24章《真昼の情事》
付き合い始めは、欲情を抑えられない。
日常の場所ですら、興奮して我を忘れる。
理由は簡単だ。
目の前に、どうしても手放したくないものがあるからだ。
それが愛なのか、
欲望なのか、
それとも――
ただの錯覚なのか。
その違いは、
いつも後になってから分かる。
朝の空気は、まだ少し冷えていた。
それでも、どこかに春の匂いが混じっている。
莉花は、日山食品で倉橋と会うと言っていた。
合併後の体制の話らしい。
「長くなると思う」
「夕方ぐらいでいいかな」
「日山商事の対策室、私が押さえてあるから、そこで待ってて」
そう言われていた。
だが、課長は有休で不在。
俺の担当案件も一段落していて、今日は特に急ぎの仕事もなかった。
営業三課のフロアにいても、正直やることがない。
……居づらい。
社内システムに
「外出 日山商事」とだけ入力する。
結局、少し早いとは思いながらも、
俺は先に日山商事へ向かった。
日山商事に着いたのは、まだ昼前だった。
本当は、夕方に来るはずだった。
だから、驚いた。
対策室のドアには、
《藤堂莉花 使用中》
の表示が出ている。
――早いな。
表示を、もう一度見上げる。
本当にいるのか?
軽く、ノックする。
返事はない。
……いないのか。
帰ろうかと、ドアノブから手を離しかけた、そのとき――
中で、椅子の軋むような小さな音がした。
「……はい」
少し遅れて、声が届く。
俺はドア越しに言った。
「悠輝です」
一瞬、沈黙が落ちる。
中で、何かを置くような音がした。
「……入って」
鍵が開く音がした。
部屋に入ると、照明は落ちていて、
モニターの光だけが室内を照らしていた。
莉花はパソコンに向かっていた。
「倉橋さんとの用事、早く済んだんだ」
「うん……ちょっとだけ」
振り向かないまま答える。
「連絡くれればよかったのに」
「ごめん。
少し資料の整理したくて」
俺は笑った。
「真面目だな」
返事はなかった。
キーボードの音だけが続く。
その背中を見ていたら、胸の奥が熱くなった。
刺されてから、
二人きりになるのは初めてだった。
生きていると、やっと実感した。
そして同時に、思った。
――誰にも渡したくない。
部屋の電気を消す。
「え?」
そのまま、後ろから抱きしめた。
身体が小さく震えた。
「ちょ、待って」
止めることもできた。
でも、止まれなかった。
「……待たない」
耳元で囁く。
自分でも驚くくらい、
声が低かった。
あの時、莉花が言った言葉を思い出す。
――「強引な悠輝、知らなかった」
――「でも、嫌じゃない」
頭の中を巡る。
腕をほどこうとするのを押さえる。
椅子を回す。
視線が合う。
戸惑った、莉花の目だった。
だから、迷いはなかった。
次の瞬間、キスをした。
莉花は、驚いた顔のまま、固まっていた。
「……嫌だった?」
そう言いながら、離れず、もう一度キスをした。
莉花は、嫌がってはいない。
久しぶりだった。
莉花が、触れる距離にいることが。
俺の腕の中で、身体が固くなるのがわかった。
逃げようとしている。
けれど、本気じゃない。
押し返す手は弱く、指先だけが震えている。
「……待って」
小さな声。
それでも、離れなかった。
机の縁に追い詰める形になる。
後ろにはもう下がれない。
腰に回した腕を引くと、体が触れ合う。
その距離に、俺の方が息を呑んだ。
近い。
視線を逸らす顔を、顎に触れて止める。
目が合う。
揺れていた。
拒絶じゃない。
迷いだった。
――莉花も同じなんだと思った。
「怖い?」
小さく頷く。
「優しくする」
額が触れる距離で囁くと、肩の力が抜けた。
ワンピースの布越しに伝わる体温が、はっきりわかる。
細い腰を抱き寄せると、指が背中の服を掴んだ。
