11章《溺れたサラマンダー》
人は、何かを選んだ瞬間に人生が変わるわけじゃない。
変わったことに気づいた時、もう戻れなくなっているだけだ。
あの夜、俺はまだ間に合うと思っていた。
サラマンダーのタトゥーだけが、街灯の下で浮いている。
「……荒木」
――三日前。
俺はまだ、間に合うと思っていた。
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センター街は、夕暮れになると顔を変える。
昼の喧騒が引き、代わりに沈んだ熱が路地の奥から滲み出してくる。
この匂いは知っている。
若い頃、何度も嗅いだ。
長くこの中にいると、感覚は死ぬ。
最初は不快だった臭いも、そのうち何も感じなくなる。
ごみと酒と、焦げついた欲。
――それに、裏切り。
思い出す。
朝日川商事の倉庫。
表向きは輸入食材だった。
検品済みの箱から、吉野が内箱を一つ抜く。
細川がまとめて封をする。
そこから先が、俺たちの仕事だった。
俺と荒木と櫻井で、配達相手に連絡をつける。
多い時は週三回。
一回十万。
場所を伝える。
時間を伝える。
金を回収する。
簡単な仕事。
中身は――見ない。
見なくても分かっていた。
だが俺たちは、運ぶだけだと自分に言い聞かせていた。
仲介。手伝い。
そう思わなければ続けられなかった。
荒木。
櫻井。
そして俺。
⸻
センター街の奥。薄汚れた路地。
壁に背を預け、煙草を回す若い連中がいる。
視線は泳ぎ、腰は落ち着かない。
覚悟も矜持もないくせに、気だけが荒い。
昔の連中とは違う。
――ヤクザが消えて、街はきれいになった?
笑えない冗談だ。
入れ替わっただけだ。しかも質が悪い。
昔は違った。
薬は内部で消費された。
外に広げない、縄張りの中で終わらせていた。
綺麗な話じゃない。
だが量は管理されていたから、
一般人の手には渡らなかった。
連中が引いた瞬間、秩序は崩れた。
暴対法だけじゃない。
何か別の力も働いた。
だが、俺には分からない。
止まっていた流れが、一気に加速した。
危険を感じ、俺は荒木と櫻井にやめるよう言った。
一度は全員やめた。
だが二人は戻った。
甘い金は忘れられなかったらしい。
俺だけが離れた。
「……嫌な街になったな」
名前が浮かぶ。
吉野。
細川。
荒木。
櫻井。
そして――莉花。
敵か味方か、もう分からない。
かつて朝日川商事は“筋”を通していた。
汚れてはいたが、秩序はあった。
それが壊れた理由が、見えない。
警察の動きも、ヤクザを捕まえただけで不自然だった。
東南アジア。
乗っ取り。
裏切り。
線が繋がりかけては切れる。
「……考えるな」
今必要なのは情報だ。
感情はいらない。
荒木と櫻井を、できれば助けたい。
「まだ間に合う」
自分に言い聞かせた。
⸻
昔の知り合いに、荒木健一を探していると伝えた。
二日後、場末のバーに呼び出された。
湿ったカウンター。
濁ったグラス。
作り笑いの女。
何も変わっていない。
「久しぶりです」
顔を上げる。
櫻井だった。
俺は不味い酒を一気に流し込む。
「生きてたか」
「……なんとか」
距離は近い。
だが空気は遠い。
「荒木を探してるって聞きました」
「……やめた方がいい」
「今、あいつは狙われてます。近づくと、あなたも巻き込まれます」
櫻井は、感情のない声で言った。
「尻尾切りか」
「多分。派手にやりすぎたんです」
「先に保護したい」
「……どこにいるか、分かりません。昨日までの仲間が急に裏返りました」
櫻井の肩が、わずかに下がった。
――安堵?
