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Scrambled Egg  作者: 読まれる前提
《たまごの殻》

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16/28

16.章《Contamination》

幸せは、気づかないうちに過ぎていく。

思い出すのは、いつも後になってからだ。


あの日の朝、

僕はただ、隣にいる人のことしか考えていなかった。

朝食は、ルームサービスにしていた。


時間を指定どおりに、朝食が用意された。


寝不足気味の二人は、

ゆっくりと余韻を味わった。


チェックアウトを済ませ、ホテルの駐車場へ向かう。

朝の空気は少しだけ冷たく、夜の熱を静かに冷ましていくようだった。


莉花が助手席に乗り込むと、シートベルトを締めながら小さく息をついた。


僕はハンドルに手を置いたまま、キーを回さなかった。


シートベルトに手を伸ばしかけて、止まる。


「……どうしたの?」


莉花が首を傾げる。


答えられなかった。


次の瞬間、腕を掴んで引き寄せていた。


「え――」


言い終わる前に、唇を重ねる。


抵抗する間も与えず、逃がさなかった。


不意打ちだった。

莉花の身体が一瞬固まる。


莉花の手が胸元を押す。


「……待っ」


それでも離さなかった。


一瞬だけ、抵抗する力が入る。

けれど――すぐに弱まった。


莉花の指が、胸元を押したまま柔らかくなった。


わずかに息が乱れる。

莉花は力を抜き、身を委ねてきた。


唇を離しても、呼吸が混じるほどの距離で見つめ合った。


「……ほんと、可愛いな」


まだ、離れる気になれなかった。


思わず聞いていた。


「……莉花は、僕のどこが好きなの?」


莉花は一瞬だけ目を丸くした。

それから、くすっと笑う。


「急にどうしたの?」


「気になる」


少し考える素振りをして、首を傾げる。


「顔、かな」


「顔?」


「うん。好き」


照れた様子もなく、あっさり言う。


「匂いも好き」

「優しいところも好き」


そして、少しだけ目を細める。


「……でも、やっぱり顔が一番」


思わず言葉に詰まる。


莉花は僕の方を見上げた。


「最初からだよ」


「最初?」


「一目惚れ」


小さく笑う。


「私が、先に好きになったの」


すぐには離れられない距離のまま、見つめ合った。


莉花は驚いたまま、しばらく動かなかった。

けれど――離れない。


やがて小さく息を吐く。


「……強引」


責める声ではなかった。


身体は離れない。


視線を逸らし、頬を染める。


「そんな強引な悠輝、知らなかった」


それから、ほんのわずかに僕の服を掴む。


「……でも」


小さく囁く。


「こういうのも、嫌じゃない」


額を寄せてきた。


「私のせいだね。ちょっと嬉しい」


困ったように笑ったあと、莉花は少しだけ距離を取る。


そして――自分から、近づいた。


僕の胸元を軽く掴み、身体を寄せた。


「……私も」


触れるだけのキスだった。


離れ際、もう一度だけ唇が触れる。


「私の勝ち」


頬を少しだけ染める。


「水族館、行こっか」


僕はようやくキーを回した。


エンジン音が、少し遅れて現実を連れてきた。


———


車を降りると、ひんやりした空気が肌に触れた。

エントランスを抜けた瞬間、光が落ちる。


手は、ずっと繋いだままだった。


水族館は、静かで、青かった。


巨大な水槽の前で、魚たちが群れをなして泳いでいる。

光を反射して、どれも綺麗だった。


「綺麗だね」


莉花が言う。


「うん」


返事をしながら、

僕はガラスの向こうから目を離せなかった。

どんなに美しくても。


「……自由じゃ、ないよね」


莉花はすぐには答えなかった。

水槽を見上げたまま、静かに言う。


「安全だけどね」


「僕たちは、違うよ」

僕は、少しでも良くなる未来を探したい。


莉花は何も言わず、

僕の手を握った。


強くもなく、弱くもなく。

