26章 《小さな光》
光は、いつも目に見えるとは限らない。
まだ形になっていないもの。
まだ誰にも知られていないもの。
それでも確かに、そこにある。
小さくて、弱くて、
それでも消えない光が――
東南アジアルートの壊滅から、気づけば季節が一つ進んでいた。
街には、初夏の陽射しが満ちていた。
南米ルートは、残っている。
藤堂高雄の資金の大動脈は、完全には断たれていない。
それでも、東南アジアの崩壊は大きかった。
日山の内部を覆っていた緊張は、ようやく少しだけ緩んできているように感じられた。
莉花たちにも、久しぶりに穏やかな時間が訪れていた。
悠輝と亮平の強い希望もあり、
あの児童館の子供食堂を再開することになった。
今度は以前とは違う。
日山食品とスーパーアサヒに正式な支援を依頼した。
そして――
莉花は非営利財団
Gleam Foundation を設立した。
gleam――
それは、暗闇の中でふと見える
かすかな光のことだ。
暗い場所にも、
小さな光は届く。
そんな願いを込めた名前だった。
倉橋と共に、
かつて朝日川商事に流れていた闇資金の残骸をすべて洗い出し、
その一部を寄付という形で財団へ移した。
日山食品では、合併後に不要となった朝日川ビルや、
その中の調度品が次々と売却されていった。
従業員のリストラクトも、すでに始まっていた。
営業三課は廃止された。
朝日川出身の社員の多くが整理対象となったが、
その八割近くは系列グループへの出向という形で受け入れられ、
社内はようやく落ち着きを取り戻していた。
悠輝は営業一課へ配置換えとなる。
有給休暇を取っていた吉野は、
そのまま姿を消した。
だが――
失踪届は出ていない。
その結果、日山食品は表も裏も整理され、
名実ともに、
クリーンな会社へと変わりつつあった。
⸻
子供食堂は、以前よりも大きな規模で再開された。
土曜日の午後。
児童館の調理室には、揚げ油の音が響いている。
「悠輝ー、コロッケできたよ!」
キッチンの奥から亮平の声が飛んだ。
悠輝が振り返る。
「了解。次どんどん揚げて」
「まだまだあるからねー!」
亮平は笑いながら大きなバットを差し出す。
「たくさん食べてよ〜!」
揚げたてのコロッケが、トレーいっぱいに並んでいく。
由依がエプロン姿で駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、運ぶよ!」
「助かる」
由依は慣れた手つきで皿に盛り付ける。
「はい、次のテーブル!」
テーブルでは、子供たちが目を輝かせて待っている。
「コロッケだ!」
「やったー!」
小さな歓声が上がる。
紗希はジュースを配りながら笑っていた。
「こぼさないでねー」
千堂は入口で交通整理のように子供たちを案内している。
「慌てるな慌てるな、逃げないぞ」
笑い声が広がる。
児童館の空気は、温かかった。
莉花は、その光景を少し離れた場所から見ていた。
悠輝が子供にコロッケを渡している。
亮平が大きな声で笑っている。
由依が走り回っている。
紗希が楽しそうに子供と話している。
千堂が腕を組んで見守っている。
そして――
子供たちの笑顔。
莉花は、静かに息を吐いた。
守りたいと思った。
この時間を。
この場所を。
この笑顔を。
ずっと続けばいいと――
心から願った。
⸻
対策室にも、しばらくの間、
目立った案件は入ってきていなかった。
東南アジアルートの崩壊は、想像以上に影響が大きかった。
日山の内部で動いていた闇の資金の流れは、一度大きく整理された。
嵐のあとに訪れる、束の間の静けさだった。
莉花は、悠輝に対策室へ来るよう何度か勧めた。
だが悠輝は、それを断った。
日山食品に残り、
営業一課の課長補佐として働く道を選んだのだ。
平日は営業。
休日は子供食堂。
忙しい毎日だった。
それでも悠輝は、文句ひとつ言わなかった。
子供たちの笑顔を見ると、
疲れなど、どこかへ消えてしまうらしい。
そして夜になると――
莉花と会う。
食事をしたり、
ただ静かに過ごしたり。
時には、
夜の街を歩いてデートもした。
やがて二人は、
都内のマンションを借り、
一緒に暮らし始めていた。
豪華でも、広くもない。
普通の部屋だった。
それでも。
莉花にとっては、
初めての――
温かい家庭だった。
仕事から帰ると、
部屋に灯りがついている。
キッチンから、料理の匂いがする。
そんな当たり前のことが、
莉花には少し不思議だった。
そして、少しだけ嬉しかった。
⸻
Gleam Foundation の活動は少しずつ広がり、
週末になると児童館には子供たちの笑い声が戻ってきた。
その日の片付けのあとだった。
紗希が、ふと口を開いた。
「ねえ、みんなに話がある」
手を止めて、皆が顔を上げる。
紗希は少しだけ視線を落とした。
悠輝とは、最後まで目を合わせなかった。
「私、しばらくアメリカに戻ろうと思う」
一瞬、
空気が止まった。
「え?」
悠輝が思わず声を上げる。
「急にどうしたんだよ」
紗希は小さく笑った。
「もう少し勉強したいの。
向こうの研究室から声もかかってるし」
「ここで出来ることは、
もう十分やったかなって思って」
亮平が腕を組む。
「……急すぎるだろ」
「子供食堂、これからじゃん」
紗希は肩をすくめた。
「だから大丈夫だよ」
「みんながいるでしょ」
そう言って、莉花を見る。
「莉花なら、もっと大きく出来る」
莉花は、しばらく黙っていた。
それから静かに言う。
「……いつ?」
「来月」
少しの沈黙。
悠輝が、苦笑した。
「なんだよ、それ」
「もっと早く言えよ」
紗希は笑う。
「言ったら止めるでしょ?」
「当たり前だろ」
亮平が言う。
「紗希姉さんいなくなったらさ、誰が俺の酒に付き合ってくれんだよ」
「千堂でいいじゃん」
「無理」
皆が少し笑った。
そのあと、静かな時間が流れる。
紗希が立ち上がった。
「大丈夫」
「またすぐ会えるよ」
軽い口調だった。
まるで、少し遠くに旅行に行くだけのように。
莉花は、その言葉に頷いた。
悠輝も、亮平も、千堂も。
誰も、深く聞かなかった。
だから――
誰も知らなかった。
紗希が、
その理由を言わなかったことも。
そして、
本当の理由が、
別のところにあったことも。
穏やかな時間は、
いくつもの小さな均衡の上に成り立っている。
誰かが欠ければ、
それは音もなく崩れ始める。
まだ、そのヒビに
誰も気づいていなかった。




