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1章 . 《たまごの殻》

平凡な社会人・橘悠輝は、謎めいた女性・藤堂莉花と出会い、

巨大企業、裏社会、警察権力が絡む情報戦と犯罪の渦に巻き込まれていく。

さて、どうしたものだろう。

僕の肩には、見知らぬ女性の頭が乗っている。


髪はショートボブで、明るめのブラウン。

ほのかに、いい香りがした。


分け目のあたりを見ると、根元から数ミリほど黒い。

染めてから半月くらいだろうか。


気持ちよさそうに眠っている。

傍から見れば、恋人同士に見えるかもしれない。


――やばい。

これは注視してはいけない。


僕は「李下に冠を正さず」という言葉を思い出した。

今の時代で言い換えるなら、

「電車の中では、吊革を離すな」だ。



揉め事に巻き込まれたくない。

それが、社会人になってからの僕の処世術だ。


今日は珍しく休日出勤で、電車も空いていた。

そのおかげで座れたのだが……まさか、こんな状況になるとは思わなかった。


11時にミーティング。

昼食をとった後、お店に、新商品の販促資材を納品する。


アピール重視の陳列をして

写真を撮ってくる。


簡単な仕事だが、若手2人だけで行くのは初めてで、少し緊張している。


一緒に行くのは、1つ先輩の

『Miss浅学短才』

田中莉花さんと二人だ。


『Miss浅学短才』とは、心の中でつけているニックネームだ。

もちろん、誰にも内緒である。


ミスも忘れ物も多い。

ボールペンなどは全て借りパク状態。最近は先輩の分も、必ず用意している。


Missとmissを掛けているのだ。


一年近く、一緒に仕事をしているが、

とにかく酷い。

たまに仕事をやっていると思えば、間違いだらけ、結局修正は僕に回ってくる。


よくこの会社に就職できたもんだ。


なぜか課長も見て見ぬ振りだ。

一度、思い切って理由を尋ねたことがある。


返ってきた答えは、

『専務からの案件』――いわゆる大人の事情だった。


課長の話では、おそらく大口顧客絡みの縁故採用なのだろうと。

そのため、比較的忙しくない営業三課に配属されたのだと思われる。


「橘君も大変だとは思いますが、なるべく波風を立てずに頑張ってください」

「くれぐれも、専務案件だということだけは理解してください」


かなり斬新なニックネームをつけてはいるが、彼女の事は嫌いではない。


どちらかと言えば好きなほうだ。


本音を言えば、こんな可愛い彼女がいたらいいなとも思う。


顔は確かに可愛い。

性格も僕に対してだけは優しい。


まぁ、二人分の仕事をしているのだから当然だとは思う。


僕が移動になったらこの人はどうなるんだろうと思う。

不思議と目を離せない人なので、かなり心配だ。


だが、早く出世して親にも楽をさせたい。


社内恋愛をこじらせて、居づらくなったり、出世にひびくのは嫌だ。

今の世の中では、そういう噂は一瞬で広まってしまう。


スーパーアサヒとは、地域密着型の小型食品スーパー。

数回、吉野課長と一緒に伺ったことがある。

担当課長はとてもフレンドリーな感じなので、『Miss浅学短才』が何もしなければ、なんとか大丈夫だとは思う。


「.........」


――遡ること10分。

電車の中は空いていたので、向かいに車窓が見える真ん中に座った。

流れていく電柱や街路樹。

奥の方に、止まって見える山の稜線には、まだ雪が積もっているのがわかる。


まだ肌寒い透明な空気は、反射した小さな光の粒をたくさん届け、僕の気持ちを落ち着かせる。


車内に軽快なアナウンスが流れ、スピードが緩やかに落ちていく。

ヒューンというブレーキの音が響き、

電車が止まった瞬間ドアが開き、彼女は入ってきた。


なんの躊躇もなく、僕の隣へ。

席はかなり空いているのに、違和感を覚える。

僕を知っているのか。


その理由を考える前に、

電車はもう動き出していた。


入ってきた時に一瞬見た顔。

かなり可愛かった。


だが、見覚えはなかった。


電車が動き出すと反動で、彼女の重みが伝わってきた。


胸がざわついた。

これはトラブルに巻き込まれる可能性がある。


よく聞く痴漢詐欺とか……


ここまでパーソナルスペースに

知らない人間が入ったのは、初めて、いや、二回目だ!


