が座っているベンチの隣に腰かけてきた。
「でも本当にすごいんですよ。私、今妊娠していて、昨日の夜お腹の子の名前について話していたんです。そのとき生まれてくる子が男の子だったら幸喜にしようねって」
「へ―そうなんですか。自分で言うのもなんですが、いい名前ですね。両親に愛されているってわかる」
自分で言いながら少し目頭が熱くなった。それに気づかれないように俺は顔を背ける。
「はい、でもこのタイミングで幸弘さんのお知り合いで私たちが名付けようとしていた子供の名前を持っている人に会うなんて。偶然にしては出来すぎですよね。あなた、もしかして未来から来た私たちの子供だったりして」
なんと真実を当てられてしまった。女の勘とは恐ろしいものである。
「あはは・・・面白いですね。もし本当だったら夢がありますよね。未来の世界ではタイムトラベルが可能になっていて、両親の顔を見に息子がやってくる。久我君の奥さんは小説が好きなんですか」
話をそらそうとする俺。
「事実は小説より奇なりっていうでしょう。もし本当でもおかしくないじゃない。他人の正体なんて全部は解らないんだし。あなたが宇宙人でも私は驚かないわよ」
そう笑顔で言う母親。この母の顔はよく知っている。なんでもお見通し。嘘なんてすぐわかるから正直に言いなさいという顔である。
「あー、その実はですね・・・」
こうなったらどうしようもない。真実を話すまでである。
「実は?」
喜美の顔はワクワクしているように見える。
「実は未来からやってきたあなたたちの子供です」
言ってしまった。どう考えてもタイムトラベル物のタブーである告白をしてしまった。この後に訪れる反応や天使からの罰が恐ろしい。そう思いながらまず訪れるであろう母親の反応をうかがう。
「ぷっはははははっはははっははははは」
爆笑が返って来た。俺がキョトン顔をしていると
「ごめんなさい。工藤さんって面白い人ですね。そういう冗談真顔で言う人に初めて会いました。・・・っふふふ」
まだ笑い続ける喜美。
「でもそうですね。ならお腹の子が男の子だったら名前は幸喜にしようかな。せっかく未来から来てくれたんですもの。っふふふ」
まだまだ笑い続ける。余程つぼに入ったのだろう。しばらく笑い続けて早5分。やっとのことで笑いが止まった。
「工藤さん、よかったら家に来ませんか」
突然の誘いに俺は戸惑った。
「幸弘さんも会いたいだろうし」
なんで父さんが俺にと一瞬思ったが、そういえば知り合いの設定だった。
「いやいや、いきなりこんな時間に押しかけたら迷惑だろうし。それに奥さん、お腹の子が生まれるんじゃ」
「全然迷惑じゃないですよ。幸弘さんの昔話も聞きたいし。お腹の子の予定日はあと三週間後なので大丈夫です。あっでもあなたが未来から来た私たちの子ならいつ生まれるか正確な日がわかるんですよね。工藤さん、誕生日は?」
そう言いながら意地悪な顔をする母親。言うまでもなく俺の誕生日は明日だ。いつ陣痛がはじまってもおかしくない。本当のところここで油を売っている場合ではないのだ。すぐさま産婦人科に行かなければ。そのためには。
「今日ですよ。1991年10月26日。今日が俺の生まれた日です。奥さん、早く病院に行ってください」
俺はいたって真剣に訴えたつもりだった。だがやはり母親には冗談に聞こえたようだ。
「はいはい、その話は家に来てからにしましょう。遠慮することはないですよ」
そう言いながらベンチを立ち上がり、帰路に着こうとする喜美母親。俺は仕方なく母親についていこうとする。その時。
「ふっ・・・」
母親の口から空気が漏れる。俺は一瞬また笑い出したのかと思ったが、苦しそうにうずくまってしまう。
「・・・生まれる」
突然のカミングアウト。だから言ったじゃないですか。
「でしょ。言ったじゃないですか。奥さん。早く病院に行ってくださいって」
俺は急いで、だが慌てず救急車を呼ぼうとしてスマホを取り出す。そして119番を押す。だが繋がらない。俺はもう一度押すが状況は変わらない。
「その大きいポケベルは何ですか」
苦しみながらも奇行に走っているように見えたのか、不思議そうに俺に問いかける母親。
(しまった。この時代にスマホなんてない)
今更ながら気づく俺。頼みの綱が切られた途端頭が真っ白になる。どうしたらいい。とりあえず大きな声で助けを呼ぼうか。そんなことを考えていた時。
「あの、私が通院している産婦人科、この近くなんです。徒歩3分くらい。そこまで連れてってくれませんか」
「わっわかりました」
そう言われて病院が近くだということに気付き、母親を運ぼうと行動に移す俺。だがここでもう1つ問題が。どうやって運ぼう。おんぶはお腹の子が圧迫される。肩を貸すのは母親も歩けなければ無理だ。なら方法は1つだけ。
「ちょっと失礼」
そう言いながら俺は母親の背中と足の関節に手を回し、持ち上げる。お姫様抱っこである。
「もう少し頑張ってください。すぐに連れていきますから」
「お願いします・・・ごめんなさい。あなたの言うこと当たってたみたい」
申し訳なさそうに謝る母親。
「そんなことはいいです。ただ、ピアノを教えるときはもう少し優しく教えてください」
どさくさに紛れて注文する未来から来た息子。果たして産気づいた母親に聞こえていただろうか。そんなこんなで公園を出て左折する俺。お姫様抱っこをしてまだ一分と経っていないが、すでに俺の腕は悲鳴を上げていた。プルプルしている。日頃の運動不足のせいである。
「大丈夫ですか。私、歩けますよ」
そう言う母親。妊婦に気を遣わせてしまうとは情けない。
「大丈夫です。これくらい・・・」
正直辛いが何とかなるレベルである。あとは何事もなく、この母子を無事産婦人科に連れていくだけ。そう思って曲がり角を右へ曲がる。
「うっくっ」
「…嘘だろ」
そこには産気づいて蹲っている純改め姉崎家の母親がいた。そういえば純の誕生日って俺と同じだったっけ。でも時間も同じとは。もはや双子である。半ば現実逃避気味になっていたが、2人の苦痛に満ちたうめき声が俺を現実に戻した。
「っとこんなことしている場合じゃない。すみません久我さん。下ろします」
俺は母親を下ろし、肩に手を回させる。そして姉崎の母親に近づいていく。
「あの、大丈夫ですか」
俺は間違っても姉崎さんとは呼ばない。俺がこの人を知っていることはおかしいことだからだ。続いて母親も声を掛ける。
「姉崎さん、姉崎さんのお子さん、今日が予定日だったっけ」
