22章. 《梨の花の下で》
Sì。
イタリア語で、
それは「Yes」という意味。
梨の花のような、
やわらかな香り。
その夜、
一つの「Yes」が
世界を動かした。
22章. 《梨の花の下で》
HAVENは、今日も静かだった。
音楽も、グラスの音もない。
薄暗い室内は、まるで時間が止まっているみたいだった。
僕はカウンターから少し離れた席に座り、二人を見ていた。
倉橋専務と、莉花が向かい合っている。
この空気は、いつもの作戦会議とは違う。
言葉にできない緊張が、店の中に満ちていた。
倉橋が、椅子に腰を下ろす。
「……久しぶりですね、お嬢様」
「やめてください」
莉花は即座に言った。
「今日は、その呼び方で来てもらったわけじゃない」
倉橋は、わずかに口元を緩める。
「では、藤堂さん」
「それも違う」
「……莉花さん、ですか」
「それがいいです」
短い沈黙。
倉橋は先に切り出した。
「莉花さんに会った時、良い匂いがしたのを覚えています」
「……花のような、梨のような香り」
莉花は少しだけ笑った。
「Sìよ。
Sì Eau de Parfum」
「いい香りでしょ。
お気に入りで、いつもつけてる」
倉橋は小さく頷いた。
僕は思わず言った。
「これが、いつも莉花がつけてる香水なんだ」
納得して頷く。
――ああ、でも。
香水じゃなくて、石鹸の匂いしかしない時もある。
そう言ってやりたかったけれど、言葉を飲み込んだ。
倉橋が続ける。
「先日の暗号メール、莉花さんだと気づけてよかった」
「実際に会うのは、三度目ですか?」
莉花は頷く。
「そうですね」
「社長なら“何かある”と気づくかもしれない」
「おそらく社長派にもメール解析や盗聴する人材もいると思います」
「だが、あなたが裏にいるとは、まだ分からない」
莉花は頷く。
「時間の問題です。
千堂さんと、あなたがこちらにつけば、敵だとすぐに気づく」
「でしょうね」
倉橋は、組んだ指をゆっくり動かしながら言った。
「それでも、呼び出したのは――
藤堂社長に見限られ、捨てられる私を拾うためか。
それとも、私が必要だったのか」
「流石、察しがいいわね」
「そう判断した理由を聞かせてください」
莉花は、少しだけ考えてから答えた。
「あなたは合理的。
だから、ここに来た」
即答だった。
倉橋は、思わず息を吐く。
「……それだけですか?」
「ええ。
今、あなたの立ち位置はがんじがらめ。
もう、動きが取れないでしょ」
「私が出してあげる」
「その代わり、私の裏方で動いてほしい」
倉橋が、少し面を食らった顔で言う。
「非合法ですか」
「得意でしょ」
莉花は淡々と言う。
「私が父に勝った時には――
……わかるでしょう?」
倉橋は重い口を開いた。
「社長は冷酷です。
大胆で、狡猾で、失敗を失敗と認めない」
「資金も人材も、向こうが上。
正面からやれば、こちらが負ける」
倉橋は莉花を見た。
「分かっていますか?」
「それでも?」
「それでもです」
莉花は、まっすぐに見た。
「パパのやり方は、勝つためなら何でもする」
ふと、黙示録の言葉を思い出す。
――見よ、私は戸口に立って叩いている。
扉を開くかどうかは、
人間に委ねられている。
「でも、それを続けたら、最後には誰も残らない」
「気がつけば地獄」
「それでも、ある程度愛があれば許せた」
「私、父から愛されたことがない!」
「家族よりも、勝ち進むことに取り憑かれた怪物よ」
「止められるのは、もう私しかいない」
倉橋は、静かに言った。
「でも、あなたは、優しすぎる」
「いいえ」
莉花は首を振る。
「私は、もう覚悟してます」
その言葉に、倉橋は少しだけ眉を動かした。
「覚悟、ですか」
「はい」
「負ける可能性も」
「傷つく人が出ることも」
「……私自身が、嫌われることも」
一瞬、言葉を選ぶ間。
「それでも、止めない」
倉橋は、視線を落としたまま、低く言った。
「……一点だけ、確認させてください」
莉花は黙って頷いた。
「スーパーの件です」
「写真は確認しています」
「テープは、貼られていた」
「あれは、何故ですか?」
莉花が胸の内から絞り出すように言う。
「あれは、私がクレームが来るように、細工しました」
「細川と吉野の対応をみるため」
「もちろん怪我をさせるつもりは、まったくなかった」
「子供が集まりやすい狭い空間を作り、倒れやすいよう留めたテープを片方だけ外した」
「トラブルになる可能性を、待っていた」
僕の指先が、わずかに震えた。
――待って。
何かが、噛み合わない。
頭の中に、あの日の光景が浮かぶ。
倒れたアイドルの等身大スタンディングボード。
片方だけなくなっていたテープ。
来たのが、課長ではなく専務だったこと。
――あれが、一番おかしい。
莉花は、子供を怪我させたかったわけじゃない。
それは分かる。
じゃあ、目的は何だった?
