2章.《ヒビ割れたたまご》
恋が始まる瞬間は、
だいたい拍子抜けするほど地味だ。
胸が高鳴るわけでもなく、
ドラマみたいな出来事が起きるわけでもない。
ただ、
いつもより静かな時間と、
少しだけ近づいた距離と、
冗談みたいな一言が残るだけ。
その時は、まだわからない。
――それが、
もう元には戻れない場所への入り口だったことに。
たまごの殻は、
割れる前に、必ずヒビが入る。
2章.《ヒビ割れたたまご》
社用車の中は、思ったより静かだった。
気の利いた音楽もない。
エンジン音と、タイヤがアスファルトを擦る音だけが続いている。
いつもなら流れているはずのラジオも、今日は切れていた。
前に使った人が消したのだろう。
初めて二人きりで車に乗る。
だから、この静けさは悪くなかった。
莉花も、つける気はなさそうだ。
助手席の僕は、窓の外を見ているふりをしていた。
実際には、フロントガラスに映る莉花の横顔ばかりが気になっている。
ハンドルを握る指は細く、
信号待ちで止まるたび、無意識に髪を耳にかける。
何か、話すきっかけを待っていた。
「意外と運転上手なんですね」
思わず、口を滑らせた。
「車持ってるし、運転はいつもしてるよ」
「その割に、緊張してないですか?」
「緊張は、……橘君を乗せてるせい」
「大丈夫。絶対、事故はしないから」
「橘君は、運転しないの?」
「免許は取ったんですが……
なかなか車に乗る機会もなくて。
都内だと、正直、なくても困らなくて」
言い切る前に、少しだけ言葉を探す。
――本当は、欲しいと思ったこともある。
でも、それを口にするほどの余裕はなかった。
僕は、視線をフロントガラスから外し、莉花のほうを見る。
「……いわゆる、ペーパードライバーです」
僕は、少し恥ずかしそうに答えた。
「じゃあ今度、莉花んちに来て練習する?」
その言葉と同時に、信号が赤に変わり、ブレーキが、
やけに柔らかく踏まれた。
——まただ。
田中さんは、いつも自分のことを莉花と言う。
僕も、つられて「莉花」と呼んでしまいそうになる。
エンジン音だけが、少し近くに感じられた。
僕は、すぐに答えられなかった。
莉花は前を向いたまま、ハンドルから手を離さない。
フロントガラスに映る横顔は、さっきと変わらない。
だから余計に、さっきの一言だけが、胸に残っていた。
「庭が広いから、駐車の練習もできるし、
私の車だから、多少ぶつけても大丈夫だよ。気にしないよ」
「本当ですか……」
車の運転は、上手になりたい。
「じゃあ明日、代休だから莉花んちに来る?」
「明日ですか?」
考えなくても、別に用事はない。
「はい、よろしくお願いします」
「お姉さんが優しく教えてあげる」
「莉花さん、ちょっと怖いです」
赤信号が近づき、莉花は速度を落とした。
同じ閉ざされた空間にいるだけで、
二人の距離が、以前よりも近くなった気がする。
言葉は少ないままなのに、
互いに意識していることだけは、はっきり伝わっていた。
莉花は、ひょっとして僕のことを好きなんだろうか。
青信号。
莉花はアクセルを強く踏み込み、車は一気に加速した。
「死ぬ時は、一緒よ」
そう言って、ちらっとだけこちらを見て笑った。
その視線が、冗談なのか本気なのか、わからなかった。
「前、前、見てください」
⸻
そんな話をしながら、スーパーアサヒに到着。
莉花は片手でハンドルを切り、一発できれいに車を止めた。
「なんか、運転してると先輩、かっこいいですね」
「そう?」
「惚れた?」
さっと髪をかき上げる。
僕は無視して顔を逸らす。
莉花はいつも、僕をおちょくってくる。
⸻
サンプルの入った段ボールを、ひとつずつ担ぎ、従業員出入り口に向かう。
段ボールには、日山食品のキャラクター、カラピヨが印刷されていた。
殻の帽子を被った、まんまるなひよこ。
可愛くて、僕は販促用のキーホルダーを鍵に付けている。
「こんにちは、日山食品です」
「よろしくお願いします」
警備員から貸出用のIDケースを受け取り、首にかけた。
「課長の細川様はどちらにいらっしゃいますか?」
警備員
「今、呼び出します」
数分後、細川課長が現れる。
細川課長
「こんにちは、日山食品さん」
「すいませんね、お休みの日にわざわざ来てもらって」
「えーっと、田中さんと橘さんですね」
僕
「あの〜、このサンプル品を課長の吉野から渡すように頼まれた物です」
細川課長
「あっ、そうだ!そうだ!」
「それは、ここに置いてください」
台車に、カラピヨの箱を二つ載せた。
細川課長
「重いのに、わざわざありがとうございます」
「さぁどうぞ、こちらです」
バックヤードに向かう。
細川課長
「ここの一角が新商品になります」
「ここの台車は、自由に使ってください」
細川課長はスマホを取り出し、誰かに電話をかける。
「日山食品さんが来たので、バックヤードに来てください」
手伝いの人を呼んでいるようだ。
細川課長
「私はどうしても外せない用事がありますので、これで失礼します」
頭を下げ、去っていった。
⸻
数分後、手伝いの女性がやってきた。
スーパーのユニフォームを着て、メガネをかけている。
間違いなく、電車で見た目つきの悪い居眠り女性だ。
莉花
「うわー、紗希じゃん!
