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「あの、間違ってたらすみませんが、那華さんのお兄さんですか?」
さっきの悪戯っぽい表情はどこかでみたような気がしていたのだが、そもそも、俺にそんなことをしてくるような人はそういなかった。
それに、この家にいて那華先輩の家族でなかったら怖すぎる。
「お、よくわかったね。確かに俺は、那華の兄の白松慶だ。しかし、那華さんねぇ……」
なんとなく先輩と呼ぶのは変な気がするというだけでそう呼んだだけなのに、なんだか、呼び方に反応されてしまった。しかし、今から戻すのもなんである。
「那華さんの部活の後輩の高遠陽臣です。あー、那華さんには色々お世話になっております」
むしろ世話をさせられてる側な気がするけど。
「高遠くん。君、妹はいるかい?」
「え、あ、はい。二つ下の妹がいます」
俺の家族構成を把握してどうする気だ?
「妹さんの名前は?」
「棗です。木とか茶器と同じ一文字の」
「じゃあさ、その妹さんが家に男を連れてきて、しかもその男が『棗さん』って呼んでたらどう思う?」
「えっと、まあ可哀想だなーって」
どうやらその回答は想像に及びがつかなかったらしく、驚いた様子でこちらを見て、眉根を寄せる。
「可哀想?」
うちの妹の棗は、末っ子特有の甘え癖というか、ぶりっ子を昇華させて、中二にして男どもを手玉に取っているのだった。そして、ある程度飯を奢ってもらったり、服を買ってもらったりした後、相手が本気になってきたら家に連れてきて、その行動如何では「そんなつもりじゃなかった」と言って拒絶するのである。しかも、性質の悪いことに最悪の事態を避けるために必ず俺が家に居るときにやるので、そんなことは慣れっこであった。
「まあ、大体うちの妹が男を連れてきたらそいつ振られるので」
とはいえ、そんなことを説明するわけにもいかず、適当に流した。
「そ、そっか」
しかし、結局なぜこんな話になったのだろう。
「それで、俺に何が聞きたかったんですか?」
「あ、ああ。そうだね。じゃあ聞いちゃうけど、君、那華の彼氏?」
そう言われてようやく、これらの話の流れを理解することができた。いざわかってしまえば、彼の意図は明快で、棗の特異な性質がいけなかったようだ。
「ああ、なるほど、そういうことですか」
その後に、いや彼氏じゃないですよただの先輩後輩で今日は荷物持ちさせられに来ただけです、と続けようとしたのだけれど、時間切れになってしまった。
俺にとってではなく彼にとってだけれど。
「ちょっと、慶兄何やってんの!?」
バタンと大きな音を立ててリビングのドアが開け放たれ、長めのホットパンツに上はチェックシャツを前で結ぶ、というカジュアルスタイルに着替えた那華先輩が飛び込んできた。
「今日は夜まで出かけるって言ってたじゃん!」
「用事が早く終わったんだよ。それに、早く帰ってきてなにか都合の悪いことがあるのか?」
その言が、明らかに俺の存在を示唆しているということが先輩にはわかったのか、ひとまず俺から引き離そうと慶さんをリビングから引っ張り出した。
「高遠くんとはどういう関係なんだ」
「は? 何名前聞いてんの? 関係ないでしょ!」
「家に連れてきて、関係ないってことはないだろ」
「あー、もうすぐ出ていくから一旦引っ込んでて!」
「出ていくってどこに行くんだ」
「聞きたいことがあるなら夜聞くから。今は一旦部屋に戻って」
先輩が譲る気のないことを悟ったのか、その条件で納得したのか、彼はそれで引っ込むことに決めたようだった。
廊下が静かになって、丸聞こえな兄妹の会話が終わり、那華先輩はリビングに入ってきた。
「ごめん、兄がうるさくて」
「いや、まあそれはいいんですけど。それにしても、兄妹っていうより父娘みたいな会話でしたね」
「ああ、うん。うちは父親も忙しくて、母親も早くに亡くなったからさ、年も離れてたし慶兄が結構世話してくれてたってのがあるのよ」
これは……悪いことを聞いてしまっただろうか。
肉親を亡くしたという人間に会うことがそうなかった俺はいきなりのことに少し戸惑ってしまった。
しかし、那華先輩は特に気にする様子もなく次の行動を始める。
「ほら、すぐ出ていくって言っちゃったんだから、早くする」
「あ、先輩、例のものは?」
「ああ、ホットプレートならキッチンにあるから、来て」
那華先輩の案内のままにホットプレートを取り上げ、家を出た。