苦痛に満ちた表情をしながら姉崎の母に話しかける母親。
「久我さん、いいえ。予定は2週間後だったはず・・・」
とんだやぶ医者である。1度ならず2度までも誤診をしている。俺はそのやぶ医者の所へ妊婦2人を運ぶことをためらう。
「うっ」「くっ」
だがお腹の子、幸喜と純は待ってはくれなさそうだ。仕方がないが他に産婦人科はない。
「2人とも俺の方に手を回して。きついでしょうけど歩いていきますよ」
2人が肩に手を回したことを確認し、俺は2人を支えるように手を回す。そして再び歩き始める。
たった1キロ未満がとても長く感じる。俺の左右には妊婦が2人。お腹には赤ちゃんがいるので計四人の命が俺の肩に乗っている。とても重い。はっきり言えば俺が今体験しているのは夢のようなもので、例えここ妊婦二人を放っておいても問題ない気がする。そんな考えも脳裏に横切りながらも俺は足取りを進める。
「もう少しでたどり着きますから、我慢してください。頑張って」
妊婦同様、ただ俺の場合は疲れで息絶え絶えながらも二人に語り掛ける。二人からの返事はない。その余裕がないのだ。でもそれでもいい。今のはどちらかというと自分自身に対する自己暗示なのだから。
「あっ頭・・・」
突然母親が言葉を発した。俺は最初何のことかわからず母親の頭を見た。
「頭がどうしたんですか」
「…違う私じゃなくて赤ちゃんの頭が出てきた」
「・・・えっ」
母親の発言に俺はさらに焦る。頭が出てきてしまった。このままじゃ重力にしたがって赤ちゃんが落ちてしまう。
「あの・・・私は1人で歩けます。なので久我さんをつれてってください」
母親の状況を知って姉崎の母親が申し出る。だがそんなことはできない。先ほど道にうずくまっていたところを見ると、どう考えても1人で歩ける状態ではない。
「そんなわけないでしょ。2人とも連れていきますよ」
そう言いながら2人を連れている手と足に力を入れなおす。
「そういえばあなた誰ですか。久我さんの旦那さんかと思ったけど、近くで見たら違うような」
こんないっぱいいっぱいの状況で、姉崎の母親が問いかける。やはり最初に会ったとき挨拶してきたのは俺を久我幸弘と勘違いしていたからであった。
「幸弘さんの友人なの。仕事で近くまで来たんですって」
「へー、でも本当遠目から見たら旦那さんそっくりですね。親戚ではないの?」
「えぇ、そんな話、聞いたことはないです。工藤さん、親戚ではないんですか?」
もうすぐ赤ちゃんが出てきそうな中、なぜか世間話が始まってしまった。男だったら考えられない。こういうところで男性よりも女性の方がたくましいと実感してしまう。
「今はそれどころじゃないでしょ。久我さんは赤ちゃんの頭出てきてるし」
俺の言葉で思い出したかのように妊婦2人は世間話から現実に戻る。そして再び苦痛に満ちた表情をする。しまった。世間話をさせていた方が楽だったかもしれない。だが、そのおかげで歩を進めることが出来た。2人が通う産婦人科が見えてきた。安堵しながらも最後まで気を引き締めたまま俺は産婦人科の扉を開ける。
「一夫多妻?」
ふざけた質問をしてきたのは産婦人科の先生は50過ぎの男性だった。俺は否定をしつつ、2人の妊婦が出産間近で片方は頭が出てきていることを伝えた。どうやら誤診はしょっちゅうのことらしく周りの看護師たちも落ち着いて準備を始める。俺は2人が分娩室に連れていかれるのを見送った。
「さて、これからどうしたものか」
とりあえずこのまま俺と純が生まれてくるのを待つのは当然だが、その間の待ち時間をどうしたらいいのか解らない。普通の場合、夫ならば無事赤ちゃんが生まれてくるのを祈るのだが、俺は、二人が無事生まれて、成長することを知っている。心配することはない。そう思いながらぼーっとしだしてからやるべきことに気付く。2人の妊婦の夫に連絡することだ。幸い、2つの家族の住所は変わっていない。ならば電話番号も変わっていないはずだ。そう考えながら俺はポケットを探り、スマホを取り出してから使えないことに気付く。仕方ないので産婦人科の電話を借りようと受付に行く。その時
「生まれました。元気な男の子です」
分娩室から出てきた看護師が声を上げる。いくらなんでも、まだ分娩室に入ってから10分もたっていないのに。診察は下手でも技術は神がかっているの医者らしい。そう思いながら俺は、2人の夫に電話をする前に、妊婦たちの様子を確認しに行こうとした。だが
(体が動かない)
おかしなことに体が動かない。それどころか先ほどまで受付前にいたはずなのに今は暗闇にいる。もしかして真っ白な空間に戻ってきたかと思ったが、いくら瞬きをしようにも目が開かない。しばらくすると耳には赤ちゃんの泣き声が近くから聞こえてきた。やはりまだ産婦人科にいるのか。ではこの暗闇はどういうことだ。
「おぎゃっ」
俺の耳には赤ちゃんの泣き声が直接脳に響く。まるで赤ちゃんを耳の隣に置いているような。そこまでして、俺は自分の状況を理解しだした。赤ちゃんが耳の隣にいるのではない。俺が赤ちゃんなのだ。
「おぎゃーおぎゃー」
俺の意思とは関係なく、口から泣き声が漏れる。頭では止めようとしたり、言葉を発しようとしているのだがうまくいかない。だが、とりあえず俺と純は無事出産されたようだ。
「先生大変です。久我さんの男の子が息をしていません」
まだ若い声の女性が焦った声色で先生を呼ぶ。久我さんの男の子は俺だけのはず。でも俺はこうして元気な産声を上げている。いったいどういうことだ。
そうこうしているうちに俺から少し距離がある場所では慌ただしく人が動く気配が感じられる。
「駄目だ。もう助からない」
先生の口から飛び出した言葉を俺は少しの間、理解できなかった。だって
久我さんの男の子はここにいるのだから。
「久我さんの処置は任せたよ。私は姉崎さんの方を見る」
そう言って姉崎の母親の方に向かおうとしていた先生に、姉崎の母親につきっきりだった看護師が声を掛ける。
「先生、姉崎さんのお子さん、双子です。もう1人、まだお腹にいます」
今、この部屋にいる赤ちゃんは俺と死んだ赤ちゃんの2人だけである。そして久我さんの赤ちゃんは死んでしまった。ということは俺は姉崎さんの赤ちゃんということになる。
「早く取り上げよう。じゃなきゃこの子もお母さんも危ない」
そう言ってから数10秒後、元気な産声が聞こえてきた。いったいこの先生の腕はどうなっているのだ。
