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Scrambled Egg  作者: 読まれる前提
《たまごの殻》

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5/28

5章. 《真実》

卵は、外から割れば終わる。

中から割れば、始まる。


僕はずっと、殻の内側にいた。


安全で、静かで、

何も起きない世界。


――でも、彼女が現れた。


その日、僕の殻は割れた。

「そろそろ着くかな〜。下に行こ」


「莉花さん 鍵…」


「あっ、忘れた」


「『さん』は無しでいいよ」

「言ってみて」


自分の顔が熱くなるのがわかる。

女性を呼び捨てにしたことはない。



「莉花」



「じゃあ私も、これから悠輝ゆうきって呼んでいい?」


「いいですよ。

あ!でも会社では辞めてください」


「悠輝、行こ」


エレベーターで下に降りる。

エントランスから出ると、そこには体格のいい男の人が立っていた。


男の人

「お嬢様、お迎えにあがりました」

深々と頭を下げる。


「ありがとう」


男は身軽に振り返り、車の後部座席のドアを開ける。


人生で数回しか見たことのない、ロールスロイスだった。


僕の思考が止まってしまう。

莉花 お嬢様 ロールスロイス…


「乗って」


僕はハッと莉花を見て、また車を見た。

僕が乗るまで、男の人は待っているようだ。


普通の車とは反対にドアが開いている。

床はふかふかの絨毯で、

靴で入っていいのか躊躇う。


莉花は靴のままなのでそのまま入る。


靴を履いていてもわかる、ふかふかさだ。


人生でいちばん、ふかふかの絨毯を踏んでいる。


僕は莉花の隣に座る。

シートがまた、今まで座ったどんなソファより、優しく身体を包んでくれる。


「このシート気持ちいいでしょ」

「莉花の特注なの」


僕は黙って莉花の顔を見た。

たぶん不思議そうな顔をしていたと思う。


「何でも聞いて。悠輝には全て話す」


僕は思わず

「田中さんってお嬢様なんですか?」

お嬢様の定義も分からず使っていた。


「莉花って呼んでって言ったじゃない!

マイナス十点。


マイナス百点になったら、悠輝とは一日、口きかないから」


僕はたいした罰じゃないな、と思った。

一日口をきかないって聞いて、おもわず吹き出しそうになった。


「それにね!私、本当の名前は藤堂なの」

「藤堂莉花ね」


「じゃあ田中って偽名なんですか?