あんたレジじゃないの?予定と違うじゃん!」
岡部紗希
「なんか、年寄りに態度が悪いって言われてレジ、クビになったの」
「今は商品整理と店出しやってる」
莉花
「役に立たないね〜!まったく!」
少しだけ、声トーンが一段落ちる。
紗希は僕の方を見て、にやりと笑う。
「日山食品の橘悠輝といいます。よろしくお願いします」
名刺を差し出す。
莉花
「いいよ、こんな役に立たないバイト!
名刺もったいない」
紗希がにらみながら言う。
「あ〜ん!こっちは客だぞ」
そして僕に向かって、にっこり笑い、耳打ちするように言った。
「橘君、気をつけた方がいいよ」
「この女、あざと過ぎて鬱陶しいでしょう」
「橘君の前だけ、急に“できな〜い”ってなるでしょ」
「あれ、可愛いと思わせたいだけ。全部計算」
「ただ気を引こうとして、逆に引かれてるの、わかってないんだ」
「恋愛ごとに関しては、ほんと馬鹿だから」
紗希は嫌味ったらしく言う。
莉花が仏頂面で
「岡部さん、言いたいことはそれだけですか?」
「もう、必要ないので、どこかに消えてください」
僕の方を振り返り、破顔する。
「橘君、こんな口の悪い女の言うことは信じちゃダメ」
「耳を貸さないで」
「電車で睨まれて怖かったでしょ?」
⸻
紗希
「もう、頭きた!」
「あれは、お前がお願いしたからやったんじゃん」
「マジで、ちょっと寝ちゃったけど」
莉花
「橘君、騙されたらダメよ」
「この女はそもそもまともじゃないから!」
「この人のお父さん、日本最大の暴力組織の親分だから」
「橘君も、もう帰ったほうがいいよ」
「後は私がやっておくから」
紗希
「莉花!テメ〜!」
僕の方を見て言う。
「嘘だよ、橘君。聞いて」
「パパは警察官なの」
「もう、この嘘つきは、パパに言って逮捕してもらうわ」
莉花
「暴力団も警察も同じような暴力組織じゃない?」
「あ〜嫌だ嫌だ。」
「だいたい、なんでここに紗希が呼ばれてくるんだ!」
「せっかく橘君と仲良く仕事しようと思ってたのに!」
僕
「あの〜この貶し合いはいつまで続くんですか?」
「そろそろ仕事したいのですが」
「お二人は、仲が悪いんでしょうか?」
「違う!親友だよ」
莉花と紗希が、ハモって言う。
「幼稚園からのね!」
紗希
「ある意味、戦友でもある」
莉花
「体調不良でレジを抜け出して、細川課長を追いかけるって計画してたじゃん!」
気の抜けた顔で言う。
「もういいわ、全て台無し」
紗希
「あ!それ大丈夫!」
「一か月ずっと調べてた」
「今日は一人だから」
「間違いない」
莉花
「ちょ、待って。何の話?」
紗希がスマホを見ながら
「いいから。今、動いてる」
「細川課長の車はわかってるから、
パパにもらったGPSを、仕込んでおいた」
「今スマホにデータ送るよ」
莉花の表情が変わり、目が爛々と光る。
「GPSか!ナイス!」
会社ではいつもニヤついているだけなのに、こんなに表情豊かなのを、僕は初めて見た。
「何のことを言ってるんですか?」
莉花
「さっきの段ボール見たでしょ?
