表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Scrambled Egg  作者: 読まれる前提
《たまごの殻》

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/28

9章. 《乾杯のあと》

グラスの音は、どこにでもあるただの音だ。

けれど、その夜の乾杯だけは違った。

僕の中で、何かが静かに動き出した。

ハンドルを握ったまま、莉花が一度も僕を見なかった。


機嫌でも悪いのか?


信号が変わっても、交差点を曲がっても、沈黙が続いていた。


今日は、そんな日じゃないな。


僕も、流れていく街をぼんやり眺めていた。


でも違った。


「悠輝、なんか機嫌悪い?」

何かきっかけを待っていたようだ。


「ぜんぜん、そんなことないよ」


莉花はほっとして口角を上げる。


「よかった」


二人きりになると、莉花は妙に気を遣う。


信号が変わるたび、ちらっとこちらを見るのに、目が合うとすぐ前を向いてしまう。


「寒くない?」


「大丈夫」


少しして、また聞く。


「眠くない?」


「平気」


短く答えると、また視線が来る。

そして目が合うと、慌てて前を見る。


……ああ、そういうことか。


僕が素っ気なくすると、余計に気にしてくる。


分かってから、わざと窓の外を見ることにした。


案の定、


「……ほんとに大丈夫?」


声はさっきより小さい。


運転中なのに、こっちの様子ばかり気にしている。

思わず口元が緩む。


空調の効いた車内で、エンジン音だけが小さく響いている。

四十分ほどの道のりのはずなのに、沈黙が妙に長い。


交差点の手前で、莉花がほんの少しだけ窓を開けた。


窓から入った外気に、莉花の髪がわずかに揺れる。

ふと甘い匂いがした。

香水じゃない。


――莉花の香り。


思わず引き寄せられる感じに、視線を逸らすのが少し遅れた。


その瞬間、小さな虫が車内に入り込んだ。


「あ……」


莉花が肩をすくめる。

ハンドルを握ったまま動けない。


僕は身を乗り出し、そっと手を伸ばした。

潰さないよう包み込み、窓を開け外へ逃がす。


窓を閉めて振り向くと、莉花は驚いた顔をしていた。


「虫、苦手だから……」


僕は、そっと莉花の頭に手を乗せる。


「大丈夫」


肩の力が、少し抜けたのが分かった。


「可愛いね」

思わず言ってしまった。


莉花の顔が一気に赤くなる。


ほんの一瞬、時間が止まった。


「――今日も、かっこいい」


「え?」


「な、なんでもない」


信号が青に変わり、車がゆっくり走り出す。

それからしばらく、二人とも何も言わなかった。



会社の近くまで来たところで、莉花はスマホを取り出した。


「今日、体調不良で休むって連絡入れるね」


それだけ言って路肩に車を止め、電話をかける。

声の調子は、いつも通りの莉花だった。


電話を切ると、莉花はそのままハンドルを切った。


会社のすぐそばは避け、

人目につかない場所で車を止める。


一瞬、沈黙。


その隙間を埋めるように、

僕は莉花の肩に手を伸ばし、そっと引き寄せた。


短いキスだった。

言葉にしなくても、互いに通じている。


「……大丈夫」


小さくそう言った。


莉花は一瞬だけ目を閉じ、

それから澄んだやる気を帯びた表情に戻った。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


それだけで、十分だった。


莉花は対策室へ向かう途中で、紗希を拾う予定だ。



会社の周りは、昨日と何も変わらない。

同じビル、同じ看板。


けれど、自分だけがほんの少し違う場所に立っている気がした。


――使命、なんて言葉は大げさだ。

それでも、何も知らなかった側には、もう戻りたくない。


莉花のために、真実を掴む。

誰が、何を隠しているのか。


会社に入ると、案の定、課長が僕を呼び止めた。


「橘さん、昨日はご苦労さま」


「いえ」


コピー機の音が必要以上に耳に残る。

誰かが笑っているだけで、胸の奥がざわついた。

昨日までなら、気にも留めなかったのに。


「田中さん、今日は体調不良でお休みだってさ。昨日の様子、どうだった?」


一瞬だけ言葉を選ぶ。


「特に変わりはありませんでした」


課長はにやりと笑う。


「若い美男美女だからさ。仕事早く終わって、どこか行ったんじゃないの?」


――来た。


「課長、今そういうこと聞くとセクハラになりますよ」


冗談めかして言うと、課長は一瞬きょとんとしてから笑った。


「おっと、そうか。悪い悪い」


僕も少しだけ笑いながら、相手との距離を測る。


「あ、でも……課長になら、話してもいいかな」


そう付け加えると、課長の目が探るような色に変わった。


「橘さん、今日は忙しいかな?」


「いえ、特には」