そもそも会社って偽名で大丈夫なんですか?」


「私が決めたの!」


「私の部署は日山HD特別対策室」


「詳しくは言えないけど、そこに内部告発の手紙が届いて、極秘に私が日山食品に潜ってる」


「私がこの会社にいる本当の理由は社長も専務も知らないわ」


「日山食品って、二年前に買収して日山グループ企業になったのね」


「それ僕も知っています」

「日山食品と朝日川食品が合併したんですよね」


「朝日川食品は業界で中堅クラスでも、勢いのある会社だな〜って思ってました」


「今は父の高雄が日山商事から出向して、日山食品の社長をしてる」


営業三課は元々、朝日川食品の流れを汲む部署なの」


「じゃあ、この車は社長の車ですか?」


「違うよ。この車は私専用」

「お爺様が、東大受かったご褒美に買ってくれたの」


「そうなんですか」

僕は頷いたが、正直なところ、

どこまで理解できているのか、自分でも分からなかった。


莉花が通話ボタンを押す。

「その時から千堂さんが運転手兼ボディーガードなのよね〜」


運転席と後部座席を仕切るパーテーションが下がり、

「はい、お嬢様」


「昨日だって、紗希のマンションに着くまでずーっと監視してたと思うよ」


「はい、お嬢様」

「でも監視ではありません」

「見守っているだけです」


「千堂さんは元々SPだったのを、おじいちゃんがスカウトしたんだよね〜」


「はい、お嬢様。藤堂高虎様には大変お世話になっています」


「千堂さん、柔道めちゃくちゃ強いんだよ」

「私は小学校の頃から習ってるけど、いつもコテンパンにやられちゃうの」


「亮平なんて、毎日泣いてた」


千堂

「すみません」

「どうも手抜きできない性分で、いつも真剣に指導させてもらってます」


「悠輝も教えてもらったら?」


千堂

「いいですね。

いつでもお相手いたします」


「遠慮します」


パーテーションが閉まり、透明から白に変わった。



「もう千堂さんには聞こえないよ」


「どこまで話したっけ……そうそう、朝日川食品の流れを汲むのね」


「だから私が末端から新体制を見ておきたかったの」


「調べるより手っ取り早いじゃん」


「そんな時、悠輝が入社してきたのよね〜」

「本社ビルで入社後の研修やったでしょう」


日山食品の本社ビルは、営業課から歩いて十分ぐらいの所にある。


「私、その時本社ビル八階の特別対策室にいたのよね」


「特別対策室は、グループ会社すべての本社に設置してあるの」


「問題が大きい時は日山HDから専門の人達がたくさん送られてくる部署なの」


「入社してから、格闘技やる時間が少なくなって、少しでも運動不足にならないようにいつも、階段を使ってた」


「悠輝、階段にいたでしょ」


「あっ! あの時、上から女性が落ちてきたんだ」

「あれはやっぱり、莉花だったんだ」


「一瞬しか顔は見えなかったけど、恥ずかしそうに『ごめんなさい』と言って、慌てて去っていった」


「僕は社内研修の休憩中、少しマスクを外したくて、一人になれる場所を探しながら階段を歩いていたんです」


「そうそう、あれ私」

「メガネかけてたし、今と髪型も違う」


「階段、早歩きしてたの」


「あの階段、滅多に人いないじゃない」

「そしたら人がいるじゃない」


「私ね、どんな人かなって注視したのね」

「本当は、少し見惚れてた」


「その時、足を踏み外して、私はあなたに抱かれながら、二人とも床に倒れたよね」


「あの時、恥ずかしくてお礼も言えなかった」

「でも、本当に一目惚れってあるんだよね」

「こんなの初めてだったの」


「特別対策室のパソコンは、

グループ会社すべての情報にアクセスできるの」


「私はそこから

悠輝の履歴書を確認した」


「悠輝は新入社員で、

一課に配属予定だったのを、

倉橋専務に頼んで

私と一緒に三課へ移動してもらったの」


僕はようやく気づいた。

田中莉花は、同僚でも、先輩でもなかった。

最初から、立つ場所が違う人だった。


「私が専務に頼んだの、末端の仕事を、見ておきたいといって」


「特別対策室権限で、すべて内密、匿名」


「社長の娘だと、

みんなやりにくいでしょ」


「倉橋専務は父の右腕みたいな人で、日山HDから一緒に出向してきた。」


「諸問題が片付いたら、パパは本社に戻る」

「そのあと、倉橋さんが……って噂」


