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自転車部シリーズ  作者: はせがわ
高校時代編
7/9

群青色の関係4(完結)

 六月に入った。


 急に暑くなって、ついでに梅雨時だからジメジメとしたヌルさがまとわりつく。

 ここ、部室の窓も開け放してはいるが、なんとも言えない温度だ。

 これだから、湿度の高さは許せないんだ。

 なんて思いながら私は額の汗を拭って、部室中央の机でドアの方に向いて椅子に座りながら、今度部員に配る大会の要項を書き続ける。

 今日は部活が無いのだから、家に持って帰ってやろうかとも一瞬考えたのだが、無くしたりクシャクシャになったりするのも嫌なので、ここで仕上げてしまおうと思う。無人の部室は寂しかったが、こうやって一人でゆっくりとするのはなんだか久しぶりで、悪くは無いかなと前向きに考えを持ち直した。


 そういえば、この時期になるとツール・ド・フランスが開催されるせいだろうか。ロードバイクの使用率がやけに増える。

 格好良い自転車や、ヘルメットなどを装備したロードレーサー風の人間を見る度に心が跳ねるのも事実だけれど、この時期だけというのはいただけない。

 やるならば一年中、励めば良いものを。

 柳にそう零したら、「この季節が一番、自転車にちょうど良いからな」と涼しげな表情で言われた。

 曰く、この時機を逃すと夏期に入ってしまい、運動するのに適さないそうだ。

 これより寒い冬になれば、逆に家から出ないだろうし。

 しかし私に言わせてもらえば、やはりこの時期だけのなんちゃってロードレーサーなんかよりも、しっかり一年中鍛えている柳の方が、身体も引き締まっていて格好良い……というのは、惚れた弱みだろうか。

 最近、なにがなんだか解らなくなってきている。

 柳が好きなのか。彼が「フランスに連れて行く」と断言してくれたから心惹かれているのか。それとも、自転車以外にはからっきし不器用な彼に対する、ただの本能なのか。

 ぐるぐるぐるぐる、気持ちが円状に巡って、どうして良いのか解らない。


『リカちゃんも柳のことが好きなのかもしれない』


 真希さんは否定していたが、私としては完全に否定し切れないその考えも、混乱の一端を担っていた。


「……はあ」


 ため息をつく。


「なあに、やってんですか?」


 ひょこっと、背中から声をかけてきたのはトーマくんだった。


(いつから、いたの……)


 先ほどまで、部室には人は居なかったはずだ。

 ドアが開くのにも気がつかないなんて、どれだけ注意力散漫だったんだ、私。

 あの件があってから、トーマくんと二人きりで話すのを避け続けた私は、気まずさも相まって少し対応に困る。それを察したのか、彼も難しい顔をした。


「いつも通りでいいんスよ、三野センパイ」


 諭すように言う、トーマくんにドキッとする。


「うぅ…」


 いかにも頼り無さげで、揺れている声が出た。

 トーマくんは笑い出す。

 何がおかしいの、と睨むようにして彼を見れば、トーマくんは答えた。


「もう、ちょう可愛いっスよ。センパイ」

「んなっ。からかわないでよ!」


 弾かれるようにして立ち上がると、自分の顔の位置が変わり、少しだけ彼に近付いた。

 トーマくんの顔は光の加減だろうか、案外真剣な表情ながら影が走っており、少し怖い。


「からかってなんか、いませんよ」


 その言葉通り、ふざけた雰囲気なんてかけらも無い。二、三秒だけ部屋は静まり返ったけれど、トーマくんが言いづらそうにしながらその沈黙を破った。


「……あの、センパイ。告白の返事の件なんですけど、」

「その件なんだけどね、トーマくん。やっぱり、私、ダメだよ」


 トーマくんが何か続きを言いかけたのを遮って、私は告げた。

 勢いが削がれてしまえば、もう何も言えなくなる。流されてしまう。

 そう思って、感情が溢れるままに言葉を紡ぐ。


「私ね、きっとアイツのことが好きなんだよね、ちゃんと。確かに告白されて、意識して、揺らいだ。私のことを好いてくれてる、トーマくんに(なび)いてしまおうか、そう考えた」


 そこで言葉を切って、一度下を向く。

 口に出して気がついたのだ。やっぱり、私は柳のことが好きなのだ。リカちゃんが――誰が柳のことを好きだったとしても、柳が誰か――リカちゃんを好きだったとしても、私がいくら誤魔化したとしても、その事実は覆らない。

 顔を二回、横に振って余計な思考を追い出してから、再度トーマくんに視線を向けた。


「そんな考えは私自身にもトーマくんにもアイツにも失礼だし、なによりそんな軽い女には私、絶対になりたくない。最初思ってたようにこっちで区切りをつけてから返事、というのもトーマくんを保険扱いしているようで嫌だったし。それにね――」


