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Scrambled Egg  作者: 読まれる前提
《たまごの殻》

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8章.《始動》

あの日から、日常は変わらなかった。

会社も街も、昨日と同じように動いている。


——変わったのは、僕だけだ。


見なければ済んだ。

知らなければ関係なかった。


でも、知ってしまった。

8章.《始動》


海からの帰り道。


車内には、莉花の好きな洋楽が静かに流れていた。

Lana Del Rey「Young & Beautiful」。


穏やかなメロディが、夕焼け色の海に溶けていく。


窓の外では、水平線がゆっくりと夜に溶けていく。

さっきまで波の音が聞こえていたのに、

ガラス一枚隔てただけで、別の世界のようだった。


助手席の莉花は、何も言わない。

繋いだ手の温もりだけが残っている。


信号で車が止まる。


そのとき、気づいた。

さっきまで笑っていたはずの横顔が、

いつの間にか、考え込むように静かになっている。


同じ莉花のはずなのに、

海で見ていた彼女とは、どこか違う。


信号が青に変わった。


その瞬間だった。


莉花が言った。


「今から作戦会議しよう」



僕は思わず「えっ」と声を漏らした。


ずっと握られた手の指は、お互いをなでるようにやさしく、動いていた。


せっかく海でいい感じになって、

今日は、お決まりのデートコースに、進むものだと期待していたのに。


莉花はキスで満足してしまったのか、

その横顔には、もう微塵の隙もない。


莉花は、かさなりあった手から、するりと抜け出して電話をかけた。


「今から三十分後、『HAVEN』に集合」


さらにもう一度、電話をかけた。

「今日は貸切で」


「……なんか強引ですね」


莉花は平然と答える。

「普通の時は、こんな感じだよ」

「あっ、悠輝に対しては普通じゃなかったかも。

でも、目的ができてから少し変わったかな」


車の窓の外では、

夕方の名残を引きずった空のオレンジ色が、

いつの間にか、群青に溶け始めていた。


僕の期待していた「続き」は、

どうやら、別の方向へ走り出したらしい。


———


『HAVEN』に到着した車の中で。


エンジンを切ると、車内が急に静かになった。

さっきまで流れていた音楽も止まり、残ったのはお互いの呼吸だけだった。


フロントガラスの向こうでは、地下へ続く階段の灯りが淡く光っている。

降りれば、もう“いつもの場所”に戻る。


それなのに、どちらもドアに手をかけなかった。


さっきまで繋いでいた手が、

名残のように、まだ触れたまま離れない。


莉花は窓の外を見たまま、小さく息を吐く。


少しだけこちらを向いた。


「悠輝、もう一度……キスして」


僕は一瞬だけためらった。

ここでキスをしたら、きっとまた何かが変わってしまう気がしたからだ。


それでも、離れる理由にはならなかった。


ゆっくりと顔を近づける。


触れた唇は、驚くほど柔らかかった。

深く重ねるわけでもない、

ただ確かめ合うような、静かなキスだった。


離れたあとも、莉花は目を閉じたまま動かなかった。


数秒遅れて、そっと目を開く。


その瞳には、さっき海で見せた無邪気な笑顔とは違う、

どこか決意のような光が宿っていた。


「……ありがとう」


小さくそう言ってから、

莉花は先にドアに手をかける。


ドアが開いた瞬間、

地下から漏れる店の灯りと、かすかな話し声が入り込んできた。


――現実が、戻ってきた。


僕も続いて車を降りる。


さっきまで確かにあったはずの静かな時間は、

もうどこにもなかった。


中に入ると、紗希はすでに来ていた。

「そんなに暇でもないんだよ」


「まあ、とりあえず、話だけは聞くわ」


莉花が言う。


「ここにいる人は、私の大切な仲間」

「だから、手伝って!」


「今から作戦会議をしたい」


紗希は莉花の顔をじっと見てから、にやりと笑った。


「ちょっと待って。莉花、なんか顔変わった?」

「もしかして……やっちゃった?」


からかうような顔で、

莉花と僕を交互に見る。


僕は思わず言った。


「やってません」


莉花の顔が真っ赤になる。


「ほ、本当に、まだキスしかしてない……」


声がだんだん小さくなっていく。


紗希が大きな声で笑った。


莉花は不満そうに言う。


「もう、真面目に聞いて」