「元気な女の子。男の子と女の子の双子だ」
そんな馬鹿な。姉崎家には双子はいない。男はいるがそれは弟の翔だ。俺と同い年ではない。
しばらくの間、室内には姉崎家の双子の泣き声と、母親2人の処置をする音しか聞こえなかった。空気が重い。
「久我さんと姉崎さん、気を失っているね」
突然、先生が言葉を発した。
「えぇ、出産はとても辛いですから。私も身をもって経験しています。先生はできないでしょうけど」
看護師として赤ちゃんを助けられなかったのが悔しいのか、年長の看護師の口調が少しきつくなる。
「そうだね。そんな辛い思いをしてまで生んだのに、死産だなんて」
「先生。確かにそうですが、今回が初めてではないでしょう」
少し空気が怪しい。
「あぁ、初めてではない。でも今回は、2人の妊婦と2人の赤ちゃんがいる。そして母親はどちらとも気絶している」
「先生、何を考えているの」
年配の看護師が言いたいことを察してか、困惑気味の声を発する。
「要するに、姉崎さんの双子のうち、1人を久我さんの子としてもいいんじゃないかってね」
先生の口から驚きの言葉が紡がれた。それは意図的な取り違えを行うということだ。久我家の死んだ男の子の代わりに姉崎家の双子のうちのどちらかを久我家の子として扱う。知っているのはこの室内にいる先生。年配の看護師。若手の看護師の3人だけ。この3人が黙っていれば表に出ることはない。
「でも先生、それじゃ姉崎さんの気持ちは」
若手の看護師が止めに入る。だが口調は弱い。まるで倫理的には反対だが、気持ち的には賛成であるかのように。
「あぁ、子供を奪われるのは辛いだろうね。だがね、知らなければ何も辛くはないんだ。むしろ、子供を失ったことを知った久我さんの方が辛いのではないのかね」
発せられる言葉に倫理観はない。ただの主観で話を進めている。
「私はこれまで死産をした母親をいやというほど見てきた。誰もが絶望し、涙していたよ。私はそれが辛い。もうあんな光景は見たくない。そう思って腕ばっかり磨いてきた。診察の方はてんで駄目だがね。だがそれでも死産というのは起きてしまう。否応なしにね」
そう言って先生は姉崎家の双子のうち、男の子の方、つまり俺を抱き上げた。
「だが今回は違う。この子を久我さんの赤ちゃんとしてしまえば、誰も悲しまなくて済む。救いがあるんだ」
それは違う。そんなのは間違っている。そう思いながらも口からはただ泣き声が出てくる。
「いいね。ここでの出来事は他言無用だ。この子は久我さんの家の子。それは事実だ」
「えぇ」「はい」
そうして俺は久我家の男の子となった。
「お帰りなさい」
重たい空気から一遍、凛とした女の子の声が聞こえてきた。どうやらあの空間に戻ってきたようだ。
「あれは真実なのか」
あれという言葉で伝わるか心配になったが、天使は全てを見ている。通じるはずだ。
「はい、あなたは姉崎家の子供だった。生まれた時は。でもそのあとすぐに久我家の子供となった」
「そうか、でもあの場面を見せてどうしたいんだ」
「どうしたいとは」
天使はどういうことかわからず相変わらず無表情だ。
「あんなことを今更知ってどうしろってんだよ。俺はもう死んでいるんだ。先にも後にも進めない。そんな俺に今更真実を知らせてどうしろってんだよ」
俺は苛立ちを隠せず、その矛先を天使に向けている。それはそうだ。生きているうちならばいろいろできることもあっただろう。だが死んでしまった今、例えマネキンに触れ、過去や未来に行こうともそれは全て夢物語で終わってしまう。それでは心残りが増えるだけだ。
「あなたの旅はまだ終わっていません。さぁこちらへ」
そう言って天使は最後のマネキン、1番左のマネキンへと向かい、手を差した。
「嫌だ。もうやめだ。こんなこと続けて何になる。結局自己満足の旅なんだ。そんな事続けたって何になる。全ては何にもならない。それに今回は真実を告げられて。どうしろってんだよ」
そんな心の吐露に対し、天使は顔色を変えなかった。
「では、やめますか。その場合、あなたを殺さなくてはならなくなりますが」
「あぁいいよ、どうせもう死んでいるんだから」
俺はもう自暴自棄と言っていい状態にあった。
「そうですか。ここで言う死というものは、現世での死ではなく、あなたの思考能力と思い出を奪い取るということなのですが、よろしいですか」
驚きの言葉を発した天使の顔に初めて表情が出る。口の端を吊り上げ、目を細め、まるで悪魔のような笑みだった。
「お前、天使じゃなくて悪魔なのか。まさかそのマネキンって」
マネキンは思考能力と思い出を取り上げられた人間の末路。そう考えたが怖くなりそれ以上は口には出せなかった。
「もう1度聞きます。続けますか。やめますか」
その2択を口にする天使か悪魔。
「・・・続ける」
正直俺は怖くなった。もちろん思考能力を奪われることも怖い。だがそれよりも俺の思い出を捕られる方がよほど怖かった。この思い出は俺だけのもので、俺が生きてきた証、俺そのものなのだから。
「ではこちらへ」
天使はマネキンを差す。俺は覚悟を決め最後のマネキンに触れる。この先、全てが終わった後のことなど考えもせず。
―冬―
目の前には見慣れた光景が広がっている。俺が住んでいたアパートだ。ただ老朽化が進んでおり、アパート名は薄れ、建物にひびが入っている。どうやら未来に来たようだ。
「・・・」
俺はどうしていいのかわからなかった。自分の心残りとやらもわからない。つい数分前には過去に行き、自分の出自を知ってしまった。俺は久我家の子供ではない。姉崎家の子供で、姉崎純とは血の繋がった双子、翔は弟になる。そして久我喜美と久我幸弘とは血が繋がっていない。
とりあえず今がいつなのか知るため行動に移ろうとしたとき、1人の女性が俺に声を掛けてきた。
「コー?」
俺は声のした方へと振り向く。声の主は姉崎家の前に立っていた。そこには50代前半の女性がいた。それは見慣れた容姿だった。姉崎純と翔の母親である。だがおかしい。俺を見て「コー」と呼ぶのは一人しかいない。
「・・・ごめんなさい。私の知り合いに似ていたから。そんなはずはないのにね。あなたは久我さんの親戚かしら」
そう言う女性の正体は姉崎純。年相応の見た目になっているが、顔のところどころに面影を残している。だが、実家にいるとはどういうことなのか。
「はい。久我家とは親戚です」
とりあえず俺は親戚ということにした。否定したら久我家との繋がりが全てなくなってしまうようで怖かったからだ。
