25章.《静謐(せいひつ)》
人の記憶は、不思議だ。
顔や言葉よりも先に、
ふとした匂いだけが残ることがある。
それが何なのかは、
すぐには分からない。
ただ、
その匂いを嗅いだ瞬間、
忘れていたはずの記憶が
急に戻ってくることがある。
《莉花》
オペレーション・ブラインドの後処理は、驚くほど静かだった。
数日後、
櫻井と細川を隠す必要はなくなった。
千堂に電話を掛けてもらう。
「例の二人、引き取ってもらえますか」
短い沈黙。
「ええ。警察の方で」
電話を切る。
細川の自宅には、すでに薬を置いてある。
匿名の告発文も一緒だ。
櫻井の車の場所も、警察に知らせてある。
鑑識が入れば、すぐに分かる。
殺しの証拠も、
薬の流れも。
あとは警察が仕事をするだけだった。
千堂が静かに言う。
「これで終わりです」
私は答えた。
「ありがとうございます」
罪人に情は、いらない。
櫻井と細川の運命は、
もう決まっていた。
⸻
二日前、悠輝からメールが来た。
《今から出張行ってきます》
それだけだった。
本当は、その日の夕方に会う約束だった。
対策室で少し話すだけの、いつもの時間。
私はスマートフォンを見たまま、しばらく動かなかった。
――仕事だもの。
わかっている。
社会人なのだから、当然のことだ。
それなのに、胸の奥に小さな空洞ができたみたいだった。
「……大げさね」
書類に視線を落とす。
けれど、文字が頭に入らない。
三分ごとにスマートフォンを確認している自分に気づいて、苦笑した。
私は社内スケジュールを開いた。
営業三課
出張先――博多支社
指が止まる。
「……九州」
思ったより遠い。
画面を閉じる。
――もう一度開く。
確認する意味なんてないのに、また見てしまう。
私は椅子の背にもたれた。
離れただけ。
たった二日会えないだけ。
それなのに――会いたい。
こんな感情、初めてだった。
天井を見上げる。
胸騒ぎがした。
理由はわからない。
しばらくして、立ち上がる。
「……行こう」
言った瞬間、自分で笑ってしまった。
理由なんて、もうどうでもよかった。
ただ、会いたかった。
⸻
飛行機を降りると、空気の匂いが違った。
少し湿っていて、暖かい。
私はスマートフォンを取り出した。
「着いた」
数秒後、既読がつく。
『え?』
その直後に電話がかかってきた。
「……もしもし」
『どこに着いたの?』
思わず笑った。
「空港」
『空港って……もしかして博多の?』
「うん」
「……」
『……ちょっと待ってて、今から迎えに行く』
少しだけ、声が柔らかくなっていた。
⸻
到着ロビーの柱にもたれて待つ。
数十分後、悠輝が走ってくる姿が見えた。
スーツのまま。
明らかに急いできた顔。
「……莉花」
少し息を切らしている。
次の瞬間、
私は思わず走り出し、悠輝に勢いよく抱きついた。
気づいたときには、もう腕を回していた。
「来ちゃった」
「どうして」
「会いたかったから……」
少し恥ずかしくなったのか、声が小さくなっていく。
「……迷惑だった?」
「違う!」
即答だった。
「僕も会いたかった」
⸻
《悠輝》
僕たちはそのまま、タクシーに乗り街へ出た。
莉花は、タクシーの後部座席で、見えないように手を繋いできた。
「ご飯食べた?」
「まだ、悠輝が食べてなかったら一緒に食べようと思って」
「何食べたい?」
「任せるよ」
「責任重大だな」
しばらく考えてから言った。
「今日は屋台に行こうと、思ってたんだけど……」
「莉花、ああいう所嫌でしょ?」
「あ、それ偏見!私をお嬢様扱いしないでって言ったでしょ」
「マイナス二十点」
「ごめん」
そう言って、莉花の唇を奪った。
「……」
「……プラス三十点……」
莉花が笑いながら歩き出す。
その腕を、僕に絡めてくる。
「ごめんなさい」
「さっきのは嘘」
「悠輝は、いつも百点だよ」
莉花が微笑む。
腕を、僕に絡めてきた。
「莉花も、百点だね」
二人はそのまま、中洲へ向かった。
⸻
中洲の屋台は賑やかだった。
人の声、湯気、焼ける音。
莉花が焼き鳥をつまみながら聞く。
「そういえば、仕事は?」
「忙しかった?」
