ご近所さんと赤い帽子
これは少し前に、婆ちゃんから聞いた話。
なんでも、愛犬との散歩道。
"帽子"が落ちてるんだとか。
「あれよ、あれ。ほら。アメリカの――マリアンヌ」
マリアンヌは知らないが、洒落たリボンのついた麦わら帽子を思い浮かべた。
「ちゃうちゃう。赤くて、緑の土管に入っとる――」
ああ。かの有名な配管工兄弟のマ◯オね。
まったく婆ちゃん、横文字が苦手なんだから。
そういやこの前も、アレ◯サに、「アレクシオ! テレビつけてちょうだい。アレクシオ?」なんて呼びかけ続けとったわ。
「それで帽子が落ちてたって?」
真っ赤なハンチング帽。そりゃ少しは驚くだろうけど。
「コスプレの衣装じゃない?」
それかデデニーのグッズ。ちがった、マ◯オは◯SJだっけ。
「それが、いつも違うとこにあるんよ」
公営住宅が並ぶ電柱前。瓦屋根の古民家。ピンクの子供自転車がある、モダンな可愛らしい戸建て。
愛犬と歩くたびに、帽子の居場所は変わっていった。いつもあるわけじゃない。思い出したようにひょっこりと。それも――
「段々近づいてきてる?」
祖母の散歩コースは長い。ボーダーコリーは運動量の多い犬種だ。おかげで祖母は健脚で、それはありがたいことではある。
「不気味やわあ」
ときおり見かける派手な色の帽子。それが次第に、祖母宅のある場所へ、近づいてきてるという。
電話越しに語る祖母の言葉に、僕もなんともいえない微かな不安を感じていた。
***
なだらかな丘の上にある、緑の屋根の洋風戸建て。三角屋根のすぐ真下には、三階とは呼べないほどの、手狭な倉庫がある二階建て。少し前に修繕したという外壁は、柔らかなクリーム色に塗られていた。
祖父の引退後に引っ越したとはいえ、当時にしてはかなりハイカラなデザイン。それがこの祖父母宅だ。
キィーーっと門を開け、芝生の前庭を突っ切った。すっかり腰を痛めたとかで、一部人工芝のシートが敷かれている。
玄関にたどり着くと、すぐ脇に犬小屋が。まるで祖父母宅のミニチュアのような配色で、周囲の景色によくなじんでいる。小屋の中は空だった。
「ワンッワンッ!」
家の奥から吠え声、続いてチャカチャカと駆ける音が聞こえてきた。
「ワフッ」
「フータ、久し振りだな」
合鍵で開いた途端、戸の隙間から黒い毛玉が飛び出してきた。千切れんばかりに尾を振り、舐め回してくるのが、祖母の愛犬フータである。
「よしよし。元気に――おい顔はやめてくれ」
「よっちゃん? 来てくれたんか」
***
「勝手にもらうね」
僕は冷蔵庫を開き、麦茶のペットボトルを取り出した。以前の祖母は、急須で煎茶を淹れていたが。最近はもっぱら水出しかペットボトルだという。
「『なるべくこまめに水分摂取しなさい』て、先生に言われてん」
なんでも腎機能が下がっていて、カフェインが多い煎茶よりも、麦茶の方が良いらしい。
「ヤカンはもう重たいし、夏は台所が暑いから」
丘の下のスーパーで買い物をしても、重い物を運ぶのは大変だ。今は週に一回、ネットスーパーも利用しているという。
「まわり、すごい変わったね」
駅からここまで来る途中。記憶ではいくつか田畑も広がっていて、大きな平屋がいくつもあった。
今日来る時、畑はひとつも見なかった。それどころか、庭付きの大きな戸建てはすっかり減って、小さな新築がすし詰めのように建っている。
昔ザリガニを釣ったため池も、水が抜かれ、基礎が築かれ、今も作業員たちが金太郎飴のように、同じ見た目の家を量産していた。
家は増えた。人も増え、街並みも新しくなったというのに、なんだか息苦しく感じる――その原因のひとつが、
「婆ちゃん。あの人、何?」
祖父母宅は、内庭を囲むように、コの字型の造りをしている。居間の窓からは、内庭に咲くアジサイがよく見えた。夏場もひんやり涼しい陰の内庭は、犬のフータのお気に入りの場所でもある。よく植栽の根元を掘っては、婆ちゃんに怒られてたっけ。
「ああ。田中さんね」
ゆっくりと立ち上がった婆ちゃんは、シャッと薄手のカーテンを閉めた。おかげで田中さん――パンツ一丁で腕組みし、隣家の縁側からこちらを睨む不審者は、レースのモザイクに覆われた。
「うちの庭が好きらしいんやけど――犬、苦手らしくて」