僕は1年近く前の事を思い出した。


色々考えているうちに、時間だけが過ぎていく。


今まで生きてきて、女性の柔らかい重さと、暖かさを感じたのは、初めてだ。


僕は少し離れようと思った時には、彼女は僕の肩で完全に寝ていた。


さて、どうする。


無言で移動するか。

倒れるよな〜。

重みがかかっている。


声をかけて起こすか。

どのくらいの大きさ。

起きなかったら。

手でポンポンと叩く。


不審者に間違えられる可能性があるかな。


このまま、何もせず、この異常事態を受け入れて、僕も寝たフリをする。


恋愛に多感になる、高校2年の頃。

コロナ禍だった。


全ての人がマスク着用。

パーソナルスペースも広く取るように、刷り込まれた。


そこそこ有名な私立大学を受験し、合格。


一定数はコロナ明けで、反発するように過剰に、人付き合いを始めるグループもいたが、僕はなんとなく馴染めず、彼女もいないまま就活をした。


結果、日山グループ傘下の、日山食品株式会社に就職できた。


日山グループは、日本でも指折りの巨大企業だ。

僕が勤める日山食品も、その一角にすぎない。


色々考えている間にも、電車は走る。

駅でドアの開くのも数回。

いつも下車する駅に近づいてきた。

会社までは40分だ。


またヒューンというブレーキの音が響き、彼女の重さが少し軽くなる。


僕は覚悟を決め、

彼女に声をかける。


僕の固くなってしまったパーソナルスペースという、

硬い卵の殻を、いとも簡単に割って入り込んだ人。


何かが始まる予感。


「すいません!あの〜」

「...」

「僕次の駅で降ります」


彼女に思い切って声を掛ける。

彼女はビクッとなり、ライトブラウンの頭が動き出す。


アウターの中は、かなり胸元が開いたトップスで、ちらりとピンクを見た。


思わず目が釘付けになった。

相手にもわかったと思う。


下から見上げた彼女の眼光は凄まじく、20cmの距離で睨んでいる。

「......」

睨んでいる。


「何もしてません」と言いたかったが、声も出なかった。

思わず視線を外し、彼女の重みが全て無くなったのを感じて立ち上がり、止まりそうな電車のドアに、脇目も振らず向かった。


絶対に、こっちを見ている。

背中に突き刺さるような、視線を感じながら、早く止まれ、早く開けと念じる。


数秒が、とても長く感じられた。


ドアが開き、小走りに改札を抜け、後ろを振り返る。

よかった、居ない。


「.........」


僕の方に、あの人が走ってきた。


——『Miss浅学短才』田中莉花だ。


「おはよう!橘さん」


「あっ!おはようございます」


「見てたよ〜」

嫌な笑い。


「出勤前に、彼女とイチャイチャしてると思ったら、おもいっきり睨まれてたね」

「なんかしたの?」


「してませんよ!あの人が勝手に、僕に寄りかかって寝てしまったので」


「ちょっと脇が甘いんじゃない?社会人としてどうなの!」


あなたが言うな!いつも僕に迷惑かけてるくせに!と心で思うが、自分でも理解不能な状態だったので、あわてて「そうですね」と答えた。


「先輩として言うけど、あんな感じの女には、気をつけた方がいいよ!」

「世間知らずの橘さんは、いいようにされちゃうよ!わかった?」

「近寄ったらダメだよ」



そこまで言う?あなたも、相当ですけど!