でも、しっかりと指を絡めてきた。


水槽の光が、二人の影を揺らしていた。


綺麗なだけの世界には、必ず裏側があると知った。

檻の中だと気づいていないだけだ。


———


売店の前で、莉花が立ち止まる。


イルカのぬいぐるみを手に取る。


「……由衣ちゃん、こういうの好きそう」


レジに向かいかけて、ふと足を止める。

棚に戻り、焼き菓子の箱を一つ選んだ。


「それも?」


僕が聞くと、莉花は少しだけ目を逸らした。


「この前、急だったでしょ」


「お土産、用意してなかったから」


それだけ言って、レジに向かった。



水族館を出ると、外は少しだけ眩しかった。

館内の青い光に慣れていた目が、白い空をうまく捉えられない。


「ちょっと休も」


莉花が言った。


通りの向かいに、小さな喫茶店があった。

観光客は少なく、静かな店だった。


窓際の席に座る。

氷の入ったグラスの水が置かれたとき、ようやく現実に戻った気がした。


コーヒーと、アイスティーを頼む。


しばらく、二人とも何も話さなかった。

机の上で、手を繋いだり、

離したり、していた。


店内のテレビが、音量を絞ってニュースを流している。


最初は気にしていなかった。


だが――


画面の下に流れたテロップを、僕は偶然見た。


【江東区内の児童施設で小学生数名が体調不良 搬送】


一瞬、意味が理解できなかった。


次の瞬間、心臓が強く鳴る。


テレビに映ったのは、見覚えのある建物だった。


白い外壁。

低いフェンス。

庭の折りたたみテーブル。


――あの児童館。


思わず立ち上がりかける。


「……莉花」


声が掠れた。


莉花はもう、テレビを見ていた。

表情が消えている。


繋いだ手に力が入る。


アナウンサーの声だけが静かに流れる。


「本日昼過ぎ、こども食堂を利用した小学生複数名が原因不明の中毒症状を訴え、病院へ搬送されました。現在、警察と保健所が原因を調査しています」


氷が、グラスの中で小さく鳴る。


僕の頭の中に、あの日の光景が勝手に浮かんだ。


庭のテーブルで、子どもたちが笑っていた。

紙皿を持って走り回り、

ボランティアの人が「こら、走るな」と困った顔で追いかけていた。


湯気の立つハンバーグ。

無邪気な声。

ただの昼下がりだった。


――あの中に、いた。


莉花が、ほんの小さく息を呑む。

「……あの子、笑ってた」


画面の向こうでは、救急車の赤色灯が回っている。


同じ場所だった。


同じ庭だった。


同じ、子どもたちのはずだった。


胃の奥が冷える。


「……俺たち、見てた」


気づけなかった。


誰も騒いでいない店内で、

僕たちだけが音を失っていた。


莉花が、ゆっくり呟く。


「……あそこだね」


僕は小さく頷いた。


僕の頭の中に、あの日の光景が戻った。

エプロン姿の細川。

サラマンダー。

トランクに運ばれた、逆さの段ボール。


「偶然……だよな」


自分でも、信じていない言葉だった。


莉花は答えなかった。

画面を見たまま、小さく言う。


「……あそこに、保管してたんだ」

「食品と同じ場所に」


「……子供たちが笑ってる場所なのに」

「パパたちの世界が、入り込んでる」


「……莉花?」


「本当にずさん」

「あの人たちは、バカなの……」


繋いだ手に、強く力がこもる。


「多分、保管してあった物が――間違って混入した」


背筋が冷えた。


「もう、めちゃくちゃ……」


子どもたちが運ばれていた。


莉花が、握っていた手に力を込める。


「もう、放っておけない」


僕は何も言えなかった。


さっきまでのデートが、

遠い出来事のように感じられる。


莉花はテレビから目を離し、

まっすぐ僕を見た。


「ねえ悠輝」


静かに言う。


「悪い人は、止めなきゃだめだよね」


その瞳には、迷いがなかった。


莉花が「父親と戦う側」に立ったのは――この瞬間だった。



夕方の海は、昼とは別の顔をしていた。

波は穏やかで、寄せては返すたびに、光を砕いていく。


オレンジと藍色が溶け合い、

空と海の境目が、曖昧になっていく。