悠輝は少し笑った。
「それほどでもないよ」
「日山フーズ関西の課長に会ってきた」
「西脇さんって人なんだけど、面白い人でさ」
「へぇ」
悠輝は、思い出したように真似をする。
「最初に言われたのがさ」
関西弁を少し大げさに真似た。
「『いやぁ大変でしたねぇ』って」
莉花が笑う。
「もうニュースになってるんだ」
「うん。日山食品の合併、こっちでも話題らしい」
悠輝は焼き鳥を一本取った。
「それで西脇さんが言うんだ」
少し関西弁を真似る。
「『これ、うちの売上そのうち抜きますで』」
「『いやぁ楽しみやなぁ』って」
莉花が吹き出す。
「関西っぽい」
「でもいい人だったよ」
悠輝は少し真面目な顔になる。
「倉橋社長のハンバーグ」
「第一弾の販路分析を手伝ってくれた人なんだ」
莉花は、少しだけ目を細めた。
「……そう」
ビールを飲む。
「それは、お礼言わないとね」
悠輝は気づかないまま笑った。
「うん。すごく協力的だった」
莉花が勝手に焼き鳥を注文する。
「悠輝も食べる?」
「自分で食べます」
「はい、あーん」
「子供じゃないです」
「やだ!」
「はい、あーん」
それでも差し出す。
僕は、しばらく抵抗したけど――根負けして食べた。
「……」
「悠輝、顔赤いよ」
「熱いだけです」
「嘘」
隣のおじさんが笑う。
「いいな、若いって」
「おじさんも欲しいな」
「あーん」
「無理です」
莉花の顔が真っ赤になる。
笑って、ビールを飲む。
「莉花、飲みすぎ」
「強いから平気」
店主がビールを注ぎながら笑った。
「お、姉ちゃんいけるね」
「兄ちゃん、負けとるばい」
少し酔っていた。
たぶん、酒のせいじゃない。
「しかし、べっぴんさんやね」
「女優さんかと思ったばい」
「兄ちゃん、えらい美人ば連れてきたね」
「莉花、顔赤いよ」
照れ隠しみたいに、僕の肩に少しだけ寄りかかった。
笑って、ビールを飲む。
ただ一緒にいるだけで、
こんなに落ち着くなんて。
離れてみて、改めて思った。
⸻
帰り道、川沿いを歩く。
夜風が涼しい。
「……ねえ」
「うん?」
「私ね」
莉花の言葉が少し詰まる。
「一人でも平気だったの」
「……」
「でも最近、平気じゃない」
足を止める。
「悠輝がいないと、落ち着かない」
「……」
「迷惑?」
小さく聞く。
「……嬉しいよ」
酔った勢いで、言葉が自然にこぼれた。
「部屋借りて、一緒に住む?」
「大きな部屋は借りられないけど……僕の給料の範囲内で」
「それなら私が借りるよ」
僕は、少し怒ったふりをする。
「莉花、マイナス百点」
「え?」
「それ、完全にお嬢様の発想」
莉花が慌てて言う。
「ごめんなさい。
そんなつもりじゃないの」
「悠輝と一緒なら、どこでもいい」
「ただ、迷惑にはなりたくなくて」
「……許して。ごめんなさい」
僕は初めて、はっきり思った。
――この人を選びたい。
⸻
《莉花》
ホテルの部屋。
窓の外に夜景が広がっている。
隣に座ると、距離が近い。
「……緊張してる?」
「少し」
「私も」
視線が合う。
逸らさない。
「ねえ」
「何?」
「今日は、優しくなくてもいいよ」
お酒が、少しだけ大胆にさせていた。
「今日は……悠輝の好きなようにして」
悠輝の目が変わる。
「この前は、優しくしてって言ってなかった?」
耳もとで囁く。
抱き寄せられる。
「……イジワル」
自分から距離を詰める。
唇を重ねる。
前よりも深い。
「……いい匂いだね」
「この香水、なんだっけ」
「Sì」
「……愛してる?」
三日しか経っていないのに、
ずいぶん長く離れていた気がした。
もう、待てなかった。
少し恥ずかしかったけど、
小さく「Sì」と答えた。
指がシャツのボタンを外していく。
自分でも驚くほど、
迷いがなかった。
自分から唇を窄めて、キスをねだる。
肩に触れる手が、前よりも迷いがない。
「……莉花」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸が熱くなる。
キスは、静かだった。
触れられる位置を、もう身体が覚えている。
最初の夜とは、もう違う。
それでも――
