27章 《闇に蠢く》
地下で蠢く虫は、
踏み潰したつもりでも、消えない。
見えない場所で、
また動き出す。
東南アジアルートの“壊滅”から、
気づけば季節が三つ巡っていた。
表の世界は、嵐が過ぎ去ったかのように静かだった。
だが――
闇は、そんな静けさとは無関係に動いている。
藤堂高雄は、すでに次の手を打っていた。
東南アジアルートは、着実に再構築されていた。
しかも以前より、見えない形で。
壊れた場所を直すのではない。
骨組みごと作り替える。
それが高雄のやり方だった。
問題は一つだけあった。
吉野。
あの男の口の軽さだ。
金に弱く、酒に弱く、
自分の価値を必要以上に大きく見せたがる。
東南アジアルートは手に入ったが、
あいつのせいで、いつほころびが広がってもおかしくない。
だから高雄は――
別の男を呼び寄せた。
南米から。
街には、乾いた秋の風が吹き始めていた。
⸻
神代レオン。
高雄の南米ルートを長く管理してきた男だった。
寡黙で、冷静で、
そして何より容赦がない。
レオンは、かつて南米のマフィアに追われていた。
手負いのレオンに手差し伸べたのが、高雄だった。
高雄はマフィアとも話をつけ、
そのままレオンを自分の側に置いた。
銃の扱いや武道は、
千堂が徹底的に教え込んだ。
裏の仕事を覚えたのは、
レオン自身が高雄の役に立ちたいと思ったからだ。
高雄は、レオンを自分の右腕に育て上げた。
妹のマルシアは、
高雄の勧めで
日山南米開発で働いている。
家族が生きていけるのは、
すべて高雄のおかげだと、
レオンもマルシアも理解していた。
だから――
東南アジアルートの再構築は、
すべて神代レオンに任せていた。
高雄が信頼する、
数少ない男の一人だった。
⸻
現地の倉庫。
湿った空気の中で、レオンは黙って帳簿を見ていた。
政府の役人には賄賂が送られている。
港の管理者も、すでにこちら側だ。
荷は税関を通り、
日山商事の関西ルートへと流れる。
そこには高雄が話をつけている
日本最大の組織が待っている。
販売網は、すでに出来上がっていた。
金は静かに積み上がっていく。
裏金は、
ダミー会社をいくつも経由し、
架空取引で姿を変えながら、
タックスヘイブンへ流れる。
そこから資金は、
架空のコンサル契約や海外投資を通して、
正規の利益の顔で戻ってくる。
その資金は、さらに別の場所で使われる。
日山の役員たち。
高雄はプロフェッサーに依頼。
社内メールや人事情報を使い、
彼らの弱みを握っていた。
昇進。
投資。
裏金。
時には脅し。
飴と鞭。
そのすべてを使い、
役員たちは静かに高雄の側へと寄っていく。
気づいたときには――
役員の三分の一が、
高雄の配下に入っていた。
表向きは、誰も気づいていない。
だが水面下では、
日山という怪物の血流が
ゆっくりと高雄へと集まり始めていた。
⸻
その頃、吉野はすでに
レオンの手にも負えないほど増長していた。
東南アジアの現場では、
自分がトップだと吹聴し始めていた。
「俺のおかげで、このルートが動いてる」
酒を飲むたびに、そう言った。
「なのに、こんなへんぴな国に島流ししやがって」
文句ばかりだった。
現地の人間にも威張り散らし、
会社の金も勝手に使う。
そしてついには――
レオンに金を要求するようになった。
倉庫の奥で、吉野は酒の匂いを漂わせながら言った。
「おいレオン」
レオンは顔を上げない。
「追加の金が欲しい」
「藤堂に連絡してくれ」
「危険な橋を渡ってやったんだぞ」
「俺がいなきゃ、このルートはできなかったんだぞ」
レオンは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「あなたが作ったルートではない」
吉野の顔が歪む。
「何だと?」
レオンは視線を上げた。
その目は冷たかった。
「あなたは、ただの保険」
「グエンだけでも成功していた」
倉庫の空気が止まる。
吉野は怒りで顔を赤くした。
「ふざけんな!」
「俺は全部知っている」
「全部バラすぞ!」
レオンは言った。
「あなたは壊す」
「今も、そうだ」
吉野は言葉を失った。
だが次の瞬間――
吉野は急に黙った。
視線だけが動く。
倉庫の奥。
扉。
外の気配。
空気。
何かが違う。
長年、裏で生きてきた人間の勘だった。
――まずい。
吉野は弱い男だった。
だが弱いからこそ、
危険の匂いには敏感だった。
「……トイレ」
吉野はそう言って立ち上がった。
レオンは何も言わない。
吉野は歩きながら、少しずつ速度を上げる。
廊下。
角。
その瞬間――
走った。
非常口のドアを蹴り飛ばす。
外の熱気が顔に当たる。
振り向かない。
走る。
走る。
ただ本能だけで。
⸻
倉庫の二階から、レオンはその姿を見ていた。
部下が言う。
「追いますか?」
レオンは、しばらく黙っていた。
そして静かに首を振る。
「いい」
「すぐに捕まる」
「ソムチャイ署長に連絡してくれ」
「見つけたら――その場で射殺してかまわない」
それだけ言った。
遠くで、吉野の小さな背中が消えていく。
闇は広い。
だが――
逃げ場は、そう多くない。
闇の中では、
逃げ回る者ほど、
多くの痕跡を残す。
⸻
その夜。
吉野は、ある店の裏口を叩いた。
Harbor Moon。
ネオンの消えかけた、小さな風俗店だった。
何度も通っていた場所だ。
扉が開く。
女が顔を出す。
「……吉野?」
ミアだった。
吉野は封筒を押しつけた。
「金だ」
「頼みがある」
ミアは眉をひそめる。
「何よ」
封筒の中身を見て、顔色を変えた。
「……これ、何?」
「いいから車を出せ」
「コンテナ埠頭まで行きたい」
ミアはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「何やったの」
「いいから早くしろ」
「私、あなたの奥さんじゃないよ」
「……本当に、ろくでもない男ね」
⸻
車は夜の港へ向かって走った。
吉野は後部座席で、何度も後ろを振り返る。
誰も追ってきていない。
そのはずだった。
だが――
交差点で車が止まった瞬間。
乾いた銃声が響いた。
ミアの身体が前に崩れる。
フロントガラスに血が広がる。
吉野は叫びながらドアを開けた。
振り返らない。
草むらを走る。
遠くの街灯の下に、
神代レオンが立っていた。
笑っていた。
⸻
吉野は息を切らして、闇の中を走り続けた。
やがて――
コンテナ埠頭の灯りが見えた。
草むらに身体を埋め、
夜明けまで息を殺した。
朝。
作業員が動き始める。
クレーンの音。
フォークリフトのエンジン。
その隙に――
吉野は、日山のロゴが入ったコンテナの陰に滑り込んだ。
そのコンテナは、
夕方の積み込みで船に載せられる予定だった。
日本行きの定期船。
ここから神戸までは、
およそ一週間。
港のクレーンが動き出せば、
もう誰にも見つからない。
吉野は扉の隙間から中に潜り込んだ。
暗いコンテナの奥へ、
身体を押し込む。
検査の気配は、通り過ぎていった。
水は三本しかない。
七日持つかは、運次第だった。
ここにいれば、
どうせ殺される。
生き残れるかどうかは、天候次第だった。
晴れが続けば、必ず死ぬ。
そして――
生き残っても、
先がある