「そう、やっぱりお母さんの・・・喜美さんのお見舞いに来たのかしら」
「・・・お見舞い?」
俺は思わず聞き返してしまった。親戚だったら知っていてもおかしくないのに。でも純は不思議がらずに答えてくれた。
「えぇ、喜美さん、数日前に倒れて・・・もう数日も目を覚まさないの」
俺は耳を疑った。父親のときもそうだった。いきなり倒れていつの間にかいなくなってしまう。そしていつの間にか傷が薄れて慣れていく。だが父親のときは最後を見とれた。それだけが救いだった。でも母親の場合は違う。俺はもう死んでいて、今ここにいる俺はただの幻想。見舞いに行ったってすべてが終われば夢物語としてなかったことになる。
「病院の場所はわかる?」
「はい」
そう言って俺はその場を立ち去ろうとする。正直言って見舞いに行く気はなかった。何と言っていいかわからないし、どんな顔をすればいいのか。
「・・・うそね」
純にそう言われ俺はドキッとする。
「やっぱりあなたコーにそっくり。コーはね嘘をつくとき、必ず右上を見るの。あなたも全く同じ。・・・とりあえず家に上がって。
「いいえ、結構です」
そう言って俺は拒絶をする。姉崎家に入りたくない。そこは俺が過ごすはずだった家だ。
だが今更どの顔をして入っていいかわからない。
「いいから来て」
そう語気を荒げ、純は俺の手を取り、連れていく。そこにはとても五十代とは考えられない力が込められていた。俺は特に拒否や抵抗をすることなく姉崎家へと入っていく。
姉崎家に入るのは何年ぶりか。恐らく中学に入る前、小学6年のときが最後だった。その時から11年、現在の時代からならおよそ30年ぶりになるだろう。俺の記憶にある姉崎家の内装とあまり変わりないように見えた。変わっているのは家具だろうか。俺の知っているメーカーではあるが、デザインとしてはいささか奇抜に見える。特に冷蔵庫などは俺の知っている長方形の形をしておらず、円形をしており宙に浮かんでいる。いや、浮かんでいるのではなく壁に吸い寄せられているようにくっついているのだ。テレビはもはや薄型の域を超えていて完全に壁と一体化している。そんなジェネレーションギャップに驚きながら、俺はリビングの一番手前の椅子に座るように促される。テーブルや椅子は木を基調とした4つ1組のもので長方形のテーブルに背もたれがある普通の椅子だったので少しほっとした。
「・・・」
「・・・」
俺の正面の椅子に着いた純は何かを切り出すわけではなくただ俺の顔をじっと見ているだけだった。とても居心地が悪い。仕方ないので俺は話題を探すため周囲を見渡す。すると1つの写真が俺の目に留まった。
「これって」
そこには1人の中年男性が写っていた。その人物は日本のプロ野球球団のユニフォームを着ており、写真に向かって笑顔を向けている。なんだか俺のよく知っているに似ている。
「あぁあの写真?あれね私の弟なの。去年引退してね。野球世界大会の日本代表エースになったり、メジャーリーグに行ったりしたの。かなり有名だと思うんだけど知らない?」
知らないわけがない。俺もよく知っている。目の前にいる純の弟で俺も弟のように(本当は実の弟であるが)可愛がってきた姉崎翔である。あの翔が俺の死んだあとプロになっていたなんてとても感慨深い。
「あー、名前だけは聞いた事あります」
俺は下手なぼろを出さない為、こう答えることにした。
「そう、昔から野球が好きな弟でね、よく隣のお兄さんと遊んでいたわ。その人があなたにそっくりでね、親戚なら不思議じゃないわね」
そのよく似ているお兄さんそのものである俺は少し冷や汗をかきながら話を聞き続ける。
「そのお兄さん、久我幸喜っていう名前なんだけれどね、私の幼馴染でとても優しくて面白い人だったわ。小学生のとき、学校に猫が入ってきてね。先生は追い出そうとしていたんだけれど、その猫、怪我をしていて。でも誰も気づかないほど小さな傷だったの。その小さな傷に1人だけ気が付いたのがコーで、治るまで教室で飼っていたわ。まぁ2日だけだったんだけどね。」
俺はそれを聞いて顔が赤くなるのを感じた。若気の至りというか何というか、その先生も他の生徒も気にするほどではない小さな傷だと気づいていたのだ。つまり気づいていなかったのは俺1人だった。だって足引きずってたし。冷静さを失いかけていた時、俺は気づいた。
「そう言えば、じゅっ・・・姉崎さんは1人暮らしなんですか」
どう考えたって結婚適齢期をとうに過ぎているだろう純はなぜ実家にいるのだろうか。もしかして一時的に帰郷しているだけかもしれない。
「いいえ、この家は実家でね、両親と3人暮らしよ。私も結婚していたんだけれど離婚しちゃって。戻ってきたってわけ」
少し悲しそうに話す純。俺は聞いていいのかわからなかったが意を決して聞いてみた。
「あの、お子さんは」
「いるわ。男の子が。でも離婚してから親権は夫に持っていかれちゃって。夫はプロ野球選手で収入もあったから。でも今は成人して自立しているわ。
俺は驚いた。もちろん結婚して離婚していたことにも驚いたが、夫もプロ野球選手だということにもっと驚いた。というか心当たりがある。俺はあいつかどうか確認するため、探りを入れてみる。
「へー、元旦那さんもプロだったんですか。すごいですね。弟さんもですし。元旦那さんも有名な方ですか」
「一応。球団ではエースだったから」
ポジションはピッチャーらしい。
「投手だったんですか。どこで知り合ったんですか」
「知り合ったのは高校のとき。私が野球部のマネージャーで彼がチームのエースだったの」
遠い過去を懐かしそうに話す純。それはそうだ。俺にとってはたった6、7年前の話でも、純にとっては30数年前の話なのだ。しかしそうなると元夫はあいつしかいない。
「そこに夫と子供と一緒に撮った家族写真があるわ」
そう言われて振り向いた先には先ほど見た翔が写っている写真が3割、姉崎家の写真が5割、そして純と見知らぬ子ども(恐らく純の子供)と西が写っている写真が2割の割合で飾ってあった。間違いなく純と西は結婚していた。そして何らかが原因で離婚している。
「あの、なんで離婚しちゃったんですか」
そう言ったが後の祭り、しまったと思いつつも純の顔色を見る。普通こんな質問をしたら怒られるか、家を追い出されるかである。だが純は少し微笑みながら答えた。
「別に夫婦仲が悪かったわけじゃないわ。彼は子供にも私にも優しかったし、オフシーズンは旅行にも行ったわ」