紗希は軽く手を振る。


「はい、はい」


莉花は表情を引き締めた。


「明日、紗希は日山商事本社にある

日山HD特別対策室に一緒に来て」


紗希が眉を上げる。


「何か調べるの?」


莉花は淡々と続ける。


「あそこのパソコンから、グループ会社全てにアクセスできるの」


「必要な情報がある。ただ、パスワードやブロックがかかっていると思う」


「紗希にしかできない」

「あなた、自分のこと超有名なハッカー

『Mirror』だって言ってたでしょ!」

紗希は小さく息を吐いた。

「なんか、やばそうだな」

と言いながら、少し嫌そうな顔をした。


「ハッキングできるんですか?」

亮平が聞いた。


紗希は肩をすくめる。


「私を誰だと思ってるの?」

「MIT首席卒のシステムエンジニアだよ」


僕は驚いて思わず口を挟んだ。

「アメリカに行ってたのって、留学なんですか?」


「しかもMITって、マサチューセッツ工科大学ですよね」


「……なんで、こんな所に?」


莉花が即答する。


「ただの機械オタクだ」


間を置かずに、指示を続けた。


「悠輝は、野崎副社長のことを課長から聞き出してほしい」


「おそらく、課長は私のことを深くは知らないと思う」


僕は思い出す。


「そういえば、莉花さんのこと、大口顧客の縁故採用だと思ってるみたいで……

面倒を見てくれ、みたいなことを言われました」


莉花はうなずいた。


「生理休暇を取ることにして、私はしばらく表に出ない」


「紗希と対策室で戦略を立てるから、その間に飲みに誘えば、色々聞けると思う」

「あくまでも私のことは内密にして」


「了解です」


「亮平には、サラマンダーのことを詳しく探ってもらう」


「おそらく、犯罪の実行犯」

「スーパーアサヒの細川課長と繋がっていると思う」


僕は確認するように言った。


「やはり、期限切れ食品の横流しだけではないんですね」


莉花は静かにうなずく。


「最近流行ってる麻薬、あれは半グレが流してる」

「出所は日山食品。誰かが裏で糸を引いてる」


莉花の口調は淡々としていたが、その内容は、僕の想像していた「作戦会議」から、明らかに逸脱していた。



「待って!」

紗希は慌てて言う。

「まだ私、やるって言ってないよ!」


「俺も正直、荒木には会いたくないな」

亮平の空を見る目に翳りがあった。


紗希

「こんなことすれば、必ず莉花も傷つく」

「……相手が、ただの半グレじゃないなら、なおさら」


莉花

「紗希しかいないの」

「お願い」


「私の所にすでに告発文が届いてる」


「このままいけば日山食品は、潰れる」


「本当にいいの?」

「もしかしたら自分のお父さんと、戦うはめになるかも」


紗希

「覚悟はあるの?」


「自分の父親が麻薬ルートの黒幕なら私が潰す」


「……」


「それならそれでいい!」


「私は日山のてっぺんに立つ」


「今、信用できるのはこのメンバーだけだ」


「私に力を貸してください」


「わかった」

紗希はあまり乗り気ではないようだ。


紗希も亮平も顔から笑みが消えていた。


「みんな時間のある時は、うちの道場にきて、千堂さんに指導してもらうから」


「最低限の攻撃と護身術を身につけて欲しい」


「俺は大丈夫っす」

「私も〜」

亮平と紗希が軽口で言った。


「だめだ、絶対に鈍ってる」


「最後の最後に役に立つのは、力だ」

「もちろん私も参加する」


僕は、もう後戻りはできないと悟った。


「今日はこれで解散」


「また連絡入れるから」


僕たちは席を立ち、店を出た。


扉が閉まる音だけが、後ろに残った。


外へ続く階段を上がる。


一段、また一段。


足が、さっきより重い気がした。


疲れているわけじゃない。

けれど、足に何かがまとわりついたように、重かった。


前を歩く莉花は振り返らない。

紗希も、何も言わない。


———


「悠輝、家まで送るよ」


車で僕の家に向かった。


夜の道は空いていた。

ヘッドライトに照らされたアスファルトだけが、前へ前へと流れていく。


窓の外には、まばらな街の明かり。

閉まった店の看板や、自販機の白い光が通り過ぎていった。


細い月が、街の屋根の上に寄り添うように浮かんでいる。


車内は静かだった。


莉花が少しだけ照れたように言った。


「……お母さんに挨拶していい?」


海で見た、あの可愛い表情に戻っていた。


僕は、莉花のモード切り替えの凄さに本当に驚く。


家の近くのコインパーキングに車を止めて、家まで歩き出した。


