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Scrambled Egg  作者: 読まれる前提
《たまごの殻》

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14/28

14章. 《分水嶺》

山の上に落ちた一滴の水は、

自分がどちらの海へ向かうのかを知らない。


境目は、特別な形をしていない。

ただの日常の中で通り過ぎ、

その後のすべてだけを変えてしまう。


分かるのは、ずっと下流にたどり着いてからだ。

三人に偽メールを打ち込んでから、待つ時間が必要だった。

数日間は静かに、息を潜める。


ネット上では、確実に撃ち合いになるはずだ。


「……今ごろ、疑心暗鬼の大運動会だな」


莉花の運転する車の助手席で、僕はそう呟いた。


「ほっとけばいいのよ」

「メールだけで三つ巴にしたんだから」

「しばらくは、勝手に鉄砲を撃ち合ってくれれば時間が稼げる」


あっさりした口調だった。


作戦は、順調だ。

吉野課長の急な長期休暇が物語っていた。


野崎も、倉橋も、高雄も、

誰一人として“正解”に辿り着いていない。


――だからこそ、今は待つ。


莉花の横顔を、ちらりと見る。

ハンドルを握る手は慣れたもので、視線はまっすぐ前を向いている。

その横顔が、妙に落ち着いて見えた。


少しして、視線を外す。

何気なく車窓を見る。


……あれ。

いつもの道と、違う。


知らない景色が流れていく。

助手席から見る景色は、

なぜか普段より、少しだけ綺麗に見えた。


「……作戦会議は?」


「しない」

「今日は、しない」


「え、今それ言う?」


「莉花のメール見て、二日も有休入れちゃったよ」


「今だから、よ」


「今日は、デート」


莉花はそう言って、シートベルトを締め直した。


「僕が運転するよ」


「そうだ、遊園地いこ」


「いいね」


「じゃあ、思いっきり楽しもう」


「……じゃあ今日は、悠輝にまかせる」


笑って言い切る。

その横顔は、本当に楽しそうだった。


「ディズニーシー行こう」


莉花はナビを操作する。


スピーカーから流れてきたのは

Norah Jones の 『Don’t Know Why』。

莉花のお気に入りらしい。


首都高に入り、僕はハンドルを握り直した。

朝の光がフロントガラスいっぱいに広がる。

ビルの窓が白く反射し、流れていった。


助手席の莉花は、窓の外を静かに眺めている。

その様子が、どこか新鮮だった。


しばらくして、莉花が言った。


「遊園地って、回り方……決まってる?」


思わず笑いそうになる。


「人気のアトラクション並んで、ショー見て、ぶらぶら歩く。そんな感じかな」


「並ぶの、長い?」


「長いよ。一時間とか普通に」


「……そんなに」


少し考えてから、莉花が言った。


「デートって、効率よく回った方がいい?」


「いいよ。今日は効率とかいらない」


「?」


「遊園地はさ、成り行き任せで回るのが普通」


莉花が頷く。

「……そうなんだ」


その言い方が、なぜか少し嬉しかった。


湾岸線に出ると、視界が一気に開ける。

遠くに海が見えた。


「……天気、いいな」


「うん」


沈黙は、気まずくなかった。


信号待ちで車が止まる。

ふと視線を向けると、莉花もこちらを見ていた。


目が合う。


「なに?」


「いや……楽しそうだなって」


莉花は一瞬だけ視線を外し、窓の外へ戻した。


「楽しみよ」


青信号に変わる。

アクセルを踏むと、車は静かに動き出した。


———


午前中からパークに入り、

人の流れに押されるように歩き出した。


ふと、莉花が売店の前で立ち止まる。


「……これ」


棚に並んでいたのは、キャラクターのカチューシャだった。


「つけるの?」


「うん」

莉花は恥ずかしそうに言った。

「悠輝も」


手に取り、少しだけ迷ってから頭に乗せる。

鏡代わりのショーウィンドウを覗き込む。


「……変?」


「いや、似合ってる」

本音だった。


入園してすぐ、キャストに声をかけられた。


「お二人でお写真、いかがですか?」


断る間もなく、莉花が僕の腕を引いた。

「撮ろ」


キャストに案内され、パークの入口近くで立ち止まる。


「こちらでお撮りしますね」


並んで立つ。

思ったより距離が近い。


どう立てばいいのか分からず、少し身体を引いた瞬間――


肘が、柔らかいものに触れた。


一瞬、思考が止まる。


「絶対わざとだ」


反射的に離れようとした。