「ただね、さっき言った告発文がこの辺まで絡んでそうなの」


「だから内偵は社長や専務には内緒」


「専務には単にお嬢様わがままだと思わせてる」


「営業一課は、元は日山食品の販売網だから激務」


「二課は、元朝日川食品で、合併の混乱を避けるため、しばらく人事停止中」


「だから必然的に三課になったの」

「三課は知っての通り、両方の小規模小売店担当」


「隣同士になったでしょう」

「課長にお願いしたの」


「専務からの案件だから、課長も嫌とは言えないしね」


「でも、いざ隣にいると緊張して、心臓バクバクするし、何にもできなくなっちゃうの」


「想いだけがどん大きくなって、仕事で迷惑ばかりかけてごめんね」


「見てたからわかる」

「悠輝の能力は、飛び抜けて凄いと思う」


「電車で紗希が隣になったでしょう」


「悠輝があまりにも、女の子に関心がなさそうだって紗希に相談したら、亮平と同じゲイじゃないかって」


「それで紗希も面白がって、隣で誘惑したんだ」


「でも、あの子本当に寝ちゃったね」

「悠輝の横って安心なのかな」


「結果は予想通り悠輝、女の子には興味あるんだよね」

「ドギマギして顔真っ赤なって可愛かった」


「色々、本当にごめんなさい」

「嫌いにならないで!」

「怒ってる?」


「……」


「怒ってないです」

「そこまで好きって言われたの初めてだから」


「悠輝は私のこと、どう思ってるの?」

「好き?」


「僕が、莉花のこと好きじゃなかったら、ストーカーですよ」


「迷惑ばかりかけて、どうしようもない先輩だな〜って思ってました」


「正直言うと、よく会社に入社できたなって思ってました」


「理由を聞いたら、とても可愛く思えます」


「本当? 私、可愛い?」


「はい」


「ちゃんと言って」


「可愛い」


「違う! 名前も入れて、

ちゃんと言って!」


顔が真っ赤になる。

「……」

「莉花、可愛い」


莉花は下を向き、両手で顔を覆った。

耳が真っ赤になっている。


しばらくすると、車が止まった。

千堂が車から降りて、周りを警戒する。

小走りにドアのほうへ回り、ドアを開ける。

とても重厚なドアが、優雅に、静かに開いた。


「お嬢様、どうぞ」

千堂は莉花の顔を見て

「すみません、空調暑かったみたいですね」と言う。


「少し……暑かったかな」


「……」


「ここは…お城ですか?」

思わず声が出た。


見るからに贅沢な西洋建築。

入ってきた門は遥か遠く、広いお庭。

途中にある丸い池には噴水が勢いよく水を噴き上げていた。


玄関の重そうな両開きのドアを開くと、メイドさんが三名並んでいた。

「お嬢様、おかえりなさいませ」とお辞儀をしながら言う。


メイドさんはテレビの中のだけと思っていたが、実際に存在していることに驚いた。


「ただいま〜」

「何か、朝ごはん用意して」

「悠輝の分は、多めに作ってね」


僕は軽く会釈をして、

莉花の後ろについていくと、

パーティができそうな客間に出た。


真ん中には、十人ぐらい座れる大きなテーブルがある。


「悠輝、ここに座って」

莉花は隣りに座る。


何もなかったテーブルに、メイドさんたちが次々と

食器やナプキンなどを運んでくる。

食器が整えられると、シェフの格好をした人が

キャスターテーブルを押して現れた。


シェフ

「お嬢様、もうすぐお昼ですので、

お腹も空いていると思い、スープは具沢山クラムチャウダーにしました。

ホンビノス貝を使用しています。

こちらはロブスターサンドです」


莉花

「あら! アメリカンだね」

「ありがとう。悠輝、エビは大丈夫?」


「うん、いただきます」

「美味しい。

こんな料理、初めて食べた」


「よかった」


時刻は既に十一時を回っている。


二人が朝食か昼食か分からないまま食事をしていると、初老の男性が入ってきた。


気づいた瞬間、反射的に立ち上がっていた。

入社式で見た、社長だった。


いかにも貫禄のある風貌だ。


高雄

「莉花、どこのご子息を連れて朝帰りかね?」


莉花

「珍しい!いたの」


「千堂さんから、密告があったでしょう!」


高雄

「紗希ちゃんと一緒にいるのは聞いてたけど、こちらの男性のことは聞いていないな」

千堂君が何も言わないということは、それほど問題は無いだろうけど」


「大問題よ! パパにとっても」

「私、悠輝と婚約したの!

