群青色の関係2
翌日。
私は、家から三つほど離れた駅の改札前に一人で立っていた。その駅の改札は少し面白い構造になっていて、中央口改札、北口改札、そしてもうひとつQ改札というものがある。
Q改札のQという不可思議なアルファベットの意味こそ知らないけれど、そこは駅ビルの中にあり、若者の待ち合わせ場所として使用されることも度々ある。
私と柳も例外ではなく、待ち合わせの一時よりも五分程早く付いてしまった私は柱に寄りかかるようにして立っていた。
折りたたみ式の携帯電話を、パカッと開ける。待ち受け画面は青空で、小さく飛行機とその通った跡が映り込んでいるものである。
なぜか解らないけれど、無性にため息が付きたくなった。そのままの体制で無感情に改札に出入りする人々を見ていると、その中に紛れて柳が走ってやってきた。暗くなった画面をボタンを触る事によって表示させ、時間を確認する。待ち合わせから二分ほど遅れている。
「三野、ごめん! ちょっと遅れた」
「ん、いいよ」
私服姿の柳はなんていうか……思いのほか、決まっていた。なんだかんだ言って、こうやって外出するのは初めてだ。大会のときは一応制服だし。
「最初、柳だってちょっとわからなかった」
「…実は、僕も。制服と私服って雰囲気変わるよな」
正直に漏らせば、柳も苦笑して同じだと頷いた。
人波に流されるように駅ビルへ入る。エスカレーターで一階に下りて、外へ出る。どうしようか、と悩んで隣の柳に聞こうかと思ったが、私の用事で来ているんだし、と考えを改めた。
「まずは……ルーフに行っても良い?」
Loofというのは、全国チェーンの生活雑貨店だ。黄色い文字の看板が目印で、わりと便利な所が重宝している。特別反対する理由も無く了承した柳を確認後、私はルーフに向かって歩き出す。
「そういえばリカちゃんも、もうすぐ大会だよね?」
「…陸上部はウチの学校の期待だから、プレッシャー感じてたよ」
(やっぱり、そうなんだ)
自転車部なんて弱小部とは、比較にならない程の重圧なんだろうなあと、思う。
横目で柳の様子をうかがう。人と目を合わせるのが苦手な私は、やっぱりこのときも顔より少し下を見た。
リカちゃんの話をしているときの柳は、普段よりも少し機嫌がいいと思う。その証拠、では無いにしてもいつもより饒舌なのは事実だ。
ほんの、ほんのちょっとだけ、ざわざわとしたものを感じたけれど、気にしないようする。
(柳がリカちゃんの話に食いつくのは、いつものことじゃないか)
気にしない。気にしない。そう心の中で唱えている時点で、気にしているのと同義なのはそのときの私には大して問題ではなかった。
駅の正面にある商店街の、右側三つ目の脇道に入る。そこから、大手デパートの中を通り抜けると、ルーフの黄色い看板が目に入る。
エスカレーターで三階まで上がる。
生活雑貨のチェーンという、ルーフならでは雰囲気が全面に押し出されたその階から、慣れたように私はリストバンドのコーナーに向かった。実は今まで何度か来ていたけれども、その度に迷って保留にしてしまっているのだ。
「部員の皆に買っていこうかと思って」
お前にこんなもの必要なのか、という柳の視線に、「ほら、大会だし」と何故か言い訳がましく言う。
「じゃあ、僕はこれにするよ」
柳が選んだそれは青白赤の三色で、まるでフランスの国旗だった。至極ノーマルな柄で、付けていても主張が強すぎない。
それならば、と私はスペイン国旗の柄とイタリア国旗の柄をそれぞれいくつか手に取る。スペインの国旗は三年生、イタリアの国旗は一、二年生用だ。
「イタリアとフランスの国旗ってなんだか似てるから、なんだか結局お揃いみたいだね」
悪戯を含めてそう言うと、柳は顔を顰めた。
自分用に手に取ったフランス柄のリストバンドを棚に返そうとまでするものだから、私は慌てて「嘘、嘘!」と訂正を入れなければならなかった。
「全然似てない。フランスとイタリアってイメージも全く違うし」
表情を少しだけ緩め、けれどもまだ仏頂面のまま柳はレジに向かう。慌てて隣に並びながら、私は同意を促す。
「でもさ、これで三大ツールが全部そろったじゃない」
「そうだな」
柳は少しだけ目を細めて、私の意図通りに頷いた。
三大ツール、グランツールとも呼ばれるそれらは、その名の通り自転車競技の三つの大きな大会を指す。
一つ目は、ジロ・デ・イタリア。選手個人の実力が要求される大会だ。
山岳コース、つまり坂道の難度に定評があり、総合優勝者には屈強のクライマーが名を連ねている。
