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Scrambled Egg  作者: 読まれる前提
《たまごの殻》

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30章《Ghost Love》

この愛は、偽物か。


私は、偽物だ。


でも――

心も、体も、本物だった。

産婦人科を出たとき、空はもう夕方だった。

手の中には、母子手帳があった。


春の夕暮れの光は弱く、街はどこか色を失って見える。


歩きながら、その冊子を見ていた。


何度も開いた母子手帳は、少しだけ角が丸くなっていた。


表紙を指でなぞる。


そこに書かれている名前。


紗希は母子手帳を開いた。


母親:岡部紗希


その下に、もう一つの欄がある。


父親:______


その文字を見つめたまま、足が止まった。


胸の奥がざわつく。


――どうして。


どうして私だけ。


頭の中に浮かぶのは、あの二人の顔だった。


莉花。


悠輝。


二人は、最近とても幸せそうだった。


子供食堂で笑い合って、

帰りには二人で並んで歩いて、

そのまま同じマンションに帰る。


私はそれを見てしまった。


母子手帳を強く握った。


「……なんで私だけ」


小さく呟く。


「間違えて抱いたくせに」


声が、少し震えた。


あの夜。


――私は、あの日を忘れない。


忘れたくない。


悠輝を、本当に好きになってしまったから。


でも、莉花は私の親友だ。


だから私は、身を引くしかないと覚悟を決めた。


でも私は、妊娠してしまった。


――決して忘れることのできない、あの日の夜を、鮮明に思い出す。



日山商事の対策室には、簡単に入れた。


警備は甘くはない。

だが人は「知っている顔」を疑わない。


カードキーを通す。


内側から鍵をかける。


静かだった。


空調の音だけが、天井から降りてくる。


ウィッグを直す。


メイクを確認する。


モニターに映る顔は――莉花だった。


……似ている。


思った以上に。


二人を守るためだ。


高雄と莉花の均衡は、もう崩れ始めている。


だから、メールを修正する。


今日、莉花は日山食品にいる。

悠輝も、そこにいるはずだった。


ここには夕方しか来ない。


昼過ぎまでに終えて帰る――はずだった。


ノートPCを開き、ログに潜る。


社内メール、アクセス履歴、資金の経路。


あと少し。



その時だった。


――チャイムが鳴る。


心臓が跳ねた。


「……はい」


「悠輝です」


一瞬、思考が止まった。


……嘘でしょ。


私は知っている。


この声を。


逃げなければいけない。


隠れなければいけない。


正体を明かすべきか。


全部わかっていた。


それでも――


誤魔化せるかもしれない。


「……入って」


鍵を開けた。


悠輝が入ってくる。


近い。


思ったより、ずっと近い。


「倉橋さんとの用事、早く済んだんだ」


振り向かない。

声を、莉花の高さに合わせる。


「ちょっと資料の整理してるから、待ってて」


背中に視線を感じる。


落ち着かない。

呼吸が浅い。


その瞬間。


カチ、と鍵の音がして、

照明が落ちた。


「え――」


言い終わる前に、抱きしめられた。


体が凍る。


強い腕。

温かい体温。

背中に胸が触れる。


――悠輝だ。


離れなきゃいけない。


そう思ったのに、声が出なかった。


「……莉花」


名前を呼ばれる。


息ができない。


――気づかないの。


私たちは、従姉妹で、同い年で、よく似ている。

学生の頃は、何度も間違えられた。


……それでも。


抱いても、わからないものなの。


私は腕を外そうとした。


「待って、だめ」


声を振り絞った。


そのまま椅子を回される。


視線が合う。


近い。


次の瞬間、唇が触れた。


呼吸が止まる。


押し返すべきだった。

私は紗希だと言えば終わる。


ここで「違う」と言えば、全部止まる。


わかっていた。


――それでも、言えなかった。


優しいキスだった。


なのに、心臓がうるさい。

頭が熱い。


もう、真似なんてしていなかった。


私は、紗希のまま反応していた。


それでも――


悠輝は、気づかない。


「こわい……」


思わず漏れた声に、自分で驚いた。

離れようと力を入れた。


でも、腕は離れない。


悠輝の中では、私は莉花のまま。

その錯覚を――壊したくなかった。


机の縁に追い詰められる。

逃げ場がなくなる。


体が触れ合う。