一度涼しさに慣れてしまうと、先程までは大して気にするほどでなかった外の暑さが、殊更に身に堪える。大体、ちょうど太陽が南中するくらいの時間で、天頂より降り注ぐ光が作る有象無象の尻尾は短くも、黒黒と存在感を放っていた。ここ最近では最も暑いのではないかという日差しに加え、昼時であることもあり、周り一帯に聞こえる音は精々が影の踏み鳴らす音くらいの、気怠い昼下がりであった。
ふと、俺の前を歩く那華先輩が、こちらを振り向かないままに、口を開く。
「うちの兄が変な誤解してごめんね」
こちらからでは、彼女の表情を見ることはできず、どんな意図を持ってそう言っていたのか、詳しいことはわからなかったのたけれど、なんとも、いつになく殊勝な様子である先輩の背中を見て、どんな感情よりも先に、可笑しさがこみ上げてきた。
「ぷふっ」
「なっ! なに笑ってんだよ!」
足を早めて、笑顔を浮かべたままに、彼女の隣に並ぶ。
「那華先輩が謝るなんて変なこともあるんですねー」
「変ってことはないだろ。こっちは真剣に謝ってんのに」
「これを機会に普段の言動を省みたらいかがです?」
「反省は、しない。過去に縛られない女だから」
「それはもはや生き物としてどうなんですか……。ていうか案外、過去とか気にしそうですけどね、先輩」
俺がそう言うと、隣を歩いていた那華先輩は、虚を突かれたような表情を浮かべて立ち留まった。数歩、先に進んでしまって、振り返る。それから、空を泳ぐ視線に存在を引っ掛けながら、声をかけた。
「先輩?」
幸いにも、これにはすぐ返答が返ってきた。
「高遠には、そう見えるんだ」
呟いたその声色が特段真剣味を帯びていたわけでもなければ、覗き込んだその表情が虚ろに透っていたわけでもなかったのだけれど、この二ヶ月間で――直観に依るので自分の言葉でしか語れないのだが――こんなに楽しくなさそうな彼女を見ることは無かった。
なんとなく、どうしようもないものを垣間見たような気がした。
「そうですね。あんまり『今が良ければいい』って感じではなさそうです」
「そっか」
彼女の口の端から溢れた言葉の雫は、滴り落ちて、波紋をひろげる。小さな波に揺れるものはなく、二人の間に凪が訪れた。俺は水音に耳を澄ませながら、夏至の近い六月の、薄い空を見上げる。
それから、那華先輩は逆に目を伏せて――全力で俺の向こう脛を蹴り飛ばした。
「いってぇ! なにするんすか那華先輩! くぅ、痛い!」
ホットプレートを抱えているせいで、脛をかばうことをもできず、間抜けに喚き散らしながら片足でピョンピョンと跳ねる俺を鼻で笑って、那華先輩は口角を上げる。
「はっ。高遠なんかに察されるなんて私もまだまだね」
「いや、そんなことはどうでもいいですから! なんで蹴られなくちゃいけないんですか!」
「高遠はまさに『今が良ければいい』ってタイプよね」
「本当に痛い! 那華先輩、これこそ謝ってくれていいですよ!」
マジで、硬いサンダルの爪先でトウキックとかえげつねえ!
「うるさい。宦官にされなかっただけいいと思え」
「なんで、こんなところで男としての危機を迎えてるんですか! 俺は!」
「俗世への欲望が一つ減るんだからいいじゃない。悟りの道が拓けるんだよ」
「今は末法の世です!」
「じゃあ、現世での業が上がる。やったね、カーストが上がるよ! 今なんだっけ? パリアだっけ?」
「それ、カースト外じゃないですか……。そもそも我が国はカースト制を採用してません」
「でも、スクールカーストではナードなんでしょ?」
「我が校にイジメはありません!」
先輩は一旦口を閉じて、チラリと下に目線を向け、もう両足を地についていることを確認した。
「もう行けそうね。お腹減ったからチャキチャキ歩く」
そう言って、先輩はもう一度歩きだして、先へ行ってしまおうとする。踏み出す足はまだ痛むがそれについていき、こんなことを言ってみる。
「那華先輩、蹴ったんだから謝ってくださいよ」
実際には、そこまで催促するほど謝って欲しいわけではないが、まあ、確認だ。
彼女はその言葉を聞いて、クルリと身軽に身を返し、後ろ向きに歩きながらこう言った。
「私を謝らせたいなら先に頭を下げなさい。跪いて懇願すれば考えるくらいしてあげる」
ひょっとすると虚辞と虚飾を携えた結果なのかもしれないけれど、しかし、見る限りはいつもと同じように上等の笑みを浮かべて、それなりに楽しげであった。
「どんな女王様ですか……」
俺の呟きに、終には声を上げて笑いさえする。その姿は、その名の通り、華に満ち満ちて美しく、見た目にそぐわない魅力を感じさせた。