呼んだ? と言わんばかりに、フータが顔だけ持ち上げた。パタパタと尾が床を叩くが、立ち上がる気配はない。エアコンの直線上、風が直撃するその場所で、涼むのに忙しいのだ。
「それでフータ、室内に」
まあ、もともと半室内犬だったフータだ。無駄に吠えたりしない子なので、以前は自由に中と外を行き来していたが――それもまあ、ご時世だろう。
「トイレだけは、外がいいらしいんだけどね」
ペットシートが苦手なフータは、裏庭で用をたす。その際、田中さんと鉢合わせると、毎度文句を言われるらしい。
「うへぇ、嫌なご近所さんだね」
鼻に皺を寄せてしまった。以前隣に住んでた、村田さんが懐かしい。花と猫が大好きだった村田さんは、いつも美しい庭を整え、ふかふかの猫たちが、その中で遊んでいた。
「よく三軒も建てたな」
村田さん亡き後に、売りに出された隣家の土地に、今は新築の戸建てが三軒。どれも似たり寄ったりの家が、ぎゅぎゅっと身を寄せ合うように建っていた。
「せめて二軒に……そうすりゃ自分の庭だって」
カーテンの向こうには、未だに田中さんのシルエット。よく目を凝らせば、家と家の間の狭い空間は、互いの家を避けるように窓が位置取りされていた。
「今は家代、高いんやろ。それに皆ええ人やよ」
よほど皺が寄ってたのだろう。婆ちゃんはそんな僕をとりなすようにほほ笑んだ。
「表側の門脇さん、それに裏の水谷さんは、引っ越しの挨拶も来てくれたし」
表の門脇さんは、若い独身のお兄さん。お仕事が忙しいそうで滅多に会うことはないが、会うと必ず「困ったことはありませんか?」と尋ねてくれるという。
裏の水谷さんは、五人家族。小学生二人に幼稚園がひとり。「全部娘で、父親の肩身が狭いんですよ」と苦笑しつつも、愛情たっぷりに娘たちを肩車する旦那さん。奥様のほうも、いつもゴミ出しの際に「明日は運動会で」「インフルエンザが流行ってるんですよ」等々、積極的に話しかけてくれるそう。
(今度来る時、手土産でも持ってこようか)
婆ちゃんの話しぶりから、新しい隣人たちも悪い人ではなさそうだ。田中さんには困ったものだが……両隣がまともそうでほんとに良かった。
「爺ちゃんの退院、まだだろ? またじき来るよ」
トイレの電球を替えた僕は、そう手を振って、婆ちゃん宅を後にした。
***
「警察?」
電話口の向こうの婆ちゃんは、明らかに狼狽していた。
「え、何? うん……待って、まだ入れないで」
一度婆ちゃんに断りを入れ、僕は電話を切った。そのまま110番、婆ちゃん宅の管轄の署に繋いでもらう。
――正規の見回りらしい。良かった。
再度スマホをタップすると、僕は婆ちゃんに電話した。
***
「もう、びっくりしたわぁ」
心配になり、仕事を早く切り上げて、僕は婆ちゃん宅に向かった。出迎えた祖母はフータを撫でながら、やや上擦った声で話していた。
「ただの巡回でしょ?」
「それが、なんべんも聞くんよ。『不審人物は見かけなかったか』って」
くんくんと、フータが鼻を鳴らして婆ちゃんの膝に頭を乗せた。何かを感じ取っているのだろうか。
カラカラカラ、と軽い音に視線を上げると、お隣さんの掃き出し窓が、ちょうど閉じられていくところだった。
「門脇さんが声かけてくれて良かったわ」
そこそこの時間、質問は続いたという。いつも在宅しているか、周辺で不審人物を見かけなかったか、等々。ようやく警察が帰り、庭先でぼうっとしていたところで、お隣さんの一人――表通りに面した家の門脇さんが、挨拶してくれたという。
「うちは幸い、人の目もあるからね」
ほっとしたような婆ちゃんの言葉に、僕は田中さん宅の方を見た。以前丸見えだった隣家の縁側はもう見えない。
なぜなら――
「塀、建てたの?」
隣家との間にもともと合った柵。腰より少し高い位置まであった柵が、今や僕の身長ほどの位置まで、おしゃれなパネルで覆われている。
「爺ちゃんがね――」
なんでも、一時退院した祖父が、久々に庭でフータと遊んだらしい。そこへ田中さんが「危険だから犬をしまえ!」と言ってきて、言い争いになったそうだ。
「それで爺ちゃん、すぐに柵を新調したんよ」
その場で馴染みの工務店に電話。爺ちゃんが病院に戻ってすぐに、塀は完成したそうだ。(あとでこっそり尋ねたら、結構いいお値段だった!)