胸の奥が、嫌な形で冷える。
「……呼び出しだ」
声にしたつもりはなかったのに、喉の奥から漏れていた。
トラブルを起こすためじゃない。
責任者を、表に出すための仕掛け。
もっと裏の人間を。
――倉橋専務を。
その瞬間、全部が繋がった。
莉花は、偶然に賭けたんじゃない。
“誰かが傷つく可能性”を含めて、選んだんだ。
胸の奥が、冷たくなった。
倉橋は、短く息を吐く。
「無自覚な過失でもない」
「……」
「怪我をする認識はあった」
「……はい」
莉花は小さい声しか出せなかった。
莉花は、唇を噛んだ。
「……怖かったんです」
ぽつりと漏れた声は、震えていた。
「その事実を、誰にも言えなかった」
「怪我をさせるつもりはなかった」
「でも……起きる可能性は、分かってた」
「親御さんが、すぐに引いた理由ですが」
倉橋は続けた。
「示談金で話をしました」
「内密にです」
「傷は大したことありませんでした」
「母親といっても、目の前に現金二十万を出されるとすぐ受け取り帰りました」
「朝日川の買収が絡んでいるこの時期は、できるだけ問題を起こしたくないんです」
倉橋の言葉に、わずかな違和感が残った。
けれど――
それを問いただす空気じゃなかった。
僕は、気づけば立ち上がっていた。
「……莉花」
二人が同時に僕を見る。
「言い出せなかったんだね」
喉が乾いていた。
「一人で、抱えてたんだ」
莉花の目が揺れる。
「僕、やっと分かった」
「ごめん。気づくの、遅すぎた」
「でも……一人で背負うことじゃなかった」
「せめて、僕に言ってほしかった」
「ごめんなさい」
倉橋の声が、現実に引き戻す。
「あなたのやったことは、結果的に社長に似ている」
視線を莉花に戻す。
「結果を得るために、手段を選ばない」
「だが、莉花さんは皆を信用し切っている」
莉花は、驚いたように目を瞬かせた。
「それは……」
「私にとっては、大きな違いです」
倉橋は、はっきりと言った。
「社長はいつも後ろから見ている気がします」
「いつでも処分できるぞ、と」
「はっきり言って、勝ち目はない」
「それでも?」
莉花は、同じ言葉を返した。
倉橋は、わずかに笑った。
「……だからこそ、賭けが成立する」
「私は、あなた側につきます」
莉花は深く息を吸い、ゆっくりと吐いてから言った。
「ありがとうございます」
「ただし」
倉橋は、条件を付ける。
「しばらくは、影に回ります」
「それでもいいですか」
莉花は、迷わず頷いた。
「あなたが必要です」
倉橋は、立ち上がった。
「……やはり」
「この暗号は、正解でした」
二人の間に、静かな信頼が生まれる。
——高雄は、まだ気づいていない。
倉橋も後戻りはできなかった。
⸻
眠っている紗希が、無意識に僕の肩に寄りかかる。
その様子を、莉花が黙って見ている。
誰も何も言わない。
静かな夜だった。
だけど僕は、もう分かっていた。
この戦いは、
もう止まらない。
そして――
僕たちは、
きっと誰かを傷つける。
それが誰なのか、
このときの僕は、まだ知らなかった。ただ――
莉花だけは、違うと信じたかった。
それが、間違いだと知らないまま。
人は、結果ではなく
意図で裁かれる。
未必の故意か。
それとも、認識ある過失か。
その違いは、
ほんのわずかだ。
けれど――
その境界を制する人間ほど、
いちばん怖い。




