29章 《東南アジアの亡霊》
人は過ちから学ぶ。
そう教えられてきた。
だが、過ちは癖になる。
気づいたときには、
戻る場所がそこしかない。
吉野は――
そういう男だった。
ミアを殺したあとも、
あいつは追ってきた。
だが、俺は生き残った。
あの目は忘れられない。
殺し屋。
あいつの本性を見た。
笑っていた。
まるで、遊びの延長みたいに。
俺は走った。
倉庫を飛び出し、裏路地を抜け、港へ向かった。
背後で銃声が鳴る。
コンクリートが砕ける音。
耳鳴りがした。
振り返らない。
振り返ったら終わりだ。
コンテナの影に飛び込み、そのまま港の外へ抜けた。
トラックの陰に身を潜め、息を整える。
遠くでエンジン音が消えた。
レオンは追ってこなかった。
逃げ切れた。
そう思った瞬間、足の力が抜けた。
俺はその場に座り込んだ。
だが、すぐに立ち上がる。
ここに長くいるわけにはいかない。
レオンは、必ずまた来る。
あいつは――
そういう男だ。
⸻
明るい場所では狙われない。
港には、日山の荷が積まれるコンテナが並んでいた。
税関を通る船は、すでに決まっている。
吉野はその一つを知っていた。
日山に対する検査は緩い。
正規の荷物の奥に、
人間一人くらいなら隠れられる。
撃たれるよりはマシだ。
吉野は迷わなかった。
コンテナの影に潜り込む。
程なく動き出した。
⸻
コンテナの中は想像以上に地獄。
すぐに後悔した。
完全な暗闇。
わずかに空気は入る。
だが、熱がこもる。
積まれているのは食品の箱。
おそらくレトルト食品だ。
段ボールの乾いた匂いと、
加工された食品の匂いが混ざる。
腹が鳴る。
俺は箱を一つ破った。
手探りで中身を引きずり出す。
袋を裂く。
冷たいハンバーグだった。
ほとんど噛まずに、飲み込む。
味は、わからない。
それでも、うまかった。
手持ちの水は少ない。
味が濃い。
ダメだと思っても飲んでしまう。
時間の感覚が消える。
どれくらい経ったのかもわからない。
⸻
一瞬、気が狂いそうになる。
だが、また戻る。
少しずつ、この地獄に慣れていく。
揺れが変わる。
止まった。
エンジン音。
人の気配。
金属音。
ロックが外れる。
――来る。
俺は息を殺した。
扉が開く。
光が差し込む。
その瞬間――
俺は飛び出した。
着地と同時に、コンテナの影に滑り込む。
「おい、今――」
音がした?
見られた?
だが、確信まではいっていないようだ。
俺は動かない。
呼吸を殺す。
足音が近づく。
コンテナの隙間から、作業員の靴が見えた。
止まる。
一歩。
また一歩。
――来るな。
数秒。
やがて足音が離れる。
「気のせいか……」
声も遠ざかる。
俺はゆっくりと息を吐いた。
今だ。
反対側へ回り込む。
コンテナが並ぶ影の中を、低く移動する。
フォークリフトが動いている。
エンジン音に紛れる。
タイミングを合わせて走る。
一つ。
二つ。
コンテナの列を抜ける。
フェンスが見えた。
開いている。
トレーラーが出入りしている搬入口だ。
俺は迷わずそこへ向かった。
警備員が背を向けている。
書類に目を落としている。
距離は、十メートル。
足を止めない。
そのまま歩く。
走らない。
視線も向けない。
通り過ぎる。
何も言われない。
――抜けた。
そのまま振り返らず、外へ出る。
背中に、まだ視線が残っている気がした。
⸻
神代レオンは殺し屋だ。
捕まるリスクは取らない。
だから、ここには追ってこないはずだった。
だが、それで安全になったわけじゃない。
むしろ逆だ。
ここからが、本当の逃亡だ。
警察にも追われている。
そして何より――
あいつは必ず時間をおいて追ってくる。
神代レオン。
⸻
このスマホは使えない。
東南アジアへ行く直前、
俺のスマホは別の端末と交換させられた。
おそらく電源を入れた瞬間、
場所が特定される。
すぐにタクシーを拾った。
だが、アパートには長くいられない。
最低限の現金だけを取り、
シャワーだけ浴びて、服を着替えた。
夜まで、小さなネットカフェに身を潜めた。
パソコンが一台置いてある。
俺はキーボードの前で、しばらく動けなかった。
これなら使える。
どこへ送る。
誰に送る。
考えるまでもない。
日山ホールディングス。
特別対策室。
あそこしかない。
まだ、俺の話を聞く可能性がある場所は。
フリーメールアドレスを作った。
メール画面を開く。
宛先を入力する。
日山HD 特別対策室
件名。
少し考える。
そして、打ち込んだ。
《東南アジアの亡霊》
しばらく画面を見つめる。
それから、ゆっくりと文章を書き始めた。
