17章 《藤堂高雄:First Gambit》
まだ誰も動いていない時間に、
すでに方向は定まっている。
最初の一手とは、
先に動くことではない。
相手に、動かされたと思わせることだ。
静かなまま、盤面は変わる。
――そして、誰もそれに気づかない。
社長室は、夜になると静まり返る。
昼間は人の出入りが絶えない部屋も、照明を落とすと急に広く感じた。
藤堂高雄は、デスクの上のタブレットに視線を落としていた。
通知が表示される。
差出人を見て、指が止まる。
――細川。
倉橋でも、野崎でもない。
藤堂はメールを開いた。
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件名:これ以上は無理です
差出人:細川
宛先:野崎 副社長/倉橋 専務/藤堂 社長
荒木のことで、もう限界です。
自分は全部知っています。
麻薬資金のことも、
指示の流れも記録してあります。
まだ警察には行っていません。
でも、このまま何もなければ話す用意があります。
しばらく連絡しないでください。
探された場合、その時は出頭します。
細川
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藤堂の表情は変わらなかった。
画面を閉じないまま、椅子の背に体を預ける。
――出頭。
時間を区切っている。
衝動ではない。準備して送っている文面だった。
「三人同時、か」
独白は小さかった。
これは相談ではない。
告発でもない。
**“誰かに反応させるための文面”**だ。
その直後、通知が入る。
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件名:状況について
差出人:倉橋 専務
宛先:藤堂 社長
社長
細川の件、確認しました。
現場の動きについては把握していますが、
私が主導したものではありません。
誤解を避けるため、当面は外部への情報流出を防ぐことを優先します。
必要な内容は文面で報告します。
倉橋
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藤堂はタブレットを机に置いた。
――早い。
倉橋は“否定”から入った。
説明ではない。弁明でもない。
責任の所在を先に切り離しに来ている。
つまり、倉橋はこう考えている。
「社長は、自分を疑う」
そしてもう一通、通知。
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件名:例の件について
差出人:野崎 副社長
宛先:藤堂 社長
細川の件は把握していますが、
私の関与ではありません。
情報は意図的に流されている可能性があります。
倉橋専務から何か聞いていませんか。
野崎
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藤堂の指が、机を一度だけ軽く叩いた。
――こちらも同じか。
野崎も、否定から入った。
状況の確認ではない。
倉橋の名前を出している。
つまり野崎は、
「倉橋が動いている」
と考えている。
さらに続けて届く。
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件名:Re:現状について
差出人:野崎 副社長
宛先:藤堂 社長
社長
現在、状況の整理を進めています。
不用意な接触は互いの立場を危うくするため、
まずこちらで整理します。
必要な内容は文面で報告します。
野崎
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会わない。
口頭を避ける。
記録を残す。
――防御に入った。
藤堂は小さく息を吐いた。
細川は出頭を示唆した。
倉橋は責任を切り離した。
野崎は証拠を残そうとしている。
二人とも、防御に入った。
つまり、互いを疑っている。
確認に動かない時点で、答えは出ている。
――倉橋は野崎を、
野崎は倉橋を、
“荒木を処理した側”だと思っている。
藤堂は端末を操作した。
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件名:Re:状況について
差出人:藤堂 社長
宛先:倉橋 専務
了解した。
まずは事実関係を整理して報告してほしい。
独自判断や不用意な接触は控えるように。
藤堂
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送信。
続けて、もう一通作成する。
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件名:Re:現状について
差出人:藤堂 社長
宛先:野崎 副社長
報告は受け取った。
不用意な接触は避け、まず事実関係を整理してほしい。
必要な対応はこちらで判断する。
進展があれば文面で報告を。
藤堂
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送信。
藤堂はタブレットを閉じた。
二人は動かない。
――違う。
動けない。
互いを警戒している限り、
直接会うことはない。
つまり。
誰も真相を確認できない。
藤堂は窓の外を見た。
夜景は静かだった。
この静けさの中で、盤面だけが動いている。
先に動けば疑われる。
動かなければ、疑いは深まる。
どちらにしても、
どちらかが切られる。
藤堂は目を細めた。
――これは、事故ではない。
誰かが三人を同時に疑わせている。
だが、まだ見えない。
見えているのは一つだけだ。
最初に崩れるのは、焦った人間だ。
彼は椅子にもたれ、ゆっくり目を閉じた。
逆に、今が好機だ。
藤堂は再びタブレットを開いた。
数秒だけ画面を見て、別の連絡先を選択する。
――吉野。
発信。
三回のコールで繋がった。
藤堂は通話を繋いだまま、窓の外を見ていた。
「……はい、吉野です」
「私だ」
「しゃ、社長……」
声がわずかに硬くなる。
私は間を置かずに言った。
「警察はまだ細川までだ」
「……今のところはな」
「……はい」
それで十分だった。
――理解している。
グレーゾーンにいることを。
「そうか」
「やっと、お前の出番かもしれない」
沈黙。
「……何を、すれば」
「すぐ東南アジアに立て」
「え?」
予想していなかった声だった。
「詳細は到着後に連絡する。時間がない」
吉野が言葉を探している気配が伝わる。
「必ず連絡がつくようにしておけ。端末は切るな」
「……はい」
私は続けた。
「失敗すれば――お前はクビだ」
息を呑む音がした。
追い込まれた人間は、必ず賭けに出る。
だから使える。
少し間を置く。
「成功すれば」
通話の向こうで、呼吸が止まる。
「本社の部長の席を用意する」
長い沈黙。
「……本当ですか」
「結果次第だ」
短く言って、私は続けた。
「……野崎は、お前を昇格させなかったな」
通話の向こうで、息が止まる。
「私は違う」
「働いた分だけ、席を用意する」
数秒後、
「……やります」
「よろしくお願いします、社長」
「現地にグエンを待たせる」
「お前知ってるだろ」
「はい、野崎の頃からの
東南アジアルートのNo.2」
「もうすぐ奴がトップになる」
「そして、お前の部下になる」
「すぐいけ」
通話が切れる。
⸻
私は端末を机に置いた。
倉橋は知らない。
私が東南アジアルートと関西を繋ごうとしていることも。
ルートは、まだ必要だ。
崩壊すれば資金が止まる。
それだけは避ける。
私は窓の外を見た。
夜景は静かだった。
盤面だけが、動いている。
倉橋も野崎も、互いを疑っている限り、動かない。
だから――こちらが先に打つ。
吉野。
能力は高くない。
胆力もない。
だが、使えないわけでもない。
駒に必要なのは才覚ではない。
従うことだ。
私は小さく呟いた。
「7六歩、か」
最初の一手。
勝つための手ではない。
相手を動かすための手だ。
吉野は、そのための駒だ。
成れば使う。
成れなければ――捨てる。
「次の一手を考えるか」
机の端に置かれたもう一台の端末に、視線を落とす。
「なぁ、プロフェッサー」
一つの出来事は、同じ形では伝わらない。
ある者は警戒し、
ある者は隠れ、
ある者は攻める準備を始める。
まだ何も起きていないように見える夜だった。
街も、会社も、昨日と同じ顔をしている。
だがその裏で、
それぞれが違う理由で動き始めていた。
もう、
誰も同じ方向を見ていない。




