15章《倉橋の孤立》
船は、静かに沈む。
大きな音も、揺れもない。
乗っている者ほど、気づかない。
このとき倉橋は、
まだ航路の上にいるつもりだった。
――すでに、帰る港を失っているとも知らずに。
室内は静かだった。
エアコンの風だけが、書類の端をわずかに揺らしている。
役員フロアには誰もいない。
入口には「入室禁止」を出してある。
秘書にも、電話は繋ぐなと伝えてある。
一度だけ視線を落とし、ノートパソコンを開いた。
差出人の欄に視線を移した瞬間、指がわずかに止まった。
来るはずのない差出人。
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件名:これ以上は無理です
差出人:細川
宛先:野崎 副社長/倉橋 専務/藤堂 社長
荒木のことで、もう限界です。
自分は全部知っています。
麻薬資金のことも、
指示の流れも記録してあります。
まだ警察には行っていません。
でも、このまま何もなければ話す用意があります。
しばらく連絡しないでください。
探された場合、その時は出頭します。
細川
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細川には、荷物の詳細は教えていない。
流れも、資金も、指示系統も――
すべて重要な事は隠してある。
表に出ている情報は途中で途切れる。
一人では辿り着けないようにしてある。
知っているはずがない。
……なのに。
「全部知っています」
喉が、わずかに鳴った。
勘づいたのか。
――俺が、薬を動かしていることに。
いや、違う。
細川一人で辿り着けるわけがない。
野崎がもう一度、繋げた?
それとも社長が情報を渡したのか。
……いや。
二人とも違う可能性もある。
指先に、わずかに汗が滲んだ。
細川のメールの数分後、藤堂から転送メールが届いた。
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件名:確認したい
差出人:藤堂 社長
宛先:倉橋 専務
細川からの連絡は確認した。
荒木の件以降、朝日川側の動きが不自然だ。
こちらの関与を疑われる状況は避けたい。
君の方で独自に動かしているものがあるなら把握しておきたい。
少なくとも、荒木の件について君の関与が否定できるまでは、直接会って話すつもりはない。
当面、この件は口頭では扱わない。
記録の残る形で説明してくれ。
高雄
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一瞬、思考が止まった。
――会わない。
拒絶ではない。
だが、距離を取られた。
穏やかな文面だった。
だからこそ、はっきりしている。
責任の位置を確認している。
……俺が、荒木を処分したと思っているのか。
だが、おかしい。
荒木は末端だ。
荷の中身も、流れも気付いてはいるだろうが、深くは知らない。
ただの運び屋。
小遣い稼ぎの感覚だったはずだ。
殺す理由がない。
それなのに――
死んだあとに、細川の告発が来た。
もう一度、あの一文を見る。
「全部知っています」
あり得ない。
吉野も知らないことを、
細川が知るはずがない。
息が、うまく入らない。
胸の奥が詰まる。
疑われている。
……違う。
疑われるように、なっている。
次の通知が届く。
⸻
件名:Re:例の件について
差出人:野崎 副社長
宛先:倉橋 専務
倉橋専務
連絡確認しました。
現時点では、直接会うのは避けた方が良いと考えます。
状況が整理できるまで、文面でやり取りしましょう。
不用意な接触は互いの立場を危うくします。
まずこちらで整理します。
野崎
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指が、画面の上で止まった。
野崎も、会わない。
社長と同じだ。
理由は書かれていない。
だが、十分だった。
野崎は吉野に連絡したのか?
