9章. 《乾杯のあと》
グラスの音は、どこにでもあるただの音だ。
けれど、その夜の乾杯だけは違った。
僕の中で、何かが静かに動き出した。
ハンドルを握ったまま、莉花が一度も僕を見なかった。
機嫌でも悪いのか?
信号が変わっても、交差点を曲がっても、沈黙が続いていた。
今日は、そんな日じゃないな。
僕も、流れていく街をぼんやり眺めていた。
でも違った。
「悠輝、なんか機嫌悪い?」
何かきっかけを待っていたようだ。
「ぜんぜん、そんなことないよ」
莉花はほっとして口角を上げる。
「よかった」
二人きりになると、莉花は妙に気を遣う。
信号が変わるたび、ちらっとこちらを見るのに、目が合うとすぐ前を向いてしまう。
「寒くない?」
「大丈夫」
少しして、また聞く。
「眠くない?」
「平気」
短く答えると、また視線が来る。
そして目が合うと、慌てて前を見る。
……ああ、そういうことか。
僕が素っ気なくすると、余計に気にしてくる。
分かってから、わざと窓の外を見ることにした。
案の定、
「……ほんとに大丈夫?」
声はさっきより小さい。
運転中なのに、こっちの様子ばかり気にしている。
思わず口元が緩む。
空調の効いた車内で、エンジン音だけが小さく響いている。
四十分ほどの道のりのはずなのに、沈黙が妙に長い。
交差点の手前で、莉花がほんの少しだけ窓を開けた。
窓から入った外気に、莉花の髪がわずかに揺れる。
ふと甘い匂いがした。
香水じゃない。
――莉花の香り。
思わず引き寄せられる感じに、視線を逸らすのが少し遅れた。
その瞬間、小さな虫が車内に入り込んだ。
「あ……」
莉花が肩をすくめる。
ハンドルを握ったまま動けない。
僕は身を乗り出し、そっと手を伸ばした。
潰さないよう包み込み、窓を開け外へ逃がす。
窓を閉めて振り向くと、莉花は驚いた顔をしていた。
「虫、苦手だから……」
僕は、そっと莉花の頭に手を乗せる。
「大丈夫」
肩の力が、少し抜けたのが分かった。
「可愛いね」
思わず言ってしまった。
莉花の顔が一気に赤くなる。
ほんの一瞬、時間が止まった。
「――今日も、かっこいい」
「え?」
「な、なんでもない」
信号が青に変わり、車がゆっくり走り出す。
それからしばらく、二人とも何も言わなかった。
⸻
会社の近くまで来たところで、莉花はスマホを取り出した。
「今日、体調不良で休むって連絡入れるね」
それだけ言って路肩に車を止め、電話をかける。
声の調子は、いつも通りの莉花だった。
電話を切ると、莉花はそのままハンドルを切った。
会社のすぐそばは避け、
人目につかない場所で車を止める。
一瞬、沈黙。
その隙間を埋めるように、
僕は莉花の肩に手を伸ばし、そっと引き寄せた。
短いキスだった。
言葉にしなくても、互いに通じている。
「……大丈夫」
小さくそう言った。
莉花は一瞬だけ目を閉じ、
それから澄んだやる気を帯びた表情に戻った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
それだけで、十分だった。
莉花は対策室へ向かう途中で、紗希を拾う予定だ。
⸻
会社の周りは、昨日と何も変わらない。
同じビル、同じ看板。
けれど、自分だけがほんの少し違う場所に立っている気がした。
――使命、なんて言葉は大げさだ。
それでも、何も知らなかった側には、もう戻りたくない。
莉花のために、真実を掴む。
誰が、何を隠しているのか。
会社に入ると、案の定、課長が僕を呼び止めた。
「橘さん、昨日はご苦労さま」
「いえ」
コピー機の音が必要以上に耳に残る。
誰かが笑っているだけで、胸の奥がざわついた。
昨日までなら、気にも留めなかったのに。
「田中さん、今日は体調不良でお休みだってさ。昨日の様子、どうだった?」
一瞬だけ言葉を選ぶ。
「特に変わりはありませんでした」
課長はにやりと笑う。
「若い美男美女だからさ。仕事早く終わって、どこか行ったんじゃないの?」
――来た。
「課長、今そういうこと聞くとセクハラになりますよ」
冗談めかして言うと、課長は一瞬きょとんとしてから笑った。
「おっと、そうか。悪い悪い」
僕も少しだけ笑いながら、相手との距離を測る。
「あ、でも……課長になら、話してもいいかな」
そう付け加えると、課長の目が探るような色に変わった。
「橘さん、今日は忙しいかな?」
「いえ、特には」
「じゃあ、たまには飲みに行かないか? 臨時収入もあったし、奢るよ」
「パチンコでも勝ったんですか?」
「まあ、そんなところだ」
「はい、ぜひお供します」
