16.章《Contamination》
幸せは、気づかないうちに過ぎていく。
思い出すのは、いつも後になってからだ。
あの日の朝、
僕はただ、隣にいる人のことしか考えていなかった。
朝食は、ルームサービスにしていた。
時間を指定どおりに、朝食が用意された。
寝不足気味の二人は、
ゆっくりと余韻を味わった。
チェックアウトを済ませ、ホテルの駐車場へ向かう。
朝の空気は少しだけ冷たく、夜の熱を静かに冷ましていくようだった。
莉花が助手席に乗り込むと、シートベルトを締めながら小さく息をついた。
僕はハンドルに手を置いたまま、キーを回さなかった。
シートベルトに手を伸ばしかけて、止まる。
「……どうしたの?」
莉花が首を傾げる。
答えられなかった。
次の瞬間、腕を掴んで引き寄せていた。
「え――」
言い終わる前に、唇を重ねる。
抵抗する間も与えず、逃がさなかった。
不意打ちだった。
莉花の身体が一瞬固まる。
莉花の手が胸元を押す。
「……待っ」
それでも離さなかった。
一瞬だけ、抵抗する力が入る。
けれど――すぐに弱まった。
莉花の指が、胸元を押したまま柔らかくなった。
わずかに息が乱れる。
莉花は力を抜き、身を委ねてきた。
唇を離しても、呼吸が混じるほどの距離で見つめ合った。
「……ほんと、可愛いな」
まだ、離れる気になれなかった。
思わず聞いていた。
「……莉花は、僕のどこが好きなの?」
莉花は一瞬だけ目を丸くした。
それから、くすっと笑う。
「急にどうしたの?」
「気になる」
少し考える素振りをして、首を傾げる。
「顔、かな」
「顔?」
「うん。好き」
照れた様子もなく、あっさり言う。
「匂いも好き」
「優しいところも好き」
そして、少しだけ目を細める。
「……でも、やっぱり顔が一番」
思わず言葉に詰まる。
莉花は僕の方を見上げた。
「最初からだよ」
「最初?」
「一目惚れ」
小さく笑う。
「私が、先に好きになったの」
すぐには離れられない距離のまま、見つめ合った。
莉花は驚いたまま、しばらく動かなかった。
けれど――離れない。
やがて小さく息を吐く。
「……強引」
責める声ではなかった。
身体は離れない。
視線を逸らし、頬を染める。
「そんな強引な悠輝、知らなかった」
それから、ほんのわずかに僕の服を掴む。
「……でも」
小さく囁く。
「こういうのも、嫌じゃない」
額を寄せてきた。
「私のせいだね。ちょっと嬉しい」
困ったように笑ったあと、莉花は少しだけ距離を取る。
そして――自分から、近づいた。
僕の胸元を軽く掴み、身体を寄せた。
「……私も」
触れるだけのキスだった。
離れ際、もう一度だけ唇が触れる。
「私の勝ち」
頬を少しだけ染める。
「水族館、行こっか」
僕はようやくキーを回した。
エンジン音が、少し遅れて現実を連れてきた。
———
車を降りると、ひんやりした空気が肌に触れた。
エントランスを抜けた瞬間、光が落ちる。
手は、ずっと繋いだままだった。
水族館は、静かで、青かった。
巨大な水槽の前で、魚たちが群れをなして泳いでいる。
光を反射して、どれも綺麗だった。
「綺麗だね」
莉花が言う。
「うん」
返事をしながら、
僕はガラスの向こうから目を離せなかった。
どんなに美しくても。
「……自由じゃ、ないよね」
莉花はすぐには答えなかった。
水槽を見上げたまま、静かに言う。
「安全だけどね」
「僕たちは、違うよ」
僕は、少しでも良くなる未来を探したい。
莉花は何も言わず、
僕の手を握った。
強くもなく、弱くもなく。
でも、しっかりと指を絡めてきた。
水槽の光が、二人の影を揺らしていた。
綺麗なだけの世界には、必ず裏側があると知った。
檻の中だと気づいていないだけだ。
———
売店の前で、莉花が立ち止まる。
イルカのぬいぐるみを手に取る。
「……由衣ちゃん、こういうの好きそう」