確かに写真の中には海外に行ったであろう家族写真もある。ではなぜ離婚したのか。
「私が悪いの。私が・・・」
そう言ったきり純は黙ってしまった。俺にとってはこの沈黙は居心地が悪い。思い切って聞いてみることにした。
「何が悪かったんですか」
そう聞くと純は俺の目をしっかりと見て
「もう一度確認するけどあなた、久我さんと本当に親戚なのよね」
俺は思わず目を反らしそうになった。だって俺は久我家の本当の子供ではないのだ。血が繋がっていないのに子供だと胸を張れるのか。少しの逡巡ののち、俺は答えた。
「はい」
ただの一言だったが純は納得したのか話を続けた。
「わかったわ。では今から言うことは他言無用でお願い。この話は久我家の長男、久我幸喜君の話なんだけれど、本当は私たちの兄弟だったの」
俺は驚いた。俺と姉崎兄弟が実は血の繋がる兄弟だったということにではない。その話はつい数10分前に当事者として体験してきたばかりだ。俺が驚いたのは純がその話を知っていたことだ。
そこからは俺が体験してきたとおり、姉崎の母親と俺の母親が同時に出産したこと、俺の母親が死産し、その死産した赤ちゃんの代わりとして双子として生まれてきた姉崎家の赤ちゃんの片方、つまり俺を久我家の赤ちゃんとしたことを話してくれた。
「この話を聞いたのは、7年前。一通の手紙がこの家に送られてきたの。差出人は私が生まれてきた産婦人科の医院長先生で、今話したことが書かれていたわ。確認しようと電話したら医院長先生は手紙が届く1週間前に亡くなっていて、どうやら遺書だったらしいの」
「その手紙、久我家には届いたんですか」
俺は気になって聞いた。姉崎家に届いたのなら、同じく当人である久我家にも届いてもおかしくはない。
「えぇ、届いていたわ。それでね、私たち姉崎家と、久我家、久我家は旦那さんとコー・・・幸喜君がすでに亡くなっていたからお母さんだけね。両家で話し合ったの。私は今まで幼馴染だと思っていた幸喜君が実は兄弟だってわかって混乱したわ。そのせいで家庭がうまくいかなくなって離婚したの」
その顔は悲しそうな顔をしていた。だが引きずっている様子はなく、心の整理はついているようだ。
「でもね、今では幸喜君が久我家の長男で良かったなって思うの。だって両家の話し合いのとき・・・」
その時、話を遮るように音が鳴った。それは純の腕からだった。純の腕にあるのは何の変哲もない腕時計のように見えた。しかし純はその腕時計のようなものに指先で触れると、話し出した。俺は驚いたが、どうやら電話の代わりらしい。純は腕時計のようなものを口元に近づけるでも耳に近づけるでもなく腕を下ろしたままである。しかし会話は進んでいるようだ。相手の声は全く聞こえず、純の声と表情の変化で内容を知ることしかできなかった。どうやらいい知らせではないらしい。純はもう一度腕時計のようなものの画面を指先でさわり、俺の目を見てこう言った。
「喜美さんの容体が悪化したらしいの」
俺は純が運転する自動車の助手席に座っている。純と2人で母親が入院している病院に向かっている最中だ。だが俺は複雑な気持ちだった。まず、俺はこの時間では存在していないはずの人間で、久我家の親戚と名乗っている。また、俺自身気持ちの整理がついていない。この状態で危篤の母親と対面して何を話していいかわからない。そんなことを考えていると、時間が経つのはあっという間だ、母親が入院している病院に着く。
「着いたわよ。急いで」
俺を急かす純。どうやら俺の動きが緩慢に見えたらしい。早足で歩く純の背中を必死に追っていく。この病院は昔から大きな怪我や病気をしたときに世話になった病院だ。だが時代の変化か。内装は俺の知っているものではなく、辺り一面新築そのものだ。受け付けもロボットが行っている。純は戸惑うことなく受付に行き、母親の病室を聞き出す。
「さぁ行くわよ」
促されるまま俺は純についていく。エレベーターに乗り、地上5階に着く。これは昔から変わっていない。1階が受付。診察室。2階が小児科病棟。3階が骨折などの患者が入院する相部屋の病棟。4階が感染症などの患者が入院する個室。そして5階が末期の患者。つまりもう助かる見込みのない患者が入院するところである。俺と純はエレベーターを降り、右に曲がる。そして「507 久我喜美」と掲示してある一室の扉の前にたどり着く。
「この部屋よ。どうする1人で面会する?」
俺は迷った。だが答えは決まった。
「はい。1人でお願いします」
俺は決心して病室の扉を開ける。いつの時代も病室とは同じものだ。四角い部屋。白い壁。テレビにポット。窓。ベッド。そしてベッドに横たわる人影。
「母さん・・・」
そのつぶやきは母親に聞こえただろうか。いいや聞こえているはずはない。母親は呼吸器と点滴を着けられ、眠っている。意識不明らしい。俺は母親に近づこうとすると後ろの扉が開いた。初めは純が入ってきたのかと思ったが違った。中年の男性が入ってきた。どうやら母親の担当医らしい。
「初めまして。久我喜美さんの親戚の方?」
医者が聞いてくる。
「はい。そうです」
「親戚の方がいるとは初耳ですね。今まで見舞いの方は姉崎さんだけでしたから」
医者が棘のある言い方をする。
「すみません」
俺は謝ってしまう。医者に謝ってもしょうがないというのに。
「いいえ。最後だけでも親族が来たと知ったら久我さんも喜ぶでしょう」
それからは母親の病態。電話をしてから一時は落ち着いたが、もう体が持たないこと。恐らく今夜で最後となってしまうこと。説明は淡々と行われた。
「そうですか」
そう言うしか俺は出来なかった。
「では何かありましたら呼んでください」
そう言って医者は病室を出て行く。
再び2人きりとなった病室。俺はどうしたらいいのだろう。母親に話しかけるか。ただ見守っているのか。体を揺さぶって起こそうとするのか。わからない。
俺は無難に話しかけることにした。
「母さん。久しぶり。って言ってももう30年位ぶりかな。俺だよ。幸喜だよ」
母親からの返事はない。
「姿が変わってなくてびっくりでしょ。まぁもう死んでいるからなんだけれどね」
母親からの返事はない。
「未来ってすごいよな。腕時計かと思ったらスマホ?電話?だったなんて」
母親からの返事はない。
「俺さ、本当は母さんの血が繋がっていないらしいんだってね。知ったときは驚いたよ。はっきり言って今も気持ちには整理がついていないよ。母さんはどう思っているのか聞きたいと思ったんだけれど、さすがに無理かな」
