三
俺が渡り廊下の端、旧校舎へのガラス戸を開けてちょうど中に入った時、すぐ左側の教室――一年A組から、二人の女子生徒が現れた。
一人は、暗めの金髪をゆるく巻いて、短く詰めたスカートと改造の加えられたブレザー・ブラウスを身に着けたギャルっぽい女子。もう一人は正反対に、スカートは膝下丈、ブレザー・ブラウスの掛けるボタンの数まで服務規程通りな、地味め優等生風の女子で、細く真っ直ぐな黒髪を肩で束ねていた。胸元のリボンの色を見る限り、二年生のようだ。そして、二人共、なにやら冊子のようなものを束になる程度の数抱えていた。
お互い人が出てくることを予期しておらず、ニアミス。前にいた黒髪の女子は避けようと動いた結果、冊子を数冊滑り落としてしまう。
「あっ、すいません」
俺のせいで落としたようなものなので、謝りの声を上げながら拾い上げる。
新刊冊子『五重桜』……? どこかの部活の文集だろうか。
少々の好奇心と共に、彼女の両手に積まれた冊子の束の上に乗せた。
それから、俺は、なんとはなしに視線を文集から上げてしまった。そこにあったのは、優等生の先輩ではなく、抜群に綺麗というわけでもないが、そこそこに整った顔に、もしも擬態語をのせるならば「ニタァ」以外には考えられない、『悪い笑顔』を浮かべた女子高生の顔だった。
「一年B組十八番、高遠陽臣君だね?」
そのまま、彼女が透きとおったアルトで口にしたのは、俺の個人情報だった。
誰から見ても驚いているとわかるほどに目を見開いてしまった俺に目を向けながら、彼女は手に抱えた束を躊躇なく隣のギャルの冊子に重ねる。それだけの間をおいてなお、それなりに可愛い女子の先輩が自分の名前を知っていたという混乱から抜けられない俺は、当座の疑問を投げかけた。
「なんで、俺の、名前……知ってるんです?」
少なくとも、知り合いではない。まだ同級生とも知り合っていないのに、先に先輩と知り合うようなジゴロ根性は持ち合わせていないし、あちらが俺の名を調べる理由なんてまるで思いつかない。
じっと、数秒間の見つめ合いがあって、彼女は俺の手を取って少しだけギャルから離れた廊下の端へ行く。そこで、俺の首に手を回し、耳もとに口を持っていく。
初対面の先輩の腕が、抱き寄せるように首に回っていることや、彼女の口から漏れる生暖かい吐息が耳元をくすぐることに、俺の男としての心はオーバーヒート寸前だった。女性とのスキンシップへの耐性なんてものを鍛える機会は俺の生誕以来の歴史には無かったのだ。
困惑と羞恥と昂りのなかで、彼女は囁く。
「覚えていないか? 朝の、電車内だ」
その言葉に、俺は一つの記憶を掘り起こした。
「あ!」
示した生徒手帳を興味深げに見ていた、女の子。
思わず、バッと彼女を押し退ける。
「違う! 俺はやってない!」
くそ! ネット情報なんかに踊らされるんじゃなかった!
一瞬、逃げようかと後退りする。しかし、どこにも逃げる場所なんかない。証拠があるわけじゃ無いから警察にどうこうってことはないだろうが、学校中に『痴漢野郎』という噂を流されたら、俺の(社会的)死は免れないぞ。
「のわっ!」
いくつかの考えや危惧が頭を巡って、行動を取りあぐねている内に、胸倉を掴まれた。そのまま、ぐいぐいと引かれて歩かせられる。
「文乃、行くぞ」
「はーいはい」
彼女は隣のギャル(あやの?)に声をかけ、それに対して、ギャルは笑い混じりに返事をしつつ、二人と連れられる俺は廊下を奥へと進む。
この先にあるのは、一年B組、数学研究室、コンピュータ室だけ。一体どこへ?
彼女らが止まったのはすぐ隣の教室、話し声の聞こえてくる俺の教室。その前側のドアに手をかける。
って、この状態で教室に入るのは勘弁!
「ちょっ、待っ!」
気持ちだけが先走って言葉が出てこない。彼女は、振り返りはするものの、手は引き戸を開いていて、伝わっていないのか確信犯なのか、教室へ入る足を進めようとする。
絶対、入りたくない! という気持ちを持って、俺は教室の前で精一杯踏ん張った。屈んでいて力が入りづらいとはいえ、仮にも男として力比べで負ける訳にはいかない。
教室の扉が開いて、喧騒が小さくなった。中から見れば、扉は開いたのに誰も入ってこない、奇妙な状況だろう。見に来る奴がいないといいが。
「なんの真似だね?」
校長先生だってそこまでじゃないよってくらい偉そうな口調で詰問してくる先輩。最初ちょっと期待したけど、やっぱりこの人ダメだろ! 変っていうかおかしい!
無言の抵抗を続けている横から、押し殺した笑い声が聞こえてきた。胸倉をつかまれている状態から、首だけひねって見てみると、やっぱりギャル先輩が肩を震わせて笑いをこらえている。
そりゃ、傍から見たらコントに見えますよね! もっと入りたくねえ!
俺が意識を逸らした瞬間を見計らって、彼女は、思いっきりネクタイを引っ張って、首根っこを掴んでから、首ごと脇に抱えた。
彼女は女子としては背の高いほうだろうけれど、それでも俺よりいくらか身長は低く、その脇に頭がある俺は、大分腰を曲げねばならなかった。その様は、やはり情けないもののようで、先程までなんとか笑いを堪えていた先輩がついに決壊を起こして、大きく笑い声を上げる。
「いやー、千春ノッてるなー」
ノッてるっつーか、イッてるっつーか……。初対面の相手を拘束していいのは現行犯逮捕の時だけだと思うんです。
千春? は何も答えずに腕を締めなおして、歩を進めた。抵抗をしようにも、この体勢では力が入らず、引きずられるようにして中へ入っていった。