意に反して「そうですね」と相槌を打った。



「今日、スーパーアサヒに行くのって、何時予定だった?」


「もう!田中さん、しっかりしてくださいよ。」

「13時半です。11時から課長ミーティングで陳列の最終確認して、昼食をとってから…」


「橘さん、アサヒに行く途中で、何か食べない?」


「いえ、母がお弁当作ってくれたので、休憩室でそれを食べます」


「じゃあ私も、休憩室で食べよかな〜」


「ちょっと待って」

「そこのコンビニでお弁当買ってくるから」



「お待たせ〜。待ってくれてありがとうね」

「はい、これ」


田中さんがコーヒーをくれた。

カップコーヒーなので、コンビニ横の小さな公園のベンチに座って飲む。


「なんか、デートみたいだね〜」


「はぁ?違います!」

この人の距離感は、本当によくわからない。

僕の事が本当に好きなのか、ただの便利屋と思ってるのか。


本音を言えば、とても気にはなっている。

でも入社1年の会社の中で、恋愛をこじらせて、面倒に巻き込まれるのはごめんだ。



「何さ、電車の中では、デレデレしてたくせに」

「橘君ってさ〜、彼女いないよね〜?」


「いませんよ〜」

「もう〜ずーっと」

「幼稚園の時に仲良かった

カナちゃんとは結婚の約束しましたけど(笑)」


「誰?その女!」

「今でも付き合いあるの?」

(本気な顔)



「小学生になった時、いなかったから引っ越ししたのかな〜」


「え〜じゃあ、今まで女性と付き合ったことないの?」


「コロナ、あったじゃないですか!」

「高校受験や大学受験、就活もあって、それどころじゃないですよ!」

「高校時代なんて学校も休み多いし、ずーっとマスク」

「卒業まで顔見たこともない人多いし、早稲田って、卒業も結構難しいじゃないですか!」


ちょっと自慢げに話す。


「就活も難しい時期で、内定もらっても卒業まで頑張りましたよ!」



「ふ〜ん、頑張ったんだね」

「偉い、偉い」


まさか童貞だとは、思っていなかっただろうな。

余計なことを言ってしまった。

言いふらされたら、いやだなと思った。


「田中さん、もう行かないと、課長が待っていますよ」


「大丈夫だよ。」

「休日にわざわざ出勤するんだから!」


「駄目です、早く行きますよ」

立ち上がり、田中さんのコーヒーカップも受け取り、コンビニのゴミ箱に捨てに行く。


「ありがとう」



会社に到着し、営業三課のミーティングルームに向かう。


「おはようございます」


吉野課長

「おはようございます」

「いや〜悪いね」

「昨日、急に決まっちゃって!」


「私も同席したかったけど、どうしても外せない用事があってね」


課長は他店の映像をモニターに映し出す。


「まぁ、だいたいでいいから」

「こんな感じで陳列して」


「横に販促のスタンディングボードを組み立てて、置けば完成」


「写真を撮ってメールで送ってください」

「ボードも新商品も納品済みで、アサヒのバックヤードにあります」


「専務肝入り企画なので、大手スーパーやデパートでは既に先月から先行販売開始してます」


「売れ行きは好調」

と言いながら陳列の画像を次々に変えていく。


「今月から小型店を担当する、営業三課でも販売開始となりました」


「先ほど、アサヒの細川課長に連絡したら、一人手伝ってくれるそうです」


「もし早く終わっても、退勤は5時で設定済みです」


「それでは、よろしく」


吉野課長

「あっ、そうだ!」

「この段ボール2個を、細川課長に渡してください」

「販促用のサンプル品です」


「伝票処理は私がやっておきましたから」


そう言って、吉野課長は

少しだけ、安堵したように笑った。


「これ、電車で運ぶんですか?」


「社用車、使って下さい」

「警備に鍵もらって、あっ、運転できるよね?」


田中さん

「はい、大丈夫です」

「私が運転してきます」



「運転できるんですか?」



「運転くらいできるわよ!