触れられるたび、
期待したとおりだとわかっていても、
毎回少しだけ震える。
悠輝は急がない。
確かめるみたいに、
ゆっくり。
私は目を閉じる。
抱きしめ返した。
「もう、待てない」
「……早く来て」
この人の腕の中が、こんなに落ち着く場所だなんて知らなかった。
「あっ、大……好……き」
何度も、勝手に口からこぼれる。
「莉花、俺も……大好きだよ」
それ以上の言葉が見つからなかった。
⸻
翌朝。
朝、目が覚めたとき、
悠輝はまだ眠っていた。
私はしばらく、その顔を見ていた。
無防備な寝顔だった。
こんな表情をする人を、私は知らない。
指先で髪に触れかけて――やめた。
守りたい、と思った。
守るためには、壊さなければならないものがある。
私は身を寄せ、
悠輝の唇と耳元に、交互に軽くキスをする。
「……起きて」
小さな声で囁く。
もう一度、耳元で同じように言う。
「……悠輝」
何度か繰り返すうちに、
悠輝がゆっくり目を開けた。
「……ん」
少し寝ぼけた顔で、私を見る。
私はくすっと笑った。
「やっと起きた」
「寝てる間に、いっぱいキスしちゃった」
悠輝が一瞬固まる。
「……え?」
「嘘、……本当だけど」
そう言って、もう一度だけ軽くキスをした。
「今日は、付き合って欲しい」
「どこか行きたい所あるの?」
少しだけ迷ってから言う。
「母に、会ってほしい」
「お母さん?って確か……」
私は、少しだけ迷ってから言った。
「無理しなくてもいいけど」
「行くよ」
即答だった。
「同棲するならお母さんに、お許しをもらわないとね」
「え、反対されたらどうしよう」
博多駅のホームは、思ったより静かだった。
新幹線が滑り込む。
席に並んで座ると、急に距離が近く感じる。
⸻
電車の窓の外、街は一瞬で線になり、後方へ消えていく。
車内は、思ったより空いていた。
私は、何も言わずに悠輝の肩へ体を預ける。
「……寝たふり?」
「……」
目を閉じたまま、体重をかける。
――わざとだ。
彼の体温が、安定剤みたいに落ち着く。
「……わざとだよね」
「だって、誰も見てないし」
目を閉じたまま言う。
「それにさ、前に
紗希に寄りかかられてたでしょ」
「……覚えてるんだ」
「忘れるわけないでしょ」
少しだけ、声に棘が混じる。
自分でも分かる。
……嫉妬。
そんなことで胸がざわつくなんて、私らしくない。
紗希に対してだけなのか、
それとも他の女性すべてに向けたものなのか。
私には、わからない。
「もう、私専用」
さらに密着する。
悠輝の息が少しだけ変わる。
「……キスしたい」
「ここで?」
「見えないよ」
窓側に体を寄せ、影を作る。
ほんの一瞬、唇が触れる。
短く、軽く。
それだけなのに、胸が強く打つ。
「……満足?」
「ぜんぜん」
目を開けて、笑う。
その顔を見て、悠輝が少し困った顔をする。
私は知っている。
この人は、優しすぎる。
でも今日は違う。
私は自分から選んで、ここにいる。
悠輝の肩に頬を寄せながら、外を見る。
流れる景色が、少しずつ穏やかになる。
都会の色が薄れ、海が見え始める。
私は小さく呟く。
「ねえ」
「うん?」
「今日、ちゃんと報告するから」
「……お母さんに?」
「うん」
指を絡める。
「私、逃げないって」
列車は、静かに走り続ける。
甘さと、決意と、少しの不安を乗せたまま。
瀬戸内海が広がる。
「……綺麗」
丘の上の墓地。
私は墓石の前に立つ。
「報告に来た」
静かに言う。
「大切な人ができた」
悠輝を見る。
「二人を守って」
「パパを、止めないと」
「全部、壊れる」
風が吹いた。
悠輝が隣に立つ。
「一人じゃないよ」
私は、笑った。
「……うん」
手を握る。
この静かな時間が、ずっと続けばいいと――
初めて思った。
でも。
もう戻れないことも、わかっていた。
それでもいい。
たとえ壊れても、悠輝と一緒にこの道を行けるなら。
一晩、母の実家に世話になり、
東京に戻った。
――この静かな時間が、
嵐の前のものだとは知らずに。
静かな時間ほど、
長くは続かない。
それを知るのは、
いつも
少し後になってからだ。




