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Scrambled Egg  作者: 読まれる前提
《たまごの殻》

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4章. 《割れた卵》

名前を知ってしまっただけだった。

たったそれだけで、景色は別の意味を帯びる。


笑っている子どもたち。

エプロンの大人たち。

そして、首元の入れ墨。


——もし、この場所が「隠れ蓑」なら。

僕は、見なかったふりをする側には戻れない。


タクシーで移動中、僕は微睡んでいた。

街の光が、まぶたの裏でゆっくり揺れている。


———


THE HAVENに到着した。


THE HAVENは、繁華街から少し外れた雑居ビルの地下にあった。

看板は小さく、知らなければ通り過ぎてしまう。


控えめなネオンが店の名前を静かに浮かび上がらせている。


まるで、見つけてほしくない店のようだった。


外階段を降りるたび、街の音が遠ざかる。


——なぜか、

ここに入れば、もう昨日までの自分ではいられない気がした。


紗希が無垢材のドアを押す。


重みのある木が、かすかに鳴る。

その音を境に、外の世界は切り離された。


店内の照明は抑えられ、余計な装飾はない。

静かに酒を飲むための空間だ。


紗希

「亮平!また来てやったぞ!」


「姉さん、昨日あれだけ飲んで

また来たんですか!

いくら丈夫でも、体壊しますよ!」


「なぁ、亮平!中学の時、

私と莉花、どっちが好きだった?」


「それ、答えないと駄目ですか?」


「当然!私に嘘ついたら、

どうなるか今一度教えようか!」


亮平は少し黙っていたが

重い口を開き、

「姉さんたちは、

俺にとって……!」


莉花

「俺にとって、何?」



「悪魔です!」


「あっ、でも女神でもあります」

「姉さんたちのためなら、何でもします」


好きとは、程遠い。

亮平にとってこの二人は、

よほど異質なんだ。


紗希

「今日も暇そうだな」


「紗希姉さんがアメリカから帰ってきて一か月、ほとんど毎日来て、他のお客さんに絡むから、常連客が来なくなったんです!」


莉花

「ギャハハ!お前のせいだ!」


亮平

「あなたもです!」


「まぁ冗談ですが、本当のところ最近半グレ集団が増えたんですよ」


「奴ら後先考えないから、危ないんですよ」


莉花

「何でそんなに増えたの?」

「この辺を仕切ってた、ヤクザがいたじゃない」


「暴力団対策法が厳しいじゃないですか!」


「半グレって言っても素人の集まりだから、揉めるとヤクザのほうが分が悪いんです」


紗希

「そうだ、そんなことパパが言ってた」


「組織犯罪対策の強化期間なんだって」


亮平

「二年ぐらい前から、格安の薬が蔓延してるけど、それを扱ってるのがその半グレ集団」


「薬と金に群がって、どんどん勢力拡大中」


「皆さんも気をつけてくださいね」


酒の席の冗談にしては妙に現実味があった。


誰も笑わなかった。


紗希

「どうでもいい、そんなこと」


「とりあえず美味しい酒出して」


亮平

「今日、美味しいワインを手に入れたんですよ」

「オーパスワン」


紗希

「アメリカワインじゃん。そんなの向こうにいる時、たくさん飲んだわ」


亮平

「1979年のヴィンテージですよ」


紗希

「それいいよ、今日は莉花の奢りだからさ」


元々THE HAVENは

ワインを扱うバーではない。

お客は亮平の知り合いばかりで、

ほとんど注文される酒は

ビールか酎ハイだ。


ワイングラスに注いでいく。


紗希

「あんたね〜、せっかく

莉花が小洒落たバーを作ったんだから、

ワインのテイスティングのやり方や、

せめてヴィンテージ飲むなら、

デキャンターぐらい用意しなさい!」


亮平

「すみません」

「半年前に、莉花姉さんに捕まって、この店やれって言われたけど、バーテンダーの知識は無いです」


莉花

「嫌なの!」


亮平

「嫌じゃないです!

すみません、言い方が悪かったです」


莉花

「毎日ブラブラしてたから、

亮平に合うかなって思ったけど、

嫌ならやめてもいいわよ!」


亮平

「すみません!

