7章.《初デート》
好きになること自体に、罪はない。
ただ、守りたいと思ってしまった瞬間、
人はもう元の場所には戻れなくなる。
これは、ただの初デートの話。
そして――すべてが動き出した日の話だ。
「悠輝、お庭を案内するわ」
莉花に促され、僕は会釈をして部屋を出た。
「そうだ、車の練習しましょ」
「あんな大きな車、乗れませんよ」
莉花は笑って言う。
「違う違う。あれはお迎え用」
「こっち来て」
玄関を出て屋敷の外周を回り、
しばらく歩くと、独立した建物が見えてきた。
「ここ、莉花のガレージ」
中には三台の車が整然と並んでいる。
メルセデス、トヨタ、日産。
どれもディーラーの展示車のように、
埃ひとつ付いていなかった。
「んー、乗りやすいのはトヨタのレクサスかな」
莉花はボックスから鍵を取って、僕に差し出した。
「はい」
恐る恐る運転席に座ると、自然と肩に力が入った。
「はい、エンジンかけて」
「そこのボタン」
ボタンを押すと、静かにエンジンがかかる。
「この敷地内なら、好きに運転していいよ」
僕は慎重にアクセルを踏み、ゆっくりと走り出した。
エントランスの方へ進むと、
さっき乗ってきたロールスロイスが停まっている。
ぶつけないよう細心の注意を払い、
その横をすり抜け、バックでガレージに戻した。
「あ〜……緊張する」
思わず声が漏れる。
莉花は手を叩いた。
「上手、上手」
「じゃあ、外行こう」
僕は不安そうに言う。
「え……大丈夫かな」
莉花は首を傾げる。
「免許はあるんでしょ?」
僕は財布から免許証を出して見せた。
「ほら、大丈夫。行こう」
「どこに行くの?」
莉花は即答する。
「初デートなら、海でしょ」
「了解」
少しずつ運転にも慣れ、
アクセルを踏む余裕が出てきた。
道路は郊外へ抜け、建物の高さが少しずつ低くなっていく。
信号の間隔も長くなり、車の流れがゆったりしてきた。
窓を少し開けると、冷たい風が車内に入り込む。
冬の終わりの匂いがした。
莉花が僕を見つめる。
「悠輝の横顔、かっこいい」
「やめてよ。恥ずかしい」
ハンドルを握る手に、まだ少し力が入っている。
けれど、不思議と嫌な緊張ではない。
莉花はお気に入りの音楽を流した。
しばらく二人とも黙り込む。
たまに視線が合い、
自然と手を繋いだ。
道の先に、水平線の色が変わり始める。
建物の隙間から、低く広い海が見えた。
潮の匂いが、少し遅れて車内に入り込んでくる。
さっきまでの街の空気が、静かに消えていった。
海沿いの小さな駐車場に車を入れる。
僕はゆっくりハンドルを切り、何度か切り返してから白線の中に収めた。
エンジンを止めても、すぐには降りなかった。
「……着いたね」
莉花が小さく笑う。
「うん、初ドライブデート成功」
車を降りると、音が変わった。
遠くで波の崩れる音が、一定のリズムで響いている。
駐車場の向こうには、防波堤と砂浜が広がっていた。
午後の空は淡い水色のまま、海だけが深い群青に見える。
潮風が頬を撫でる。
二人で並んで歩く砂浜は白く、
踏むたびにきゅっ、と軽い音がする。
莉花は子供みたいに先へ進み、
そのまま波打ち際まで近づいていく。
寄せては返す波が、太陽の光を細かく砕き、
水面がきらきらと揺れていた。
僕は思わず声をかける。
「あんまり近づくと、靴濡れるよ」
莉花は振り返って笑う。
「大丈夫だよ、悠輝!」
「ほら、貝殻が落ちてる〜」
その姿を見て、
今の莉花は“お嬢様”ではなく、
ただ僕のことが好きな、普通の女の子なのだと感じた。
その瞬間、思いがけず大きな波が寄せ、ざぶんと音を立てて足首まで濡らしていった。
「冷たい!」
「わっ、靴濡れた!」
「どうしよう……でも気持ちいい」
「悠輝も入ってみなよ!」
「嫌です」と僕は笑った。
「途中に水道があったから、そこで洗おう」
莉花は波打ち際から水道の方へ向かう。
「うぅ、靴、気持ち悪いよ〜」
僕は苦笑する。
「ほらね。そうなると思った」
水道で足と靴、靴下を洗っている莉花を、
少し離れたところから、僕は笑みを浮かべて眺めていた。
(靴に水を溜めて、僕にかける)
「あはは!」
僕は慌てた。
「ちょっと!