潮の匂いが、風に乗って届く。


波打ち際では、白い泡が弾けて、すぐに消える。


「綺麗だね」


僕のそう言った声は、波音に紛れて、少しだけ柔らかくなった。


夕焼けは、二人を包み込むように、ゆっくり沈んでいく。

世界が静まり返るにつれて、

聞こえるのは、波の音と、自分たちの呼吸だけだった。


その海を背に、

莉花が振り向いたとき、

もう言葉は、必要なかった。


夕焼けの海を背に、莉花は一歩、距離を詰めた。

潮風が、その動きをそっと後押しする。


「……もう一度、聞いていい?」


「なに」


「……戻れなくなるよ」


答える前に、視線が絡む。

逃げ場なんて、最初からなかった。


「信じてないの?」


そう言うと、

莉花の腕が、僕の首に巻きついた。


引き寄せられて、

唇が、触れる。


最初は、確かめるみたいに、ゆっくりだった。

触れて、離れて、もう一度。


彼女の柔らかな唇があたたかい。

重なったまま、

呼吸のタイミングをお互い探すみたいに、静かな時間を刻んでいく。


息がかかる距離、全てが繋がっている気がした。


長く、長く。

波の音が、積み重なっていく。

時間の感覚が、溶けていく。


唇が離れても、

しばらく、互いに何も言えなかった。


やがて、莉花がほんの少しだけ、額を寄せて囁いた。


「……好き」


夕焼けは、もう沈みかけていた。

でも、ここからだ。


「パパは力が、正義だと勘違いしてる」

「自分の正義のためなら、何でもしそう」

「パパが殺人まで、命令してたら?」


「これ以上は、私しか止められない」


「彼の愛する人がいなくなってから、誰も止められなかった」


「私では、ママの代わりにはなれない」


「でも私には悠輝がいる」

「ちゃんと戻れる場所があるの」


「……私が止める」


藤堂高雄。


その目には、迷いがなかった。



「まだ仲間が必要」

「千堂千畝を仲間に引き込みたい」


「このまま凶悪事件にすすめば、千堂さんしか対応できない」


「彼は、元警察官」


「パパがコロンビアにいた頃、同行してかなり踏み込んだ内容も知ってると思う」


千堂千畝。

高雄の元腹心。


この戦いの、もう一つの鍵。

お金や名誉では動かない男。


――どうやって、こちらに引き寄せるか。


「もう少し千堂さんについて、調べてみる」


「元は紗希のお父さんの部下だったんだよね」


でも、聞き方を間違えれば逆効果だ。

高雄と岡部正信は、親友同士なのだから。



莉花は、日の沈んだ海を背に言った。


「もう一度、今から気を引き締めましょう」


「デートはここまで」


メール越しの、見えない戦争。


波の音は静かだった。

それでも、逃げ道だけが消えていくのを感じた。


僕たちは砂浜を離れ、車へ戻った。


ドアを閉めると、潮の匂いが遮られる。

現実に戻されたような気がした。


エンジンがかかる。

車は、ゆっくりと夜の道へ出た。


しばらく、どちらも何も話さなかった。


さっきまでの出来事が、悪夢のように、胸の奥に突き刺さる。


僕は沈黙に耐えられず、オーディオに手を伸ばした。

ラジオをつける。


軽いジングルのあと、明るい声が流れる。


『――今日は暖かかったですね。帰宅ラッシュの時間帯ですが、現在大きな渋滞はありません』


天気。

交通情報。

リスナーの投稿。


僕はチャンネルを変える。


音楽。

通販。

ニュース。


耳を澄ます。


――出ない。


「……やってない」


「なにが?」


莉花が前を見たまま聞く。


「児童館の件」


もう一度、局を変える。

ニュースの時報が鳴る。


株価。

海外情勢。

スポーツ結果。


それだけだった。


「子供が運ばれたのに……」


ラジオの中では、楽しそうな曲が流れ始める。

あまりにも、普通の夜だった。


莉花は何も言わなかった。


ただ、ハンドルを握る指に、わずかに力がこもっていた。


「世の中なんて、そんなもんよ」



街の明かりが増えていく。

住宅街に入ると、見慣れた景色に変わった。


「ここで大丈夫」


僕が言うと、莉花は静かに車を寄せ、エンジンを切る。