「そしたら、今度は『庭が見えない』って――」
田中氏いわく、不動産から『緑が見える景観のよい戸建て』と紹介されていたらしい。犬は嫌だがアジサイは見せろ、と。知らんがな。
「僕、あとで言うてこようか?」
ちょうど手土産もあることだし、一度アピールしておこうか。この家は弱い老人ばかりじゃないってね――
「あかんあかん。波風立てたら」
「大丈夫だって。『うちのジジババが世話になってます』て言うだけやから」
ヤカンの笛に呼ばれ、僕は席を立った。
ティーポットにお湯をいれ、それを二つのカップに注ぐ。
納戸の奥にしまわれていたティーセット。箱はホコリをかぶっていたが、中の陶磁は輝くように白かった。
一度湯を捨て、持参した茶葉を入れる。そのまま布巾をかけてお盆に載せると、婆ちゃんが座るテーブルへ運んだ。
「ええ匂いやなあ」
「ノンカフェインっていうねん。腎臓悪い婆ちゃんでも大丈夫」
蓋をとると漏れ出す華やかな香りに、祖母は相好を崩していた。
「ティーバッグやから簡単やで」
「そーなん。でも淹れてもらうのが一番やわ」
しばらく二人で静かに茶を啜る。
「なんでそんな詳しく聞き込みあったんやろな」
近くで事件でもあったのだろうか。その割にニュースなどは聞かない。
「あ」
思い出したような顔で、祖母がカップを置いた。
「帽子。赤い帽子、またあってん。今度は、小野寺さんとこに」
小野寺さん。最寄りの寺の坊さんのご自宅だ。僕も何度か世話になった記憶があり、確か二丁目……ここからさほど遠くない。
「それも警察に言うとけば良かった」
「ええー。まあ、言ってもいいとは思うけど」
イタズラか何かだろう。だけどどこか拭いきれない違和感を、そのときの僕はスルーしてしまっていた――
***
「強盗殺人事件です」
休日の朝。
寝ぼけ眼でテレビをつけた僕は、齧りかけのトーストを取り落とした。
画面いっぱいに映るのは、よく見慣れた景色。
「婆ちゃん宅のすぐそこじゃん!?」
すぐに服を着替える。幸い今日は予定なし。
僕は最低限の荷物だけを持つと、急いで婆ちゃん宅を目指した。
***
「すごい騒ぎやったわ」
祖母は意外にも落ち着いていた。
フータなんざ、何一つ変わったことなどないと言わんばかりに、腹を丸出しに仰向けで眠っている。
「犯人もすぐ捕まったからね」
テレビをつけると、確かに犯人確保の速報が。次々と現場周辺の映像が切り替わる。「いつもよい方で、お気の毒に」「昨日会ったときは元気に挨拶されてまして――」早速故人に纏わる聞き取り取材が報道されていた。
ニュースキャスターは「通り魔的犯行か」とコメントしている。僕は今一度、この家の防犯を確かめようと席を立ち――
「数日前、赤い帽子が置いてあって」
テレビから響くフレーズに、僕は動きを止めた。
"神出鬼没の赤い帽子"、"某有名ゲームキャラクターの仮装用"。そんな言葉が次々と、テレビから聞こえてくる。
「婆ちゃん、あれ――」
「ああ……!」
いつも糸目の婆ちゃんが、目を見開いて指差している。赤い帽子に、あることを思い出したらしい。
「夜中にね」
昨晩、寝つきが悪く、深夜にフータの散歩に出たという祖母は。門脇さんに会ったという。
「急いでたんか、早足で……それで声は掛けへんかったんやけど」
片手に、暗闇で見えにくかったけれど、たぶん帽子――赤い帽子を持っていたんだという。
「それで帰ったら、また田中さんと鉢合わせて」
また色々と、犬に関する文句を言われたらしい。
それで婆ちゃん、言い返したそうなんだ。
「同じお隣の門脇さんは、そんなこと言いませんよ」と。
「そしたら、田中さん。『門脇って誰?』やて。もう、驚いて。自分ちの隣の人も知らんのかい、て」
それで祖母は指さしたという。田中さんと共に、表の家へと移動して――
「空き家――?」
その家は、まだ買い手が見つかっていなかった。田中氏も、不動産屋から、「隣は空き家」と聞いているらしい。
「そう言えば、一度も家に明かりを見たことなかったわ……」
引っ越しの挨拶だと、菓子折りを持って現れた"門脇"と名乗る若い男。
何度か家の前で会い、会話を交わしたことはあるが――彼が自宅に入るところを、祖母は見たことがないという。
最後に"赤い帽子"片手に、夜道を急いでいた"門脇さん"。彼は祖母の前に、二度と現れることはなかった。