二つ目は、ブエルタ・ア・エスパーニャ。ジロ・デ・イタリアと似通った特徴を持っていたり、ジロ・デ・イタリアと期間が重なる事が多かったりした所為か、この大会よりもジロ・デ・イタリアを選択する有力選手も多く、グランツールのなかではローカル的で格下の存在とされてきた。
そして三つ目は、ツール・ド・フランス。選手・チームの総合力が要求されるこの大会は、最も有名なロードレースだと思う。かくいう私と柳が憧れる大会でもある。
選手達の色とりどりのユニフォーム、観客達の熱気。その華やかさは随一で、美術の教科書に載る程だ。
会計が終わり、私たちはルーフを出て来た道を少し戻る。再び商店街を通り抜けて、駅へ出る直前にあるファーストフード店へ入った。
適当にアップルパイやソフトドリンク等を注文し、二階壁際の禁煙スペースの四人掛け席に座った。
肩から下げていた荷物を降ろして、私と柳は揃ってため息をつく。
「…なんだか疲れちゃったね」
「僕は気疲れしたな。人が多かったし、………だったし」
「ん? 今なんて言った?」
柳は相槌を打つように頷いた。しかし、付け足す様に言ったその言葉は、喧噪にかき消されて私には聞こえなかった。聞き返すが、柳はなんでもないと首を振る。
「でも、気になるし」
「なんでもないって言ってるだろ……それよりこの後、買って置いた方が良いものとかあるのか?」
買って置いた方が良いもの。どれもこれも、特に今切れそうなものは無かったはずだ。
けれど、せっかく柳についてきてもらったのだから、そう返すのは忍びない。
「……じゃあ、スポーツショップにも、付いてきてもらえる? ドリンクの粉とか、買い足しておこうと思うんだ」
了解したというように頷いた柳。私はそっと一安心する。自分の中で抱いているほんの少しだけの下心が、少し後ろめたい。
ぐるぐると、紙コップに入ったドリンクのストローを回す。氷が擦れ合う微妙な音が、その一帯を支配する。
「柳はさあ……結局、プロ目指すんだよね」
言って、少し後悔した。あれだけ言っていた柳なんだから、そんなこと今更なのに。
なんで、全く進路が想像もつかない、そんな、自分の優柔不断さを柳に見せる様な話題を振ってしまったんだろう。
しかし私の気持ちをよそに、柳はじっと神妙に私の顔を見つめて、ぽつりと呟いた。
「……正直、迷ってる」
「え…」
間抜けな声を発してしまった。だって、そんな。予想もしない言葉だったんだから。
柳の表情を凝視して、それでも真剣さが失せないことを確認する。私はそっと息を吐き出した。
「そりゃ、やっぱりプロになれたら一番だよ。でも、母さんも反対してるし、世の中そんなに甘くないことだって知ってる。……父さんと姉貴は、僕の応援してくれてるけれど」
「そっか」
中盤以降は喉が乾燥したのか、少し掠れ声だった。
気の聞いた言葉の一つや二つ、パッと出せたらいいのにって、こんな時いつも思う。
何も言えなくて、零すだけになってしまった声にも、気を悪くした様子は無く、柳はドリンクに口を付けて、少しだけ喉を潤した。
「姉貴は、あんまり大学なんて深く考えなくていいって言ってるんだけど。…あの人、お気楽な自由人だから」
「七つ上だっけ? うちの兄貴と同い年だった気がするんだけど」
柳は頷いた。うちの兄貴と似た感じなのかもしれない。
兄貴も大概お気楽だから――とは言っても、あの人はなんだかんだ言って世の中を上手く渡って行くタイプだと思う。羨ましい限りだ。
「だから三野もあんまり悩みすぎないで、やりたいことやれば良いと思う。自転車に縛われすぎると、他の物が見えなくなるだろうし」
なんで私がそんなに自転車に縛られているのか。この男は知らないんだろう。でも、悩むな、なんて無責任な言葉に、すっと心が軽くなった気がした。
確かに私は、根詰めて考えすぎていたのかもしれない。
「そうだね。まあ、まだ確定には時間があるし、もう少し考えてみる。……ありがと」
「いや…僕は何も出来てないから」
照れたように顔を背ける柳が、素直に愛おしいと思った。
すとん、と胸の中に収まって溶ける。ちょうど、氷の溶けた目の前のコーラの如く、不安が薄まったような気がした。
「それでも、ありがとうね」
今度は、返事が無かった。
ちらり、と彼の表情を盗み見たら、その顔は光の加減かほんの少し赤く染まっていた。
いちいち突っ込まれるのも恥ずかしいだろうから、私は見なかったことにして、水割りのようなコーラを一口含んだ。あまりの味にそれ以上飲む気にもなれず、トレーの上に置いた。
「そろそろ行くか?」