だが、離れられなかった。


莉花が、半歩だけこちらに寄ってきたからだ。


腕が、軽く触れたままになる。


「……」


横を見ると、莉花は何も言わず前を向いている。

表情も変わらない。


「はい、撮りますよー」


シャッター音。


「ありがとうございましたー」


キャストが写真カードを渡してくる。


莉花の指が、そっと袖をつまんだ。

「悠輝、可愛い」



人混みの中で、自然に手が触れた。


今度は、どちらも離さなかった。


手のひらが、少し汗ばんでいるのが分かる。


「……緊張してる?」


莉花が小さく言った。


「してない」


「嘘」


からかうような声なのに、握る力は弱くない。


「莉花は?」


少し間があってから、返事が来る。


「……してる」


顔は前を向いたままだった。


衝動を抑えきれず、少しだけ顔を近づける。


その瞬間。


莉花の指が、僕の胸を軽く押した。


「……だめ」


小さな声だった。

「ここじゃあ、恥ずかしい」


それでも、指が少しだけ強く絡んだ。


パレードの音楽が聞こえてくる。


人の声も足音も聞こえているのに、遠くで鳴っているみたいだった。


僕は、その手を離さなかった。


歩いているうちに、人の流れが広場に集まっていく。


甘い匂いが漂っていた。


「……あれ」


莉花が立ち止まる。

視線の先には、チュロスの屋台。

「食べる?」


「うん」


並んでいる間、人が多くて自然と距離が近くなる。

離れかけた手を、莉花の方がそっと握り直した。


「結構並ぶね」


「遊園地はこんなものだよ」


受け取ったチュロスは味の違う二本。

袋を持ったまま、莉花が少し迷う。


「半分こ、する?」


「いいよ」


莉花が先にかじる。

小さく頷いた。


「……甘い」


差し出されるた。


受け取ろうとして、指が触れる。

ほんの一瞬なのに、妙に意識してしまう。


「もう少し食べていいよ」


「うん」


歩き出すと、肩が触れる距離のままになった。

離れない。


人混みのせい――と言い訳できる距離だった。


「次、なに乗る?」


「ジェットコースター」


「いきなり?」


「こういうのは勢いよ」


———


「悠輝、次あれ乗ろ観覧車」


強引で、でも優しい。


並んでいる間も、莉花はスマホを一切見なかった。

通知が鳴っても、無視する。


促されるまま中に入ると、すぐに外から扉が閉められた。


――現実が、わずかに遠のいた気がした。


悠輝のポケットの中で、スマートフォンが震えた。


取り出す。


表示された名前を見て、息が止まった。


――倉橋専務。


横から莉花が画面を覗き込む。

そして即座に、小さく首を振った。


出るな、という合図。


だが、ここで切る方が不自然だと感じた。


「……少しだけ」


小声で言い、通話を受ける。

そのままスピーカーに切り替えた。


「はい、橘です」


『ああ、橘くん。急にすまないね』


穏やかな声だった。

仕事の時と同じ、柔らかい口調。


だが――少し早口だ。


『この前のトラブル対応、きちんと収まっている。安心していい』


心臓が跳ねた。



横で莉花がはっきりと手を振る。

やめろ、という意思表示だった。


『君と吉野課長のチーム、その後どうだね?』


「……ええ、まあ」


『吉野課長は長期休暇に入ったと聞いた。細川くんとも連絡が取れない』


一瞬、言葉を失う。


観覧車が、ゆっくりと上昇していく。


『少し状況を確認したくてね』

『今日、時間を作れないかな。直接話したい』


“何のことか”とは言っていない。


隣で、莉花が首を横に振る。

さっきより強く。


その目は、笑っていなかった。


「……すみません、今日は予定があって」


『そうか、吉野課長の周辺、少し妙でね。

君、何か聞いていないかな』


短い沈黙。


「いえ、何も聞いてません」


『そうか』


わずかに息を吐く気配があった。


『なら、問題ない』

『近いうちに一度、顔を出してくれ』

『仕事の話だ』


しばらく、二人とも喋らなかった。


観覧車の中の空気が、少しだけ変わった気がした。


すぐ前にいるのに――

なぜか、手を伸ばしても届かない距離にいるように思えた。


観覧車の中で、莉花は不意に言った。


「ねえ」

「逃げたいって、思った?」


一瞬、言葉に詰まった。

荒木が死んだ――と聞いた時、

逃げるという選択肢が、頭をよぎった。


「……思ったよ」

「でも」


「でも?」


「逃げたら、たぶん一生後悔する」


莉花は、満足そうに頷いた。


「今日はね」