空はすでに真っ暗で街灯がまばらに光っている。


僕は玄関のドアを開ける。

「ただいま」


少し遅れて、莉花も後ろからついてくる。


母が台所から顔を出した――その後ろから、もう一人顔をのぞかせた。


「……え、誰?」

妹の由衣だった。


母が言う。

「悠輝、遅かったね。昨日はどこに泊まったの?」

「LINEも見てないでしょ」


由衣の視線は、完全に莉花に固定されていた。

頭の先から足元まで、じっと観察している。


母も、ようやく僕の後ろに気づく。


「あら……こちらのお嬢さんは?」


隠すことでもないので、僕は正直に答えた。


「会社の同僚で……彼女だよ」


一拍。


「……マジ?」


小さく呟いたのは由衣だった。


母は目を丸くする。

「悠輝が彼女を連れてくるなんて、初めてよ」

「さあ、狭い家だけど、上がってちょうだい」


莉花は小さく頭を下げる。

「お邪魔します」


靴を揃えて上がった瞬間、

家の中の空気がふっと柔らいだ。


由衣はすぐに距離を詰めてきた。


「お兄ちゃん、会社でこんな人と働いてたの?」


「“こんな人”ってなんだよ」


「だって思ってたのと違う」


莉花が少しだけ困ったように笑う。

「どう違いました?」


「会社って、

おばちゃんばっかりだと思ってた」


僕は思わず言い返す。

「余計なお世話だ」


由衣は気にせず、さらに観察を続ける。

「年上ですよね?」


「うん」


「へぇ……」


納得したように頷いたあと、ぽつりと言う。


「……お兄ちゃん、自分からは絶対いけないタイプだし」


「由衣」


母がたしなめるが、もう遅い。


莉花がくすっと笑った。

「当たりです」


僕は何も言えなかった。


「それより、ご飯は食べた?」


莉花は一瞬だけ僕を見る。

少し迷ったようにしてから、小さく首を振った。


「まだです」


「じゃあちょうどいいわ。すぐ出来るから、手洗ってきて」


母はもう“お客さん”ではなく、家族に向ける調子で言った。


返事を待たず、台所で鍋の蓋を開ける音がする。

味噌汁の匂いが廊下まで広がってきた。


由衣が小声で僕に囁く。

「ねえ、本当に彼女?」


「だからそうだって」


「……へぇ」


納得していない顔のまま、莉花のほうへ向き直る。


「こっちです。洗面所」


莉花は「ありがとう」と小さく言って、後についていく。


洗面台の蛇口をひねる水の音。

タオルを取る小さな物音。

台所からは包丁の規則的なリズムが聞こえてくる。


そのどれもが、特別なことじゃないはずなのに、

なぜか家の中が少しだけ明るくなった気がした。


戻ってきた莉花は、さっきより肩の力が抜けていた。


洗面所入口の柱の前で、由衣が立ち止まった。


「これ、うちの記録」


柱には、細い線がいくつも刻まれていた。

マジックで書かれた日付と、名前。


『小1 悠輝』

『中2 悠輝』

『由衣 10歳』


少し上のほうには、背伸びしたような歪んだ線も混じっている。


「毎年、誕生日に測ってたんです」


僕は思わず言う。

「やめろよ、恥ずかしいだろ」


由衣が笑う。

「昔、お兄ちゃん、かかと浮かせてたもんね」


「浮かせてない」


莉花は、何も言わなかった。


ただ、指先で柱の線にそっと触れた。


その仕草だけが、妙に丁寧だった。


少しだけ目線を上げる。

線の一番高いところまで、ゆっくりと辿る。


莉花はすぐに手を離した。

まるで、触れてはいけない物に触れてしまったように。


その柱の横には、二階へ続く階段がある。


手すりの角は少し丸くなり、踏み板の中央だけが薄く色を落としている。


長い年月、人が上り下りしてきた跡だった。


莉花はしばらく階段を見上げていた。


「僕の部屋二階なんです」

「ご飯食べた後で行きます?」


「うん」


食卓に入る。


「莉花ちょっとだけ待ってて」


僕は慌てて二階に上がり、脱ぎ散らかした服や、見られたくない物を押し入れに詰め込んだ。


何もないように戻ったが、額は汗ばんでいた。


莉花

「どうしたの?」

「なんでもない」


母が僕に向かって言う。

「今度来る時は、前もって教えてよ。お母さんが腕によりをかけて、ご馳走作るから」


「ご馳走って……記憶にないけど」

妹がくすっと笑う。


「少し待っててね」


奥の部屋から出てきた父が、莉花に声をかけた。


「こんばんは」

「悠輝の父です」


「こんばんは」

「藤堂莉花と言います。

いつも悠輝君にはお世話になっています」


「いいよ、いいよ、堅苦しい挨拶は抜きで」