今日は、香水を変えたのかもしれない。
……香りが、少し違う気がした。
いつもより甘い……
石鹸の匂いだった。
莉花の自由を少し、奪ったのがわかった。
その瞬間、理性が切れた。
抱き上げると、驚いたように息を漏らす。
けれど、もう抵抗はなかった。
腕を首に回す。
「……悠輝」
名前を呼ばれる。
その声で、もう迷いは消えた。
触れた唇が、今度は離れない。
莉花の呼吸が乱れ、
額が触れ、指先が震える。
もう止める理由は、どこにもなかった。
僕は――
そのまま莉花を抱きしめ、ワンピースをそっとずらす。
「待って……だめ……」
かすれた声だった。
もう待てなかった。
「……痛い」
途中で、少し乱暴になってしまった気がする。
莉花の、予想外の抵抗に戸惑い、
思ったより強引になってしまったのかもしれない。
莉花は、本当に痛かったんじゃないか――
そんな後悔が、遅れて胸に込み上げてきた。
「怖い?」
莉花は、また静かに頷いた。
「優しくするね」
僕は莉花の頭に手を乗せ、
ゆっくり撫でた。
「……あっ」
今度は、そっとキスをする。
さっきよりも、ずっとゆっくり。
やがて、莉花の身体から
少しずつ力が抜けていった。
「莉花……今日も可愛いね」
「……悠輝」
僕の服を掴む手が、少しだけ強くなる。
その瞬間、もう戻れなかった。
「……あっ」
莉花の声が変わった。
「あっ……悠輝……好き」
「僕もだよ、莉花」
もう莉花には聞こえていないようだ。
その瞬間、最後の理性が消えた。
僕は――
もう止まらなかった。
「あっ……悠輝……もうだめ」
彼女の呼吸が落ち着くことはなかった。
何度も僕を呼び続けていた。
莉花の胸に顔を埋めたまま、
理性を失っていた。
どれくらい時間が過ぎたのか、
もう分からなかった。
⸻
「……服、直したいから、少し外に出ててくれる?」
「あっ、ついでにお願い。喉が乾いたから、どこかで飲み物買ってきて」
「わかった」
「お茶でいい?」
「うん、お願い」
僕は部屋を出た。
エレベーターで一階に降り、
少し離れたコンビニへ向かった。
⸻
コンビニで自分のコーヒーも買い、
待合スペースの椅子に腰掛けて時間を潰した。
さっきのことが頭を離れない。
莉花は本当に可愛い。
抱くたびに、少しずつ変わっていく。
表情も、息づかいも。
それが嬉しかった。
女の子のことはあまり分からない自分が、少し恥ずかしかった。
そんなことを考えていると、スマートフォンが震えた。
加賀常務からだった。
『関西支社と九州支社へ出張してくれ』
『アサヒのハンバーグを関西でも扱うことになった』
『三日ほど向こうで、擦り合わせを頼む』
「いつからですか?」
『今日の午後からだ。
今、合併後のバタつきで人手が足りない』
少し間を置いて、続ける。
『ちょうど君の上司……確か吉野が有休消化中で、君が空いているだろう』
「わかりました」
通話を切る。
部屋に戻る。
まだ照明は落ちたままだった。
「今から、関西と九州に出張になった」
「……そうなんだ」
少し間を置いて、莉花が言う。
「もう少し、ここでやらないといけない仕事があるの」
背中を向けたままだった。
「寂しいけど……しょうがないね」
「三日だから、すぐ戻るよ」
俺は莉花の肩に手を置き、
軽く引き寄せた。
振り向いたその唇に、そっとキスをする。
「気をつけてね」
キーボードの音が、静かな部屋に続いていた。
莉花の背中に、
なぜか少しだけ寂しさを感じた。
俺は、そのまま部屋を出て、家路を急いだ。
肩を刺されてから、
少し関係が変わった気がする。
違う。
変わったのは、
僕の方かもしれない。
あのとき感じた恐怖のせいなのか。
ただ――
前より強く思うようになった。
いつも、
莉花を抱いていたいと。