ね〜、悠輝」


藤堂高雄は悠輝の方をじっと見つめる。

「まぁ、莉花が選んだのなら、いいんじゃないかな」


悠輝の方に向き直って

「私は藤堂高雄、日山商事、専務取締役で、現在は日山食品の社長も兼務しています」と言う。


僕は直立不動で、「日山食品営業三課、橘悠輝と言います」と深々と頭を下げた。


仕事をしているビルが違うため、

社長を見るのは入社式以来、これで二回目だ。


やはり会社を担っているだけあって貫禄がある。

会社報や経済誌で写真は何度も見ていたので、顔は覚えていた。


「なんだ、うちの社員か!」


「……立たなくていい。ここは会社じゃないから」


「何年入社だ?」


「昨年入社致しました」


「合併後か! かなり優秀だな。

採用枠が少なかったからな〜」


「そうなのよ、悠輝はとってもできる人なの」


「なんか莉花が言うと説得力が無いな」

「好きでたまらん顔をしている」


「追っかけてばかりだと逃げられるぞ」


「そんなことはありません」

「それは、パパのことじゃない」


「私、知ってますよ」

「高級クラブに良い人がいるみたいじゃない!」


「誰から聞いた! 千堂だな〜。あいつ許さん!」


「まぁいいや。橘君、婚約するなら、ちゃんと節度を守って付き合ってくれな」


僕は莉花の裸を思い出してしまい、顔が真っ赤になる


酔っているとはいえ、昨日、莉花のプロポーズにも「はい」と答えたんだよな。

藤堂高雄の威圧感もあり、つい「はい」と返事をしてしまった。


莉花はとても嬉しそうにしている。


「それはいいけど、パパに話があるの。

営業三課の課長、廃棄前の商品を横領してるよ」


「金額的にはたいした額じゃないけど、

それをアサヒの課長と一緒に子供食堂で提供してるの」


「全く、良いことしてるのか悪いことしてるのか微妙だけど、横領は確実。」


「箱には『サンプル品』って書いてあって、伝票は課長が必ず処理してる」


「放っておいたら、取り返しのつかないことになる可能性だってある。

千丈の堤も蟻穴より崩れるよ」


藤堂高雄

「営業三課のことなら、ちょっと専務に聞いてみるか」


社長はメイドに指示をすると、

天井から大きなモニターが降りてきた。

「倉橋専務に繋いでくれ」


モニターに向かって話すと、

直ぐに役員室の画面に切り替わり、

倉橋専務が

「何かご用でしょうか?」

と言った。


藤堂高雄

「営業三課の吉野課長の件だが、

廃棄品を横流ししていると耳に入ったんだが、どうかね?」


倉橋専務は一瞬だけ黙った。


「……どこからの情報ですか?」


「莉花だ」


モニターの向こうで、倉橋の表情がわずかに固まった。

すぐに、穏やかな笑みへ戻る。


倉橋専務

「――なるほど。お嬢様でしたか」


莉花が画面に近づき、手を振る。

「倉橋のおじさん〜」


「お嬢様、こんにちは」


軽く一礼する。


一拍置いてから、続けた。


「その件は、私の判断で続けさせています」


「スーパーアサヒが、期限切れ間近の食料品を地域のNPOへ回していたのが始まりです。

買収後、維持できないかと相談を受けました」


「会社名は出さないこと、記録は寄付として処理すること、

その条件で許可しました」


「問題はありません」


高雄

「そうか」


倉橋は穏やかな声のまま言う。


「目立たぬようには指示しておいたのですが……

少々配慮が足りなかったようです」


そして、わずかに声色が変わる。


「――それより社長、例の件の情報が入りました」


「至急ミーティングをお願いしたいです」


「……」


藤堂高雄

「そうか!わかった」


「私はこれから別件で日山商事の関西支社に詰める」

「到着したら、連絡入れる」

「それからでも大丈夫か?」


倉橋専務

「はい大丈夫です」


高雄

「おそらく、夕方になるがよろしく頼む」


倉橋専務

「了解です」


モニターが切れる。

「莉花!この件は安心して大丈夫だ」


莉花

「パパ!緊急のミーティングって何?」


藤堂高雄

「それは……極秘だ」


「橘君、ゆっくりしていきなさい」


藤堂高雄は部屋を出て行った。



メイドがデザートを持ってくる。


ワンプレートに乗ったデザートは、

まるで色とりどりの宝石が散りばめられているかのように見えた。


立体的な細い飴細工の中には洋梨のコンポート、

その横にはクリームブリュレが添えられていた。


メイド

「お嬢様、コーヒーか紅茶、どちらになさいますか?」


莉花

「ミルクティーでお願い」

「悠輝はコーヒーでいい?」


僕はうん、と頷いた。


「美味しい」

「莉花さん、いつもこんな美味しい料理を食べているんですか」


「家にいる時はね。でも外食の方が多いかな〜」

「ここは朝六時から夜九時までは、いつでも食べられるようになってるの」

「シェフは滝川さんと、今日はお休みでいないけど吉岡さんのどちらかがいる」


「悠輝!はい!マイナス二十点!」

「“さん”はいらない!」

「呼び捨てじゃないと、周りに付き合ってるって思われないでしょう」


莉花はクリームブリュレをスプーンで掬いながら、

