空が落ちてくる
ある大事なものをなくした。
彼女はある大事なものを持っていた。
彼女はそれを何よりの宝として、大切に大切に扱った。ときにはその重さや大きさが息苦しく感じられることもあったが、彼女は宝を愛した。
宝もまた、彼女を大事にした。
しかしながら失うときは一瞬である。
彼女が目を離したすきに、宝は彼女の手からすべり落ちてしまった。実にあっけなく、あっさりと。まさに一瞬の出来事だった。
彼女は戸惑った。
あまりの出来事に、彼女は戸惑った。悲しみもわめきも嘆きもせず、否、できず、ただそこに立ち尽くすしかなかった。
彼女は無力だった。
彼女は何もできなくなってしまったのだ。こうしてまたひとつ、彼女は大切なものを失った。それはほかでもない彼女自身であった。
いっそ殺してくれ。
以来彼女は、夜が来るたび苦しみに襲われることとなった。今まで経験したどんなものとも違う、ただ一色の苦しみである。彼女は抗えなかった。彼女は逃げられなかった。そこに自身がある限り、この世のどこにも逃げ場はないのだ。
そんなこと、彼女自身がいちばんよく知っているというのに。彼女はただ、やってくる苦しみを受け入れるしかなかった。全身で、いのちがけで。
彼女はそんなある日、またひとつ大事なものを失ったことに気が付いた。
それは言葉である。
言葉である。
言葉である。
言葉である。
彼女は自分が何も生み出せなくなっていることを知った。
何も知りたくなかった。
彼女は未だに事実と現実を一致させることができない。
それはなぜか? そんなことは明白だ。
彼女は認めたくないのだ。
あの日見たそれが、あの日見た――が、――であることを。
空が落ちてきた。色は、わからなかった。