「……おまえは、大丈夫なのか」
櫻井は一瞬だけ目を逸らした。
「俺は、平気です」
それだけ答えた。
その声が、なぜか妙に軽かった。
胸に、嫌な違和感だけが残った。
⸻
店を出ると、街は夜に沈んでいた。
酔っ払いが喚き、
薬の抜けない主婦が路地に消え、
ホストに入れあげた女が電話を握りしめ、
借金を抱えた学生が立ち尽くしている。
この街は、光より影が多い。
俺は荒木に電話をかけ続けた。
出ない。
⸻
翌日、留守電が入っていた。
『……亮平さん』
風の音。
『俺も、もうやめる』
荒い息。
『警察、行こうと思ってる』
そこで途切れた。
かけ直す。
電源は切れている。
俺を巻き込まないつもりだ。
……あいつらしい。
⸻
その日も、半グレの溜まり場を探していた。
気づけば、深夜を過ぎていた。
街の光が間引かれていく頃。
荒木を探し始めて、三日目だった。
櫻井から電話があった。
「なぜわからない」
「荒木の最後、見せてやる」
「もうこれで、手を引け」
「昨日の店の前の川に来い」
「裏切り者!」
――行かなければ。
⸻
黒いワンボックスが、ガードレールの切れた川沿いを荒く走り抜けた。
後部ドアが跳ね上がった。
中から男が一人降りる。
もう一人が車内で何かを引きずった。
二人で持ち上げ、ためらいなく護岸の外へ放った。
黒い水が跳ねた。
ヘッドライトが一瞬だけ、護岸を照らした。
その光の中に、人影が浮かぶ。
車に乗り込む直前、そいつが肩を回した。
――見覚えのある動きだった。
男たちは無言のまま車に飛び乗った。
ドアが閉まる。
タイヤが乾いた悲鳴を上げる。
白い光だけを残して、ワンボックスは闇に消えた。
体が先に動いた。
考える前に、足が出ていた。
俺は川沿いを走る。
行かなければならない気がした。
⸻
先に匂いが来た。
腐った水と、生活のゴミの臭いだ。
川はほとんど流れていない。
柳の枝が水面を撫で、そのたび街灯の光が歪む。
水面に黒い塊が引っかかっている。
最初はゴミ袋に見えた。
揺れるたび、形が崩れる。
――袋じゃない。
近づく。
柳の枝の間に、腕が見えた。
網代木に絡まった体が、ゆっくりと揺れていた。
サラマンダーのタトゥーだけが、街灯の下で浮いている。
「……荒木」
あいつは、簡単にやられるような奴じゃない。
面と向かえば、誰もあいつには敵わない。
……きっと、卑怯なやり方をされたんだ。
ふと、別の夜を思い出した。
三人で安い居酒屋に入り、
荒木が焼酎をこぼし、櫻井が笑っていた。
くだらないことで腹を抱えて、騒ぎまくり、店員に追い出された夜だ。
俺は、立ち尽くしていた。
流れていないはずの川の音だけが、やけに大きく聞こえた。
頬に冷たいものが落ちた。
雨じゃなかった。
俺が探していると知って、
逃げていたんじゃない。
ケジメをつけようとしていた。
「……ちっ」
俺が遅かった。
あの夜、電話を取っていれば。
会いに行っていれば。
――これは俺の不手際だ。
煙草に火をつける。
櫻井が裏切った?