レジに向かいかけて、ふと足を止める。
棚に戻り、焼き菓子の箱を一つ選んだ。
「それも?」
僕が聞くと、莉花は少しだけ目を逸らした。
「この前、急だったでしょ」
「お土産、用意してなかったから」
それだけ言って、レジに向かった。
⸻
水族館を出ると、外は少しだけ眩しかった。
館内の青い光に慣れていた目が、白い空をうまく捉えられない。
「ちょっと休も」
莉花が言った。
通りの向かいに、小さな喫茶店があった。
観光客は少なく、静かな店だった。
窓際の席に座る。
氷の入ったグラスの水が置かれたとき、ようやく現実に戻った気がした。
コーヒーと、アイスティーを頼む。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
机の上で、手を繋いだり、
離したり、していた。
店内のテレビが、音量を絞ってニュースを流している。
最初は気にしていなかった。
だが――
画面の下に流れたテロップを、僕は偶然見た。
【江東区内の児童施設で小学生数名が体調不良 搬送】
一瞬、意味が理解できなかった。
次の瞬間、心臓が強く鳴る。
テレビに映ったのは、見覚えのある建物だった。
白い外壁。
低いフェンス。
庭の折りたたみテーブル。
――あの児童館。
思わず立ち上がりかける。
「……莉花」
声が掠れた。
莉花はもう、テレビを見ていた。
表情が消えている。
繋いだ手に力が入る。
アナウンサーの声だけが静かに流れる。
「本日昼過ぎ、こども食堂を利用した小学生複数名が原因不明の中毒症状を訴え、病院へ搬送されました。現在、警察と保健所が原因を調査しています」
氷が、グラスの中で小さく鳴る。
僕の頭の中に、あの日の光景が勝手に浮かんだ。
庭のテーブルで、子どもたちが笑っていた。
紙皿を持って走り回り、
ボランティアの人が「こら、走るな」と困った顔で追いかけていた。
湯気の立つハンバーグ。
無邪気な声。
ただの昼下がりだった。
――あの中に、いた。
莉花が、ほんの小さく息を呑む。
「……あの子、笑ってた」
画面の向こうでは、救急車の赤色灯が回っている。
同じ場所だった。
同じ庭だった。
同じ、子どもたちのはずだった。
胃の奥が冷える。
「……俺たち、見てた」
気づけなかった。
誰も騒いでいない店内で、
僕たちだけが音を失っていた。
莉花が、ゆっくり呟く。
「……あそこだね」
僕は小さく頷いた。
僕の頭の中に、あの日の光景が戻った。
エプロン姿の細川。
サラマンダー。
トランクに運ばれた、逆さの段ボール。
「偶然……だよな」
自分でも、信じていない言葉だった。
莉花は答えなかった。
画面を見たまま、小さく言う。
「……あそこに、保管してたんだ」
「食品と同じ場所に」
「……子供たちが笑ってる場所なのに」
「パパたちの世界が、入り込んでる」
「……莉花?」
「本当にずさん」
「あの人たちは、バカなの……」
繋いだ手に、強く力がこもる。
「多分、保管してあった物が――間違って混入した」
背筋が冷えた。
「もう、めちゃくちゃ……」
子どもたちが運ばれていた。
莉花が、握っていた手に力を込める。
「もう、放っておけない」
僕は何も言えなかった。
さっきまでのデートが、
遠い出来事のように感じられる。
莉花はテレビから目を離し、
まっすぐ僕を見た。
「ねえ悠輝」
静かに言う。
「悪い人は、止めなきゃだめだよね」
その瞳には、迷いがなかった。
莉花が「父親と戦う側」に立ったのは――この瞬間だった。
⸻
夕方の海は、昼とは別の顔をしていた。
波は穏やかで、寄せては返すたびに、光を砕いていく。
オレンジと藍色が溶け合い、
空と海の境目が、曖昧になっていく。
潮の匂いが、風に乗って届く。
波打ち際では、白い泡が弾けて、すぐに消える。
「綺麗だね」
僕のそう言った声は、波音に紛れて、少しだけ柔らかくなった。
