一
高校に入学して一週間ちょっと、新生活の始まりという緊張感の惰性で続いていた早起きが無に帰したことを、俺は悟った。
自動改札機についこの間買ったばかりの定期をかざして駅構内入ってすぐ、俺は運行予定を知らせる電光掲示板に目を向けた。すると、まさに俺のような客に気づかせるために、わかりやすく、「遅延二十分」の文字が赤いLEDで灯されていた。
安全確認だか人身事故だか知らないが、どうやら、乗るべき路線はなんらかのトラブルによって運行の一時停止を余儀なくされたらしい。
学校、間に合うだろうか……。
トンっと、肩に何かが勢い良くぶつかる。バランスを崩してたたらを踏む。見れば、急ぎ足で進むサラリーマンが、こちらを振り向くことなくホームへと降りて行くところだった。
改札を出てすぐの所に呆けている俺は通行の邪魔になるらしい、と今更ながらに気づく。いくら電車初心者でも、常識で考えればわかることだ。
電光掲示板自体はどうせホームにもあるものなので、人の流れに乗って、これから三年間通うのであろう通学路線へ足を向けた。
階段を降りた先、五番線六番線に挟まれた端っこのホームは、遅延した電車を待つ乗客の群れでいつになく賑わっていた。下りの路線故に、この時間帯は大抵空いているのだが、四五本分の乗客が集まっていると思えば、それも頷ける。
人が多いからか、どことなくぬるりとした、湿度温度共に高そうな空気に、少し不快感を覚える。あまり暑いのは得意じゃない。なんなら寒いのも嫌いだ。強いて言うなら、暖かいよりは涼しい方がいくらか好きではあるけれど。
心持ち人が少なそうな列を探して、最後尾に並んだ。移動する間に、新たなクラスメイトを二人、同じ中学から進学した顔見知りを一人見かけたが、無視。車両も避ける。
顔を知っているだけのクラスメイトや話したことはあれど所属部活も知らなかった同学に話しかける――というまではまだ良いのだけれど、これからさらにどれだけ待たされるか知れないのに、その間を共にするというのは、間違いなく、楽しい時間にはならない。絶対、気まずい。盛り上げ下手の姑息な言い訳だ。
居場所が落ち着いたところで、俺は制服のポケットを探った。
ブレザーの右ポケットは、そろそろガタが来はじめているガラケー。左ポケットは空。胸ポケットには生徒手帳。ズボンの右ポケットは錆びついた鈴のくっついた自転車の鍵。
あれ、忘れてきたか? と思って左ポケットに手を突っ込むと目当ての感触が。そのまま引っ張り出す。
出てきたのは、イヤホンの巻きつけられた長方形のミュージックプレイヤー。ウォークマンでもなければアイポッドでもない、どこで作っているとも知れないミュージックプレイヤーである。メーカー品に対して不自然に安く(同じ容量で約十分の一の値)、果たして、メーカー品がブランドに驕った値段設定なのか、こちらが値段通りのポンコツ機器なのか。
黒のカナル型イヤホンを解いて耳に突っ込み、再生ボタンを押すと、ロックだかポップだかよくわからない有名男性アーティストのアルバムがシャッフル再生されている途中だった。
演奏のノリはいいけど、世界平和を歌った歌詞はよくわからない。こういう曲は、頭を空っぽにして聴く分にはとっても楽しい。
俺は足先でトントンと小さくリズムを取る。
十五分ほど経ってようやく、更に人の増えたホームに電車が滑り込んできた。
向こうの駅から学校まで行く時間を考えればギリギリの時間だ。逆に考えれば、すれすれで新学期早々遅刻を免れたわけだ。それとも、電車の遅延が原因なら遅刻にならなかったりするのだろうか?
この駅にこれだけの人数がたまっているのだから、別の駅でも同様のことが起こっているわけで、電車のドアが開いて、駅名のアナウンスと共に降りてきた人の数はいつもの数倍であり、一時、ホームは降りる人と乗る人が錯綜した。
どうにかこうにか、人混みに揉まれながら、俺も電車に乗ることができた。つり革や手すりを掴むことができる位置ではなかったけれど、転んでしまうことは無いだろう。通勤ラッシュというものの大変さを垣間見た気がする。
見動きの取れないまま、電車は走り出し、慣性に従おうとする俺達を駅から連れ出した。
屋根のあるホームから抜け出て、電車は特有の大きな窓から春光が差し込む。
その時、俺は久しぶりに、自分が満員電車が苦手であったことを思い出したのだった。
それから、駅を二つほど過ぎて、二度の入れ替えに大分位置がドアに近づいた頃。それは起きた。
唐突に、彼女は斜め前の方から手首を掴み、無理矢理俺を挙手させる。そして、魔法の言葉を叫んだ。
「この人、痴漢です!」
それを聞いて、まず俺が思ったことは、「ああ、これが伝説の……」だった。