違う。
裏切ったのは俺だ。
煙を吐く。
みせしめだ。
誰の指示だ。
野崎か。
それとも、別の誰かか。
――莉花には全部話す。
もう、後戻りはできない。
俺は携帯を取り出し、通報した。
場所と死体を見つけた事実だけを伝える。
余計なことは言わない。
サイレンが遠くから近づいてくる。
川面が赤く染まり、また暗闇に戻った。
⸻
事情聴取は長かった。
だが話したのは、見たままのことだけだ。
黒いワンボックス。
男が二人。
川に落とした。
それ以上は言わない。
言えば、そこまでで終わる。
解放されたのは夜明け前だった。
⸻
眠れないまま、俺はHAVENへ向かった。
店の中は暗く静まり返っていた。
俺はドアを閉め、スイッチを押した。
明かりが一斉につく。
さっきまで引きずっていた闇が、ようやく途切れた。
カウンターの中に入り、水を一杯注ぐ。
口に流し込んでから、喉が渇いていたことに気づいた。
電話を手に取る。
一度だけ息を整え、すぐに発信した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
四回目の途中で、繋がった。
「……亮平です」
『どうしたの?こんなに早く』
言葉が出なかった。
喉が動かない。
さっき水を飲んだはずなのに、声が出ない。
『亮平?』
「……今から、来れますか」
『今から?』
「……来てください」
短い沈黙。
『――分かった。行く』
通話が切れたあとも、しばらく携帯を耳に当てたまま動けなかった。
⸻
三十分後、ドアベルが鳴る。
莉花が入ってきた。
店内を一度見回し、カウンターへ来る。
「ただごとじゃないわね」
俺は水をグラスに注ぎ、差し出した。
莉花は座り、受け取る。
「……どうした?」
煙草に火をつける。
一口吸ってから言った。
「荒木が死んじゃった」
莉花の手が止まる。
「事故じゃない」
表情が変わる。
「……口封じ?」
「ゴミみたいに捨てられてた」
煙草を消しかけて、やめた。
煙を吐く。
「莉花姉さんの家を飛び出した時、
会ったのが荒木と櫻井です」
「困ってる奴を見ると、放っとけないたちで、
最初にメシ奢ってくれたの、あいつなんです」
莉花は何も言わない。
「バカやって、夜の街うろついて」
「ケンカして、酒飲んで、金欲しくて」
「……若気の至りです」
視線を落とす。
「でも、あいつら」
「俺にとっては、初めての親友だった」
「……」
「俺が、あいつを引き込んだ」
「小遣い稼ぎのため」
グラスを見る。
「だから、せめて」
「最後くらい、俺が面倒見ないといけない」
少し間を置く。
「莉花姉さん」
「健一、口悪いし、喧嘩っ早いし、どうしようもない奴でしたけど」
「……俺、あいつの墓、作りたい」
「金、あんま無いんで……安いのでいい」
「俺が作らないと無縁仏になっちゃう」
莉花は、すぐには答えなかった。
しばらく俺を見て、静かに言った。
「いいよ、作りな」
「ただし――中途半端なものは許さない」
俺は顔を上げた。
「弔うってことはね、終わらせるってことよ」
「あなたが背負う覚悟がないなら、やらない方がいい」
「墓は、死んだ人のためのものじゃない」
「……」
「生きている人間が、前に進むためのものよ」
「費用は全部私が出すわ」
「これは、あなたが生きていくためよ」
「……すみません」
俺は一度、視線を落とした。
煙草を口にくわえ、火をつけた。
大きく吸い込む。
熱い煙が、胸の奥まで落ちていった。
「警察には?」
「少しだけ話した」
「犯人の目星は?」
「言ってない」
莉花は俺を見る。
「荒木をやった奴の一人は、櫻井だ」
「……あいつも、根は悪くない」
「けど、もう戻れない」
「警察に言っても、捕まるのは櫻井だけだ」
一拍置く。
「でも、車にはもう一人いた」
灰を落とす。
「――終わらせない」
莉花は少し考え、静かに言った。
「たぶん、証拠はもう残ってないわ」
俺は頷く。
短い沈黙。
莉花が言った。
「警察に任せれば、末端だけで終わる」
「……」
「千堂さんを仲間に入れるわ」
「千堂?」
「無理、俺、あの人苦手だよ」
「元刑事のあの人しかいない」
「あなた、本当の千堂さんを知らない」
「あの人、地獄を見てる。でも――まだ戦える人よ」
「私は、背中を押すだけ」
一瞬、言葉が出なかった。
「……本当に協力してくれるかな」
「私が頼めば、わかってくれる」
「じゃあそれでいいよ」
静かな店内に、氷の音だけが響く。
⸻
俺は小さく呟いた。
「橘君が言ってた、こども食堂」
「ああいう場所、必要なんだと思う」
「子供って、放っとくと簡単にこっち側に来ちゃうから」
「櫻井や荒木みたいに」
莉花は、ゆっくり頷いた。
「……あの場所をアイツらは利用している」
「……薬をばら撒くためよ」
少しだけ間を置く。
「だから、掃除しないと」
静かな声だった。
「二度と近づけないようにする」
その夜、俺たちは同じ側に立った。
この夜、ひとりの男が後戻りできなくなった。
物語は、誰かが死んだときに動くのではない。
誰かが、覚悟を決めたときに動き出す。




