28章. 《藤堂高虎》
この家に戻ると、時間の流れが少しだけ緩やかになる。
外よりも静かで、音が柔らかい。
朝の光が高い天井を伝い、
磨き上げられた床に淡く反射する。
空気は澄んでいて、匂いまで整っている。
ここは、私が生まれ、育った場所だ。
悠輝は、この家に来ると、どこか落ち着かないようだった。
私にとっては日常でも、彼にとっては、別の世界なのだ。
ただ、育ってきた環境が違う。
それだけのことだった。
祖父――藤堂高虎は、応接室の定位置に座っていた。
年齢を重ねても、その佇まいは変わらない。
背筋はまっすぐで、動きに無駄がない。
「来たか、莉花」
低く、静かな声。
私は一礼し、向かいに腰を下ろす。
悠輝も隣に座った。
祖父は優しい顔で悠輝を見た。
「橘君だったね」
祖父は穏やかに微笑んだ。
「莉花と仲良くしてくれてありがとう」
「莉花にはな、
見合いではなく、
本当に好きな人と結婚してほしい」
少し間を置いて、続けた。
「君がいいなら、
早く結婚してもらって、
生きているうちにひ孫の顔も見たいもんだ」
私は少しだけ頬を赤らめた。
「お爺様……」
祖父は軽く咳払いをした。
「――今日は、そんな話ではない」
そして私の名を呼ぶ。
「莉花」
祖父はそう言って、窓の外に視線を向けた。
「高雄のことだ」
私は黙って頷く。
「高雄がこの家を出ていったのは、知っているな」
父――藤堂高雄は、もうこの家には戻らない。
「高雄は、若い頃は誠実な男だった」
祖父は、淡々と言った。
「優しい男だった」
「人を助け、皆で結果を出そうとする男だった」
その姿を、私は知らない。
けれど、母を愛していたことだけは、確かだ。
母は、私を産んでから体調を崩し、
数か月後に亡くなった。
私は、メイドや家庭教師に囲まれて育った。
祖父は忙しい中でも、必ず時間を作ってくれた。
不自由はなかった。
愛情も、十分に注がれていたと思う。
それでも――
父は、私を見るたびに、母を思い出しているようだった。
私には母の面影が濃く、
それは年を重ねるごとに強くなっていった。
それが、父が私を避ける理由なのだと思う。
もしかすると――
私が生まれなければ、
母は死ななかったのかもしれない。
父は、
その思いが強く残っていて、
私のことを嫌いなのかもしれない。
「高雄はな、仕事に没頭した」
祖父の言葉は、責める調子ではなかった。
「自分が会社を大きくすると言って、南米対策に乗り出し、独裁政権とも手を組み、成果を積み上げた」
「おそらくその時に、人の情などなくしてしまったんだ」
「発展途上の国は、裏切りの世界だ」
「そこで裏社会と繋がり、莫大な金をつかむシンジケートを確立した」
「恐怖と金を使ってな」
「金を使って金を産む」
「商売の基本だが、高雄はそこに恐怖も追加したんだ」
祖父は、こちらを見ずに続ける。
「自分の資金を増やすために、どうしても東南アジアのルートが必要になったんだ」
私は、その意味を理解していた。
「東南アジアルートが崩壊しても同じだ」
「すぐ次を考える」
「もっと危険な商いを」
誰かが傷つき、
誰かが切り捨てられる場所だ。
「家族より、組織を選んだのだろうな」
祖父は静かに続けた。
「何をしているのかまでは分からんが、
相当な資金を動かしているらしい」
「日山の役員にも、
かなり手が回っている」
「この前、
こちらにも耳に入ってきた」
少し間を置いて、祖父は言った。
「高雄が、
何を目指しているのか」
「……わしにも分からん」
「放っておいても、
いずれ自分のものになるのに」
祖父は、低く呟いた。
「……まるで、
誰かに止めてほしいみたいだ」
祖父は、しばらく黙って庭を見ていた。
「確かに」
祖父は、静かに言った。
「わしが作った日山ホールディングスは、まだ不完全な会社だ」
「いや……」
「もう解体と増殖を繰り返し、
止まることを忘れた怪物かもしれん」
やがて、言葉を切る。
そして、初めて私を見る。
「莉花」
名を呼ばれ、背筋が伸びる。
「わしにはな、
高雄を止める理由が見つからんかった」
祖父は、ゆっくりと言った。
「あいつも――
わしと同じ道を歩いていたからだ」
それは、言い訳でも、懺悔でもない。
ただの事実だった。
「わしはまだよかった」
祖父は小さく息をついた。
「もう一線を退き、
愛するお前たちがいる」
少し間を置いて、続けた。
「だが――
高雄には、
繋ぎ止めるものがあるのか」
「高雄も、
わしの可愛い息子だ」
「間違っていると分かっていても、
咎めることはできなかった」
「若き日に妻を亡くした時の高雄の涙」
「忘れられんのだ」
「不憫でたまらない」
「……」
「親子とは、そういうものだ」
祖父の声は、低く、穏やかだった。
「情が、最後まで残る」
私は、何も言えなかった。
「だからこそ、わしはお前に託す」
その言葉で、空気が変わる。
「わしが出来なかったことを、
お前がどうするのかを」
「正すのか」
「止めるのか」
「それとも、共に沈むのか」
祖父は、答えを求めなかった。
「返事は、急がんでいい」
そして、最後に。
「どんな答えでもな」
「わしは、莉花の味方だ」
その一言が、
胸の奥に静かに落ちていった。
私は頷いた。
この家は変わらない。
変わったのは、父が去ったことだけ。
そして――
私が、進む側になったことだけだった。
———
「そうだ最近、亮平は何をしている?」
「貴子さんが心配してるぞ」
「先日会ったけど、元気です」
「あれも、親不孝だ」
「たった一人の肉親を置いて、家出するとは、たまには帰って元気な顔を見せてばいいのにな」
「貴子さんが可哀想だ」
「お爺様、貴子さんのこと好きですからね」
「私も、貴子さんにはずっとお世話になりっぱなしです」
「私にとっても、お母さんみたいな人でした」
「お爺様、いっそのこと貴子さんと結婚すればいいのに」
「馬鹿をいえ、こんな年寄り嫌に決まっている」
「そんな事ないですって」
「今度、貴子さんに聞いてみようかな」
「でも、お爺様と貴子さんが結婚したら、亮平は私の叔父さんになる」
「年下の叔父さんって、変だな」
「馬鹿事を考えなくていい」
でも――
お爺様も、まんざらでもなさそうだった。




