最終ラインを踏み越えた先にある何か
鉛色の空は美しい。
入学式を終え、僕は玄関の前にぼーっと立ちすくんでいた。
家には誰も居なかった。そして高校の入学式にも親は来なかった。
寂しいとは思わない。良く言われているように人間は慣れる生き物だ。僕もその意見には異論は無い。
こう言うと、僕が不幸な少年に思えてくるかもしれない。僕自身はそう感じていないのだが、実際問題として、僕が一人暮らしをしていると聞くと、無意識のうちなのだろうが、憐みの表情を浮かべる人が多い。
僕が一人暮らしをしているのは両親共に亡くなったなどの、悲惨な理由によるものではない。単に、両親がアメリカで働いているだけだ。二人とも。
僕の見方ではそれだけのことになり、他の見方では、大変よろしくないことになる。しかし、認識するだけで、何らかのアクションを起こさなければ、現実世界には何の影響も無い。想像することに罪は無く、つまりは、ヒトラー的な妄想にしろ殺人にしろ、想いを抱くだけなら外からは分からない。誰にも悟られずに済む。憎しみも愛も、見ただけでは差異は感じられない。
少なくとも僕は、その一線を、堂々と踏み越えた。
ダイニングのテーブルに置いてあるおにぎりを、三つ素早く食べる。朝に用意したものだ。
とりあえずキッチンに向かうことにした。コーヒーを入れるためである。巷ではコーヒーを飲みすぎると身長が伸びなくなると言われているらしい。もっとも僕は既に百七十九センチある。日本人の高校二年生の中ならばかなり大きい方だと言える。僕のクラスでも、自信が後ろから二番目だという事実がそのことを裏付けていると思う。
つまり言いたいのは、僕はもう身長が伸びなくても問題が無いということ。
クラスで前の席に座っている小さい少年――――彼は身長が百六十センチしか無かった――――はコーヒーを飲みすぎて、身長が伸びなくなったのだろうかと、口元を微かに歪ませた。同時に何の心配もなくコーヒーを口にできる自分の幸運とそのように生んでくれた両親に感謝の念を覚えた。
飲み終えたカップはひとまず水につけた。五分ほどたってから洗剤できれいにするのが癖になっていた。
その間に手を洗い、髪形を整え、服を着替えた。ゴムの手袋をはめ、たくさんのA4の紙とリュックをを片手にキッチンへ降りて行く。
カップの水気を十分にきり、棚の中へと戻した。
棚の下の引き出しに目を移した。ここにはステレンス製のナイフとフォークとスプーンと、思い出があった。他人にはあまり話すことのできない思い出が。九歳だった頃の。
飛び散った血が思い出された。引き出しの中は赤かった。何かが横たわっていた。それからは、本来感じられるべき生命の波動とも言うべき物が、光が無かった。良く見ればすぐに分かった。死体である。追記させてもらうと、僕は良く見なくても、簡単に知り得ることができた。僕が、彼を引き出しの中へ閉じ込めたから……最後にナイフでばらばらにした。
分解された姿は良い。最高だ、実に分かりやすくて。
ステレンスに限らず、金属の輝きに僕の心は囚われていた。
プラスチック製のまな板と包丁を準備した。包丁は電灯の光を明るく反射している。
冷蔵庫からプラスチックカップを取り出し、中身をまな板の上にぶちまけた。量は少ない。人の手である。右と左、両方の。お世辞にも綺麗とは言えなかった。ただこの手の持ち主が生きていた時は、細く美しい手だったと僕は覚えている。プラスチックカップをきれいに洗った。
まずは、指を一本ずつ切り取って行く。人の骨は固い。友人も言っていた。ところどころ苦労したが、さほど時間をかけることも無く終わらせられた。心躍る、素晴らしい作業。
念の為に指の腹も包丁で細かく傷を付けた。
この女性が亡くなってから、三日が経っていたが、報道は無かった。警察に届けは出ているのだろうが、行方不明として今のところは扱われているのだろう。
すぐ隣に置いた紙を半分に裂き、切り取られた指を一本ずつ包んでいく。残った手の甲も同様に包んだ。棚から、昔使っていた弁当箱を取り出して、紙で包んだ物を敷き詰めた。空いたスペースには使われなかった紙をくるんで詰め込んだ。
もう使わなくなった風呂敷で、弁当箱を包み、ビニール袋に入れた。キッチンまで持ってきたリュックに放り込むと、僕はそれを背負い家を出た。
自転車にまたがり、南に広がる山を目指した。
登山用の装備はかばんに突っ込み、自転車のかごに入れておいた。麓までのサイクリングは、普段と変わらないものであり、程よい疲れと爽快感を僕に感じさせた。
駐輪場に自転車を停めた。心なしか日差しが強くなっている。
短く息を吐き、気を引き締めた。
道はそれなりに整備されていて歩きにくくは無かった。早足で登り始め、およそ十五分くらい経っただろうか。前日、夜遅く訪れた時に付けた、目印を発見した。前後に人が居ないことを確かめると、本格的な登山用の装備を上に着た。
木々が生い茂っている左脇に飛び込む。先ほどまでの道のりとは違い実に大変であった。しかし、その代わりと言うのも変な話だが、歩く時間は短く済んだ。僕が、そのように調整しただけの話だけれども。予め掘ってあった細めながらも深い穴――――念の為、木の枝や葉、少量の土でカモフラージュしてある――――を見つけると、ビニール袋と風呂敷と弁当箱に十全に警護された物を、一つだけ放り込んだ。穴を半分まで埋め、もう一度物を放る。埋める作業を完全に終えると、今来た道を、苦労しながら引き返し、人影に注意しながら山道に戻った。そして汚れた上着をリュックに詰め戻す。
このような退屈極まりない作業を、さらに十一回繰り返すと、いつの間にか日差しを浴びていた。雲は消え、夕日が強くなっていた。汗をハンカチで拭いながら、下山の面倒を思い浮かべると、否応なしにため息が漏れてしまった。首を振って山を下り始める。
まあ、明日も学校はあるのだから、なるべく早く寝たい。
そう、思った。