この仕事、大好きです」


莉花

「あっ、そう」


「莉花さんのお店なんですか?」


莉花

「違うよ!亮平にお店、作ってあげたの」


「亮平のお店だよ。

嫌なら辞めればいいって思っただけ」


亮平

「辞めません。

この店に命かけてますから!」


紗希

「安い命だな!

亮平の命は、私に使うんじゃなかったの!」


亮平

「はい、

莉花姉さんと紗希姉さんのために、

この命、捧げます」

「何でもやります」


紗希はワインの匂いを嗅ぎ、

少し口に含む。


紗希

「うん、大丈夫。

ヴィンテージだと、

たまに臭うやつがあるんだよね〜」


「ワイン初めてなんです」


そう言いながら、

ワイングラスを口に運ぶ。

「……美味しい」


思わず口から出た。

「これ、一万円ぐらいするんですか?」


亮平が首を振る。


僕は、

「五千円ぐらいなら

自分でも買えるかな〜」

今度お父さんに買ってあげよう、

なんて思っていた。


紗希

「値段なんか気にするな!

美味しけりゃいいんだ」


莉花

「そうだよ。

今日は二人の婚約記念日だからね。

どんどん飲んで」


「誰の婚約記念日ですか?」


グラスのワインを一気に飲み干して言う。


紗希

「嫌ね!莉花と橘くんに決まってるじゃない」


スマホの再生ボタンをタッチする。


そこには、

僕が莉花さんのプロポーズに

「はい」と答えている映像。


僕は思わず、

「そんなこと言った覚えはありません」

と、はっきり伝えた。


紗希

「え〜、さっき言ってたよ!

男なら責任取らないとね(笑)」


「だって、莉花さんのこと、

何も知らないし……」


「莉花は橘君のこと、知ってるよ」


「一年間、隣で観察してたから(笑)」


「莉花ね、橘君の前では、かわいい女の子でいられるの!」


僕に優しいのは、莉花の分の仕事を手伝っているからだと思っていた。


でも、どうやら違うらしい。

他人には冷たく、

僕にだけ優しい理由が、

ようやくわかった。


「莉花ね〜、

かなりわかりやすくアピールしてると思うんだけど、橘君って全然気付いてくれない」


「でも、これ以上女の子のほうから、言わせないで」


紗希

「出た!

あざと女、丸出し」


「まだ、手すら握ったことないのに、結婚なんて!」


莉花

「はい」

手を差し出す。


「違う!それじゃ握手でしょう!