近い。

近すぎる。


鼓動が伝わる。

私のじゃない。

悠輝の心臓の速さが、直接伝わってくる。


指が震える。


触れられるたび、

体の奥が熱くなる。


違う。


莉花じゃない。

私は――紗希だ。


なのに。

頭を振るが、両手で押さえられて、

深いキスを受け入れてしまった。


……長いキス。

無意識に、腕を首に回していた。


自分で、驚いた。


唇離れた瞬間。


「……悠輝」

名前を呼んでしまう。


私はもう戻れなかった。


悠輝が顔を寄せる。


キスがもっと深くなる。

呼吸が乱れる。


抵抗する力が抜けていく。

怖いのに、離れたくない。


胸が締め付けられる。


止めなければいけないのに、

――この人は、莉花を抱いている。


わかっているのに、

何もできない。


悠輝には、迷いがなかった。


ワンピースが引き上げられる。


止めなければいけないのに――


そのまま、私は身を任せてしまった。


「痛い」

思わず声が出ていた。


「お願い……優しくして」

言葉が零れる。


「ごめん……まだ痛かった?」


「……うん」


「……あっ」


私は――

溺れてしまった。


「あっ……悠輝……好き」


「僕もだよ、莉花」


「もう……あっ……だめ」


「……悠輝」


私は、莉花として、悠輝に何度も抱かれた。


――私は、インビジブル。

この恋のバグみたいな存在。


途中から、あまり覚えていない。


気がついたとき、

私は天井を見ていた。


悠輝の重さが、心地いい。


静かになった悠輝の頭を、

胸の上で抱きしめる。


……愛おしい。


……結局、抱いてもわからない。


なら――


私でも、よかったんじゃないの。


処女を奪われたのに。


悲しみより先に、


そんなことを思ってしまった。


……莉花に、嫉妬した。



どれくらい時間が経ったのか、わからない。


しばらく、動けなかった。


「……服、直したいから、少し外に出てて」


声を整えて言う。


悠輝は、急に我に返ったようだった。


私を置き去りにしたまま、

自分の格好に気づく。


ここが会議室だと。


慌てて背を向け、

そのまま急いでズボンを履いた。


「あと……お願い。喉が乾いたから、何か買ってきて」


「わかった。冷たいお茶でいい?」


「うん、お願い」


悠輝は、少し名残惜しそうに私を見たあと、

周囲を確かめるようにして部屋を出た。


ドアが閉まる。


足音が遠ざかる。


その瞬間、膝の力が抜けた。


床に崩れ落ちる。


さっきまでの情事が嘘のように、部屋は静まり返っていた。


冷たい床が、少しずつ体温で温まっていく。


まるで、ひとりで沈んでいくような孤独だった。


――だめ。立たないと。


震える手に力を入れ、椅子に座る。


鏡に映るのは、莉花の顔だった。


でも、胸の奥は違う。


お腹に触れる。


まだ少し痛い。


違和感も残っている。


服が汚れてしまった。


消えない。


こすっても、消えない。


これはわざとじゃない。

事故でもない。


二人を守るためだった。


それでも。


抱きしめられた感触が離れない。


名前を呼ばれた声が消えない。


――紗希と、呼んでほしい。


私は気づいてしまった。


――私は、悠輝を本当に好きだったのだと、ようやく自覚した。



ドアに鍵をかける。


机に戻り、端末を開いた。


このままでは――まずい。


悠輝は、莉花に会う。


そうなれば、全部壊れる。


日山食品、営業部の予定表を開く。


営業二課。


関西支社への出張案件。


担当者。


斉藤義夫。


新商品の販路拡大要請。


私は、数秒だけ考えた。


そして、名前を消す。


代わりに入力する。


橘 悠輝。


理由欄に打ち込む。


《藤堂高雄 緊急案件》


それだけで十分だった。


だが、念のため

もう一つだけ手を打つ。


スマートフォンを取り出す。


連絡先を開く。


加賀 副社長。


常務だった加賀を、副社長に引き上げたのは――

藤堂高雄だった。


つまり、この電話は断れない。


発信する。


二回のコールで繋がった。


「はい、もしもし」


「突然すみません」


私は静かに言った。


「藤堂高雄の代理です。お願いがあります」


沈黙。


「営業三課の橘悠輝を」


「三日ほど、関西支社へ出張させてほしいんです」


「人事処理はこちらで済ませています」


「高雄の緊急案件です」


短い沈黙。


それで十分だった。


「……わかりました」


加賀は低く言った。


「橘には、こちらから連絡しておけばいいですね」


「お願いします」