やめてよ〜、服濡れたじゃん!」
莉花は悪戯っぽく言う。
「笑った罰!」
「靴と靴下は、そこに置いて」
「ほら、おいで」
そう言って、背中を向けた。
莉花を背負い、
ゆっくりとベンチの方へ歩き出す。
「おんぶしてもらったのって、子供の時以来だな〜」
莉花は小さく尋ねる。
「……重い?」
僕は即答した。
「全然」
ベンチに着き、
僕はそっと莉花を下ろす。
莉花は微笑んだ。
「ありがとう」
「靴、取ってくるから待ってて」
「ここで少し、乾かしていこう」
靴下をぎゅっと絞り、
ベンチの背もたれに掛けた。
しばらく二人でベンチに座って、海を眺めていた。
潮騒はさっきよりも穏やかで、
波が寄せては返すたび、
白い泡が砂浜に淡く溶けていく。
言葉はなかった。
肩と肩が触れ合う距離に、
確かに互いの温もりがあって、
それだけで十分だった。
今、この瞬間が、
ずっと続けばいい――
そんなことを思いながら、
僕はただ、静かな海を見つめていた。
僕はぽつりと言う。
「靴、乾かないよね」
「車まで、またおんぶするよ」
「はい、どうぞ。
お姫様」
莉花は耳元で囁く。
「ありがとう」
「悠輝の背中、大きいね」
「……落ち着く」
「悠輝、大好き……ねえ、キスして」
「後でね」
車のドアを開け、
莉花を助手席に乗せる。
ドアを閉めると、波の音が遠ざかり、
代わりに、車内の静けさが戻ってきた。
エンジンをかけ、周りを確認した。
この時ばかりは現実に戻り、慎重になる。
ゆっくりアクセルを踏む。
バックミラーに、さっきまでいた海が小さく映る。
白い波だけが、いつまでも揺れていた。
「途中で靴と靴下、買おうか?」
「いい……」
莉花は窓の外を見たまま答える。
車は海沿いの道に出る。
つないだ手は温かい。
二人とも、しばらく何も話さなかった。
けれど、沈黙も気まずくない。
夕方の光がフロントガラスに差し込み、
水平線がオレンジ色に染まり始めていた。
莉花の頬が少し赤い。
夕日のせいなのか、繋いだ手の指をお互いに絡ませているせいか、わからない。
莉花は少し迷ってから言った。
「……やっぱり、お店あったら寄って」
———
車を走らせた。
———
僕はハンドルを切りながら聞く。
「ここでいい?」
莉花は頷く。
「うん」
「悠輝、買ってきて」
「靴、気持ち悪いんだもん」
「はい、お金」
僕は笑って首を振る。
「いらないよ」
「23でいいんでしょ?」
莉花は目を丸くする。
「うん」
「なんでサイズ知ってるの?」
「足フェチ?」
僕は慌てる。
「さっき見ただけ!」
「フェチじゃない!」
一拍置いて、続けた。
「莉花なら、
足でも好きだけど」
莉花の頬が、また赤く染まる。
莉花は小声で言った。
「真顔で恥ずかしいこと言わないで」
「後ろ、人いるよ」
僕は慌てて振り向いたが、
誰もいなかった。
莉花は笑う。
「嘘だよ」
むっとした顔で、
僕は両手で莉花の頬を、
ムギュっと包む。
「……ごめんなさい」
莉花は、僕を見つめたまま言った。
そのまま両手で抑えて、
顔を近づけた。
唇が、ほんの一瞬だけ触れた。
「ちょっと待ってて」
靴を買って戻り、
助手席のドアを開けてしゃがんだ。
莉花に靴下と靴を履かせようとすると、
足が赤くなっていた。
僕は両手で莉花の足を包んだ。
「あったかい」
莉花は目を細めて言う。
しばらく温めて、靴下と靴を履かせた。
「きつくない?」
莉花は微笑んだ。
「うん、ありがとう」
「……可愛いね」
パステルピンクに、
ワンポイントの刺繍が入ったスニーカーだった。
莉花の顔に赤みが差していく。
莉花は小さな声で
「もう一度、ちゃんとして」
「……」
僕はそっと、
莉花の唇にキスをした。
「……キスしたの、悠輝が初めてなの」
「僕もだよ」
車が動き出す。
会話は途切れてしまったが、つないだ手の、温もりを感じていた。
車はそのまま静かに道を進んでいった。
車内には、音楽だけが小さく流れる。
言葉を交わさなくても、沈黙が気まずくない。
手を離す理由も、話し始める理由も見つからず、
僕はただ前を見てハンドルを握っていた。
こんなふうに、誰かと黙っていられる時間が、
こんなにも心地いいものだとは知らなかった。
突然、莉花の手に力が入った。
助手席で、彼女は前を見たまま黙り込む。
その横顔は、さっきまでとは少し違っていた。
余韻が、静かに現実へ戻っていく。