 私はそこで、言葉を途切れさす。


(トーマくんは私に対して嫉妬するくらい、柳のことも大好きでしょ。私、ライバルに優しくはしてられないんだ)


 そう思ったことは、心の中に隠しておく。

 それに、絶対的な確信があるわけではない。

 ただ、先月あたりに言われた『俺、簡単に先輩に負けるつもりはありませんから』というトーマくんの言葉。

 あれは柳だけでなく、私にも向けられていたものだと思ったのだ。

 そして、これは完全に私の想像でしかないけれども、柳とトーマくんはきっと元々知り合いなんだろうと私は考えている。

 トーマくんが私を好きだというのはおそらく偽りではないだろうけど、柳を私に盗られたくなかった、こういう気持ちも確かにあったのではないだろうか。

 口内でモゴモゴと心中の気持ちを呟き、それらはやがて溶けていった。

 トーマくんは、フラれた割には平気そうな顔をしている――というのは、フッた側である私の願望だろうか。

 けれど、やっぱり平気そうな、というよりかは答えを想像していた納得した顔、と言うべきだろうか。


「……やっぱり先輩は、格好良いです」


 そんなこと無い。


 絶対絶対、私よりトーマくんの方が傷ついているというのに、私の方がきっと酷い顔をしている。

 へにゃり、とかろうじて笑みを取り繕って、首を横に振った。


「でも、大会は頑張るんであの人ばっかり贔屓しないで、ちゃんと見ててくださいね。柳先輩には、負けません」

「うん……頑張ってね」


 心からの応援だったはずなのに、トーマくんは私の最後の言葉で泣きそうな表情になって、急いで出て行った。

 バタン、とドアが閉まって部室には、静寂と私のみが残される。


(……これなら、告白なんて無いほうがよかった)


 たしかに女子高生らしく、こういう色恋沙汰に憧れてはいたものの、なんて空気の悪いものなのだろう。


「はあ」


 トーマくんが来る前のものよりも、重苦しいため息をこぼして私は椅子に座り直した。

 けれど、私は居たたまれなくなって立ち上がる。

 なんだか、無性に柳に会いたくなった。

 部活は無い。だから、部室には来ない。

 今日は水曜日、塾のある曜日でもないはずだ。

 ということは、きっと家にいる。


「……会いに行こう」


 いつもならばこんな、思い切った行動はしないだろうに、私は書きかけの要綱をそのままに、荷物だけ引っ掴んで部室を飛び出した。

 うち開きのドアを開けて駆け出そうとした瞬間、大きな壁にぶつかった。こけるかと思ったけれど、私はすっぽりとその腕の中に納まった。


(……は?)


 脳内キャパが超えて、私は一瞬フリーズする。

 相手が慌てて解放して初めて、何が起こったんだろうかと思考が巡った。


(ん……? 相手? ヒトっ!?)