「こんなに素敵な、お嬢さんがうちにきてくれたんだ。くつろいでください」


「莉花さん、会社での悠輝はどうですか」


「頑張っています。とても優秀で、もう悠輝君のほうが先輩みたいです」


父は嬉しそうにうなずく。


「学生時代には、コロナもあって、あまり人付き合いのできない子だった」


僕のほうを見て、


「莉花さんを、泣かせてはだめだぞ」


「わかってる」


高二の妹も、


「泣かせてはだめだぞ-」


とおちょくって言う。


「うるさい」


僕が言い返すと、


「お姉ちゃんって呼んでもいいですか?」


由衣が目を輝かせる。


「本当? 嬉しい」


「由衣ちゃん、かわいいね〜」

「今度お姉ちゃんとお買い物行こう」


「由衣ちゃんの欲しい物、買ってあげる」


「うん」


「さあ、ご飯にしましょう。由衣、運ぶの手伝って」


「はーい」


食卓には、卵焼き、もやしとハムの炒め物、お味噌汁、ご飯、お父さん用に焼きししゃもが並んだ。


「お父さん、ビールお注ぎしましょうか」

莉花がそう言うと、


「いやあ、ありがとう、ありがとう」


父はすっかり上機嫌だ。


「お母さんはどうですか?」


「じゃあ、私も一杯だけ」


グラスを合わせる音が、小さく響く。


しばらくは料理の話や会社の話で、賑やかな時間が流れたあと、

莉花がふと、箸を止めて言った。


「私、母がいないんです。生まれてすぐに病気で亡くなって」


「……お母さんって、呼んでもいいですか?」


一瞬、食卓が静かになる。


母は驚いたように目を瞬かせてから、すぐに優しく微笑んだ。


「……いいに決まってるじゃない」


そうして、莉花の手をそっと包む。


その光景を見て、僕は、何も言えなくなった。


母はそう言うと、照れ隠しのように笑った。


「でも、急にそんな話されたら、こっちも胸がいっぱいになっちゃうわね」


莉花は目を潤ませながら、


「ありがとうございます……お母さん」


と、少し小さな声で呼んだ。


父は咳払いをひとつしてから、穏やかに言う。


「今日はもう遅いし、無理して帰らなくていい」


「客間も空いてるから、泊まっていきなさい」


「えっ……いいんですか?」


莉花が慌てて僕を見る。


「いいに決まってるだろ」


父はそう言って、僕のほうをちらりと見てから、


「悠輝の部屋とは別だからな」


と、念押しする。

「わかってるよ」


「ちぇー」

由衣がつまらなさそうに言うと、母が軽くたしなめた。

「由衣」


「冗談だってば」


そんなやり取りに、食卓はまた笑いに包まれる。


「じゃあ、私は食器片付けて、お風呂の準備してくるわね」


母が立ち上がると、莉花が慌てて立った。


「私も手伝います」


「いいのよ、今日はお客さんなんだから」


「いえ、ぜひ」


二人が並んで台所に立つ後ろ姿を見ながら、

父が小さな声で僕に言った。


「いい人を見つけたな」


「……うん」


「大事にしろよ」


「わかってる」


短いやり取りだったけど、

その言葉は、しっかりと胸に残った。


食卓にもどると、

莉花は、小声で僕に言った。

「私、着替えを持ってきてなくて……」


「コンビニで下着、買いに行きたいんだけど」


僕は一瞬ためらってから、短く答える。


「……ついてくよ」


「うん」


莉花はそれだけ言って、ほっとしたように微笑んだ。


二人は、声を抑えたまま玄関へ向かった。


夜の空気は、昼間より少しだけ冷えていた。


玄関を出ると、近所はもう音もなく、聞こえるのは足音と、遠くを走る車の音だけだ。


「静かだね」


莉花が、小さな声で言う。


「この時間、うちの周りはこんなもん」


並んで歩いているはずなのに、肩と肩の距離が妙に近い。

さっきまで家族に囲まれていたせいか、

二人きりになると、急に意識してしまう。


「……さっきのお母さん、優しかったね」


「うん。ちょっとびっくりした」


「うれしかった」


そう言って、莉花は夜道の先を見つめたまま、にこっと笑う。


僕が

「……下着ってさ」

言い出して、莉花は思わず足を止めた。


「な、なに、どんなの想像した?」


「してない!」

即答だった。


「今、したでしょ」


「してないって!」


「コンビニに売ってるの?」


「そっちか」


莉花は楽しそうに笑って、半歩だけ前に出る。


「じゃあ、悠輝は店の外で待っててね」


「なんで?」


「コンビニの下着って地味過ぎて恥ずかしい」


莉花は中に入っていった。


離れるのは数分のはずなのに、

やけに長く感じる。