夜の静けさが、車内に落ちる。


「……送ってくれてありがとう」


ドアを開けようとしたときだった。


「待って」


莉花が後部座席に手を伸ばす。


小さな紙袋を取り出した。


「これ」


「?」


「由衣ちゃんに」


「あっ、うん」


少しだけ、照れたように笑う。


「この前、急だったでしょ」


それから、もう一つ袋を持つ。


「……ご両親にも」


玄関の灯りが、まだついていた。


「一緒に来る?」


「うん」


僕たちは並んで家に入る。


「ただいま」


母が台所から顔を出す。


「おかえり――あら?」


莉花が小さく頭を下げる。


「こんばんは。遅くにすみません」


僕は紙袋を差し出す。


「今日、水族館行ってきて……お土産」


「まあ、気を遣わなくていいのに」


母はそう言いながらも、嬉しそうに受け取る。


奥から、ぱたぱたと足音が近づいてきた。


「お兄ちゃん?」


由衣が顔を出した瞬間、固まる。


「……えっ」


莉花がしゃがんで、小さな袋を差し出す。


「由衣ちゃんに」


中から、淡い水色のイルカのぬいぐるみが顔を出した。


「……かわいい」


由衣の目が、一瞬で輝いた。


「いいの!?」


「うん」


抱きしめるように受け取る。


「ありがとう!」


その声が、家の中に響いた。


台所から、味噌汁の匂いが漂ってくる。

居間の灯りが、あたたかく広がっていた。


さっきまでの海も、児童館も、別の世界で起きた出来事のように感じられた。


莉花の言葉が、胸の奥で繰り返される。

――世の中なんて、そんなもんよ。


そうだ。――俺には、帰る場所がある。


莉花には、帰れる場所があるのか。

父親には――あるのか。


莉花は、その光景を静かに見ていた。


そして、ほんの少しだけ、安心したように笑った。

莉花は、玄関で立ち止まった。


「それでは、失礼します」


そう言って微笑む。

けれど、扉はまだ開けられない。


わずかな沈黙が落ちた。


奥から、ぱたぱたと足音が近づく。


「お姉ちゃん……帰っちゃうの?」


由衣だった。


思わず、僕が声を上げる。


「由衣!」


たしなめるつもりだったのに、強くは言えなかった。


由衣は、莉花の服の袖をそっと掴む。


「……でも、泊まっていけば?」


母が台所から顔を出す。


「うちは大丈夫だけど……家の人は心配しない?」


莉花は一瞬、視線を落とした。


「……大丈夫です」


短い答えだった。


母は、少し笑う。


「じゃあ、ちょうどご飯の用意してたから、泊まっていきなさい」


「え……?」


「今日は、ひょっとして莉花ちゃんが来るかなと思ってね」

「おかず、少し多めに作ってたの」


莉花の目が、わずかに揺れる。


「……ありがとうございます」


小さく頭を下げた。


玄関の外へ向いていた身体が、ゆっくり家の中へ戻る。



廊下に、味噌汁の匂いが漂っていた。

台所から、食器の触れ合う小さな音がする。


「もうすぐ出来るから、先に部屋で休んでて」


僕は自分の部屋のドアを開けた。

見慣れた机と、本棚。

由衣が昔貼ったままのシールが、クローゼットの端に残っている。


ドアが閉まると、家の気配が少し遠くなる。


振り向いた瞬間、莉花の指がそっと僕の胸元を掴む。


――唇が触れる。


離れないまま、静かに重なり続ける。

呼吸が乱れても、どちらも離れようとしない。


指先がシャツを軽く引き、距離がさらに縮まる。


ようやく唇が離れたときも、額が触れるほど近いままだった。


「……ほんとに」


小さく息を吐いて、莉花が囁く。


「安心する」


もう一度だけ、今度はゆっくりと触れる。


さっきよりも、自然に。


「悠輝のそばがいい」


胸元に額を寄せる。


「……よかった」


息が、かすかに震えていた。


その声は、初めて聞くほど静かだった。


僕たちはただのデートのつもりだった。


けれどあの日、

日常の向こう側に、

もう一つの世界があることを知った。

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