課長は満足そうに頷き、デスクへ戻っていった。
――釣れた。
胸の奥に、静かな熱が灯る。
昨日までの自分なら、ただの飲みの誘いだと断っていただろう。
でも、今日は違う。
僕はもう、何も知らないふりをして笑っている側じゃない。
少しでも、力になりたい。
野崎副社長の過去。
課長の嘘。
サラマンダーと細川課長の関係。
そして――倉橋専務。
自分から、踏み込んでみる。
でもやり過ぎは警戒される。
全部は無理だ。
だから、掴めるところからでいい。
⸻
仕事を終え、指定された時間に会社を出る。
課長の行きつけだという居酒屋は、駅から少し外れた雑居ビルの一階にあった。
暖簾をくぐると、一気に別の空気に包まれる。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声。
炭の匂い。
カウンターでは焼き鳥が音を立てて焼かれている。
仕事帰りのサラリーマンで、店内はすでに賑わっていた。
瓶ビールが置かれ、グラスを合わせる。
乾いた音が鳴った。
「橘さんも、だいぶ仕事に慣れてきたな」
「いやあ、まだまだです」
「田中さん、いい女だよな」
「ちょっと抜けてるとこあるだろ、ああいうのがいいんだよ」
「……それ、今の時代だとアウトですよ」
「はは」
「お互い、好き同士なんだろ?」
「彼女に告白はしたのか?」
「……はい、ダメでした」
「絶対、橘君のこと好きだと思ったけどな」
「女心はわからんな」
「いや、あの子だからか!」
「かわいそうに」
「あれだけサポートしてるのにな」
「わかってくれるのは、課長だけです」
「一度振られたくらいで諦めるなよ」
「はい」
「でも、ストーカーみたいに思われるのも嫌で」
「そうだな。今の時代、すぐそうなるからな」
「よし、俺が上手く組ませてやるよ」
「営業、一緒に回れるようにしてやる」
「まだ脈は、あると思うぞ」
「ありがとうございます」
課長はビールを一口飲み、焼き鳥の串を皿に置いた。
「でもな、結婚はよく考えたほうがいいぞ」
少しだけ笑う。
「俺みたいになると、大変だ」
「……何かあったんですか?」
「別れて五年になる」
軽い調子で言うが、目は笑っていない。
「別れてもさ……金だけは、毎月きっちり飛んでいくんだ」
「……」
「養育費ってやつだ」
そして、すぐに肩をすくめる。
「まあ、自業自得だけどな」
少しだけ間があった。
「……だけど、最近パチンコ調子が良くてな」
「勝たないと、飯が質素になるからな」
「昨日も三万勝った」
グラスを持ち上げる。
「どんどん食べていいぞ」
「ここ、うまいだろ?」
「はい、鶏皮はパリパリ、つくねは自家製ですよね」
「とってもビールが進みます」
課長は、ようやくいつもの調子に戻った。
さっきより、よく笑っていた。
「……一人で食う飯は、まずくてな」
「だから最近、つい飲みに出ちまう」
⸻
少し酔いが回り、
話題が仕事の愚痴に流れた。
「本当は俺、一課にいきたかったんだ」
「部長になってりゃなぁ…」
「人生、だいぶ違ったんだけどな」
「でも、野崎のやろうが!」
「俺、本当はあいつの下につくはずだったんだ」
「あいつだけいい思いしやがって」
「野崎って、副社長ですか?」
「何かあったんですか?」
「ん、いかん、今のは聞かなかったことにしてくれ」
「あ、はい」
課長は、食べかけの焼き鳥を置き、
ふと、思い出したように言った。
「……そういえば橘君」
少し声を落とす。
「昨日の件、大変だったらしいな」
「倉橋専務から聞いた」
「テープ留めしてなかったんだろ?」
「いえ」
僕は首を振った。
「僕はしました」
「本当に?」
「はい」
「写真データも残っています。」
課長の表情が、わずかに硬くなる。
「でも倒れたボードには、留めたはずのテープはありませんでした」
僕は続けた。
「現場で専務は、自分が悪いと謝っていました」
「僕が話を蒸し返すと、言い訳がましくなるので言いませんでしたが、ボードの位置もテープ留めも変わっていました」
僕はそう言いながら、ふと思った。
あれは、わざと簡単に倒れるように誰かが細工したんだ。
誰が?
「対応も、すべて専務がやってくれて」
専務は気づいていた?
「結果的には、何もなかったようになっています」
何を隠した?
課長は、微妙な顔をした。
「……そうか」
「……」
「どうしても取引先の打ち合わせがあってな、対応できなかったんだ」
「会社に連絡したら、ちょうど専務がいて、引き受けてくれたんだ」
「もう今回の件は、報告無用で忘れてくれ」
――取引先。
あの時間帯に?