夕焼けは、二人を包み込むように、ゆっくり沈んでいく。
世界が静まり返るにつれて、
聞こえるのは、波の音と、自分たちの呼吸だけだった。
その海を背に、
莉花が振り向いたとき、
もう言葉は、必要なかった。
夕焼けの海を背に、莉花は一歩、距離を詰めた。
潮風が、その動きをそっと後押しする。
「……もう一度、聞いていい?」
「なに」
「……戻れなくなるよ」
答える前に、視線が絡む。
逃げ場なんて、最初からなかった。
「信じてないの?」
そう言うと、
莉花の腕が、僕の首に巻きついた。
引き寄せられて、
唇が、触れる。
最初は、確かめるみたいに、ゆっくりだった。
触れて、離れて、もう一度。
彼女の柔らかな唇があたたかい。
重なったまま、
呼吸のタイミングをお互い探すみたいに、静かな時間を刻んでいく。
息がかかる距離、全てが繋がっている気がした。
長く、長く。
波の音が、積み重なっていく。
時間の感覚が、溶けていく。
唇が離れても、
しばらく、互いに何も言えなかった。
やがて、莉花がほんの少しだけ、額を寄せて囁いた。
「……好き」
夕焼けは、もう沈みかけていた。
でも、ここからだ。
「パパは力が、正義だと勘違いしてる」
「自分の正義のためなら、何でもしそう」
「パパが殺人まで、命令してたら?」
「これ以上は、私しか止められない」
「彼の愛する人がいなくなってから、誰も止められなかった」
「私では、ママの代わりにはなれない」
「でも私には悠輝がいる」
「ちゃんと戻れる場所があるの」
「……私が止める」
藤堂高雄。
その目には、迷いがなかった。
⸻
「まだ仲間が必要」
「千堂千畝を仲間に引き込みたい」
「このまま凶悪事件にすすめば、千堂さんしか対応できない」
「彼は、元警察官」
「パパがコロンビアにいた頃、同行してかなり踏み込んだ内容も知ってると思う」
千堂千畝。
高雄の元腹心。
この戦いの、もう一つの鍵。
お金や名誉では動かない男。
――どうやって、こちらに引き寄せるか。
「もう少し千堂さんについて、調べてみる」
「元は紗希のお父さんの部下だったんだよね」
でも、聞き方を間違えれば逆効果だ。
高雄と岡部正信は、親友同士なのだから。
⸻
莉花は、日の沈んだ海を背に言った。
「もう一度、今から気を引き締めましょう」
「デートはここまで」
メール越しの、見えない戦争。
波の音は静かだった。
それでも、逃げ道だけが消えていくのを感じた。
僕たちは砂浜を離れ、車へ戻った。
ドアを閉めると、潮の匂いが遮られる。
現実に戻されたような気がした。
エンジンがかかる。
車は、ゆっくりと夜の道へ出た。
しばらく、どちらも何も話さなかった。
さっきまでの出来事が、悪夢のように、胸の奥に突き刺さる。
僕は沈黙に耐えられず、オーディオに手を伸ばした。
ラジオをつける。
軽いジングルのあと、明るい声が流れる。
『――今日は暖かかったですね。帰宅ラッシュの時間帯ですが、現在大きな渋滞はありません』
天気。
交通情報。
リスナーの投稿。
僕はチャンネルを変える。
音楽。
通販。
ニュース。
耳を澄ます。
――出ない。
「……やってない」
「なにが?」
莉花が前を見たまま聞く。
「児童館の件」
もう一度、局を変える。
ニュースの時報が鳴る。
株価。
海外情勢。
スポーツ結果。
それだけだった。
「子供が運ばれたのに……」
ラジオの中では、楽しそうな曲が流れ始める。
あまりにも、普通の夜だった。
莉花は何も言わなかった。
ただ、ハンドルを握る指に、わずかに力がこもっていた。
「世の中なんて、そんなもんよ」
⸻
街の明かりが増えていく。
住宅街に入ると、見慣れた景色に変わった。
「ここで大丈夫」
僕が言うと、莉花は静かに車を寄せ、エンジンを切る。
夜の静けさが、車内に落ちる。
「……送ってくれてありがとう」