母親からの返事はない。
「なんで知っているかというと、俺、死んでから不思議な体験してね。タイムトラベル的な。どうやら心残りを解消するために行われる通過儀礼みたいなんだよね。それで人生やり直していく的な。天使がチャンスをくれたんだ。最初は死ぬ直前に戻ってね。翔って覚えてる?姉崎翔。翔が同じ野球チームの奴とトラブっててさ、俺が仲裁したんだ。その後に生前言えなかった母さんへの気持ちを言ったっけな。まぁ母さんは知らないだろうけど。2回目は高校生だったよ。戻ったら県大会決勝の真っ最中でさ。さすがに驚いたよ。3回目は俺が生まれる前でさ。母さん信じる?俺が母さんと姉崎の母親2人担いで病院まで連れてったんだよ。まぁそこで俺が母さんの実の子供じゃないことを知ったんだけどね。それで4回目が今。母さん。俺が血の繋がっていない子供だって知ってどう思った。嫌だった?」
母親からの返事はない。
「俺は正直言ってわからない。気持ちの整理がつかないんだ。俺が久我家で過ごしてきた時間は本物だ。父さんと母さんの子供でよかったと思っているし感謝もしている。でもさ、俺って最後まで引きこもってたでしょ。自慢できない息子でさ。もし俺がいなかったら父さんと母さんは2人目を望んだかもってね。そしたらいい子が生まれて、勉強もスポーツも出来て、翔みたいにプロ野球選手になったりしてさ。俺みたいに引きこもったり先に死んだりしない子供が出来たかもって考えちゃったんだ。そう思ったら俺なんか居なければってさ」
そう永遠と独り言を繰り返す俺。言いたいことなんてわからない。ただ心の内をさらけ出しているだけ。もう死んでいるからできるのか。母親だからできるのか。それはわからない。わからないことだらけだ。
気が付くと俺の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。誰にも見せたくない顔の1つだ。でももう止まらない。後はもう重力に従うだけだ。
「ごめんな、母さんが大変な時に泣き言言って」
ひとしきり泣いた後、涙が枯れ果てることでやっと止まった。
「ごめん、最後まで1人きりにして・・・俺行くよ」
そう言って俺は病室を後にしようと歩き出し、扉に手を掛ける。
その瞬間
「・・・喜」
「?」
空耳か。機械の音が人の声に聞こえたのか。はたまた俺の願望がそう聞こえるように仕向けたのか。天使の仕業なのか。俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「そんなことないわ。幸喜・・・」
「っ!」
今度は確かに聞こえた。俺の覚えている声とは少し違う。年を重ねてしわかれていて、病気で弱っているが、間違いなく俺の母親、久我喜美の声だった。
「最後に会いに来てくれてうれしいわ」
必死に声を出す母さん。俺はほんの数メートルがもどかしく感じ、母さんがいるベッドまで駆け寄る。
「母さん」
何と言っていいかわからず名前を呼ぶだけの俺。言いたいことは先ほど一通り行ってしまったのだ。
「幸喜、久しぶりね。昔の姿のままで母さん驚いたわ」
「はは、もう死んでいるからね」
必死に笑みを作り、言葉を紡ぐ。
「ということは母さんを迎えに来てくれたのかしら」
「違う。母さんはまだ生きていてくれ」
「いいえ、私はもう思い残すことはないの。こうやって幸喜が会いに来てくれたんだもの。いつ死んでもいいの。幸喜、さっきの話だけどね」
そう言って俺の目を見て優しく微笑む母親。
「幸喜が私たちの子供で母さんも父さんも幸せだった。それは最初に真実を知ったときは驚いたわ。姉崎さんにも申し訳なく思った。でもね、家族って血の繋がりが全てじゃないって思ったの。一緒に過ごした時間が大切だって」
「でも、俺は母さんを残して先に死んだんだ。それだけ一緒に過ごせる時間を失った」
そうだ。もし俺が死んでいなければもっと一緒に過ごせた。死んでいなければ俺は引きこもりのまま、母親に迷惑をかけてばかりだったかもしれない。でも少なくとも一人きりにはしなかったはずだ。孫の顔を見せられたかもしれない。その全ての可能性を俺は失ってしまった。
「それは違うわ。最初に行ったけど、こうやって幸喜が会いに来てくれただけでうれしいの」
俺は言葉に詰まった。だってこれは幻想なのだ。夢物語で、全ては俺の心残りを解消するための旅で、ここで起きた出来事はなかったことになる。もちろんこの話し合いも。何もかも。そう思っていた矢先、母親から信じられない言葉が出てきた。
「それに、幸喜がさっき話してくれた旅の話、母さんも覚えているわ」
一体どういうことだ。俺は聞き間違いだと思って母さんの顔を見た。
「公園に忘れたマフラーを取りに行ったとき、幸喜がそれをしていたのよね。知らない人が私のマフラーをしているんだもの。少し怖かったわ」
冗談を言った時の顔をして母親が言う。
「あなた、自分を工藤だなんて言って。正直に未来から来た息子ですって言ってくれればいいのに」
「言ったけど信じてなかったじゃん」
「そんなことないわって言いたいけどどうかしら。それから私が陣痛を起こして、幸喜が私を負ぶって病院に連れて行ってくれて。その途中で姉崎さんも倒れていて。一緒に連れて行ってくれた」
「私のお腹から出てきた子は死んじゃったけれど、姉崎さんのお腹から出てきた私の子は元気に育ってくれた。それだけで私は嬉しいの」
今度は涙が出てこなかった。出てくるのはただただ微笑みだけ。なんだか胸のつかえが問えたみたいだ。
「ありがとう母さん。そう言ってくれるだけで化けて出てきた甲斐があったよ」
「・・・そろそろ眠くなってきちゃった。続きはまた後にしましょ・・・」
そう言って目を閉じる母親。その直後に甲高い機械音が部屋に響く。
母さんが死んだ。
―春夏秋冬―
機械音が鳴りびく部屋から一遍、何も音がしない部屋へと移動していた。どうやらすべてが終わったらしい。
「お疲れ様でした」
どこからともなく天使が現れ、俺に労いの言葉をかけてくる。
「あぁ」
俺は天使の方を向かずに返事をした。
「なぁ、この旅って全部夢物語で終わるんじゃなかったのか。母さん、俺が過去に行って病院に連れて行ったこと知ってたんだけど」
俺はいきなり核心を切り出す。天使が最初に言っていたことと違うからだ。
「ごめんなさい。嘘をつきました」
大して悪びれた様子もなく天使は口だけ謝った。