そして、児童館の駐車場。
スモークガラスの奥で、わずかに傾いた肩の線。
似ていただけかもしれない。
だが、課長の言葉は、その可能性を静かに押し上げた。
頭の中で、時刻と場所を並べる。
どうしても、噛み合わない。
専務が“ちょうど会社にいた”。
偶然にしては、出来すぎている。
胸の奥で、何かが繋がりかけた、その時――
課長は急に笑った。
「まあ、気にするな」
「昨日は運が良かっただけだ」
そう言って、財布をテーブルに放り出す。
少しだけ間があった。
グラスを持つ手が、ほんの一瞬だけ止まる。
「だから今日は俺の奢りだ」
「遠慮すんな」
僕は頷いた。
けれど、話の断片が頭の中で噛み合わないまま残っていた。
――事故。
――課長の不在。
――そして、臨時収入。
ビールが、急にぬるく感じた。
「……ありがとうございます」
そう答えながら、
僕は、笑顔を崩さないように気をつけた。
「倉橋専務ってどんな人ですか?」
「倉橋専務はな……正直、私もよく知らない」
少し間を置いて、声を落とす。
「ただ、すぐ怒るらしい」
「機嫌を損ねると面倒なことになる。橘君も、気をつけた方がいい」
「……合併後の人員整理に来た、って話もある」
その言い方は、
忠告というより、関わりを持たない方がいいという、刷り込みに近かった。
それ以上は、踏み込まなかった。
ちょうどその時、店員がテーブルの横を通る。
「すみません、瓶ビールもう一本お願いします」
グラスを空けると、課長は機嫌よく頷いた。
⸻
「最近、業績どうなんですかね」
「この先、僕が担当のスーパーアサヒとか、大丈夫なんですか?」
「あそこは大丈夫だ」
「元々、朝日川商事のグループだからな」
「名前も同じ“アサヒ”だろ」
少し声を落とす。
「……これは、まだ表じゃ言えない話だがな」
「そのうち、日山にまとめる予定らしい」
「それほど数字も悪くないし、
地元密着型で、まだ増やす計画みたいだ」
「あ、そうなんですね」
「もう昔の話だから、若い社員はあまり知らないがな」
「スーパーアサヒは、今は十一店舗だが、
まだ三店舗しかなかった頃がある」
焼き鳥を一本持ち上げる。
「とにかく、増え方が早かった。拡張路線だったんだよ」
課長は少しだけ遠い目をした。
「野崎副社長が、まだ統括マネージャーだった頃だ」
「私は、まだ新入社員だったな」
グラスを指で回しながら苦笑する。
「現場を回る人でな。倉庫にも、店にも、よく顔を出してた」
少し間を置いて、
「……あの人は、群を抜いてやり手だったな」
「その頃だったな、細川が入ってきた」
「細川課長ですか?」
「ああ。もともとはスーパーのアルバイトだ」
「品出しばかりしてたやつだよ」
課長は焼き鳥をつまみ、続きを思い出すように口を開いた。
「要領は良くないが、真面目でな」
「仕事は遅いが、頼んだことはこなしてくれた」
「それで社員に?」
「拡張路線の時に野崎が、現場の人間を引き上げた時期があってな」
「細川は、その時に社員になった口だ」
少し間を置き、ビールを飲む。
「……まあ、あいつは最初から野崎の側の人間だ」
「……そうなんですね」
「頼めば動くよ」
「俺の頼みも、だいたい断らん」
軽く言ったが、どこか含みがあった。
「野崎はそこから出世して、商品部部長になって」
「東南アジアからの輸入ルートを開拓したんだ」
課長は、ふと声を潜める。
「……その後、内部でゴタゴタがあってな」
「クーデターみたいな形で会社がひっくり返って、野崎が朝日川商事の社長になった」
「それで……?」
課長は少し声を落とした。
「その数年後だ」
「表向きは経営不振って話になった」
「でもな、裏金がどうとか、資金が消えたとか……」
「まあ、噂はいろいろあった」
「結局、会社は分割だ」
「食品部門は、身売りになった」
焼き鳥の脂が、皿に落ちる。
「朝日川食品、って名前に変わってな」
――繋がった。
「輸入ルートは、商事側がまだ持っているんですか?」
何気ないふりで聞く。
課長は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「……よく知ってるな」
「そこだけは、商事側が持ったままだ」
「東南アジア、ですよね」
一瞬の沈黙。
「……ああ」
課長はビールを一口飲み、
それ以上は語らなかった。
でも、それで十分だった。
薬。
密輸。
資金。
会社分割。
そして――
野崎副社長。
(やっぱり、ただの噂じゃない)
ビールが、急に苦く感じた。
店内はさらに騒がしくなっていた。
笑い声も、皿の音も、焼き鳥の匂いも変わらない。
課長が、空いたグラスを持ち上げる。
「橘、もう一本いくか」
僕は手を挙げた。
「すみません、ビール一本お願いします」
「はい」
⸻
「お待たせしました」
店員が瓶を置き、課長のグラスにビールを注ぐ。
泡がゆっくりと縁まで上がった。
僕も、同じようにグラスを持ち上げた。
軽く触れた。
小さな音が鳴る。
「乾杯」
その音が、合図のように響いた。
店は何も変わっていないのに、
自分だけが、違う場所に立っている気がした。
何もなければ、きっと抱きしめていた。
そう思ってしまった時点で、もう手遅れだった。