「理由は副社長にお任せします」


通話が切れる。


さすがに、副社長は話が早い。


私はしばらく服を整え、化粧を直した。


鏡の前で、口紅を引き直す。


指でウィッグを整える。


数分後。


廊下で、悠輝のスマートフォンが鳴った。


「橘です」


少し驚いた声。


「はい……はい」


「わかりました」


通話が終わる。


指先で頬に触れる。


――落ち着け。


私は莉花。


そう思った瞬間、


ドアがノックされた。


「入って」


悠輝が入ってくるなり言う。


「今からすぐに関西と九州に出張になった」


「こんなこと、初めてだ」


「緊急なのかな?」


私は画面を見たまま答える。


「……そうなんだ」


「寂しいけど、しょうがないね」


「うん。頑張ってくるよ」


少し間が空く。


「連絡して」


「わかった」


「……気をつけてね」


背中越しの声だった。


悠輝は部屋を出る。


久しぶりのまともな仕事に、悠輝の足取りは軽そうだった。


ドアが閉まる。


足音が遠ざかる。


完全な静寂が降りた。


私はスマートフォンを取り出した。


連絡先を開く。


藤堂高雄。


少しだけ迷う。


だが、これは必要なことだ。


発信する。


数回のコールで繋がった。


「どうした、プロフェッサー」


低い声だった。


私は静かに言った。


「加賀副社長に、橘悠輝を関西へ出張させるよう頼んだの」


短い沈黙。


「理由は?」


「ちょっと必要なの」


少し間を置く。


「高ちゃんの名前、使っちゃった」


電話の向こうで、小さく笑う声がした。


「あとで加賀に一言だけ連絡しておいて」


「わかった」


高雄はあっさり言った。


少し間が空く。


「橘悠輝か」


低く呟く。


そして、少し楽しそうに言った。


「娘の彼氏か?」


私は答えなかった。


沈黙。


電話の向こうで、くぐもった笑い声がする。


「……まあいい、お前のやることだ、理由は聞かない」


「楽しみにしてるぞ、プロフェッサー」


「もう、それやめてって言ってるでしょ」


通話が切れた。



キーボードを打つ手が止まる。


私は、画面を見たまま動けなかった。


モニターの黒に、莉花の顔が映っている。


整えた髪。

同じメイク。

同じ表情。


――違う。


指先が震える。


私は、ゆっくりと椅子の背にもたれた。


天井を見る。


呼吸が浅い。


「……最低」


声が出た瞬間、胸が痛んだ。


騙すつもりじゃなかった。


奪うつもりもなかった。


ただ――守るためだった。


それなのに。


私は目を閉じる。


抱きしめられた感触が離れない。


名前を呼ばれた声が、耳に残っている。


――莉花。


違うのに。


違うと知っているのに。


私は、否定しなかった。


その瞬間、


涙が止まらなくなった。


どうして泣いているのか、

自分でもわからなかった。


悠輝のことが――


好きなのに。


均衡を守った代償は、

計画の失敗でも、危険でもない。


――戻れない、ということだ。


小さく息を吐く。


「……選んだのは、私だ」


誰にも聞こえない声だった。



……そこまで思い出して、

ゆっくり目を閉じた。


夕暮れの空気が冷たい。


産婦人科の前の歩道に、街灯が灯り始めている。


私はもう一度、母子手帳を開いた。


この子に――

父親は必要だ。


静かな怒りが胸に浮かぶ。


どうして私だけ、隠れて生きなきゃいけない。


どうして私だけ、身を引かなきゃいけない。


私は立ち止まった。


ゆっくり息を吸う。


そして決めた。


――会いに行こう。



立っているだけで、席を譲られるほどに大きくなったお腹。


私は家に戻った。


鏡の前に立つ。


しばらく自分の顔を見つめる。


それから、引き出しを開けた。


ウイッグを取り出す。


莉花と同じ髪型。


鏡の前でゆっくり被る。


ナチュラルメイク。


莉花と同じように。


口紅も、薄く。


出来上がった顔を見て、


私は小さく笑った。


「……あの時と同じ」


あの夜と。


同じ顔。


同じ髪。


同じ女。


母子手帳をバッグに入れた。


そしてドアを開けた。


向かう先は決まっている。


悠輝と、


莉花のいる場所へ。



まだ生まれていない命。


壊れた関係。


混ざってしまった運命。


それでも――


私は、逃げない。


奥底から、

止めどなく湧いてくる。


溢れてしまったものは、

もう戻せない。

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