恋人は、こうするの!」


指を広げて、

恋人つなぎにする。


紗希

「はいはい、隣でイチャイチャしない」


「橘君、私も結婚相手募集中だから、今ならまだ間に合うよ」

「莉花なんかと結婚したら、大変だよ〜」


亮平が「うんうん」と頷く。


亮平

「まあ、紗希姉さんも、あんまり変わんないけどね」


紗希が睨む。


亮平

「姉さんの目、怖いから!」


「……」


紗希

「そう言えばさ。

荒木健一って、知ってる?」


亮平に向かって言った。


亮平

「知ってますよ。後輩っす」

「同じ港中出身で、うちのチームにいました」


「喧嘩は弱くて、ちょい情けない奴だけど、

いつもニコニコしてて、かわいい奴でしたよ」


「最近見かけないな〜」

「健一が、どうしたんです?」


紗希

「パパがね。

荒木健一が、麻薬の売人らしいって」


「捕まえた麻薬所持者から、荒木の名前が出たんだって」


「パパのところに話が来て、

亮平と地元が一緒で、年も近いから

聞いてくれって言われたの」


「警察も人を増やして探してるけど、

なかなか見つからないらしい」


亮平

「確か、写真ありますよ。健一の」


スマホを取り出し、指で画面を滑らせる。


「……あ、これです。右から二番目」


紗希にスマホを渡す。


紗希

「この人、さっき児童館にいたじゃない!」


莉花も、身を乗り出して画面を覗き込む。


僕も見た。


莉花

「本当だ。首にトカゲの入れ墨」


亮平

「本人に言わせると、

トカゲじゃなくてサラマンダーらしいです」


僕は画面から視線を外した。


荒木の写真を見た瞬間、

昼間の光景がよみがえった。


児童館の庭。


僕は中に入らず、

フェンス越しに少し見ただけだった。


親子が並んで座り、

湯気の立つ皿を囲んで笑っている。


手伝うでもなく、

話しかけるでもなく、

ただ眺めていただけだ。


けれど、

その場所から出てきたのが

さっきの男だと分かった瞬間、


景色の意味が変わった気がした。


「最近見ないと思ったら、

そんなところで何やってんですかね?」


紗希

「こども食堂!」


莉花

「……慈善活動、ね」


亮平

「いや〜、そんな悪い奴でもなかったですけど、

そこまで善人って感じでもなかったですね」


「あいつ、いつも金ないって言ってたし、

半グレ集団にでも入ったのかも」


紗希

「それは、わかんないでしょ」

「男子三日会わざれば刮目して見よ、って言うじゃない」


「案外、真面目になったのかもよ」


亮平

「でも……お父さんが探してるんですよね?」


紗希

「わかってるわよ。冗談、冗談」


「でもさ、そんな大ごとじゃない気がするけどなあ」


莉花

「確かに、見るからに怪しそうな雰囲気ではあった……」


莉花は、ほんの一瞬だけ黙った。


「……でも、繋がった気がする」

「細川と吉野。そこから荒木の麻薬ルート……あり得るわね」


「麻薬の話が本当なら、警察に通報したほうがいいと思う」


亮平

「それはやめたほうがいい」


亮平は、ふざけた調子のまま言った。

——だが、その目だけは笑っていなかった。


「ただのトカゲのしっぽ切りになる」


冗談の言い方だったのに、笑えなかった。


亮平は視線を外して、どこか遠くを見て言った。


その目には、あの時の莉花さんと同じ翳りがあるのを、僕は見逃さなかった。


紗希が眉をひそめる。

「え、そんな大ごと?」


児童館で見た、あの優しそうな笑顔が、頭に浮かぶ。


——なぜか、背筋が冷えた。


課長たちも、怖そうなサラマンダーも、ただのしっぽ——?


じゃあ――本体はどこにいる?


あの場所が麻薬に繋がっているなら、

今通報しても捕まるのは末端だけだ。


そして——本体は、もっと深くに潜る。


莉花

「私も紗希と同意見、今はまだ早い」


「橘君、このことは、

もう忘れて!」


その言い方が、妙にきつく聞こえた。

そこにはもう、あの可愛いMiss浅学短才の面影はなかった。


「もう忘れることはできません!」


あれは、こども食堂を使った隠れ蓑だ。

許せない。


「……すみません。僕、ちょっと外の空気吸ってきます」


外に出ると、夜風が思ったより冷たかった。


酔いを覚ますために出たはずなのに、

児童館のフェンス越しの景色が、

スライドショーのように浮かぶ。


――自分には関係ない場所。


そう思っていたはずなのに、

そこから出てきた男の顔を知ってしまった。


知らなければ、

何も思わなかったはずだ。


僕は、帰ろうと思えば帰れた。


明日も会社に行き、今まで通りの生活に戻れる。


けれど――

それを選んだ瞬間、

今日見た児童館の景色を、見なかったことにしてしまう気がした。


あの場所は、守られるべき場所だ。

大人の事情で汚していい場所じゃない。


こどもたちは、何も知らずに笑っていた。

だから余計に――見過ごすことができなかった。


僕は、しばらく階段の途中に立ったまま動けなかった。


……でも莉花は、違う。

彼女が見ているのは、児童館じゃない。

その背後で“会社を使っている誰か”だった。


莉花の時折見せる翳り、

二面性の奥に潜んでいる何か。


僕はそこに惹かれ始めている。

莉花の中には、まだ隠している殻がある。

そこに触れたい。


———


僕は頭を冷やし、

しばらくして中に戻った。



「……ごめんなさい。

さっきの話、

やっぱり聞かなかったことにできなくて」


「このままは、嫌です」

「あの児童館に悪い奴は似合わない」


莉花は何も言わない。


僕の許せないことと、

莉花の調べていることは、

必ずしも一致していないと思った。


———


しばらく静かにグラスを転がす。


紗希が沈黙に耐えられない感じで

口火を切る。

「何か美味しいものないの?

安いつまみばっかりじゃん」


「すみません、乾きものと缶詰しかありません」


「あの〜、一つ聞いてもいいですか?

三人はどういう関係なんです?