あれ、賞味期限間近のレトルトハンバーグ」
莉花がスマホを突き出す。
紗希も肩越しに覗き込む。
僕
「……これ、期限ギリギリですね」
「でもサンプルって言ってましたよね?」
紗希
「ひよこの段ボール、課長の車にGPS仕掛けた時に、後部座席にも1個積んであったよ」
「写真と同じ、ひよこの箱だった」
僕
「ストックしてるんですかね?」
紗希
「とりあえず、ちゃちゃっと売り場作るよ」
「早く終わらせて、現行犯で捕まえるんだ!」
僕
「でもなんで田中さんが、紗希さんにまで頼んで調べてるんですか?」
「田中さんって、普通の社員なんですか?」
紗希
「田中って誰?」
莉花
「田中は、私!」
紗希は、少し戸惑った顔をした。
「橘君、後で全部、教えるから」
僕
「吉野さんも細川さんも、そんなことをするような人には見えないけどな〜」
紗希
「甘いな〜。世の中には羊の皮を被った狼がたくさんいるの!」
「この女みたいに」
僕
「ストップ!また喧嘩になる。
早くやりましょう」
三人で商品を並べ始める。
⸻
「や〜ん、莉花わかんない〜」
「橘君、どうしよう〜これ組み立てできない〜」
莉花はちょっと、飽きてきたみたいだ。
紗希
「真面目にやれ!」
莉花
「本当にわかんない〜!」
子供のように言う。
「もう、僕がやりますから、
商品を詰めるのやってください」
紗希
「出た!これがあざと女王・莉花だよ!」
「橘君、よく覚えておきな!」
莉花
「なんでそんな言い方するの!」
「もう、どこかに消えて!」
「私、橘君と二人で仕事したいの!」
「一緒にいたいだけなのに」
「橘君のことが、す……」
僕
「もう、いいかげんにしてください!」
「なんで、いつも僕を惑わすようなことばかり言うんですか!」
「僕が好きになってしまったら——
どうすればいいんだ!」
自分でもびっくりするぐらい、大きな声が出た。
僕はすぐに後悔したが、とっさに出た言葉は、もう戻らなかった。
たまごの殻にヒビが入った。
莉花はビクッとして「ごめんなさい」と言った。
紗希は両手の平を上にあげ、困った顔をする。
「ちょっとトイレ」
紗希はトイレに行き、そのまま戻ってこなかった。
⸻
莉花は、僕を手伝っているのか、邪魔をしているのか、よくわからないが、少し落ち込んでいる。
⸻
30分で作業終了。
空き段ボールをピラミッドのように、頭の高さぐらいまで積み上げ、
その上に商品を陳列した。
販売面積的には効率は良くないが、
新商品のため、インパクト重視の陳列である。
気がつけば、ほとんど一人で完成させていた。
僕は提出用の写真を、スマホで撮った。
⸻
莉花
「橘君、ありがとう」
「提出用は私がやるから、こっちで写真撮るね」
莉花がスマホで写真を撮っていると、紗希が戻ってきた。
紗希
「もう、終わってるじゃん。
じゃあ行こうか!」
「紗希さんも行くんですか?」
「勝手に仕事抜け出して、いいんですか?」
紗希
「あぁ、いいよ。もうここ辞めるから」
「アメリカから帰って暇してた時、
頼まれて潜入バイトしてただけだから」
「トム・クルーズみたいだろ」
笑って言う。
「別に就職先ならいくらでもあるしね。
まだ当分働くつもりもないけどね」
「莉花だって東大出て、わざわざ親の会社の平社員なんて辞めたら?」
「司法試験合格したんでしょ」
「莉花!何してるの!早く行くよ」
僕
「あっ、田中さん終わりました?」
僕は莉花のほうを振り向いた。
「え〜莉花さん、東大行ってたんですか?」
僕は、今年一年で一番びっくりした。
僕の中で勝手に呼んでいた『Miss浅学短才』の田中さんが、東大?
忘れ物多い田中さんが司法試験合格?
完全に理解不能だった。
「司法試験って、在学中に受けられるんですか?」
「予備試験、通ったから」
さらっと言って、莉花は肩をすくめた。
「……予備試験なんてあるんですね」
「うん。だから大学院は行ってない」
「っていうか、田中さんって本当は天才なんですか?」
「正直、抜けてる人だなって思ってたけど、僕なんかよりずっとすごいじゃないですか」
「もっと本気で仕事してください!」
「ちがうの!橘君の前だと莉花、何にも手に付かなくなっちゃうの」
「本当よ!信じて」
「本当に東大行ってたんですか?」
「うん」
僕の頭は、あまりにも噛み合わない話に、ついていけていなかった。
紗希はもう笑っていなかった。
「……そんなことは後。細川を追うぞ」
その日、
僕はまだ気づいていなかった。
彼女の言葉が、
冗談なのか本気なのかを考え続けていたことも。
仕事のはずの時間が、
いつの間にか特別な記憶になっていたことも。
ただ一つ、はっきりしていたのは――
もう、
最初の距離には戻れないということ。
たまごの殻に入ったヒビは、
修復できない。
割れるかどうかは、
その先の話だ。