⸻
東南アジアルートは、消えたわけじゃない。
倉庫も、船も、資金の流れも、そのままだ。
崩壊したように見せかけただけだ。
みんな騙されている。
神代レオンに殺されかけた。
今、逃げている。
警察にも追われている。
助けてほしい。
吉野
⸻
送信。
数分後。
返信が来た。
画面に短い文章が表示される。
《吉野とは、行方不明になっている営業三課の課長か?》
俺はすぐに打ち込んだ。
《そうだ。助けてほしい》
送信。
しばらくして、また返信が来た。
《それでは、あなたが以前いた児童館に来られるか?》
俺は画面を見つめた。
児童館。
あの子供食堂の場所だ。
安全なのか。
罠じゃないのか。
だが――
他に選択肢はない。
俺は返信した。
『わかった』
『今から向かう』
送信。
⸻
パソコンの画面を閉じる。
立ち上がる。
外は、もう夜だった。
だが――
背中に、まだあの視線を感じる。
神代レオン。
あいつは、まだどこかで笑っている。
そんな気がした。
⸻
児童館の灯りは、まだついていた。
夜の住宅街は静かだ。
俺はしばらく、建物を遠くから見ていた。
罠かもしれない。
警察かもしれない。
対策室の人間かもしれない。
だが――
もう逃げ場はない。
俺はゆっくり歩き出した。
児童館の入口の前に立つ。
子供たちの声はない。
今日は食堂の日じゃない。
ドアを押す。
静かな音がした。
中に、一人の女が立っていた。
スーツ姿。
背筋の伸びた立ち方。
俺は警戒したまま言う。
「……対策室の人間か?」
女は、ゆっくり頷いた。
「ええ」
落ち着いた声だった。
「私がそうよ」
その声を聞いた瞬間――
動けなかった。
「……おい」
信じられない。
「お前……」
目の前に立っていたのは、
かつての自分の部下だった。
日山食品
営業二課
田中莉花。
俺は思わず笑った。
「冗談だろ」
「お前……」
「いつからそんな所に……」
莉花は表情を変えない。
「ずっとよ」
俺は首を振る。
「意味がわからねえ」
莉花は静かに言った。
「私の本名は――」
一瞬の沈黙。
「藤堂莉花」
時間が止まった。
俺の背中に冷たい汗が流れた。
「……おい」
一歩、後ろに下がる。
「じゃあ……」
声が震える。
「藤堂高雄の娘じゃないか」
次の瞬間。
俺はつま先を返した。
逃げる。
だが――
腕を掴まれた。
「動くな」
低い声。
振り向くと、千堂が立っていた。
俺は必死に振り払う。
「離せ!」
その瞬間。
後ろから、もう一人が腕を取った。
亮平だった。
「暴れるな」
二人がかりで床に押さえ込まれる。
「くそっ!」
亮平がポケットから結束バンドを取り出す。
「千堂さん、腕を押さえてて」
亮平が手首を引き寄せ、
素早く結束バンドを締めた。
カチッ。
小さな音。
「これで暴れない」
亮平が言った。
莉花が近づいてくる。
「千堂さん」
落ち着いた声だった。
「吉野を安全な場所に連れて行くわ」
千堂が頷く。
「了解」
亮平が俺を立たせた。
「行くぞ」
⸻
車の中。
エンジン音だけが続く。
俺は後部座席に押し込まれていた。
手首の結束バンド。
もう逃げ場はない。
助手席に莉花が座っている。
しばらく沈黙が続く。
やがて俺は言った。
「……お前」
莉花は振り向かない。
俺は低く言った。
「あいつの娘だろ」
少し間を置く。
「俺を差し出すのか?」
車の中が静かになる。
莉花は前を向いたまま言った。
「なんで取った駒を差し出すの?」
短い言葉だった。
「私は父を倒すために、駒を使う」
「歩だって、使い方次第で金になる」
俺は鼻で笑う。
「信じろってか」
「まだ自分の立場がわかってないの?」
莉花が振り向く。
「面倒なら処分するわよ」
「千堂さん」
「はい」
「海に捨てましょうか」
千堂が吉野に向かって低い声で言う。
「嫌なら素直に答えろ」
「聞きたいことがある」
「東南アジアルート」
「なぜ完全に崩壊しなかったの?」
俺はしばらく黙った。
千堂が腕を捻りあげる。
「痛たた、痛い……待て……言う」
それから、小さく息を吐く。
「……俺が止めた」
莉花の目が細くなる。
「どういう意味?」
俺は苦笑した。
「社長に言われたんだ」
「ルートをなるべく、壊すなってな」
車の中が静まり返る。
俺は続ける。
「表向きは壊滅」
「でも実際は――」
「ルートはそのままだ」
「倉庫も船も、全部残ってる」
沈黙。
そして、俺は最後に言った。
「つまりだ」
「東南アジアは――」
「まだ生きてる」
「東南アジアは――」
「まだ生きてる」
⸻
いい餌になるか。
それとも、処分するだけの害虫か。