黒田さんは二人に『姉さん』って言うし、

でも弟じゃないですよね?」


亮平

「話すと長いですが、いいですか?」

「あれは俺が小二の時」

「チラチラ雪の舞う季節でした」


亮平は言葉に合わせて音楽をかけようとする。


莉花

「めんどくさい!もっと端折って言え」


亮平

「OK!」軽口で言う。


莉花が睨む。


亮平

「俺の父親、この辺で有名なヤクザだったらしいです。」

「それで数名に襲撃されて、死んじゃった。」


「母は小二の俺と二人で、とても大変だった」


「そんな時に、署長だった紗希姉さんのお父さんが、いろいろ面倒見てくれたんです」


「……」


「母は、莉花さんの家のお手伝いを、紹介してもらったんです」


「お父さん同士が、親友なんだ〜」


「お給料も高額で、母はとても感謝してたな〜」


「だけど俺はそこからが地獄だった」


「毎日、柔道、剣道、ボクシング」

「紗希姉さんのお父さんが、強くならないと駄目だって」

「部下を交代で派遣してきて、毎日練習」


「練習のあとは、家庭教師の勉強」

「莉花姉さんのお爺様が、これからは頭も良くないと駄目だって」


「もう死にそうでした」


紗希

「あれは亮平が来る前から、日課になってるの!」


亮平

「千堂やろう!いつも俺をいじめやがって!」


「……」


「それで高校入ってすぐ家出しました」


「『おれは俺一人で生きるんだ〜!』って、本当はあの家から逃げたかっただけ」


「すぐに、男なら泣くなとか」

「これくらいで、倒れるな!とか」言うけど

「こっちは、オカマだっちゅの!」


「だけどね、外に出たら、意外と喧嘩強いの」

「自分でもビックリした」


「半年でこの辺のチームまとめちゃった」


「二年後、後輩にチームを譲って引退した」

「その後ブラブラしてたら、莉花姉さんが捕まって、

今のTHE HAVENの店長やってます」


「……まあ、端折るとそんな感じっす」



少し間を置いて、亮平は肩をすくめた。


「引退してから、急に半グレが増え出したんだよな」


「うちのチームは、薬物だけは厳禁だったんだけど」


「どうも、代替わりしてから変わったみたいでさ」


紗希

「へ〜、亮平ゲイだったんだ。知らなかった!」


亮平

「ゲイじゃなくて、オカマ!」

「可愛いものが好きなの!」


莉花

「そうだよな!莉花のワンピース着せたらめちゃくちゃ喜んでた」


「小学校の時なんか本当に可愛いの」

莉花が思い出し笑いをする。


紗希

「そう言われると、そうかな〜って思うところあるな〜」

「服装可愛いのが多かった」


ワインがなくなり、水割りを飲み始める。


しばらく昔話をつまみに、お酒を飲みまくり、今日開けたボトルが空になる。


亮平

「悠輝さん、眠そうですよ」

「そろそろ帰ってください」


時計を見ると十一時を回っていた。


紗希

「少し飲み過ぎたな〜」


亮平

「姉さん、オーパスワンとスコッチはボトルで…え〜と十五万になります」


莉花

「安いな、二十万取っといて」

「カードでお願い」


「……」


「一応、領収書切って」


「橘君、大丈夫?」


僕は意識が遠くなっていく。


紗希

「こりゃ駄目だ。

亮平!家まで送ってくれ」


亮平の車で移動。


紗希のマンションに到着。


亮平

「姉さん!どこに下ろします?」


紗希

「奥のベッドでいいよ」


「ありがとうな。一度パパのところに顔出せよ」


亮平

「了解です」


紗希は亮平を見送る。


紗希

「なんであんたもベッドに寝てるの!」


「……」


「そこでブラだけ取るな」


莉花

「寝る時、きつくてやなの!」


紗希

「酔っ払いすぎだ!」


「……」


「あんまり攻め過ぎると、逃げられちゃうよ」


「莉花、本気だよ」

「もう何か月もアプローチしてるのに、橘君、全然気づいてくれないんだもん」


「もう、我慢できない。くっついて寝るだけでいいの」


「勝手にやってろ。私はもう知らない!寝る!」


そのうち、全員アルコールも手伝って、睡魔に襲われ寝てしまった。


———


「はい!起きて!もう十時過ぎ!」


その声に叩き起こされるように、僕はうっすらと目を開けた。


カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ぼやけた視界に滲む。


