18章. 《千堂千畝》
忠誠は、命より重い。
引き金が引かれた瞬間、
守るべきものと、守れないものが分かれる。
彼は一度、死にかけた。
だからこそ、
今度は自分の意志で立たせたい。
昼過ぎの屋敷は、穏やかだった。
窓から差し込む光が白く、
何も起きていないように見える――
それが、
かえって少し苛立たしく、腹立たしい。
私はバッグを手に取り、立ち上がった。
「千堂さん」
すぐに、廊下の先から足音。
「はい、お嬢様」
「出かけるわ」
「今日は、買い物」
千堂は一瞬だけ、私の手元のバッグを見た。
いつもより小さめ。
仕事用でも、遊び用でもない。
「承知しました」
玄関を出る。
「目的地は?」
私は少し考える素振りをしてから答えた。
「銀座のデパート」
それは、半分は本音だった。
悠輝の顔が、ふっと浮かぶ。
季節の変わり目。
――デートするなら、可愛いワンピースが欲しい。
「かしこまりました」
それ以上、千堂は聞かない。
――そこが、彼のいいところ。
車は屋敷を離れ、静かな住宅街を抜けていく。
昼間の東京は、私の心とは裏腹に、平和だった。
信号待ちの間、
私はウインドウに映る自分の顔を、ぼんやりと見ていた。
「……ねえ、千堂さん」
「はい」
「この前、父が自慢げに話していた南米の話」
「パパが、危ない橋を渡ってた頃の」
千堂の肩に、ほんの一瞬だけ力が入った。
「覚えてる?」
「はい、忘れるような話ではありません」
父を守り、千堂は肩を撃たれた。
手術の後、リハビリに半年を要し、
回復後、私のボディーガード兼運転手になった。
それ以上、会話は続かない。
――この人は、自分のことを語らない。
高速に乗って、しばらくした頃。
「ごめんなさい」
「気分、変わった」
千堂が、ミラー越しに私を見る。
「目的地を、変更して」
「大井埠頭に行って」
「……風、強いですよ」
「ええ」
「大丈夫」
少しだけ、声を落とす。
「誰もいない場所がいいの」
そして、淡々と告げた。
「ここから先」
「GPS、切って」
千堂は、すぐには答えなかった。
「……理由を伺っても?」
「今は、聞かないで」
短い沈黙。
「承知しました」
端末の操作音。
ナビが沈黙する。
車はインターを降り、
街は急速に色を失っていく。
倉庫、コンテナ、
人の気配を失った道路。
やがて、
東側の使われなくなった岸壁に車が滑り込む。
千堂は、ゆっくりとブレーキを踏み、
車を止め、
そして、
静かにエンジンを切った。
風の音だけが残り、埠頭は静かになった。
私は、真剣な眼差しで前を向いたまま言った。
「千堂さん」
「はい」
千堂は、振り向かず、ミラー越しにこちらを見た。
「あなたは、私のボディーガードよね」
「はい」
「それは、父の命令?」
「……はい」
そこで、言葉が途切れた。
「今は?」
千堂は、少し間を置いて答えた。
「……私は、藤堂家に雇われています」
私は、彼の目をもう一度、正面から見た。
「じゃあ、これからは」
「私自身が、千堂さんを雇いたい」
「……」
「意味がわかりません」
海から、風が吹き上げる。
「今までの千堂さんは、いらない」
「私には、藤堂家に対する義理があります」
「警察を辞めさせられた時、拾ってくれたのが高虎様です」
「だから、高雄様にも尽くすのが当然です」
「あなたのその忠誠心、嫌いじゃないわ」
「昔の武士みたい」
「千堂さん」
「あなた、南米でパパをかばって撃たれて、死にかけたでしょ」
「パパが相当悪どいことをしてたの、わかってたはず」
「あれで十分、義理は果たせてる」
「あの時――あなたは、一度死んだの」
千堂の表情は、変わらない。
「警察官だった頃のあなたは、正義だけで動いていた」
「だから、組織に残れなかった」
「それは、紗希のお父さんからも聞いているわ」
もちろん、それだけじゃない。
人事記録、警察時代の表彰歴、南米出張の医療報告書まで――私は全部読んでいる。
「最後までかばったのは、あの人よね」
「……よくご存知ですね」
「……もう、わかっているわよね」
風が、車体を揺らした。
「正しいだけじゃ、守れないって」
私は、静かに告げる。
「あなたは、撃たれた時に死んだの」
「今のあなたは――抜け殻よ」
「私を過保護に守るだけの、ただのボディーガードになってる」
「……」
「……違うわ」
「抜け殻じゃない」
「本当の自分を、殻に閉じ込めてるだけよ」
千堂は、何も答えなかった。
「パパを裁きたいわけじゃない」
「でも、このままだと日山が壊れる」
「壊れるくらいなら――私が戦う」
「藤堂高雄に対抗する勢力を、とりあえず私がまとめたい」
「そうすれば、会社は割れるだけで力は落ちない」
「今のパパは、敵を作りすぎる」
「おそらくパパにつく役員は半分」
「ついた役員たちが強力だから」
「残った半分を、潰しかねない」
「そうなったら、もう手遅れなの」
「だから、あなたが必要なの」
千堂の目が、わずかに揺れた。
「……まだ、私にお手伝いできることがあるのでしょうか」
千堂は、言葉を探すように一瞬視線を伏せた。
「ええ、あなたにしかできないこと」
「私は、あなたを裏切らない」
「――だから、ここに来たの」
私は、真剣に言った。
「ここから先は」
「仲間じゃないと、進めない」
長い沈黙。
そのとき、千堂が初めて口を開いた。
「……子供の頃から、あなたを見てきました」
「武道も、私が教えました」
「素直でした。真っ直ぐで――危ういほどに」
「ですが、真っ直ぐなだけではない」
「引かない時の目は……高雄様に似ています」
私は、何も言わない。
「経営者としての器は、あると思います」
「ただ――相手が高雄様です」
ミラー越しに、千堂の視線が私を捉える。
「親子でも、敵になれば別です」
「……覚悟は、おありですか」
私は、迷わず答えた。
「あるわ」
再び、沈黙。
やがて――
千堂はキーに手を伸ばし、
エンジンをかけた。
低い振動が、車内に戻る。
それは、答えだった。
「千堂さん、よろしく」
私は、何もなかったように言う。
「……」
「それじゃ、買い物付き合って」
「悠輝とデートする時の服、選んで欲しい」
「……申し訳ありませんが」
「それは、拒否します」
バックミラー越しに、
千堂が、ほんの少しだけ笑っていた。
「ちゃんと拒否できるじゃない」
――私は、その笑顔を初めて見た。
守られる側から、守る側へ。
私は一人、味方を増やした。
それは、父に背を向けた瞬間でもあった。
もう、後戻りはしない。




