12章 《はじめての共犯》
人は、突然罪を犯すわけではない。
守りたいものができたとき、
その理由は、正義にも言い訳にもなる。
この夜、彼らは同じ側に立つ。
――ここから、後戻りはできない。
今夜の「THE HAVEN」は、ひどく静かだ。
開店してから一年。
内装は新しく、カウンターも床も、まだ使い込まれた風合いには至っていない。
休みを三日続けると、静けさが増すようだ。
店はまるで、息を潜めるように夜を待っていた。
私はカウンター越しに、皆が揃うのを待っていた。
並べたグラスは四つ。
最初に扉を開けたのは、橘悠輝だった。
スーツ姿のまま、少し疲れた顔。
昼間は会社にいて、その足で来たことが一目で分かる。
「莉花、お待たせ」
「ううん、大丈夫」
「課長の様子は?」
私がそう聞くと、彼は少し考えてから答えた。
「一緒に飲んだ時とは違って、平静を装ってはいたけど、どこか余裕がない感じだった」
「そのとき聞いた話では、吉野課長と野崎副社長は長い付き合いらしいけど、過去に一度、致命的な裏切りがあったみたい」
「今は、都合よく使われてる感じでした」
「自分だけいい思いしやがって、って」
私は小さく頷いた。
今日の課長の態度が変わったのは、
野崎から何かアクションがあったか。
もしくは、野崎はすでに何かを察し始めている。
悠輝はカウンターに腰を下ろし、
少し照れたように言葉を足した。
「……この集まりに、僕がいていいのかなって思ってさ」
「役に立ててるのか、正直わからなくて」
「いて」
私は即答した。
「悠輝は、ここに必要」
彼は一瞬、言葉を失った。
その表情を見て、余計なことを言ったと気づいたらしい。
真面目すぎるところが、少しだけ可笑しくて、愛おしい。
私はグラスを拭く手を止めた。
「ねえ、こども食堂のこと、まだ気にしてる?」
悠輝は驚いた顔をした。
「……気にしてるよ」
悠輝はグラスの縁を指でなぞり、ゆっくり続けた。
「ああいう場所ってさ、安心できる場所じゃないといけないと思うんだ」
「怪しい奴が出入りするだけで、子供は怯える。大人が思うより、ずっと敏感なんだ」
言葉を選びながら話している。
私に、分かってほしいのだと思った。
「守りたいんだ。笑っていられる場所を」
私は、彼を見た。
――この人は、私とは違う。
それでも私は、
自分を保つために彼が必要だ。
同じ場所に立つための、理由が欲しい。
「そうだね」
私は静かに言った。
「悠輝が守りたい場所を、壊させないために」
彼は少し戸惑ったように私を見る。
「……そんな大げさな」
「大げさじゃないよ」
私は言葉を遮った。
「今起きてることは、いずれ表に出る」
少し間を置く。
「その時、あの場所が無事でいられると思う?」
少しだけ、声を落とす。
「だから、止めるの」
彼は黙った。
理解したわけじゃない。
でも、否定もしなかった。
私はグラスをカウンターに置いた。
私は、彼を危ない場所に近づけたくなかった。
けれど、もう遠ざけることもできない。
なら、せめて同じ側に置くしかない。
「私も同じよ」
私はそう言った。
———
次に現れたのは、岡部紗希だった。
「ここ、静かすぎない?」
「……今日、私が来なくても大丈夫なんだけど」
「シンディーのアクセス教えたじゃない」
私を見るでもなく、椅子に荷物を置く。
店内をぐるりと見て、肩をすくめた。
「紗希がやってよ」
私が言うと、
「……は?」
小さくため息をついた。
「シンディーは?」
「はいはい」
紗希がノートパソコンを開く。
画面に映ったのは、アメリカの昼の光だった。
「スタンバってる」
『Hey。全員そろった?』
コーヒー片手に手を振るシンディー。
『今日、仕掛けるのよね?』
「そう」
———
少し遅れて、黒田亮平が入ってきた。
顔には隠しきれない疲労。
「……悪い、遅れた」
「また警察の事情聴取だ」
「荒木の件ね」
亮平は無言で頷いた。
カウンターに腕を乗せたとき、私は気づいた。
袖口から覗いた左腕に、透明なラップが巻かれている。
私は亮平の袖口をつまみ、まくり上げた。
ラップの下に、炎をまとったサラマンダーが見えた。
まだ入れたばかりで、皮膚は赤く腫れている。
「……亮平、何それ」
彼は少しだけ困ったように笑った。
「貴子さんが見たら、泣くよ!」
彼はグラスから手を離し、真顔になった。
「ええ、きっと怒ります。……でも」
そして視線を落とした。
ラップの上から、そっと腕に触れた。
「……俺のせいだから」
「……バカ、ね」
———
探していた男は、もういない。
それだけで、盤面は大きく変わった。
「作戦を少し変えるわ!」
私はそう切り出した。
「狙いは一人じゃない」
「野崎、倉橋、高雄――三人を同時に動かす」
「この前調べた、アドレスなりすましできてるよね」
『関連のアドレスは抜き取りできてる』
シンディーが口笛を吹く。
『三つ巴か。やるじゃない』
シンディーが画面越しに指を立てる。
「疑心暗鬼をばら撒くための餌よ」
私は続けた。
「偽メールは三通」
「野崎には“裏切りの証拠”」
「倉橋には“保身の出口”」
「高雄には“独占できると思わせる餌”」
「それに――細川課長からのメールも使う」