「いいよ。俺が行ったことが無駄にならないなら。最後に母さんを看取ってやれたし。もう思い残すことはない」
いつでも成仏できる。そう思えるほど今の俺はすがすがしい気持ちでいっぱいだった。
「それは良かった。あなたの目から見てどうでしたか」
そう言う天使。俺は最初言葉の意味が解らなかった。俺の目から見て俺がどう見えるか。いったいどういうことだ。そう思い俺は天使の方を振り向く。
「私が思っていた人物像とは違いました・・・」
俺は驚いた。もしかしたら死んでから、いや、生きているときも含めて一番驚いたかもしれない。俺の目に飛び込んできたのは、いつも通り天使らしい姿をしている天使と、その隣の声の主。やせ形の中年男性。スーツを着て、いかにもサラリーマンだというような恰好をした男性だった。
「おい、その男・・・」
俺は絶句した。だってその男こそ
「俺を轢き殺した奴じゃないか」
少しの静寂が白い空間を支配した。
「はいそうですね」
天使の返事はそれだけだった。
「はいそうですねってそれだけかよ。なんでこの男がここに。説明してくれ」
そう言う俺に天使は返事をせずに歩き出した。俺を殺した中年男性も天使の後に続く。俺はそれをただただ見守る。そこには
「マネキン・・・」
4つで全てだと思っていたマネキン。そのマネキンは無くなっていた。代わりに新たなマネキンが1つ新たに置かれていた。
天使は何も言わず前回同様マネキンを差す。俺はどうしていいのかわからなかった。そんな俺を見て俺を殺した中年男性が言った。
「なぜ君を殺さなければならなかったのか。ここに来ればわかる」
そう言ったきり中年男性も黙り込んでしまった。こうなったら仕方ない。俺は意を決して天使たちのもとへ歩き出し、マネキンに触れる。
再び目を開けるとそこは俺が轢き殺された場所だった。体で感じる気温も夜だからか肌寒い。季節は春らしい。薄暗い1本道で街灯が頼りなく点滅している。ちょうど俺が死んだ時期と一緒くらいか。その時と違うのは俺の隣に天使と俺を轢き殺した男がいるくらいか。
「この場所に来てどうするんだ」
俺は状況を理解したくて、天使と男に問いただす。
「これからあなたが殺された理由がわかります」
そう答えたのは天使だった。男は何も言わず、ただ1点を見つめる。その先に何があるのか、俺も気になりその場所を凝視する。すると間もなくして1つの人影が1本道を歩いてきた。年齢16、7くらい。学生服を着ていることからこの周辺の学校に通う女子学生だとわかる。
「私の娘だ」
中年男性が俺に説明するように語る。
「17歳の女子高生。どこにでもいる平凡な子だったが可愛い私の娘だった」
俺は中年男性の物言いに違和感を感じた。
「この日までは私たち家族は幸せな毎日を過ごしてきた。この日までは」
いやな予感がする。俺は事の顛末を見ようとさらに目を凝らす。
するとどこからともなく女子高生の後ろから1人の黒ずくめの男が歩いて近づいてくるのが見えた。黒ずくめの男は音もなく女子高生の背後に近づき、そして・・・
ズブッ
「えっ」
俺は思わず声が漏れていた。何が起きたのかわからなかった。その数秒後女子高生が倒れるのが見えた。その背中には光るもの、刃渡り13センチほどのナイフが刺さっているのが見える。通り魔だ。
「私の娘が刺された。だが見るのはそっちではない」
中年男性の声は震えていた。それは怒り悲しみか。恐らくどちらも含まれているであろう声で俺を促した。
「犯人の顔。お前には見覚えがあるだろう。毎日見ているんだからな」
そう言われ俺は足早に去っていく黒ずくめの男の顔を見ようとする。暗がりでよく見えないが点滅する街灯に差し掛かった時その素顔があらわとなる。
「俺?」
俺は最初目を疑った。間違いなく俺だ。今の俺とは違い少し老けている。歳はは30手前といったところか。それ以外は今と変わらず髪はボサボサ、少し猫背の中肉中背だ。
「なんで俺がこんなこと・・・」
その言葉を聞いた中年男性の顔色が変わる。
「知ったことか!お前が、お前が唯を殺したんだ。何の罪もない私の子を。なんで殺した。答えろ。何か恨みがあったのか。知り合いだったのか。付き合っていたのか。何かあったのか。何か唯が悪いことをしたか。気に障ることをしたのか。それとも私か。妻か。親戚がお前に何かしたのか。答えろ!」
一気に取り乱す中年男性。俺は意味が解らなかった。だって俺には身に覚えがない。人を殺したこともない。そんな度胸もないのだ。でもあれは俺だった。いったいどういうことだ。
「あれはあなたが死んでからおよそ5年後の2020年4月16日の出来事です。時刻は午後10時。アルバイトで遅くなった彼女はこの暗がりの中、帰路に着いていました。そこで偶然通り魔にあったんです。通り魔のあなたに」
「そんな。だって俺はこうして死んでいるじゃないか。死んでいる人間にできることなんかないじゃないか」
俺は混乱する。俺は確かに死んでいる。隣にいる中年男性の手にかかり死んだのだ。
「あぁ私が殺した。そうすることで唯は助かった」
そう言う中年男性の顔には笑みなどなかった。無だった。
「だったらなんで俺は過去や未来に行ってやり直したんだ。この人の娘さんが俺に殺される場面も見せて。何がしたいんだ」
そう言う俺に天使は説明を始めた。
「あなたが心残りとしてやり直した過去や未来。あなたにはそこで起きた出来事は全て夢物語として終わり、結果は何も変わらない。そう言いましたが実は違います。あなたは確かにその場所にいて結果は変わっていた。
「は?」
意味が解らない。天使が言うことが正しいとすれば、俺が最初のマネキンで過去に行ったとき、翔と影山の仲を取り持ち、母親に感謝の気持ちを吐いた。2体目のマネキンではサードフライをキャッチし、チームを勝たせ、結果としてはみんなを泣かせてしまったが満足できた。3体目では2人の母親を産婦人科に連れていき、4体目では母親の死に目を看取った。これら全てが現実となったというのか。
「あなたの母親、久我喜美が言っていたでしょう。あなたに連れられて産婦人科に行ったのだと」
「本当に全部本当の出来事だった」
「はい、そしてそれはこちらの関谷さんにも言えます」
中年男性こと関谷も同じように俺を殺して現実にした。そうすることで娘を救おうと。
「答えがまだでしたね。なぜあなたにも同じように過去や未来をやり直させたか」
物語は核心を迎えようとしている。俺は黙って天使の口から言葉が紡がれるのを待った。
