一・2
駅にいた時から変わらず、同じアルバムを聴いていた俺は、苦手な満員電車にあてられて、目を瞑り、無心になろうとしていた。だから、多少周りが動こうと、気に留める余裕がなかった。
そのせい、なのだろうか。こうして冤罪に巻き込まれているのは。
なんとなく状況に見当はついても、突然の展開に俺の口から出たのは、
「え……はぇ……」
などの、意味を成さない呻きのみだった。
それではマズイ、なにか言わなければという焦燥感に押されて、口走る。
「ち、違います。俺じゃないです……」
俺と彼女を中心にして、乗客にどよめきが広がる。蔑みの視線や好奇の視線が飛んできて、俺の心拍数は更に上がるが、俺を見ている中に同じ制服姿がないことを確認して、少し安心する。
すぐ隣の、一際強く睨みつけてきている女性と目があって、更に頭が冷えた。
焦るな。深呼吸をしろ。ここで立ち振る舞いを誤ったら、社会的に死ぬぞ。やっていないのだから落ち着け。
俺の手首を捕まえている女性は、顔を真っ赤にし、その目には涙をためていて、とても示談が目当ての「集り屋」には見えない(もしもこれが演技なら彼女は集りではなく女優をするべきだ)。ということは、恐らく痴漢はあったのだろうが、逆に、必死な彼女は完全に俺を痴漢だと思い込んでいるはずだ。理性的な説得は難しい。
周囲の乗客をもう一度確認する。大体が俺の父親かそれより上くらいのおじさんで、何人かおばさんも混じっているか。
ええと、なにを言うべきだ? もしも俺が逆の立場ならなにを言われれば納得できる? まず、言うことを信用させるにはどうすればいい?
見ず知らずの相手を信用させるには……身分を明かす……か?
身分証明……あ!
「え、ええと、俺はこういうものです。全然怪しいもんじゃありません」
胸ポケットから生徒手帳を抜き出して、周りに示しながら、緊張に上擦り、震えた声で俺は喋った。
ヤバイ、落ち着け。胸と顔が熱い。息が浅い。興奮してると捉えられてしまうだろうか。
いつだったか、ネットサーフィンをする中で、「痴漢冤罪にあったらまず、身分証明書を見せろ。そうすれば現行犯逮捕は免れる」という記述を読んだことがあったのだ。逃走のおそれがある場合のみ現行犯逮捕できる、と刑事訴訟法だかで規定されているからだとか。所詮はネット情報だが、今は藁にも縋る思いだ。
「学生証……?」と、俺の手を掴む女性は目をぱちくりさせる。
「あらやだ、高校生が痴漢なんて……!」と、頭が紫色のおばさんはワイドショーでも見るような感想を吐く。
「ほうほう」と、なにやら相槌を打つのは興味深そうに頭だけ覗かせる黒髪の女の子。
「親御さんの気持ちを考えろ!」と、サラリーマン風のおっさんに、なぜか怒鳴られる。
あ、だめだ。
よく考えたら、刑事訴訟法なんて誰も知らねえよ……。
万事休す、か……とため息をついたその時、がったんと電車が揺れて、完全に動きを止めた。
俺も含め、周りは学生証に気を取られて、減速に気づいていなかったため、突然の揺れに何人もの乗客がバランスを崩す。
そして、俺の手首から拘束が外れた。
更に、痴漢騒ぎなど我関せずと大量の乗客が、俺を押すようにして、駅のホームへと降りていく。
この人混みでなければ起きなかった事件だけれど、今は、人混みに感謝だ。
最寄りでも起きた錯綜が、漏れなくこの駅でも起きて、俺の居場所を隠していく。
追ってくるものは誰もいなかった。
そのまま、何食わぬ顔をして、駅の構外へと出た俺は、ほとぼりが冷めるまで時間を潰そうとファーストフード店に入った。
アイスコーヒーにガムシロップとミルクを二つずつつけてもらって、席につく。
強い緊張から抜けた安堵と理不尽な不幸への嘆きから、大きな大きなため息が出た。
「満員電車にトラウマが増えた……」
小さな呟きに相槌を打つかのように、プラスチックの容器の中で氷が音を立てた。