「じゃあ、たまには飲みに行かないか? 臨時収入もあったし、奢るよ」


「パチンコでも勝ったんですか?」


「まあ、そんなところだ」


「はい、ぜひお供します」


課長は満足そうに頷き、デスクへ戻っていった。


――釣れた。


胸の奥に、静かな熱が灯る。


昨日までの自分なら、ただの飲みの誘いだと断っていただろう。

でも、今日は違う。


僕はもう、何も知らないふりをして笑っている側じゃない。


少しでも、力になりたい。


野崎副社長の過去。

課長の嘘。

サラマンダーと細川課長の関係。

そして――倉橋専務。


自分から、踏み込んでみる。


でもやり過ぎは警戒される。


全部は無理だ。


だから、掴めるところからでいい。



仕事を終え、指定された時間に会社を出る。


課長の行きつけだという居酒屋は、駅から少し外れた雑居ビルの一階にあった。


暖簾をくぐると、一気に別の空気に包まれる。


「いらっしゃい!」


威勢のいい声。

炭の匂い。

カウンターでは焼き鳥が音を立てて焼かれている。


仕事帰りのサラリーマンで、店内はすでに賑わっていた。


瓶ビールが置かれ、グラスを合わせる。

乾いた音が鳴った。


「橘さんも、だいぶ仕事に慣れてきたな」


「いやあ、まだまだです」


「田中さん、いい女だよな」

「ちょっと抜けてるとこあるだろ、ああいうのがいいんだよ」


「……それ、今の時代だとアウトですよ」


「はは」


「お互い、好き同士なんだろ?」


「彼女に告白はしたのか?」


「……はい、ダメでした」


「絶対、橘君のこと好きだと思ったけどな」


「女心はわからんな」

「いや、あの子だからか!」


「かわいそうに」

「あれだけサポートしてるのにな」


「わかってくれるのは、課長だけです」


「一度振られたくらいで諦めるなよ」


「はい」


「でも、ストーカーみたいに思われるのも嫌で」


「そうだな。今の時代、すぐそうなるからな」


「よし、俺が上手く組ませてやるよ」

「営業、一緒に回れるようにしてやる」


「まだ脈は、あると思うぞ」


「ありがとうございます」


課長はビールを一口飲み、焼き鳥の串を皿に置いた。


「でもな、結婚はよく考えたほうがいいぞ」


少しだけ笑う。


「俺みたいになると、大変だ」


「……何かあったんですか?」


「別れて五年になる」


軽い調子で言うが、目は笑っていない。


「別れてもさ……金だけは、毎月きっちり飛んでいくんだ」


「……」


「養育費ってやつだ」


そして、すぐに肩をすくめる。


「まあ、自業自得だけどな」


少しだけ間があった。


「……だけど、最近パチンコ調子が良くてな」


「勝たないと、飯が質素になるからな」


「昨日も三万勝った」


グラスを持ち上げる。


「どんどん食べていいぞ」


「ここ、うまいだろ?」


「はい、鶏皮はパリパリ、つくねは自家製ですよね」

「とってもビールが進みます」


課長は、ようやくいつもの調子に戻った。

さっきより、よく笑っていた。


「……一人で食う飯は、まずくてな」


「だから最近、つい飲みに出ちまう」



少し酔いが回り、

話題が仕事の愚痴に流れた。


「本当は俺、一課にいきたかったんだ」


「部長になってりゃなぁ…」

「人生、だいぶ違ったんだけどな」


「でも、野崎のやろうが!」


「俺、本当はあいつの下につくはずだったんだ」


「あいつだけいい思いしやがって」


「野崎って、副社長ですか?」

「何かあったんですか?」


「ん、いかん、今のは聞かなかったことにしてくれ」


「あ、はい」


課長は、食べかけの焼き鳥を置き、

ふと、思い出したように言った。


「……そういえば橘君」


少し声を落とす。


「昨日の件、大変だったらしいな」

「倉橋専務から聞いた」


「テープ留めしてなかったんだろ?」


「いえ」

僕は首を振った。

「僕はしました」


「本当に?」


「はい」

「写真データも残っています。」


課長の表情が、わずかに硬くなる。


「でも倒れたボードには、留めたはずのテープはありませんでした」


僕は続けた。

「現場で専務は、自分が悪いと謝っていました」


「僕が話を蒸し返すと、言い訳がましくなるので言いませんでしたが、ボードの位置もテープ留めも変わっていました」


僕はそう言いながら、ふと思った。

あれは、わざと簡単に倒れるように誰かが細工したんだ。


誰が?


「対応も、すべて専務がやってくれて」


専務は気づいていた?


「結果的には、何もなかったようになっています」


何を隠した?


課長は、微妙な顔をした。

「……そうか」


「……」


「どうしても取引先の打ち合わせがあってな、対応できなかったんだ」


「会社に連絡したら、ちょうど専務がいて、引き受けてくれたんだ」


「もう今回の件は、報告無用で忘れてくれ」


――取引先。


あの時間帯に?