莉花が言った。


「家には、帰らないって言って出てきた」


言葉は軽いのに、意味は重い。


「千堂さんにも」

「貴子さんにも、伝えてある」


貴子さんは、亮平の母であり、

この家を知り尽くしている人だ。


「これで、お爺様には伝わる」


試すような視線が、こちらを向く。


「悠輝が決めて」


その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

泊まるかどうか、を聞かれているはずなのに、

それだけの話ではない気がした。


乗った時は明るかった街に、もう灯りが点き始めていた。


観覧車の窓の外で、街の灯りがゆっくり流れていく。


ここで頷けば、昨日までと同じ場所には戻れない。

そんな予感だけが、はっきりしていた。


帰るか。

莉花と泊まるか。


一瞬、胸の奥がざわつく。


でも――


「……泊まりたい」


莉花は、少しだけ間を置いて頷いた。

その表情が、なぜか安堵に見えた。


それから二人は、ゆっくり観覧車を降りた。


地上は、さっきまでと同じ賑わいだった。

パレードの音楽も、人の笑い声も、何も変わっていない。

それなのに、さっきまでいた場所だけが遠くに感じられた。


莉花は何も言わず、僕の手を引いた。

僕も、離さなかった。


そのままパークの出口へ向かう。

振り返らなかった。


駐車場に出たところで、ようやく手が離れる。


駐車場に着くと、莉花は迷わずキーを取り出した。

人の少ない列を選び、歩幅も一定で、立ち止まらない。


車に乗ると、シート位置を一度だけ調整し、すぐにエンジンをかけた。

ナビは使わない。

ためらいもない。


ハンドルを切る動きが、やけに滑らかだった。

まるで行き先を、最初から決めていたみたいに。


それから車に乗り込み、ザ・リッツ・カールトン東京ベイへ向かった。


「……ホテル、取れるかな」


そう言うと、莉花は短く答えた。

「大丈夫」


信号が変わる前に、車はもう右折車線に入っていた。

妙に手慣れて見えた。


車を降りると、エントランスのスタッフがすぐに近づいてきた。


「お車、お預かりいたします」


そう言われ、キーを受け取られる。

僕は一瞬、戸惑った。


莉花は特に気にした様子もなく、先に歩き出す。

止める理由が見つからず、そのまま後を追った。


カウンターに立つと、スタッフが顔を上げた。


「ご到着ですね」


莉花が短く言う。

「藤堂です」


スタッフは確認も取らず、端末を操作した。

「お待ちしておりました。本日は上階のお部屋をご用意しております」


僕は思わず莉花を見る。

彼女は、何事もないように署名をしていた。


ドアが開いた瞬間、広すぎるリビングが視界に入った。


……普通の部屋じゃない。


「……予約してたの?」


そう言うと、莉花は少しだけ首を傾けた。

「そうね」


「悠輝、ご飯の前に、先にお風呂入る?」

「汗かいてない?」


「そうするよ」


次に、莉花がお風呂から上がり、

髪を乾かしていた。


思わず後ろから抱きしめて、キスをした。


「……待って」


「今日は時間があるから」

「先にご飯食べましょう」


どうしようもなく経験不足だ。

僕は余裕がなかった。

莉花にも動揺が見られる。


「ごめん」


「ううん、謝んないで、本当言うとわたしもドキドキしてる」


「いや、わかっていてくれてる」


その夜、

二人は言葉少なに過ごした。


最上階でのディナー。

少しだけワインを飲む。


「……飲み過ぎないでね」


莉花は、意味深にそう言った。


部屋に戻り、

夜景を背に向き合う。


もう、止められない。

今までで、一番熱いキスをした。


倒れ込むように、ベッドへ。


絡み合う魚のように。

境界が溶けていく。


「……初めて」

触れた指が、一瞬だけ止まる。


「優しくして」


「……」


短い夜は、あっという間に過ぎた。


———


気づいたとき、どこにいるのか分からなかった。

思い出すまで、少し時間がかかる。

昨夜の断片が、遅れて頭の中に戻ってきた。


莉花の感触だけが、まだ腕の中に残っている気がした。


それほど、夢中だった。

もう朝だった。


隣に体温はない。


水音が聞こえた。

シャワーだと気づくまで、さらに数秒かかる。


上体を起こす。

静かな部屋だった。カーテンの隙間から、朝の光が床に伸びている。


ドアが開いた。


莉花が出てきた。

バスローブを羽織り、濡れた髪をタオルで押さえている。

だが、こちらには気づいていなかった。


視線は、手に持ったスマートフォンに落ちている。