「それはあなたがどういう人間か観察するためです。こちらの関谷さんと一緒に」
そう言われ俺は関谷の方を見る。すると関谷は俺を轢き殺した時に見せた表情を見せた。それは後悔。
「私は娘を殺したあなたを許せなかった。だから私が死んだあと天使の元に行って過去を変えられると聞いたとき、迷いなく君を殺して娘を救う道を選んだ。それが達成したとき、娘が生きていけると知ったとき私は幸せだった。もう悔いはない。そう思ったんだ」
悔いがないという関谷。だったらなぜ俺と今こうして会いまみえている。悔いがないならもう成仏するだけではないのか。
「だが、私は君を知らない。本当に人を殺すような人間なのか。何か救いがあるのではないかと。私も娘を人殺しの子にしたままにしたくない」
そう、この旅で起きたことが現実になるのならば関谷が起こした殺人も現実になっている。俺を殺した犯人として。
「そう言った私に天使が1つの提案をしたんだ。ならばこの人にもチャンスを上げましょう。本当に人を殺すような人なのかを見極めるため」
そうして天使は俺を過去や未来に送った。俺には起きた出来事は過去や未来には何も影響が出ない無意味なものだと言って。そう言うことで人殺しや強姦、その他人道に反した行動をとらないかどうかを観察していた。
「だが君は人を殺すような人間ではなかった。むしろ人を助ける人だった」
もはや後悔しか見て取れないような顔で関谷は俺を見据える。
「殺してすまなかった。今の君は間違っても人殺しをする人間ではない。娘を殺した君と今の君は別人だ」
「でもいずれは殺していたかもしれない。そんな可能性も」
俺は事実を述べた。あのまま引きこもりを続けていれば気もおかしくなる。人殺しをしてもおかしくはない。
だが関谷の反応は違った。
「先ほどは攻めたてて悪かったね。君の本音を聞き出すためだったんだ。君が異常者ならば尋常じゃない反応をするんじゃないかって。だが違った。今の君なら、過去や未来を経験した君なら悪い可能性の未来を知った君なら、きっと良い方向に変えようとすると私は信じている」
一体どういうことだ。何を言っているんだと俺は思った。
「そう言うことです。久我さん。あなたは関谷さんに認められました。良かったですね」
天使が初めて本当の意味で微笑んだ。俺はますます混乱した。
「認められたのは何ていうか嬉しいのか?わからないけど、どういうこと」
そう言う俺に天使はムッとした表情をし
「わからない人ですね。関谷さんはもうあなたを殺す理由がないということです。よってあなたが死ぬこともない。全ては夢物語。ということです」
なんだそれ。出来の悪い小説かよ。そう思ったが水を差すものではない。
「ってことは何だ。俺はまだ生きていていいのか」
「はい。ただし道を間違えないで下さい。今度はチャンスはありませんから」
そう言う天使と俺の顔を見る関谷の顔は満面の笑みだった。俺もつられて笑みがこぼれる。涙もこぼれる。もう1度やり直せる。今度は限定的な心残りをやり直す旅ではなく俺自身の人生そのものを。
―エピローグー
意識が戻る。もう朝か。そう思った俺はおもむろに右手を頭の右上に動かす。そこには固いものの感触、俺のスマホがあった。スマホを掴み時刻を確認する。
2015年3月27日午前7時54分
どうやら俺はあおむけに寝転んでいるらしい。のそのそと状態を起こし、周りを見渡してみる。周囲には本棚、テレビ、ゲーム機、アイドルポスター、その他もろもろ、どこからどう見ても慣れ親しんだ俺の部屋だった。
「・・・」
頭がボーッとして物事を考えられない。俺は何をしていたのか。とりあえず起きることにする。
午前8時
「おはよう幸喜」
そう言ったのは俺の母親である喜美。
「おはよう」
無難な挨拶。日常生活のたった1ページ。その筈なのになんだかとても心に響いた。とりあえず俺はダイニングにある椅子に座る。
「今日は早起きね」
「目が覚めちゃって」
「朝ご飯食べる?」
「うん」
出てきたのは白米に味噌汁、目玉焼きといったシンプルな朝ごはん。だがもう何年も食べていないのでとても新鮮だ。
「いただきます」
「召し上がれ」
完食には2分とかからなかった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
さて何をしよう。そう考えた矢先
「そうそう、母さん感心しちゃった」
そう言う母親。俺には身に覚えがない。この2年間引きこもっているのだから。なので聞き返した。
「何が」
「何がって翔君のことよ。翔君とチームメイトの子との仲を取り持ったんだって。なんだか母さん、幸喜が昔のままでうれしくなっちゃって」
「・・・」
俺は最初意味が解らなかった。だって俺はこの2年間引きこもっていて外出は基本夜にしかしない。それなのにどうやって中学生の翔に会うというのだ。
俺は何もしていないと言い返そうとしたとき
「そろそろ目を覚ましたらどうですか久我さん」
どこからともなく声が聞こえた。俺はビクッとなり辺りを見渡す。だがそこには母親の他には誰もいない。気のせいか。そう思ったが
「思い出せなければ、同じ未来を繰り返すことになりますよ」
今度は冷たい声で言われた
「同じ未来・・・!」
俺は目を見開き体が震えた。その様子を見ていた母親が心配そうに俺を見る。
「どうしたの幸喜。久しぶりに早起きをしたり独り言言ったり少し変よ。もう1回寝たら?」
そう提案する母親。だがその意見はもちろん却下だ。
「そういうわけにはいかない。天使や関谷さんに顔向けできないから」
「天使?関谷さん?誰それ?」
ますます心配そうな顔をする母親。だが俺は気にしない。
身支度を済ませ玄関へ向かう。
「幸喜。どこ行くの」
最上級の心配声を出す母親に俺はこう答える。
「ちょっとそこまで」
母親は何が何だかわからないという顔をしながらも
「そう、気を付けてね」
そう言って見送ってくれた。それが何よりありがたい。生き返ったからこそ分かるありがたみである。
「まずはアルバイトから始めるか」
社会復帰の道は遠い。2年間引きこもっていたのだから。だからまずはアルバイトから。いきなり正社員なんてとんでもない。物事には手順があるのだ。だが今はそんな手順ですら楽しい。生きているってことなのだから。
「頑張ってください」
天使はそう言い残し、気配を消した。次に会う何十年後か。その時に感謝を述べるため俺は歩み続ける。