そして、児童館の駐車場。

スモークガラスの奥で、わずかに傾いた肩の線。


似ていただけかもしれない。

だが、課長の言葉は、その可能性を静かに押し上げた。


頭の中で、時刻と場所を並べる。

どうしても、噛み合わない。


専務が“ちょうど会社にいた”。


偶然にしては、出来すぎている。


胸の奥で、何かが繋がりかけた、その時――


課長は急に笑った。


「まあ、気にするな」


「昨日は運が良かっただけだ」


そう言って、財布をテーブルに放り出す。


少しだけ間があった。


グラスを持つ手が、ほんの一瞬だけ止まる。


「だから今日は俺の奢りだ」


「遠慮すんな」


僕は頷いた。

けれど、話の断片が頭の中で噛み合わないまま残っていた。


――事故。


――課長の不在。


――そして、臨時収入。


ビールが、急にぬるく感じた。


「……ありがとうございます」


そう答えながら、

僕は、笑顔を崩さないように気をつけた。


「倉橋専務ってどんな人ですか?」


「倉橋専務はな……正直、私もよく知らない」


少し間を置いて、声を落とす。


「ただ、すぐ怒るらしい」


「機嫌を損ねると面倒なことになる。橘君も、気をつけた方がいい」


「……合併後の人員整理に来た、って話もある」


その言い方は、

忠告というより、関わりを持たない方がいいという、刷り込みに近かった。


それ以上は、踏み込まなかった。


ちょうどその時、店員がテーブルの横を通る。


「すみません、瓶ビールもう一本お願いします」


グラスを空けると、課長は機嫌よく頷いた。



「最近、業績どうなんですかね」


「この先、僕が担当のスーパーアサヒとか、大丈夫なんですか?」


「あそこは大丈夫だ」

「元々、朝日川商事のグループだからな」


「名前も同じ“アサヒ”だろ」


少し声を落とす。


「……これは、まだ表じゃ言えない話だがな」

「そのうち、日山にまとめる予定らしい」


「それほど数字も悪くないし、

地元密着型で、まだ増やす計画みたいだ」


「あ、そうなんですね」


「もう昔の話だから、若い社員はあまり知らないがな」


「スーパーアサヒは、今は十一店舗だが、

まだ三店舗しかなかった頃がある」


焼き鳥を一本持ち上げる。


「とにかく、増え方が早かった。拡張路線だったんだよ」


課長は少しだけ遠い目をした。


「野崎副社長が、まだ統括マネージャーだった頃だ」

「私は、まだ新入社員だったな」


グラスを指で回しながら苦笑する。


「現場を回る人でな。倉庫にも、店にも、よく顔を出してた」


少し間を置いて、


「……あの人は、群を抜いてやり手だったな」


「その頃だったな、細川が入ってきた」


「細川課長ですか?」


「ああ。もともとはスーパーのアルバイトだ」

「品出しばかりしてたやつだよ」


課長は焼き鳥をつまみ、続きを思い出すように口を開いた。


「要領は良くないが、真面目でな」

「仕事は遅いが、頼んだことはこなしてくれた」


「それで社員に?」


「拡張路線の時に野崎が、現場の人間を引き上げた時期があってな」

「細川は、その時に社員になった口だ」


少し間を置き、ビールを飲む。


「……まあ、あいつは最初から野崎の側の人間だ」


「……そうなんですね」


「頼めば動くよ」

「俺の頼みも、だいたい断らん」


軽く言ったが、どこか含みがあった。


「野崎はそこから出世して、商品部部長になって」

「東南アジアからの輸入ルートを開拓したんだ」


課長は、ふと声を潜める。


「……その後、内部でゴタゴタがあってな」

「クーデターみたいな形で会社がひっくり返って、野崎が朝日川商事の社長になった」


「それで……?」


課長は少し声を落とした。


「その数年後だ」

「表向きは経営不振って話になった」


「でもな、裏金がどうとか、資金が消えたとか……」


「まあ、噂はいろいろあった」


「結局、会社は分割だ」

「食品部門は、身売りになった」


焼き鳥の脂が、皿に落ちる。


「朝日川食品、って名前に変わってな」


――繋がった。


「輸入ルートは、商事側がまだ持っているんですか?」

何気ないふりで聞く。


課長は、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「……よく知ってるな」

「そこだけは、商事側が持ったままだ」


「東南アジア、ですよね」


一瞬の沈黙。


「……ああ」


課長はビールを一口飲み、

それ以上は語らなかった。


でも、それで十分だった。


薬。

密輸。

資金。

会社分割。


そして――

野崎副社長。


(やっぱり、ただの噂じゃない)


ビールが、急に苦く感じた。


店内はさらに騒がしくなっていた。

笑い声も、皿の音も、焼き鳥の匂いも変わらない。


課長が、空いたグラスを持ち上げる。


「橘、もう一本いくか」


僕は手を挙げた。


「すみません、ビール一本お願いします」


「はい」



「お待たせしました」


店員が瓶を置き、課長のグラスにビールを注ぐ。

泡がゆっくりと縁まで上がった。


僕も、同じようにグラスを持ち上げた。


軽く触れた。

小さな音が鳴る。


「乾杯」


その音が、合図のように響いた。


店は何も変わっていないのに、

自分だけが、違う場所に立っている気がした。

何もなければ、きっと抱きしめていた。

そう思ってしまった時点で、もう手遅れだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