「……莉花?」


声をかけても、反応がない。


画面を見つめたまま、

彼女の口元が、ほんのわずかに緩んだ。


嬉しそう、とは違う。

安心とも違う。


もっと静かで、抑えた――

成功を確かめた時のような表情だった。


小さく息を吐く。


「……どうした?」


ようやく莉花が顔を上げた。


一瞬だけ、僕を見て、

それから何でもないように言う。


「ううん」


間を置く。


「狙いどおり」


その言葉だけが、部屋に残った。


ベッドの乱れたシーツを、莉花は一度も見なかった。


「……見て」


思った通りに進んでいると、

僕に知らせているようだった。


莉花はスマートフォンを僕に渡した。


差出人の名前を見て、息が止まった。


———


件名:ご相談


藤堂 莉花 様


倉橋です。

突然のご連絡、失礼いたします。


まず、先日の件について。

現場の処理および関係各所への説明は、すべてこちらで対応しております。

ご懸念の残らぬよう整理してありますので、ご安心ください。


また、昨年ご相談のあった営業三課の件ですが、

ご希望どおり配置を調整し、私から吉野課長へ直接説明しております。

本件については専務案件として扱うよう伝えてありますので、

詮索が及ぶことはありません。


以上は報告までですが、

これまでの経緯から、私としても貴女を信頼しております。


――本題です。


藤堂社長と、私個人として一度直接お話しする機会をいただけないでしょうか。

現状のままでは、双方にとって望ましくない事態になる可能性があります。


貴女を巻き込む意図はありません。

面会の場を整えていただくだけで結構です。


急ぎのお願いとなり恐縮ですが、

ご検討いただければ幸いです。


倉橋


———


喉が、乾いた。

「……仲介を頼んでるのか」


莉花は小さく頷いた。

「焦ってる」


それだけ言って、画面を消した。


「……余裕がないんだな」


そう口にしてから、違和感に気づいた。

昨日と同じ朝のはずなのに、

何かが確実に変わっているのが分かった。


始めたのは、倉橋達のはずなのに、

――なぜか、主導権は最初から莉花の側にあるように見えた。


莉花はスマートフォンをテーブルに置いた。

もう一度、画面を見ることもない。


「……返さないの?」


「今はいい」


あっさりと言った。


「向こうから来たんだから、待たせておけばいいの」


その声に、昨夜の柔らかさはなかった。

冷たいわけでもない。ただ――迷いがない。


「倉橋は、もう余裕がない」

小さく笑う。


「今回の、効いてるみたい」


偽メールのことだと、すぐ分かった。


あれは“様子見”だったはずだ。

けれど倉橋の反応は、それ以上のものを示している。


莉花はもう、この状況を計算に入れている。


「……今日、どうする?」


僕が聞くと、莉花は少しだけ首を傾けた。


莉花は一度だけ、テーブルのスマートフォンを見た。


返事は打たない。


それを確認するように画面を伏せる。


「今日はもう一日デートよ」


さっきまで戦略の話をしていた人間と、同じ声とは思えなかった。


切り替えが、あまりにも早い。


――昨夜のことも、引きずっているのは僕だけだ。


莉花はカーテンを開ける。

朝の光が、部屋いっぱいに広がった。


振り返る。


その瞬間、ふとした既視感が胸をかすめた。


初めて会った頃、

理由も分からず彼女の香りに引き寄せられたことがあった。


香水だと思っていたが違った。


僕を引き寄せる何か。


あの時から――


少女のように笑うのに、

その笑顔の奥に、ためらいを見たことがなかった。


この人は、どこか危うかったんだ。


昨夜までの莉花と、今の莉花は、同じ人間のはずなのに少し違って見える。


もう女の子、ではない。

人を惑わせる女だ。


そして――

僕は、もう気づいているのに離れられない。


それを、ようやく理解した気がした。


それでも――目を逸らさなかった。


「行こ?」


何も知らないように笑う。


その笑顔に、僕は頷いた。


――たぶん僕は、離れられない。


初めての夜は、特別な記憶として残るものだと思っていた。

けれど実際には、記憶より先に感覚が変わった。


朝、目が覚めたとき、

世界は昨日と同じ形をしていたのに、

自分だけが同じ場所に立っていなかった。


何かを選んだつもりはなかった。

ただ、隣にいただけだった。


それでも――

あの夜を境に、もう引き返せなくなった。

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