柔らかいはずの光が、二日酔いの頭にはやけに眩しい。


こめかみの奥が、ズキズキと脈打っていた。


重たい瞼をさらに持ち上げると、

すぐ目の前に、誰かの顔があった。


視線が絡んだ瞬間、心臓が跳ねる。


反射的に体を起こした拍子に、掛け布団が大きくめくれ上がった。


白いシャツがはだけて、莉花の胸元があらわになる。


「きゃっ」


莉花が小さく声を上げ、慌てて胸元を押さえる。


「……見えた?」


「見えてないです」


即答したけれど、完全な嘘だった。


「絶対見たでしょ」


「……ごめんなさい。見えました」


莉花の頬が、一気に熱を帯びる。


「……ごめんなさい」


「いいよ。気にしないで。こっちも、ごめん」


そのやり取りを、紗希が腕を組んで睨んでいた。


「そこでイチャイチャしない! 中学生か!」


「早く起きて、出てって!」


「私、アサヒ辞めるから、制服返しに行く!」


紗希が勢いよく言い切ったかと思うと、今度は莉花が急に柔らかい調子で言う。


「じゃ、帰ろっか」

「お腹すいたな〜、朝ごはん一緒に食べよ〜」


昨夜のアルコールのせいか、胃の奥が妙に空っぽだった。


「うん」

僕は、とても自然に答えた。


莉花はスマホを耳に当て、タクシーの手配をしている。


「紗希のところ」

「え〜、ちょっと。わかってる!? 私にGPS付いてる?」


電話を切り、肩をすくめた。


「昨日、監視されてたみたい」


「そりゃそうでしょ。それが仕事だし」


「迎えに来てもらうから、あと二十分待って」

莉花がそう言うと、


「え〜、私、もう行くから。これ、鍵。預かっておいて」


そう言って、紗希はさっさと部屋を出て行った。


「わかった」


扉が閉まる音がして、部屋には僕と莉花だけが残る。


急に空気が静かになって、いたたまれなくなり、僕はまた口にしていた。


「……ごめんなさい」


「莉花ね、男の人と一緒に寝たの、初めてなの」


「僕も、初めてです」


「胸、見られたのも初めて」


「……ごめんなさい」


「いいよ。不可抗力だし」

少し間を置いて、照れたように続ける。

「でも、胸小さいから、恥ずかしい」


「そんなことない。とても綺麗でした」


莉花の顔が赤くなる。

「本当!? ……嬉しい」


ふと思い出す。


いつも食後に買ってくれるコーヒー。


仕事が溜まり、

誰もいなくなったオフィスで、

彼女だけが残って手伝ってくれた夜。


風邪を引いた日、机に置かれていたミネラル水と市販の薬。


誰が置いたか、聞かなくてもわかっていた。


「橘君見てると、好きすぎて、何もできなくなっちゃうの」


莉花は、少しだけ視線を逸らしながら言った。


「付き合えたらいいなって、ずっと思ってた」


何もできないわけじゃない。

そばにいて、いつも優しくしてくれる。

そんな莉花が心の中で、どんどん大きくなって、破裂しそうだった。


「紗希はあざといって言うけど、本当に違うの」


僕は、莉花のことを「放っておけない人」だと思っていた。


最初は、そこを可愛いと思っていたが、本当は違ってた。


彼女の内側には、

僕の知らない何かがある。


そこに触れたい。


「悠輝君のこと、本当に好きなの」


「莉花と……付き合って、ください」


僕は、言葉より先に、うなずいていた。


「……うん」


「よかった」

「ねえ、橘君。私のこと、莉花って呼んで」


「……」


「ごめん。本当は、僕から言わないとね」

「莉花さん。僕と、付き合ってください」


「うん」


莉花の目が、少し潤んでいた。


気がつくと、僕は彼女を抱きしめていた。

泣きそうな目をしていて、どうしても放っておけなかった。


莉花の言い出せない翳り、

言えない何かは、確実にある。


それを知りたい以上、もう戻れない。


そっとキスをした。


莉花が間違った方向に進むのを、止めたい。

それが――自分の役目だ。


恋人ができた夜のはずだった。

なのに僕の頭に残っていたのは、莉花の笑顔じゃない。

児童館と、あの男のサラマンダーの刺青だった。


——この時まだ、知らなかった。

この出会いが、僕の人生を変えることになるなんて。

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