「そうだね」
顔を背けていたはずなのに、目ざとく私の様子に気がついて、柳は私に声をかけた。
立ち上がってトレーを片付け始める柳に遅れて、私も席を離れる。
店を出た後、先ほどの会話通りスポーツショップへと足を運んだ。駅ビル内であるのでドアなどは無く、開いけていて入りやすいお店だ。
いつもの消耗品を手に取り、店の中央部にあるレジに運ぶ。店員さんが会計をしている間、柳は店内の違うところで商品を見ていた。
私は一人でぼーっと財布の中をかき回す。ジャラジャラと、小銭で音を立てていると、入り口の方からなんだか聞き覚えのある声が聞こえてきた。
振り向いて、硬直。
「は? 兄貴と…伊那さん?」
ぽつり、と呟いて凝視していると向こうも気がついたようで、兄貴とその友人が近寄って来た。
伊那さん――憧れの人が目の前に居ることで、私は一気に緊張する。
彼は、一見すると芸能人かと見紛えるほどの外見とセンスの持ち主で、男の人のくせにサラサラとした髪は正直、羨ましい。少し鋭い目つきだけれど、彼の柔らかな雰囲気と表情がそれを打ち消している。
洋服も、やりすぎない程度に流行を取り入れており、それでいて個性がある。
兄貴とは高校時代の友人だそうで、今現在、何の職業についているのかは解りかねるが、かなり稼いでいそうだ。持ち物がさりげなく高級である。
私は、上から下まで自分の格好を確認して、脳内でオーケイサイン。
今日は、かなり貴重な柳とのお出かけだったので、気合いを入れてきていたのが功を奏した。
「よォ。おまえ、こんなとこで何やってんだ? ……スポーツほど、似合わねぇモノはないだろうに」
「……兄貴、私がマネやってるってこと知らないでしょ?」
兄貴の馬鹿にした様な口調で、私の緊張は一気に溶けた。
ため息をついて、呟く。
それに反応したのは、伊那さんだった。
「え、マネージャーやってるの? なんのなんの?」
「自転車部です」
レジの人にお金を払うが、私たちはそこで会話を続ける。私の答えに、伊那さんは驚いたようで目を見開いた。
「高校に自転車部なんてあるんだ……」
「あー…なんか、そんなこと言ってたな」
兄貴は少し思い出したようで、ぽつりと漏らす。
そこでそうやって会話をしていると、会計を済ませたことを気がついたらしく、柳がやってきた。
私と、兄貴達を見比べて訝しげな表情をする。兄貴とそのご友人だと紹介して、ようやく彼は軽く頭を下げて挨拶をした。その挨拶の仕方が初対面っぽく無くて、 戸惑ったのは私の方だ。
すると、状況説明を兼ねるように伊那さんが呟いた。
「驚いたなあ…真希さんの弟さんと君の妹さんは同じ高校、しかも同じ部活だったんだね」
「俺も初めて知ったよ」
兄貴も心無しか呆れた口調だ。
つまりは、柳のお姉さんと兄貴達は知り合いだったということか。
「というか、デートの邪魔をしちゃって悪かったね」
少しバツが悪そうに、伊那さんがそう言って苦笑いする。私はどう答えれば良いのか解らなくて、ふにゃりと笑った。
自分としてはデート気分だったけれど、柳にとってはそんなはず無いだろうから。けれど、否定してしまうというのは、それはそれで惜しい。
「そうですね。……言われてみれば、デートみたいなものだな」
最初は伊那さんに向かって、後半は私に向かって柳は言った。
思わず、顔に血液が逆流してくる。「ばかじゃないの」と、弱々しくそう言って柳の方を見ない。
代わりに、兄貴のニヤけた気持ち悪い笑顔が目に入った。今度、ボコってやる。
兄貴が一人暮らしをしている所為で、今日のうち帰ったらすぐというわけにはいかないけれど。
「それじゃあ、邪魔者は帰るとしますか。な、伊那?」
茶化している兄貴の言葉に、伊那さんは同意した。
二人がひらひらと手を振りながら立ち去る寸前、伊那さんは急に振り向いた。何かを考えている表情だ。
「そういえば、ずっとお礼を言おうと思って。なかなか機会が無かったんだけど。四年前の大会、応援してくれてありがとうね。それで、自転車部に入るほど興味を持ってくれたようで嬉しいよ」
素敵な笑顔に、私は見蕩れた。周囲にポツポツといた数人の女性客も同じだ。
「い、いえ! こちらこそ、良いキッカケになりました!」
半ば叫ぶようにして伊那さんの背中に告げる。その背中がなんだか妙に大きく感じた。兄貴の後ろ姿が、笑うように揺れる。
「やっぱ、格好良いよなあ…伊那さんって」
この時、思わず口をついて出た台詞に、柳がなんともいえない表情をしていたことに私は気がつかなかった。
まだ続きます。