 つまり、何者かに抱きとめられたのだ。

 唖然としながらも相手を確認するべく顔を上げて、私はもう一度固まった。


「や、ややや柳!!?」

「わ、悪い!」


 同時に叫んで、顔を見合わせる。微妙な空気が漂った。


「いや、私が悪かった。本当に、ごめん」


 先ほどまでの、勢いは急速に失っていった。

 こいつは本当に、人のやる気を削ぐのがうまいんだから。再確認して呆れる。


「僕が悪かったよ。…けど、三野。急いでいたのに、いいのか?」

「……なんかもう、いい」


 目的は、一応達成できたわけだし。

 心の中で思って、私は部室へ引き返した。柳もそれに続く。ここまで走ってきたのか、息こそ切れていないけれど、汗がすごい。

 さっきの事故をまだ気にしているのか、柳は何かを言いたげにチラチラとこちらを見てくる。

 さきほどまでの――つまり勢いが削がれる前の恋愛モードな自分だったらドキドキとしたのかもしれない。

 だけど、そんな気持ちにもなれずに一瞥しただけで、私は大会の部員用要綱を書くために、部室を出る前に座っていた椅子に再び座る。


「なあ、三野。さっき、急いでたのって」

「しつこいよ、柳。もういいって言ってるじゃん」


 普通、ここまで言えば聞くなと言われているのだと気が付くだろう。なのに、この鈍感男はなんの疑問も抱かずに続けるのだ。


「けど、何かあったんじゃないのか」


 ああもう、イライラする。

 会いたいという思いは叶ったはずなのに、なんで私はこんなにムシャクシャしているのだろうか。

 気持ちが収まりきらなくて、私は声を張り上げた。


「私があんたに会いたかっただけだけど、なんか問題でもある? あるの? 無いでしょ?」


 バシンッと、机を叩いて立ち上がる。古い木製の机が揺れて、シャーペンが転がる。二人とも気にしない。

 私は、喧嘩を売るようにただ柳の瞳を見据え、彼も逸らさずに私を見つめた。瞳の奥で光がうごめいていたけれど、その感情が何なのか私にはわからない。

 ただ、いつもより危うい輝きに息が詰まった。

 ドクン、熱を持った液体が管を駆け抜け、緊張が高まる。感情を鎮めるために手をしっかりと握り締める。

 そんな動揺に気付いていないのか、柳は平静な表情のままだ。普段からなんでもない顔でとんでもないことをサラリと仕出かす柳だけど、私がこれだけ激昂しているのに顔色ひとつ変えないその姿は私をさらに苛付かせる要因となる。


「確かに問題なんて無いけど。桐麻はいいのか?」

「トー…桐麻くんは、私には勿体無いくらいの良い子だよ。でも、私には他に好きな奴がいるから」


 柳はどこで聞きつけたのか。訝しく思ったけれど、それで少し頭が冷えた。突き放すように、意識して冷たい声で言う。


「別に、柳は興味なんて無いと思うけど」

「……伊那さん、か?」


 唖然とした。


「…まだそんなこと思ってたの、あんた。そんなわけ無いでしょ」


 それは否定したはずじゃなかったか。

 なんで、こんなにコイツは鈍いんだ。自分のことを棚にあげたわけじゃないけど、本当に鈍い。呆れるほど鈍感だ。

 気だるい雰囲気が伝わってしまったのか、柳が声を上げた。怒鳴る、というよりも悲痛な叫び声に近かった。


「だけどッ!」


 既に冷静な顔色ではなかった。それで、ハッと気が付く。コイツも十分キてるのだと。

 そう思ったら気持ちが緩んだ。ふっと微笑む。

 今なら、先ほどまでの感情の高ぶりが嘘のように、優しく告げられる。


「私が好きなのはあんただよ。いい加減気付け、ばか」


 今度唖然とするのは、柳だった。

 ポカン、とこちらを見るその姿が、なんだか滑稽で笑える。そんな間抜けな顔でも決して嫌じゃなくて、むしろ私の知っている柳だと安心してしまう。

 好きだな。なんて、この天邪鬼な自分が素直に思えることに、心の中で少々の不思議さを思う。

 想いを告げたりなんてしたら関係が壊れる、と思って無意識にセーブしていた気持ちを解放してやると、驚くほどすっきりした。まるで、憑き物が落ちたみたいだ。

 逆に柳は、突然の告白に驚いている――かと思いきや、柔らかい笑みを浮かべていて面食らった。


「……僕が好きなのも三野だよ。気付いてなかったと思うけど。三野が好きじゃなきゃ、桐麻に告白されたあとのきみになんて、焦って会いに来るわけないじゃないか」

「……は?」


 今、確実に間抜け面を晒しているだろう。

 なんなんだ、この展開は。


「リカちゃんは…?」

「何を誤解しているのか知らないけど、僕はあいつに恋愛感情なんて抱いたこと無いよ」

「うそ…」


 呟くと、本当だと囁いた。

 真希さんがそう言っていても納得できなかったのに、本人に言われると簡単に安堵してしまって、自分の単純さに呆れた。

 力が抜けて、ズルズルと座り込みそうになるところを耐えて、椅子に座りなおす。

 じっと、手元の紙を睨む。

 震える手に意識を集中させて、要綱を書き進めようとするが、頭が真っ白で何も思い浮かばなかった。


「ねぇ、三野」

「…ん?」


 何も気にしていないように答えたつもりだが、きっと失敗しているのだろう。

 回らない思考がもどかしく思う。


「付き合う?」


 はじかれるように顔を上げた。

 随分軽い言葉にも聞こえるが、表情は酷く深刻そうだった。

 どうしよう、と思うけれど、返事なんて一つしかない。


「……うん」


 短い沈黙のあと、私は頷いた。

 柳は、心底安堵したらしく、床に崩れ落ちた。


 どうしようか。

 一瞬迷ったけど、立ち上がって柳のそばへ駆け寄る。

 膝を折って目線を合わせると、床についている手の甲にそっと自分の手を重ねた。

 がっちりとしていて、少し骨ばっている手。この身体を守りたい。たとえこの先、私と柳が個人的な関係じゃなくなったとしても、ロードレーサーとしての柳を。



 だから――




「決めたよ、柳」


 唐突な発言に、不思議そうに「何を?」と尋ねられる。

 私は人差し指を、そっと自分の唇に当てた。


「秘密」


 そして、にっこりと笑った。








   【群青色の関係 了】

きっと高三の終わり頃の作品。

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