『メールアドレスはOK』
亮平が画面を覗き、眉がわずかに動いた。
「健一の死を……利用するの?」
悠輝が、思わず口を開いた。
「さすがに……それは」
私は視線を上げないまま、水を一口飲んだ。
「勘違いしないで」
静かな声だった。
「私だって、気軽に使ってるんじゃない」
一瞬だけ二人を見る。
「でも、この状況は使える」
亮平が黙る。
私は続けた。
「前に言ったでしょ」
「お墓、作るって」
亮平が小さく頷いた。
私はグラスの縁を指でなぞる。
「墓はね」
「死んだ人のためじゃないの」
少しだけ目を伏せる。
「生きてる人のために作るの」
空気が、一段冷えた。
亮平は言葉を失い、
悠輝は視線を落とした。
氷がグラスの中で、小さく鳴る。
私はそのまま、ノートパソコンの方へ目を向けた。
「お願い、この文をコピーして」
悠輝が顔を上げる。
USBメモリーを渡す。
「本当に、本人が書いたように見える?」
少し考えてから、彼は答えた。
「……見えると思う」
亮平は、しばらく画面を見たまま動かなかった。
———
件名:これ以上は無理です
差出人:細川
宛先:野崎 副社長/倉橋 専務/藤堂 社長
荒木のことで、もう限界です。
自分は全部知っています。
麻薬資金のことも、
指示の流れも記録してあります。
まだ警察には行っていません。
でも、このまま何もなければ話す用意があります。
しばらく連絡しないでください。
探された場合、その時は出頭します。
細川
⸻
件名:確認したい
差出人:藤堂 社長
宛先:倉橋 専務
細川からの連絡は確認した。
荒木の件以降、朝日川側の動きが不自然だ。
こちらの関与を疑われる状況は避けたい。
君の方で独自に動かしているものがあるなら、今のうちに把握しておきたい。
後から認識の違いが出るのは困る。
少なくとも、荒木の件について君の関与が否定できるまでは、
直接会って話すつもりはない。
当面、この件は口頭では扱わない。
記録の残る形で説明してくれ。
高雄
⸻
件名:例の件について
差出人:倉橋 専務
宛先:野崎 副社長
細川の件、確認しました。
あなたのルートのことまで外に漏れているようです。
私は関与していません。
社長はすでに動いています。
誤解を避けるため、やり取りはすべて文面で残してください。
口頭での説明は後から責任を押し付けられかねません。
早急に状況を整理願います。
倉橋
⸻
そして、最後の一通。
これが動けば、もう後戻りはできない。
⸻
件名:社長へ
差出人:野崎 副社長
宛先:藤堂 社長
細川の件、承知しました。
私の名前が出ている件ですが、
誰かが意図的に情報を流しています。
倉橋専務から何か聞いていませんか?
念のため、この件はすべて記録の残る形で説明します。
直接の面談はしばらく控えさせてください。
後ほど整理して送ります。
野崎
⸻
「もう、三人は会わない」
私は言った。
グラスに触れた指が、わずかに止まる。
「荒木の死に直接関わっていない人ほど、会えば――巻き込まれる」
氷が、小さく鳴った。
悠輝が息を飲む気配がした。
亮平は、視線を落とした。
「だから、このメールは届いた後、勝手に行き交う」
言い切った瞬間、店内の空気が一段だけ冷える。
――会わない、じゃない。
会わせない。
『海外サーバーをいくつか経由して送るよ』
『送信準備OK』
画面の向こうで、シンディーが笑う。
『化かし合いね』
メールは、すぐに届く。
そして、始まる。
私はカウンターに手を置いた。
「会えば、疑いをかけられる」
「だから、指示した人は、誰にも会えない」
「……なるほど」
紗希が肩をすくめる。
笑っているのに、目の焦点がどこにも合っていない。
「あとは勝手に疑い合う、か」
「ええ」
「三人とも、互いを信用していない」
「きっかけひとつで、すぐ距離を取る」
「守ろうとすれば、隠す」
「隠せば、綻びる」
「それだけ」
「……もし、関係ない人が傷ついたら?」
悠輝の声だった。
「もう、手遅れになった人もいる」
「このままなら、もっと悪くなる」
亮平は壁に背を預けたまま、視線を上げなかった。
「……ああいう場所、なくなるとまずい」
「健一だって、そう思ってる」
私は亮平の方を見る。
「悠輝と一緒ね」
「必ず守るわ」
「だから早く止めるの」
「これはまだ、攻撃じゃない」
「炙り出すための一手」
それでも――
何かが壊れる夜になるかもしれないことは、分かっていた。
私はカウンターに手を置き、悠輝を見つめた。
迷いはない。
向こうが動かないなら、動かす。
隠れているものは、表に出させる。
ふと、悠輝と目が合った。
彼はまた何か言いかけて、やめた。
どうしてそんな顔をするのだろう、と思う。
私はただ、最善の策を選んでいるだけなのに。
目が合うと、彼はすぐに視線を逸らした。
店内は静かなままだ。
私は、照明を落とさなかった。
——この店で、灯りを消す夜は、もう来ない。
私たちは、もう後戻りできない。
その夜、彼らはまだ気づいていなかった。
踏み込んだ一歩が、敵だけでなく、自分たちも変えてしまうことを。
共犯とは、罪を分け合うことじゃない。
――運命を、共有してしまうことだ。
もう、誰にも止められない。