莉花の横顔から、甘さがすっと消えた。
「やっぱり、間違いない!」
莉花が突然言った。
莉花の、あまりの変貌に
思考が追いつかない。
「麻薬と半グレが広がり始めた時期と、
日山食品の合併時期が、ほぼ同じだ」
「藤堂高雄が日山食品の社長になった時」
突然の莉花の言葉に理解が追いつかない。
「特別対策室に、正体不明の告発文が届いたの」
「名前はない。――だけど、全体を俯瞰して見られるのは、おそらく加賀常務取締役あたり」
「野崎副社長とは犬猿の中」
「加賀さんは、元朝日川食品の専務だった人」
「日山が麻薬をばら撒いている」
「朝日川食品は麻薬の発生源である東南アジアと深い繋がりがあるの!」
「吉野課長、細川課長、荒木健一、倉橋専務、野崎副社長、藤堂高雄社長」
「普通に考えるなら、野崎とパパの対立じゃない?」
「そうだね」
「野崎副社長は、元朝日川商事の社長」
莉花が独り言のように言う。
「でも、吉野課長のことを倉橋専務がかばってた」
「細川課長と荒木健一も、おそらく繋がっている」
「野崎と吉野が、今でも繋がっているはずなのに」
莉花の思慮深い顔を見て、
「なんだか、雰囲気が変わったね」と言った。
「そう? 同じだと思うけど」
「でも、悠輝とキスしたら、モヤが晴れたみたいにスッキリした」
「恋愛病だったのかな?」
「悠輝が言ってたみたいに、莉花も卵の殻が割れたみたい」
少し間を置いて、
莉花は真っ直ぐこちらを見る。
「悠輝! もう一度聞いていい?」
「莉花と結婚してくれる?」
僕は微笑んで、
「はい、お嬢様」と言った。
莉花は即座に言い返した。
「はい、減点。お嬢様は禁止。マイナス三十点」
僕は真面目な顔をして、
「莉花、僕と結婚を前提に、お付き合いしてください」と言った。
莉花は静かに告げる。
「結婚もしたい」
「でも、それと同じくらい、大事なことがあるの」
「私が私であるために、譲れないことがある」
莉花は前を向いたまま、淡々と続けた。
「このままではダメなの」
「お爺様が言っていた、横に寄り添ってくれる人がいればって、悠輝しかいない!」
「悠輝はいつも正しい!」
「闇の部分が表まで、侵食してる」
「父を止めるしかないんだ」
「そのために、私、てっぺんを取りに行く」
「日山の、全部」
その声には、迷いがなかった。
「だから、私と一緒に進むなら」
「最後まで、隣りにいて」
「私だけでは、途中で同じ闇に落ちる」
「でも、悠輝がいてくれたら私は戻って来れる」
一瞬、言葉が途切れる。
莉花は、そこでようやくこちらを見た。
「悠輝……」
「まわりが敵だらけになっても……それでも、私の隣にいる?」
返事を急かすような強さはない。
けれど、待つ気もなかった。
「お嬢様はやめる」
「お爺様の言った事覚えてるでしょう」
「高雄が会長になれば、役員の半数は敵になるって」
「あれ、莉花だったらどうなるか考えてみたの」
「莉花が会長になったら」
「……九割は、敵にまわる」
「それでも私は、引かない」
「逃げない」
「やめない」
「高虎の孫、高雄の娘の、お嬢様として『君臨すれど統治せず』なら、敵にはならないと思うけど、お父様の代で、真っ二つに割れたら、取り返しがつかない」
「だから、莉花と結婚してくれると言ってくれて、本当にうれしい」
「でも……覚悟決めてもらわないと結婚できない」
そのとき、僕はようやく気づいた。
「……敵がだれでも、莉花の隣にいるよ」
「ありがとう」
「悠輝がいなかったら、こんなこと考えもしなかった」
「最初は、告白するだけでいいと思ってたけど、勇気がなかった」
「強がってただけなの」
「キスしてくれたから、先のことも考えられる余裕ができた」
「キスしてくれたら、もっと強くなれる」
まるで自己暗示のように莉花が言う。
「悠輝のことは、私が絶対に守る」
「……戦争始めるよ」
「了解!」
僕はうなずいた。
そのとき、胸の奥に小さな違和感が残った。
莉花は、笑っていた。
さっきまでと同じ笑顔のはずなのに――
なぜか、少しだけ違って見えた。
この日、二人は確かに幸せだった。
海も、夕焼けも、交わした言葉も、
どれも嘘ではない。
ただ――
同じ時間を過ごしていても、
同じ場所に立っていたわけではなかった。
彼は、隣に立ったつもりだった。
彼女は、前に進んだつもりだった。
そしてそのわずかな差が、
やがて取り返しのつかない距離になる。