とても嬉しそうにしている。



昨日から、僕の閉ざされた世界が一変した。

僕の周りにあった硬い殻を、

まるで何も無いかのように、

彼女は踏み込んでくる。


それはそうだ。

自分に関心を持ち、同じ方向を見ようとする人がいるなら、そんな殻など空気と同じだ。


コロナ禍で、自分だけが置いてけぼりにされたような孤独感。


誰かと踏み込んで関わる経験が、ほとんどなかった。


殻を作っていたのは、

人と接するのが怖い自分自身だ。


その中に入ってくる人がいれば、自分の領域を侵されたように感じ、嫌悪感や苛立ちを覚えることもあった。


だが、莉花は違う。

触れられていても、気持ちがいい。


それでも――僕はこれほど、住む世界の違う人と

付き合って本当にいいのか、悩んでしまう。


いつか、莉花が僕に飽きる日が来るんじゃないか。

そんな不安が、頭をよぎらないわけじゃない。

僕のことを、ずっと好きでいてくれるのか。


結果が分かっているなら、進まない方がいい。

傷つかなくて済む。

また、自分の殻に閉じこもればいい。


でも、正面で笑っている莉花を悲しませたくもなかった。


ただ、ひとつだけ。

彼女の話には、触れられていない空白が残っている気がした。


「……空白?」


莉花は、スプーンを止めた。


ほんの一瞬だけ――

笑顔が消えた。


「どうしたの?」


「いや……」


僕は迷った。

聞いていいのか分からなかった。


でも、ここまで聞いておいて、

一番気になっていることを口にしないのは、嘘だと思った。


「莉花はさ」


「内部告発を調べてるって言ってたよね」


「うん」


「それって……ただの横領じゃないんだよね?」


部屋の空気が、静かに変わった。


窓の外で噴水の音がする。

さっきまで心地よかったはずの音が、妙に遠く感じる。


莉花はしばらく黙っていた。


それから、小さく息を吐いた。


「悠輝、鋭いね」


そう言って、テーブルに置かれたナプキンを指でなぞる。


「課長の横領なんて、本当はどうでもいいの」


「え?」


「問題はね……」


莉花は顔を上げた。

さっきまでの恋する女の子の表情ではなかった。


会社で見せる“仕事の顔”とも違う。

もっと冷たい、覚悟を決めた目だった。


「会社が、使われてるの」


僕の背筋が、ゆっくり冷えていく。


「誰かが、日山の流通を使って――薬を流してる」


心臓が、大きく脈打つ。


「まだ確証はない。

でも、三課の動き、アサヒ、荒木……全部、線で繋がり始めてる」


「……だから、通報しなかったの?」


莉花はうなずいた。


「警察に言えば、末端は捕まる」


「でも本体は逃げる」


その言葉を聞いた瞬間、

昨夜、亮平が言った言葉が頭をよぎる。


――トカゲのしっぽ切りになる。


「私が知りたいのはね」


莉花は静かに言った。


「課長の上にいる“誰か”」


「会社の中にいる」


空気が、重くなる。


豪華な屋敷も、温かい紅茶の香りも、

急に現実感を失っていく。


「悠輝」


僕の名前を呼ぶ声は、

今までで一番、真剣だった。


「ここから先は、危ない」


「もう関わらない方がいい」


しばらく、言葉が出なかった。


本当は――怖かった。


相手はただの不正じゃない。

犯罪だ。しかも会社の中の誰か。


正しいことかなんて、わからない。

会社も、警察も、社会も、きっともっと大きな正義がある。


——でも。


僕の正義は、小さい。


荒木の刺青。

亮平の目。

そして、目の前の莉花。


「……もう遅いと思う」


莉花が、目を見開く。


「僕、昨日からずっと考えてたんだ」

「このまま、何も知らないふりして会社にいけない」


関わらなければ、

明日も会社に行って、

昨日と同じ生活に戻れる。


――そのはずだった。


でも、児童館の光景が浮かぶ。

笑っていた子どもたち。

フェンスの外から見ていただけの、あの場所。


喉が少しだけ乾いた。


「……見ちゃったので」


莉花が顔を上げる。


「なかったことにするの、無理です」


しばらく沈黙が続いた。


僕は視線を落としたまま言う。


「あと」


言うつもりはなかったのに、口に出た。


「莉花を、一人にするのも嫌です」


空気が止まる。


莉花の表情が崩れる。

「……バカ」


笑ったのに、声が震えていた。


僕は、ほとんど聞こえない声で呟いた。


「……恋人、なんだよね」


そっと、手が重なる。


「ありがとう、悠輝」


その手は、少し震えていた。



そして僕は、まだ知らない。


この選択が――

会社の不正どころか、

もっと大きなものに繋がっていることを。


日山という会社そのものを揺るがす戦いに、

自分が足を踏み入れたことを。

彼女の手は、少しだけ震えていた。


だから僕は、離さなかった。


その手を取った瞬間から、

僕の平穏な日常は終わったのだと――


後になって、思い知ることになる。

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