13章. 《野崎の誤算》
人は、危機に直面したときほど理性的に判断していると思い込む。
だが実際には、守りに入った時に視野を狭める。
ある男が“最善”を選び、
――そして、その選択が誤算になります。
朝日川商事の社長室は、夜でも明るかった。
床は厚い絨毯で足音を吸い、
壁には海外の風景画が整然と並んでいる。
重厚な机は黒檀。
革張りのソファはまだ、新品の匂いが残っていた。
どれも、会社の成功の証。
――金で揃えた部屋だ。
東南アジアの闇資金が入ってから、調度は一新された。
表向きは海外事業の成功。
格安商材の仕入れ。
裏資金も業務拡大に回した。
誰も疑わない。
疑う理由もない。
野崎は窓の外を見た。
都心の夜景は静かで、規則正しく光っている。
会社も同じだ。
帳簿は整い、資金は回り、社員は働いている。
すべて正常だった。
そのはずだった。
だが、麻薬販売ルートが滞ってから、歯車が狂った。
拡張したための資金がショートし、
会社の一部を切り売りするはめにまでなってしまった。
倉橋の甘い誘いに乗ったのは間違いだったか?
⸻
この部屋にいると落ち着かない。
静かすぎる。
音がない。
人の気配もない。
空調の風だけが一定に流れている。
広い空間の中心に、自分だけが取り残されているような感覚があった。
どこかで何かが崩れ始めている。
そう考えた瞬間、通知音が鳴った。
野崎の視線が机の端末に落ちる。
メールが、二通届いていた。
差出人を見た瞬間、野崎の指が止まる。
野崎は背もたれの高い革張りの椅子に深く身を沈めた。
画面を見たまま、数秒動かない。
――細川。
いい内容のはずがない。
野崎は一度だけ目を閉じ、
それからメールを開いた。
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件名:これ以上は無理です
差出人:細川
宛先:野崎 副社長/倉橋 専務/藤堂 社長
荒木のことで、もう限界です。
自分は全部知っています。
麻薬資金のことも、
指示の流れも記録してあります。
まだ警察には行っていません。
でも、このまま何もなければ話す用意があります。
しばらく連絡しないでください。
探された場合、その時は出頭します。
細川
⸻
野崎は画面から目を離さなかった。
なぜ、俺に送ってきた。
三人に同時送信?
奴には、しばらく我慢しろと吉野を通じて連絡してあるはずだ。
――俺を巻き込んで、何がしたい。
細川が一人でこんなことをするはずがない。
だが、今は誰の指図でもなく動いている。
奴を使ったのは、
倉橋か。
それとも藤堂か。
荒木が消されたタイミングが、あまりに悪すぎる。
――荒木の殺しを指示したのは、どちらかだ。
細川は俺に助けを求めていない。
警察に行かない。
つまり、交渉したい奴がいる。
次の瞬間、拳が机を叩いた。
乾いた音が、静まり返った室内に不釣り合いなほど大きく広がった。
舌打ちが漏れる。
「……ふざけるな」
だが、怒りは長く続かなかった。
もう思考が先に動いていた。
野崎はすぐに端末へ視線を戻した。
野崎は目を細めた。
スマホを手に取り、吉野へ発信する。
『現在、お掛けになった電話番号は、お客様の都……』
内線を取り、人事に繋がせる。
「吉野課長、今日は出社しているか確認してくれ」
『本日から、吉野課長は長期休暇に入られています。昨夜、申請が出されています』
逃げたのか?
どちらかについた?
野崎は息を吐き、二通目を開いた。
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件名:例の件について
差出人:倉橋 専務
宛先:野崎 副社長
細川の件、確認しました。
あなたのルートのことまで外に漏れているようです。
私は関与していません。
社長はすでに動いています。
誤解を避けるため、やり取りはすべて文面で残してください。
口頭での説明は後から責任を押し付けられかねません。
早急に状況を整理願います。
倉橋
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口の奥が乾く。
唾を飲み込んだ。
最初に東南アジアルートを嗅ぎつけたのは、おまえじゃないか!
甘いこと言いやがって、
あの時の約束は何だった。
一割で藤堂を引かせると、
おまえが言い出した話だろう。
それを今さら手を引くのか。
荒木のことを俺のせいにしたいのか。
文面で残せとは、すでに安全地帯にいるのか。
……細川の対処ができないのか。
その瞬間、点だった情報が一つに繋がった。
ここで会えば、荒木の件の責任を押し付けられる。
否定を続ければ、東南アジアルートは壊滅する。
つまり――倉橋も動けない。
慌てているのは、向こうだ。
なら、急ぐ必要はない。
俺が動かなければ、状況は止まる。
返信を作成した。
⸻
件名:Re:例の件について
差出人:野崎 副社長
宛先:倉橋 専務
倉橋専務
連絡確認しました。
不用意な接触は互いの立場を危うくします。
まずこちらで整理します。
当面は文面のみでやり取りしましょう。
野崎
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続けて、もう一通送る。
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件名:現状について
差出人:野崎 副社長
宛先:藤堂 社長
社長
細川の件、承知しました。
現在、情報が錯綜しています。
軽率に判断すべき段階ではないと考えます。
まず事実関係を整理します。
必要があれば文面で報告いたします。
野崎
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送信して、端末を閉じる。
数分後、返信が届いた。
⸻
件名:Re:現状について
差出人:藤堂 社長
宛先:野崎 副社長
報告確認しました。
不用意な接触は互いの立場を危うくします。
まずこちらで整理します。
しばらくは文面のみでやり取りしてください。
藤堂
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野崎は画面を閉じた。
これでいい。
会う理由はなくなった。
野崎は目を細めた。
個人の判断か。
組織の関与か。
藤堂は選択肢を提示している。
――いや、選ばせている。
倉橋を切れば、ルートは藤堂に乗っ取られる。
切らなければ、藤堂と対立する。
どちらでも無傷では済まない。
野崎は椅子にもたれた。
東南アジアの資金。
あれは朝日川商事を守るための金だった。
当時、選択肢はなかった。
前政権に投じた資金は回収不能。
反政府軍との取引で、麻薬は抱き合わせになった。
流さなければ会社が潰れる。
流せば延命できる。
ヤクザに卸したのは、そのためだ。
結果は出た。
業績は回復し、海外事業も拡大した。
高品質の品は高値で取引され、資金は回った。
――問題は、その後だ。
販売先を一組織に絞ったことで、流れが止まった。
余剰の薬は現地倉庫に滞留し、仕入れ代だけが積み上がる。
その時だった。
倉橋が持ち込んだ、合併の話。
野崎の指が、わずかに止まる。
……利用されたか。
通知はもう来ない。
殺しが倉橋の指示なら、いずれ切られる側に回る可能性が高い。
藤堂は判断を保留している。
まだ待てば、交渉の余地は残る。
野崎はそう結論づけた。
それが、彼の誤算だった。
私は、彼を読み切っていたわけじゃない。
手札も、思考も、本当は見えていなかった。
ただ、可能性を並べて――サイコロを振っただけ。
誰が疑い、誰が動き、誰が止まるか。
それは計算じゃない。結果だった。
そして、その出目がたまたま彼の誤算になった。