ドアを開けようとしたときだった。
「待って」
莉花が後部座席に手を伸ばす。
小さな紙袋を取り出した。
「これ」
「?」
「由衣ちゃんに」
「あっ、うん」
少しだけ、照れたように笑う。
「この前、急だったでしょ」
それから、もう一つ袋を持つ。
「……ご両親にも」
玄関の灯りが、まだついていた。
「一緒に来る?」
「うん」
僕たちは並んで家に入る。
「ただいま」
母が台所から顔を出す。
「おかえり――あら?」
莉花が小さく頭を下げる。
「こんばんは。遅くにすみません」
僕は紙袋を差し出す。
「今日、水族館行ってきて……お土産」
「まあ、気を遣わなくていいのに」
母はそう言いながらも、嬉しそうに受け取る。
奥から、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
「お兄ちゃん?」
由衣が顔を出した瞬間、固まる。
「……えっ」
莉花がしゃがんで、小さな袋を差し出す。
「由衣ちゃんに」
中から、淡い水色のイルカのぬいぐるみが顔を出した。
「……かわいい」
由衣の目が、一瞬で輝いた。
「いいの!?」
「うん」
抱きしめるように受け取る。
「ありがとう!」
その声が、家の中に響いた。
台所から、味噌汁の匂いが漂ってくる。
居間の灯りが、あたたかく広がっていた。
さっきまでの海も、児童館も、別の世界で起きた出来事のように感じられた。
莉花の言葉が、胸の奥で繰り返される。
――世の中なんて、そんなもんよ。
そうだ。――俺には、帰る場所がある。
莉花には、帰れる場所があるのか。
父親には――あるのか。
莉花は、その光景を静かに見ていた。
そして、ほんの少しだけ、安心したように笑った。
莉花は、玄関で立ち止まった。
「それでは、失礼します」
そう言って微笑む。
けれど、扉はまだ開けられない。
わずかな沈黙が落ちた。
奥から、ぱたぱたと足音が近づく。
「お姉ちゃん……帰っちゃうの?」
由衣だった。
思わず、僕が声を上げる。
「由衣!」
たしなめるつもりだったのに、強くは言えなかった。
由衣は、莉花の服の袖をそっと掴む。
「……でも、泊まっていけば?」
母が台所から顔を出す。
「うちは大丈夫だけど……家の人は心配しない?」
莉花は一瞬、視線を落とした。
「……大丈夫です」
短い答えだった。
母は、少し笑う。
「じゃあ、ちょうどご飯の用意してたから、泊まっていきなさい」
「え……?」
「今日は、ひょっとして莉花ちゃんが来るかなと思ってね」
「おかず、少し多めに作ってたの」
莉花の目が、わずかに揺れる。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げた。
玄関の外へ向いていた身体が、ゆっくり家の中へ戻る。
⸻
廊下に、味噌汁の匂いが漂っていた。
台所から、食器の触れ合う小さな音がする。
「もうすぐ出来るから、先に部屋で休んでて」
僕は自分の部屋のドアを開けた。
見慣れた机と、本棚。
由衣が昔貼ったままのシールが、クローゼットの端に残っている。
ドアが閉まると、家の気配が少し遠くなる。
振り向いた瞬間、莉花の指がそっと僕の胸元を掴む。
――唇が触れる。
離れないまま、静かに重なり続ける。
呼吸が乱れても、どちらも離れようとしない。
指先がシャツを軽く引き、距離がさらに縮まる。
ようやく唇が離れたときも、額が触れるほど近いままだった。
「……ほんとに」
小さく息を吐いて、莉花が囁く。
「安心する」
もう一度だけ、今度はゆっくりと触れる。
さっきよりも、自然に。
「悠輝のそばがいい」
胸元に額を寄せる。
「……よかった」
息が、かすかに震えていた。
その声は、初めて聞くほど静かだった。
僕たちはただのデートのつもりだった。
けれどあの日、
日常の向こう側に、
もう一つの世界があることを知った。