「……」
スマホを手に取り、吉野へ発信する。
『現在、お掛けになった電話番号は、お客様の都……』
その瞬間、頭の中の雑音が消えた。
内線を取り、人事に繋がせる。
「吉野課長、今日は出社しているか確認してくれ」
『本日から、吉野課長は長期休暇に入られています。昨夜、申請が出されています』
長期休暇には何か理由がある。
あいつ……野崎にたかるつもりか。
……そういうことか。
俺がやったかどうかは、もう関係ない。
血の気が引いた。
そういう扱いに、なっている。
ゆっくり息を吐いた。
責任を決めるために距離を取っているのではない。
先に、責任をなすりつける人を選んでいる。
つまり――
もう、調査ではない。
処理が始まっている。
端末を操作した。
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件名:Re:例の件について
差出人:倉橋 専務
宛先:野崎 副社長
野崎副社長
細川の件、確認しました。
現時点では、直接お会いするのは避けたいと考えています。
細川の動きの背景が不明な以上、軽率な接触は互いの立場を危うくしかねません。
私の方でも情報を整理していますが、現段階で断定できる材料はありません。
ただ、今回の件は一部で話が先行している印象を受けています。
認識の違いが生じている可能性もあるため、まずは文面で確認させてください。
不用意な動きは控えるべき状況だと思われます。
倉橋
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続けてもう一通
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件名:Re:確認したい
差出人:倉橋 専務
宛先:藤堂 社長
藤堂社長
細川の件、確認しました。
現場の動きについては把握していますが、
私が主導したものではありません。
誤解を避けるため、当面は外部への情報流出を防ぐことを優先します。
必要な内容は文面で報告します。
倉橋
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送信。
間を置かず、返信が届いた。
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件名:Re:確認したい
差出人:藤堂 社長
宛先:倉橋 専務
了解した。
まずは事実関係を整理して報告してほしい。
不用意な接触や独自判断は控えてくれ。
藤堂
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倉橋は画面を閉じた。
……もう、自分の席はない。
高雄も、野崎も動かない。
……違う。
動けないんじゃない。
二人は、もう安全な場所にいる。
ゆっくり息を吐いた。
外に残っているのは――俺だけだ。
――残るのは、後始末だけだ。
椅子の背がやけに軽い。
立ち上がると、部屋が広く感じた。
自身で収める段階は、もう過ぎている。
倉橋は、ゆっくりと目を閉じた。
……いや、違う。
終わりじゃない。
野崎も距離を取った。
藤堂に切られる可能性はある。
このままでは東南アジアルートも、いずれ藤堂押さえられるだろう。
だが、それで“崩壊”するわけではない。
流れは分断してある。
南米ルートは、資金の流れを別系統にしてある。
全体像を知る者は、もう残っていない。
――俺以外には。
証拠は、まだ手元にある。
交渉するための材料にはなる。
今の地位にこだわる必要はない。
切られてもいい。
ただし、
無傷で切らせるつもりはない。
藤堂が俺を処理するなら、
その時は――
同じ船に乗っていると理解させる。
倉橋は、静かに息を吐いた。
逆にルートが崩壊すれば、俺も野崎も無用になり、証拠も意味を持たない。
せめてどちらが、殺しを指示したかわかれば……。
「……まだ、打てる」
端末を、もう一度手に取った。
そこで、ふと記憶が浮かぶ。
藤堂社長と個人的に会話できる人物。
一人だけ、思い当たる。
――藤堂莉花。
親子の中はわからない。
特別対策室は日山ホールディングスでも公正を保つため、かなりの影響力を持つ、会長直轄の部署だ。
父親とは相反する部署。
倉橋はすぐには発信しなかった。
本来、対策室は自分の立場で使うべき回線ではない。
日山食品に登録されている藤堂莉花の携帯番号はある。
画面を見つめたまま、数秒考えた。
静かに息を吐き、通話ボタンに触れた。
呼び出し音。
応答はない。
一度、切れる。
掛け直す。
数秒で留守番電話に切り替わった。
指が止まる。
……出ない。
理由は分からない。
すでに父親から、なんらかの連絡が行っているのか?
端末を下ろしかけ、止めた。
他に、彼女へ繋がる線を考える。
部署配置替え。
あれは彼女の意向だった。
その時、一緒に動いた社員がいたはずだ。
事故の現場にも居合わせていた。
履歴を下へスクロールする。
指が止まる。
橘悠輝。
発信。
呼び出し音の二度目で繋がった。
『はい、橘です』
背後が騒がしい。
倉橋は一瞬だけ言葉を選んだ。
「ああ、橘くん。急にすまないね」
「この前のトラブル対応は収まっている。安心していい」
短く区切り、本題に入る。
「少し状況を確認したくてね。今日、時間を作れないかな。直接話したい」
間があった。
『……すみません、今日は予定があって』
断られた。
倉橋は追わない。
「そうか」
受話口の向こうで、誰かの笑い声が響いた。
ガラス越しに反射するような、籠った音だった。
「近いうちに一度、顔を出してくれ。仕事の話だ」
『はい』
通話を切る。
室内の静けさが戻る。
倉橋は端末を置かなかった。
わずかに視線を落とし、数秒だけ動かない。
繋がらなかった番号。
そして、今の通話。
受話口の向こうにあったのは、
社内でも取引先でもない音だった。
賑やかな音楽。
反響する、籠った空間の音。
仕事の時間にいる場所ではない。
理由は分からない。
ただ、この時間に会社にはいない。
倉橋は小さく息を吐いた。
考えても、答えは出ない。
端末の画面を開く。
新規SMS作成。
———
宛先
――藤堂莉花。
「……」
———
送信した。
もう一度、仕切り直しだ。
誰もいないはずの室内で、倉橋はふと顔を上げた。
視線を感じる。
振り返っても、当然そこには誰もいない。
――狙われた獲物は、
逃げ場がないと悟ったときに、ようやくそれに気づく。