失礼ね」


吉野課長

「では、私はこれで帰りますけど、何か問題があれば、すぐに携帯に連絡してください」


課長は急いでミーティングルームから出て行く。



「この段ボール、ここに置いたままで大丈夫ですか?」


『Miss浅学短才』は辺りを気にしながら、段ボールに近寄って、テープに爪をかける。


「駄目ですよ。

勝手に開けては!」


「何のサンプルか、ちょっと見るだけ」


「大丈夫だって」

「後から綺麗に貼り直すから」


また、余計なことを。


田中さんは、段ボールのテープを剥がし中を見る。

何やら、いつもより真剣な眼差しだ。

理由は、わからなかった。


中からレトルトの袋を取り出し、ポケットから出したスマホで写真を撮る。


「パシャパシャ」


「何やってるんですか!」

「駄目ですよ」


「気にしないで、大丈夫だから」

「....」


「それより、お弁当食べに行こうか?」

いつもの気の抜けた感じに戻る。


何もなかったように箱に戻し、ミーティングルームにあるガムテープで封をした。


田中さん

「さぁ、ご飯、ご飯」


二人で休憩室に向かう。

誰もいない。


僕はカバンからお弁当を取り出し、机の上に置いた。

自販機の前に移動して、声をかける。

「お茶、いいですか?」


「いいよ、自分で買うから」


「いや、さっきコーヒーおごってもらったので」


「別にいいのに。でもありがとう(笑)」

「じゃあ、緑茶で」


僕は自分の緑茶を購入し、田中さんの向かいに座る。


田中さんが、弁当の蓋を開けながら

「いただきます」と言う。


レジ袋の中をもう一度確認している。


「わ〜最悪!箸入ってないじゃん」

「どうしよう〜、橘君、余分に箸持ってない?」


「持ってないですよ」

なぜか二人きりの時は、『橘さん』から『橘君』に変わる。


「この箸、まだ使ってないので使います?」

「僕は後から食べるので」


「いや、悪い悪い!食べた後で貸して」


「わかりました」

「では、先にいただきます」

僕は、少し急いで食べ始める。


「あの〜、あまりじっと見ないでください」

「食べてるの見られると恥ずかしいんで!」


「あっ、ごめん、ごめん」

「卵焼き、美味しそうだな〜と思って」


「食べてみます?」


「うん」

「あ〜ん」


口を開ける彼女を無視して、卵焼きを一切れ、田中さんのコンビニ弁当の中にのせる。


「あの〜、横のタコさんウインナーも食べてみたいな〜」


「はい、はい」



「ごちそうさまでした」


僕は軽く手を合わせる。

「あの〜、箸洗ってきますね」


「あ〜、いいよ、面倒だからそのままで」


「駄目です、洗ってきます」

「....」

「はい、お箸」


田中さん

「ありがとう」

「これ、食後コーヒー飲んで」


「ありがとうございます」


田中さんは笑みを浮かべながら「いただきま〜す」と言った。


「卵焼きとっても美味しい!」

「このタコさんウインナーも、とても美味しい」


「普通です」

「そもそも、それほど味に違いがある食材じゃないです」


「いや、橘君のお母さんが作ってくれたタコさんウインナーは一味違う」

「美味しい」


「今度、紹介して欲しいな〜」

「是非作り方を伝授して欲しい」


「どうせ自分でお弁当作らないでしょ」


「あなた、失礼ね」

「私だってお弁当の1つや2つ、作れるわよ」

「たぶん」

「あっ、今度お弁当作ってあげよか?」


「いや!結構です」

「それより早く食べちゃってください」


「はーい」


二人で休憩室に並んで座り、他愛もない話をしているうちに、時間はあっという間に過ぎていた。


少し、名残惜しさを抱えたまま、車に向かった。










平凡な社会人・橘悠輝は、通勤電車で出会った女性 藤堂莉花 と関わったことをきっかけに、

自分の「安全第一の人生」が音もなく崩れ始める。


莉花は有能で美しく、どこか危うい。

彼女に惹かれながらも、悠輝は次第に気づく。

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