コンビニのドアが空き、莉花は袋を胸に抱えながら、少し照れたように笑う。


「買えた?」


「うん。ありがとう、付き合ってくれて」


並んで歩き出した。


「……寒いね」


「そうだな」


そう言いながら、莉花の指先が、そっと僕の手に触れる。


触れただけなのに、すぐに離れる気配はない。

僕は耐えられず手を握ったが、莉花は逆にするりと手を返し、指を絡めてきた。

莉花の手は思っていたよりも温かかった。


二人で小さく笑い合いながら、歩幅を合わせる。


角を曲がると、ちょうど街灯の影が濃くなる場所に出た。

家まで、あと少し。


「ねえ」


莉花が足を止める。


「どうした?」


「……ここなら、見えないよね」

莉花は一度、家のほうを振り返ってから言った。


そう言って、塀の影に一歩だけ引き込む。


「莉花?」


返事をするより早く、

彼女はつま先立ちになって、僕の胸元を軽く掴んだ。


唇が、ほんの一瞬だけ触れる。


莉花はいたずらっぽく笑う。


再び手をつなぎ、何事もなかったかのように歩き出す。


唇に残る温度と、胸の鼓動だけは、

どうしても誤魔化せなかった。


家の明かりが、もうすぐそこに見えていた。


莉花は手を、少しだけ強く握り返してきた。


———


階下の賑やかな声で、僕は目を覚ました。


昨夜のこと――

食卓の笑い声と、夜道でつないだ手の温度を思い出した。


階段を降りると、もう皆そろっていた。


莉花は客間から出てきて、少しだけ緊張した様子で座る。


妹のピンクのスエットを、借りたようだが、莉花には少し小さそうだ。


それがまた、妙に似合っていた。


「おはようございます」


「おはよう」


「おはよう、悠輝」


視線が合うと、すぐに逸らされる。


――昨夜のキスは、ちゃんと覚えているらしい。


「おはよう。よく眠れた?」


「はい……とても」


そう答えながら、ちらっと僕を見る。


母が振り返り、いつもと同じ声で言う。


「莉花さん、朝はパンとご飯、どっちがいい?」


「ご飯がいいです」


「了解」


そのやり取りが、妙に自然で、胸の奥がくすぐったくなる。


食卓には、焼き鮭、卵焼き、ほうれん草のおひたし、味噌汁。

いつもより少し手の込んだ朝ごはんだった。


「莉花さん」


父が箸を持ったまま、穏やかに声をかける。


「今日は仕事?」


「はい、仕事です」


「そうか」


父は一度うなずいてから、何でもないことのように続けた。


「悠輝も、今日は早めに出るんだろ」


「うん」


由衣がにやにやしながら言う。


「お姉ちゃん、今日も泊まればいいのに」


「由衣」

母が即座にたしなめる。


「冗談、冗談!」


そう言いながらも、由衣は楽しそうだった。


食事が一段落したころ、

母が急須を置きながら、ぽつりと言った。


「莉花さん」


「はい」


莉花は、少し背筋を伸ばす。


「ここに来たい時は、いつでも来ていいから」


「……ありがとうございます」


その声は小さかったけれど、はっきりしていた。


食後、玄関で靴を履く。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


母と由衣の声が重なる。


外に出ると、朝の光がやけに眩しかった。


莉花は、僕の隣に立って、少しだけ声を落とす。


「ねえ」


「なに」


「昨日の続き……」


一瞬、胸が跳ねる。


「夜の続きじゃないよ」


そう言って、彼女は微笑んだ。


「戦争の続き」


その言葉で、身が引き締まった。


「今日から、忙しくなるから」


「……うん」


家を離れ、車に向かって歩き出す。


ただ一つ、亮平と紗希の目が気になっていた。


二人とも、何かを隠したまま頷いたように見えた。

納得している顔じゃない。

それでも、莉花の言葉を断れなかった――そんな目だった。


振り返ると、二階の開いた窓に朝の光が差し込み、カーテンが、静かに揺れている。

台所からは由依と母の笑い声が聞こえてきた。


不思議と心が軽かった。


僕は、もう歩き出しているのだから。



本当は、こんな展開になるはずじゃなかった。


ただの休日で、

ただのデートで、

ただ、少し距離が縮まる――それだけのはずだったのに。


気づけば、事件の中にいて、

しかも隣には、いちばん危ない人がいる。


それでも――


少しだけ、楽しいと思ってしまったのは、

きっと僕のせいだ。

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